「パチュリー様。紅茶のおかわりはいかがですか?」
「……相変わらず気がきくわね、咲夜」
空になったカップに、紅茶が注がれる。
パチュリーはそれを手に取ると、笑みを浮かべて咲夜に言う。
「やっぱり、貴女の淹れた紅茶が一番ね」
「そう? 時々変なの淹れるよ、コイツ」
「それは、私なりの隠し味でございます」
フッと笑いながら、レミリアは紅茶を口にする。
そして一息吐いてから咲夜に言った。
「身体の調子はどうだ?」
「……身体の方は特に」
「そうか」
「ですが––––貴女は、一体私の何なのですか?」
レミリアは紅茶を置くと、静かに咲夜を見つめた。
それは冷たく、そしてどこか寂しそうな目だった。
「お嬢様、とは呼んでくれないのか?」
「…………」
「私はお前の主であり、お前は私の従者だ。それ以外の何者でも無いよ」
「……それは確かに正しいのかもしれない。私は貴女に敗れ、そして従者になった。今でも鮮明に覚えているし、あんな屈辱……忘れられるわけもない」
咲夜は拳を固く握った。
何かを堪えるように、その拳は震えている。
「でも、貴女は私を育ててくれた……!」
そう言ったとき、咲夜の拳の震えが止まった。
同時に、咲夜の頰には一筋の涙が滴っていた。
「私は
そう言って、咲夜は膝から崩れ落ちた。
手で顔を覆い、隙間からは嗚咽が漏れている。
今の咲夜には、レミリアに対する2つの感情があった。
敵としての感情と、家族としての感情。
真逆とも言える2つの感情が、咲夜の心を支配し混乱させていた。
「やはりレミィ、貴女は間違ってたのよ……」
咲夜の様子を見て、堪らなくなったパチュリーが口を挟む。
「危険を冒してでも、咲夜を一緒に幻想郷に連れて来るべきだったッ!」
パチュリーは珍しく、声を荒げて怒りを露わにしていた。
そしてレミリアを睨みつけ、言葉を続ける。
「記憶を封印して、外の世界に捨てるだなんて……どう考えても貴女は間違って––––ッ!?」
その、睨みつけた瞬間だった。
レミリアの表情に、パチュリーは息を飲む。
パチュリーの怒りに対して謝るわけでも、怒りをぶつけ返すわけでもないレミリア。
––––そんな彼女は、笑っていた。
「レミィ……?」
「ククク……フハハハハッ!」
レミリアは立ち上がると、崩れ落ちた咲夜の頰に手を当てる。
そしてそのまま顔を上げさせ、咲夜の瞳の奥を覗き込んだ。
「私が憎いか?」
「ッ……」
「3日前のお前なら、即答できただろうな」
レミリアはそう言って咲夜に背を向けると、窓際に立って月を見上げた。
「––––私はお前の主であり、お前は私の従者だ」
「…………」
「あとはお前が決めてくれ、咲夜」
そう言って振り返り、レミリアはナイフを投げた。
咲夜はそれを簡単に指で挟む。
それは銀のナイフ。
––––レミリアには、よく刺さる。
そのナイフを握り締めて、咲夜はレミリアを見た。
無防備に手を広げるレミリアは、目を瞑り安らかな表情だった。
咲夜はナイフを固く固く握り締めている。
「お前に殺されるなら本望さ」
「ッ……殺してやるッ!!!」
「咲夜ッ!!!」
咲夜はレミリアに向かって駆けた。
握り締めたナイフを、レミリアに向けて。
そんな2人を見て、パチュリーは叫ぶことしか出来なかった。
そしてそのまま、咲夜はレミリアを––––
「……はは。やっぱり出来ませんわ、お嬢様」
––––抱きしめていた。
ナイフは紅い絨毯の上に転がっている。
「私は……お前のお嬢様だったか」
「お嬢様が仰ったのでしょう? 貴女は私の主だと」
「別に、お姉様でも良いんだがな」
「私は貴女の従者ですから」
レミリアは、そっと咲夜を抱き返す。
「確かに、手の焼ける妹は1人で十分だ」
「もう……外でやりなさいよ、2人とも」
レミリアと咲夜以上に顔を赤くしたパチュリーが口を挟む。
そんなパチュリーは、少しだけ涙を浮かべているように見えた。
「ああ、外と言えば!」
レミリアが咲夜から手を離すと、もう一度窓から月を見た。
「咲夜、お前にはアレが何に見える?」
「……え?」
空に浮かぶ大きな月。
それを指差し、レミリアは言った。
「満月……ですか?」
「そう、満月だ。お前と再会したあの日と同じ満月さ。見た目はな」
「見た目は……?」
「おかしいと思わないのか?」
「え……?」
「お前と湖で話した、3日前は十六夜だった」
「ッ!!」
十六夜は、その名の通り十五夜の次の日の夜に浮かぶ月だ。
十六夜から3日経った今が、満月であるはずがない。
「月の満ち欠けがおかしくなったのは一昨日からだ。一昨日から、ずっと満月さ」
「ずっと……?」
「ああ。お陰で力が溢れて仕方ないよ。ちなみにフランは外出を禁止している。あの子じゃまだ、この月下で力を抑えられないから」
「……つまり異変ということですか?」
「ああ。そうなるな」
レミリアはニヤリと笑った。
「なあ、咲夜。私と異変解決しないか?」
◆◇◆
「なんでついてくるんだよ」
「さぁ……なんでかしらね?」
私はそっと溜息を吐く。
本当に自分でも分かっていなかったのだ。
いつも付きまとってくる鬱陶しい人間がどうなろうと、私には関係ないはずだ。
それなのに––––
「……異変解決の手柄は誰にも渡さない。無論、お前にもな」
「別に手柄が欲しいわけじゃ……」
魔理沙は一向に私の方を見ようとしない。
そんな後ろ姿を見ながら、もう一度溜息を吐いた。
「ねぇ魔理沙、何か当てはあるの?」
「…………」
「やっぱり行き当たりばったりなのね」
「狂った妖怪達を退治してれば、いずれ分かる」
「はぁ……」
そして私に怒号を浴びせた。
「さっきから溜息ばっかり吐きやがって、うるさいな!」
「いや……その……」
「そんなに嫌なら付いてくんな!!!」
「ま、待ってよ魔理沙!」
再び私を引き離そうとする魔理沙の腕を掴む。
「溜息ばかりでごめんなさい。それと……貴女を見下すような発言をしたことも謝るわ」
「…………」
「でも本当にこの異変は危険よ。それは妖怪達が狂ってるからとか、そんなレベルじゃない」
「……分かってるさ。月を偽物にすり替えるだなんて、並大抵の奴に出来ることじゃない」
「ッ!」
私は驚いた。
あの月が偽物だという事に、人間である魔理沙が気付いているとは思っていなかった。
––––ただ満月の夜が続いている。
人間には、その程度の解釈しか出来ないと思っていた。
だからこそこんなに心配だったのだ。
––––心配? 私が?
「アリス?」
「ッ……ああ、ごめんなさい。まさか、そこまで分かっているとは思わなくて」
「……またバカにしてるのか?」
「いや、そういう訳じゃないのよ……だけどね」
私は偽物の満月を見つめる。
「月がすり替えられただけじゃないのよ」
「……どういう事だ?」
「あの月……さっきから1ミリも動いてないわ」
「動いていない……?」
「つまり––––」
◆◇◆
「永い夜になるってことさ」
紅魔館の屋上で、お嬢様は月を眺めながら言った。
「あの月が偽物なだけでなく……夜が明けないという事ですか?」
「ああ。私にとっちゃあ、好都合かもしれないけどね」
「それは力の制御できるお嬢様だけ……妹様の為にはなりませんわ」
「分かってるわよ」
お嬢様は大きな音とともに羽を広げると、宙に舞い上がる。
悪魔の翼が起こした風が、私の髪を揺らした。
「飛んで行かれるのですか?」
「ああ、勿論だとも」
「…………」
「分かってるさ。だから––––」
お嬢様が私に手を差し出す。
小さな手の、細く伸びる指の先にある爪が、月の光を反射させていた。
「––––私と一緒に行こう、咲夜」
「ッ……はい、お嬢様!」
私は迷う事なくお嬢様の手を取った。
こんなに心の底から笑えたのは、いつ振りだろう?
いや、初めてかもしれないが。
「さぁ! 飛ぶぞ!」
お嬢様はその声と共に飛び立つ。
手を引かれた私の体も、その勢いで宙に舞い上がった。
「え、ちょっ、えッ!?」
突然足元が自由になる感覚は、空を飛べない私にとっては違和感でしかなかった。
「離すんじゃないわよ」
「離せません! というか、見えますッ!」
「……見える?」
私はスカートを抑えながら、眼下に広がる景色に目をやった。
お嬢様に手を引かれ、完全に宙吊りになっている状態だが……
擬似的にでも空を飛んでいるというこの状況を、少し嬉しく思っていた。
それと同時に、違和感を感じていた。
––––飛んでいるお嬢様に引っ張られ、私も飛んでいる。
その筈なのだが、何かが引っかかる。
本当に私が浮き上がっているのか……?
––––自分は動かない。
「ッ……!」
不意にお嬢様の言葉が蘇る。
珍しくお嬢様と一緒に食事をした、あの時の言葉が。
––––自分が動いているように見えても……本当は周りが動いているだけ。
「咲夜……?」
少し思考の闇を彷徨っていた私は、そのお嬢様の呼びかけで現へと回帰する。
「いえ、なんでも……」
「そう? じゃあ、行くわよ」
お嬢様が少し高度とスピードを上げる。
つられて浮かび上がる私は、景色が落ちていく感覚に襲われる。
––––今動いたのは私かしら? それとも––––
「––––世界だ」
「え?」
「ふふっ……ふふふっ……」
「さ、咲夜? どうしたんだ?」
「お嬢様」
心配そうに見つめるお嬢様。
その瞳を、私はニヤリと笑って見つめ返した。
「––––手を離してもよろしいですか?」
◆◇◆
「あんたって頭いいくせに、結構力業よね」
「だってこれが一番早いんだもの」
妖怪の賢者などと呼ばれる八雲紫だが、霊夢にとっては只の力を持て余した妖怪だった。
今回の異変も、昼と夜の境界を操ることで擬似的に夜を止めている。
そして主犯はコイツだ。
「これじゃあ、吸血鬼異変の時と何も変わらないじゃない」
「……いいのよ。あの時と違って、決闘法はスペルカードなのだから」
吸血鬼異変––––
それはレミリアが幻想郷に移住した時に起こした大異変だ。
霊夢自身はまだ幼く、巫女としての力も不十分だった為に闘いには参加していない。
だが聞いた話によれば、紫が強大な妖怪を率いて力で解決したそうだ。
本当に……あの頃と変わってないと思うのだが。
「ところで、今どこに向かってるの?」
「吸血鬼以上に満月に敏感で、知識のある彼女に話を聞きましょう」
◆◇◆
「うーん。人里はこの辺の筈なんだけど……」
「なあ、本当に行くのか?」
「ええ。私の知る限り、誰よりも満月に敏感なのはあの人よ」
「…………私は行かない」
「え?」
魔理沙の箒が突然動きを止めた。
大したスピードは出ていなかったが、魔理沙の後ろで箒に腰掛けていたアリスにも少なからず衝撃が走る。
「あ、危ないじゃない!」
「悪いな。だが、人里に行くならここからはお前だけで行ってくれ」
「どうして?」
「私は行けない」
「だから、どうして!?」
アリスは魔理沙の肩を引き、無理やり顔を向けさせる。
俯く魔理沙の目を捉えることはできなかったが、口は歯をくいしばるように固く結ばれていた。
心なしか震えているような気もする。
「そういえば、長いこと人里で人形劇をやらせてもらっているけど……貴女を人里で見たことはないわね」
「…………」
「なぜ、人里を避けるの?」
「……人里には、アイツが居る」
魔理沙の声色はどこか重たい気がした。
絞り出したようなその音は、なんとかアリスの耳にも届いた。
「とにかく、私は行けない」
「まさか、アイツって––––」
アリスには心当たりがあった。
人里には「霧雨店」という大きな道具屋がある。
"霧雨"と言う名前に惹かれて入ったそこは、至って普通の道具屋であったが、大きな店構えの割には店主1人しか居なかった。
白髪はないが、少し額が広い小太りな男だった。
まさか、彼は––––
「余計な詮索はするな。とにかく、1人で行ってくれ」
「大丈夫よ、魔理沙。もうこんなに夜も遅いわ。お父様も寝てるわよ」
「万が一ってこともあるじゃないか」
「ふふっ、"お父様"ってところは否定しないのね」
「ッ……!」
「まあ、本当に大丈夫よ。無理やりにでも連れて行くから」
「え、ちょっ!?」
アリスは人形を展開すると、魔理沙の身体を固定した。
そして魔理沙の箒を操った。
完全に箒の主導権を奪われた魔理沙は、なす術なく連れて行かれるのみだった。
「異変を解決するのは人間なんでしょ? 貴女がいなくちゃ困るのよ」
「ふ、ふざけんなこのヤロ〜〜!!」
「そこの2人!止まれ!!!」
突然大きな声が耳に入る。
アリスは驚きながらも、聞き覚えのあるその声に従った。
「……あら、貴女の方から来てくれるなんて」
「ん? アリス……?」
「こんばんは、慧音先生」
「まさかアリス、お前が夜を––––」
「馬鹿な詮索の前に……先生とあろう者が、挨拶を返してくれないかしら?」
「……すまない、失礼した。こんばんは、アリス」
一礼する慧音。
しかしすぐに顔を上げて、アリスに問う。
「まさかとは思うが……お前が夜を止めたのか?」
「私たちも夜を止めた輩を……月をすり替えた輩を探しているのよ」
「なるほど、
「お前たちも……だと?」
無言を貫いていた魔理沙だが、遂に口を開いた。
そして慧音に詰め寄った。
「まさか霊夢も向かってやがるのか!?」
「え、ああ……博麗の巫女ならさっき来たところだよ」
「どっちに行った!?」
「迷いの竹林だが……」
「行くぞアリス! 急がなきゃ霊夢に先を越されちまう!」
「ちょ、ちょっと待ってよ魔理沙!」
アリスを連れて急ぐ魔理沙は、慧音に何の断りもなく飛び立った。
慧音は魔理沙の後ろ姿を、ポカンと見つめることしか出来なかった。
「…………異変解決に向かったのは、霊夢達だけじゃないんだがなぁ」