「不二咲っ、不二咲!」
力なく弛緩した不二咲の体は休まることを許されていなかった。
まるで十字架にかけられるようにハリツケにされた彼女の表情は沈痛なもので、そこに安らぎは存在していない。
不二咲が人の恨みを買うようなことをしたとは到底思えなかったから、彼女が殺されてしまった理由というものが見つからなかったし、人畜無害という言葉をそのまま体で表したような彼女がこのような冒涜的な様相で殺されていることに、私は強い憤りを感じた。
不二咲が一体なにをしたというのだ。
力がないから殺されたのだろうか。不二咲は弱いと思われたのだろうか。だから、標的にされたのか──?
それは不二咲にとって一番の侮辱だろう。
「……くそっ!」
血が出てしまいそうなほどに強く固められた右手の拳を床に叩きつけ、その勢いを利用するように立ち上がり、私は不二咲の元へと覚束ない足取りで進んだ。
不二咲の死顔はとても苦しそうだった。
せめて楽にしてやらないと。
……だが、同じく更衣室にいた苗木に抑えるようにして止められてしまった。
「なぜ止めるんだっ。……不二咲を、降ろしてやらないとっ!」
「ダメだよ……ッ! ダメだよ、神原サン……ッ!」
悲しみを堪えるような……そんな声で苗木は私を押さえつけた。
私の体の重心が偏っていて、そして人に見せるわけにはいかない左腕をかばいながらということもあってだろう。私は苗木よりも力があったが、しかしその力の指向性を見失い態勢を崩して尻餅をついた。
「どうして……どうして、不二咲が……」
悔しさや憤りという感情が、涙となって溢れそうだった。
どうして不二咲は死ななければならなかったのか……どうして不二咲の遺体はこのように弄ばれているのか……それだけが、ただただ疑問で。
不二咲を殺した犯人が、とても憎かった。
「……ごめんね、神原サン。……クロを見つけるためにも、現場の保存はしなくちゃいけないんだ」
「ああ……分かってる。分かっては、いるんだ」
頭では理解しているつもりでも、感情的になってしまえばそれも意味はないようだった。
この学園に来てからというものの、精神が参ってしまっていたのだろう。今は明るく振る舞うことが難しいように感じた。
「……苗木。私は少し、部屋で休む……」
そう言い残して、私は部屋へと戻った。その足取りはとても重く、気を抜けばその場で崩れ落ちてしまいそうなほどだった。
部屋に戻ったからといってそれでなにかが良い方向へ進むというわけでもない──むしろ私は後退したといってもいい。
逃げることは罪ではないが、ただそれは愚行である。
私は愚かにも、憎しみや悲しみと共にあの場から逃げ出したのだ。
……行き場を失った感情が心の中で渦巻き、吹き荒んだ。
彼女の死に立ち向かえる気力は今の私には残っていなかった。
今の私にできることなどなにもないと、自分が自分を責める。
強い無力感、これは、舞園が死んでしまったときとよく似ていた。
……辛い、辛くて仕方がない。
不二咲と関わりを持った時間は少ない。それこそ、中学の頃の部活の友らと比べれば初対面とそうかわりないほどに。
ただ、彼女と過ごした時間は決して無駄なものではなく、浅からぬ関係を心で築けたと私は思っている。
少なくとも、あの瞬きのような時間の中で、私と彼女は友達だった。
しかし私はなにもできないまま、また友達を死なせてしまったのだ。
……私は、無力だ。
きっとまた誰かを失う。
確信にも似たその負の感情は、強く私の心を締め付けた。
失う誰かとは誰のことだろう?
……苗木や、朝日奈や、大神のことだろうか。
それとも──戦場ヶ原先輩?
それは嫌だ。
けれど、それを防ぐ力を私は持っていない。
自分の身だって守れそうにない私が、誰かを守ることなんてできるわけがなかった。
現に昨夜のことだってそうだ。いくら待っても不二咲がやってこなかったのは、私がぼうっと馬鹿みたいに体育館で待っている間に、不二咲が殺されてしまったからじゃないのか?
「結局、なにも守れない、ままじゃないか……ッ!」
悔し涙が頬を伝った。
言葉にならない叫びが、呻き声となって口から漏れた。
そんなとき、部屋のチャイムが鳴るのを聞いたが、チャイムを鳴らす誰かを出迎えるような気力は今の私には残っていなかった。
……どうやら閉め忘れていたらしく、鍵は空いていたのだろう。ガチャリと扉が開く音と共に、霧切の声が聞こえてきた。
「入るわよ、神原さん……神原さん?」
こんなときでも、咄嗟に左腕を隠してしまう自分が愚かしく思えた。
「ノックくらいしろよ……それとも霧切は、女の子の部屋に入るときはガツガツいく派なのか……?」
「いや……チャイム鳴らしたけど、反応がなかったものだから」
平坦な声で霧切は言った。死体発見アナウンスを聴いていないわけじゃないだろうに、彼女は私と違って随分と冷静に見える。
足音が近づいてくるのを感じ、うっすら開いた目で彼女の影をとらえた。だが、そうやってこっそり覗き見ていることが罪なように感じて、私は再び目線を逸らした。
話す意志はないのだと示すように枕に顔を埋めて、霧切の反応を窺った。
「大丈夫……じゃなさそうね」
霧切は呟くようにそう言った。
言葉を返すことはなかった。
「鍵は閉めたほうがいいわよ。……物騒な生活環境だからというのもあるけれど、もちろん日常的にも」
「余計なお世話だ……」
たとえどのような言葉であれ、今自分に向けられる言葉は全て疎ましく感じてしまうのだった。そしてつい霧切にあたってしまう。
謝ろうという気はすぐには起きなかった。
今はただ、自分に対する呵責の念や、不二咲を殺した者に対する憎悪の感情が強かったのだ。そんな怒りは私の中で燻り、関係のない霧切にも火の粉が飛んでしまいかねないほどだった。
早く出ていけよ。そんな辛い言葉も、ちょっとした拍子で飛び出てしまいそうなほどに。
霧切はいったいどうして私の部屋に来たのだろうか。
言っちゃ悪いが、彼女は人を慰めるようなタイプの人間だとは思えない。
空白を嫌ってか、霧切はさして間も置かずにこう切り出した。
「……神原さんは、嫌なことがあったときは、どんなことをするの」
「…………」
「なんだか全てが上手くいかない日は、どんなことをするのかしら」
「どんなこと……?」
予期せぬ質問に戸惑いながら、私はそう聞き返した。
聞き返されるとは予想していなかったのか、霧切は言葉に詰まりながらも答えを出す。
「……た、例えば、好きなものをいっぱい食べるとか。たくさん買い物をするとか。……私はよく、好きなものを食べたりするのだけれど」
「それは……ふふ、なんだか微笑ましいな。食いしん坊響子ちゃん」
「変なあだ名つけないで」
ふと考えた。
部活の友達と話をすることができたなら、私はいったいどれほど救われただろうと。……おばあちゃんやおじいちゃんの顔を見ることができたなら、どれほど安心することができただろうと。──しかしそれは、彼女たちをモノクマの支配下に置くということでもあり、大切な彼女らを危険に晒すような真似はしてはいけないと本能が叫んでいた。
ならば私達は、同じ境遇の者同士で傷を舐め合うことしかできないのだろうか。そこに救いや希望はあるのだろうか。
不意に、今自分が置かれている環境の寂しさというものを知ったような気がする。
本当に辛いのは死んでしまった不二咲のはずなのに、酷く心が締め付けられるようだった。
「……私は、体を動かす。先のことは考えずに、倒れるまで走り続けたり、自主トレに励んだりする」
「そう……あなたらしいわ」
「らしいってなんだ、らしいって。……馬鹿にしているのか? 私を脳筋だと」
「そういうわけじゃないのだけれど……」
霧切は少し、動揺したように淀んだ口振りでそう言った。
私のしかめっ面を見ていれば、それはもっと揺れ動いたものになっていただろうと心の中で思い、少し和んだ。
加虐よりかは被虐に興奮を覚えるが、それとは別に、霧切のあまり見ない表情を見ることができて嬉しかったのだ。
……嬉しい? ……やっぱり今の私は、どこかおかしいと思う。
性癖がおかしい……という意味ではなく。もっとこう、心理的な意味でだ。今の私は情緒不安定というものなのではないだろうかと、客観的に見て思った。
話なんてしたくもないと思っていたはずなのにこうして口を開いていることが、なによりの証拠だ。
「霧切は、運動とか苦手そうだからな」
「……そういうのとは無縁な人生だったわ。いえ、記憶がない以上確かなことは言えないのだけれどね。ただ、私の体はあまり肉付きが良くないようだから、おそらく文系の才能なんでしょうけど」
霧切は部屋の中央にある椅子に腰掛けた。どうやら長居するつもりらしい。……出て行けとは、言えなかった。
ただ、彼女の顔を見ることはできそうになかった。
だから私は顔を伏せたまま話を続けた。
「記憶がない……。なあ霧切、憶えているだろうか? 君と私はここに来る前は恋人関係にあったんだ」
「私が記憶を失っているのをいいことに、思い出を捏造しないで」
「そんな……! ……無理もないか、あのとき霧切は思い出の力を代償に……くそっ!」
「なによ、思い出の力って……ファンタジーじゃないんだから」
「いっけな~い! 遅刻遅刻! 私、響子。ミステリアスな雰囲気を纏った女の子! 目が覚めると、そこは見知らぬ施設で……? えぇ~! コロシアイ生活?! 私、これからどうなっちゃうの~! 次回、『死』」
「……大丈夫?」
心配しないでくれ……純粋な気持ちが、今は一番痛い……。
「大丈夫だ、これでも私は羞恥に寛容的なんだ」
「そう。気でも触れたのかと思ったけど。……だとしても、無理はないのかもしれないけれどね」
悲しげな物言いだった。死んでしまった誰かのことを考えているようだった。あるいは、誰かのことを案じているようにも聞こえた。
……顔を隠したまま話すのはやめにしようと、布団に埋めた顔をおもむろに上げた。左腕はまだ、影の中に隠したままだ。
「……霧切は、捜査に向かわないのか?」
「これも捜査の一環よ」
「私の部屋には証拠になるようなものなどなにひとつないように思うがな。……はっ! ひょっとして、私の下着を……!」
「なにが『はっ!』なのよ。そんなことじゃないわ……ただ、あなたにも捜査に参加してほしいと思って来たの」
「私が……? 私なんかよりも、君が捜査した方がよっぽどいいだろう」
実際にそうだった。
霧切の推理力には光るものがあったし、なにより彼女がいなければ前回の学級裁判は乗り越えられなかったと言っても過言ではない。
苗木がクロとして吊し上げられ、私達全員が死んでしまったという未来があってもおかしくはないのだから。
「私なんかじゃ気付かないような細かいところに気付いていたし、君の洞察力や注意深さはこの施設にいる誰よりも群を抜いているだろう」
「それだけじゃダメなのよ」
霧切は語勢を強くして言った。
「……私がなにを知っているのかは、私自身にも分からない。だってなにも憶えていないから──だけれど、私の中の何かが囁いているの。……あなたの力はこの先きっと必要になる。あなたには力があるもの」
「力……?」
「あなたは推理をする探偵ではないかもしれないけれど、でも、事件を解決する力を持っているわ」
訴えかけるような目で見つめられて、私は言葉が出ずにただ話を聞いていた。
「……事件を解き明かすことと解決することは違うもの。真実を明らかにすることは簡単よ。事実を読み取り、述べればいいのだから──だけど解決することはそうじゃない。それは誰にだって、できることじゃない。だって、それには答えがないんだもの」
「ならなおさら、私には難しいように感じるがな」
せっかく顔をあげたというのに、不貞腐れたように私は目をそらした。
霧切がなにか悪いことを言ったわけではない。
ただ、自分のことを良いように言われて、照れ臭さよりも嫌悪の感情が起こったのだ。
私はそんなんじゃないと。
そう言ってやりたかった。
横目でちらりと霧切の方を見る。
私は目を逸らしてしまったというのに、霧切は目を合わせようともしない私の方を真っ直ぐな瞳で見つめていた。
「うっ……で、でも霧切。私にはなにもできなかった。私は無力なやつなんだっ。たとえなにかを解決できる力があったとして、それはただ責任から逃れようとした結果なんだ」
「素晴らしいことじゃないの。……悔やみ、後悔して、そして償うことができるのだから」
「美徳のように語らないでほしい……!」
声を張り上げ、そう主張した。
それは良くない傾向だった。怒りの矛先が霧切に向き始めていた。
「……私には問題を解決することができる力があると言ったな。だがそれは違う、私はなにもできなかったんだっ! ……今回もそうだ。不二咲は死んだ!」
「ならその後始末をつけるべきじゃないの? あなたのせいで彼女が死んだと思うのなら……そう思うのなら、あなたは彼女に報いなければならない」
「……っ! でも、私は、私は──!」
感情が高まり、考えもなしに不安定なベッドの上で立ち上がった。
だからだろう、体の重心が偏っているということもあってか、上手く立ち上がることができずに私は前へと倒れてしまった。
霧切がいる、前へと。
私は左腕に包帯を巻いておらず。
また布を被せることもしていなかった。
「──っ」
霧切を押し倒すような形で私は前へと倒れ込んだ。霧切は反応しきれなかったようで、私共に地面へと伏せる。……そのとき私は、両腕で自分の体を支えていた。
ちょうど霧切の顔の側面を掠めるように、二本の腕は地面を穿った。
人の腕と、獣の腕。
露わになったそれを隠し切ることは到底不可能だった。
「……! 神原さん、その腕……っ」
「っ! 見るなっ! ……出ていけっ、早く部屋から出て行ってくれ……!」
見られてしまった。
左腕を。人ならざる獣の腕を、見られてしまった。
失敗した──
彼女を押し飛ばして、私はその場から飛び退き、部屋の隅の方で
この獣の腕について何かを言われることが怖かったのだ。
霧切が人を貶すようなことを言うとは思えないけれど、そんなことを考えていられるような余裕はその時の私にはなかった。
私には見られてしまったという後悔の気持ちしかなかったのだから。
そして、思い出される。
周囲と違う言葉遣いだったからといじめられていたあの頃を。
トラウマと言えるほどにその思い出が今の自分を蝕んでいるわけではなかったが、しかし精神の状態が不安定な私を追い込むための種火としては十分だった。
やがて恐怖の火は燃え広がり、いつ、どんなことを言われるのだろうかと震えた手で耳を塞いだ。
しかし霧切は、いくら経っても私にはなにも言ってこなかった。
私の有様を嘲笑うのではなく、また私の左腕を見て化け物と罵りもしない……そして慰みの言葉をかけてくることもなかった。
まるでそこにいることが自分の義務なのだとでも言いたげな雰囲気を彼女は纏っていた。
ただそれも、私にとっては辛かった──いつ鉛玉を吐くか分からない銃口を向けられているような気分だったからだ。
霧切、どうか私に、構わないでくれ──君がいるべき場所はここじゃないんだ。
彼女を突き放せば取り返しはつかないだろうことは直感的に分かっていた。
……だから、その一歩を踏み出す勇気はどうしても出せなかった。
震える私はみっともないほどに小さく、惨めだった。
消えてしまえたらどれほど楽だろう。……なぜ私ではなく、不二咲が死んでしまったのだ。
“私が死ねば良かったのに”
呪詛にも似たそれは、確実に私の心を絶望の色に染め始めていた。もはやそれを止めることなど、私にはできそうにもない。
しかし、私以外の誰からか光が差し込まれた。
恐れから身を硬くして縮こまっていた私を包み込むように、霧切は私を抱擁した。
それから、ぽんぽんと、私の背中を撫でたのだ。
「……!」
霧切もまた恐怖しているのだということに気が付いた。私の背中を撫でる手が、わずかに震えていた。
霧切は独り言を呟くように、小さな声で──けれども、確かな意思のこもった声でこう言った。
「……失うことは怖くない。だって、なんとかできるかもしれないから。……けれど、失ってしまったことに私は怖いと感じる。だってそれは……取り返しがつかないもの」
涙が目元に溜まり、視界が悪くなっていく。ついに耐えきれず、漏れ出した嗚咽が部屋に響いた。
そこからは、堰を切ったように泣き出してしまった。
「私は……私はっ、また、助けられなかったっ。……けど、償うことはできるのだろうか……っ」
子供のように泣いて、上ずった声で言った。
霧切はそれを受け止めてくれた。
……それ以降、私と霧切の間に言葉はなかった。
けれどそれで十分だった。
【解説】
独自解釈が混じっているので解説をば。
まず霧切さんはそんなにデレないし、気にかけてくれはしても絶対抱擁してくれたりはしない(断言)
……時系列としては、『神原を心配して追いかけようとする苗木』→『苗木には調査をさせたい霧切』→『霧切さん苗木の代わりに神原の個室へ向かう』といった感じ。結構無理やりな感じがあるけれど、霧切さんは神原に借りがあったので……(チャプター2、001参照)
ちなみに、初めは苗木が部屋に行く筋書きで書いてたんですけれど、途中からなんだか違うなってなって霧切さんにシフトチェンジ。
さっきも言いましたが、霧切さんは誰かが落ち込んでいたとして、気にかけはしても同情はしない人なんですよね。人を慰めるための言葉や同情する感性を持っていないわけではないけれど、コロシアイ生活という環境下において他人に情を持たないようにしているからあまり深く関わってこないんです。
ならどうして霧切さんは神原にあんなことを?
霧切さんは過去の事件で手を酷く火傷してしまい手袋でそれを隠しているんですけれど、神原が隠し続けていた猿の左腕を見てつい自分に重ねてしまったのではないかと考えています。
だからあくまで神原の左腕を見るまでは『事件を解決する力を持つ神原に脱落されては困るから、なんとかして調査に参加してもらいたい』という思いで動いていたんです。
一時的に感情に突き動かされてしまっただけなので、今後似たような対応を取る可能性は薄いですね。