八日目。
私は朝食会の後から昼間にかけて、シンと静まった体育館でひとり、バスケットボールの練習をしていた。
普段使いしている靴が運動をするのに適していなかったため(少しお高めの運動靴ではあるのだが、どういうわけか、入学に際して新調しておいたはずのそれは靴底が随分と擦り減っていたのだ)この学園に来てからというもののボールに触れてコートの中を駆けるという私にとっての日常風景がこの非日常の中では叶わなかったのだが、しかし先日、解放されたばかりの倉庫の中で運動靴を見つけ、ようやく腰を入れてバスケットボールの練習ができるようになったのだ。
弘法筆を選ばずと言うが、駄目なものを使って怪我でもしたら目も当てられない。残念ながら私はまだ弘法と呼ばれるほどの達人でもないのだから、倉庫に置いてあった運動靴がとても良いものであったのにはただひたすらに幸運であったとしか言えないだろう。
もっとも、それ自体は不幸中の幸運というか……今の生活を送ることになったそもそもの原因でもあるコロシアイ生活なんてものに巻き込まれさえしなければ、いつだって自由に新しい靴を買うことができたというのはあまり考えたくないうんざりとする現実だが。
……ちなみに服も動きやすい格好に着替えてある。
古き良きブルマーは置いていなかったので、今時の通気性が高いポリエステル多めな体操着を着用し練習に励んでいた。
この学園に監禁されている最中であってもバスケットボールの練習をするのは体の使い方を忘れないためというのがあるけれど、実はそれとはまた別の異なる理由が存在していたりする。
それは、この左腕と大きく関わることだ。
私の左腕はなぜだか獣のように毛むくじゃらになり、骨や筋肉の形、触れたときの筋肉の硬さなども異形のものへと変貌してしまっている。
そうなってくると、もちろん左腕の重さも異なるわけで、それはつまり私の身体において左半身と右半身の重さの比重が大きく異なっていることを示しているのだ。
少し重さが違うだけでもバランスを取るのが難しくなるというのに、左右で重さの違いが随分とできてしまっている今は、気を張っていないと立ち上がることすら難しいほどにバランスの悪い状態なのだ。
感覚としては、教科書がこれでもかと詰まったリュックサックを左手だけで持ちながら走っているような感じだ。体幹には自信がある方だけど、それでもどうしたってふらついてしまうのだから、実に不安定な状態だと言えるだろう。
そんな不自由なままだと、もし誰かに襲われたとき──きっと私は自分の身を守ることができないだろう。
それにきっと、自分以外の誰かを守ることだってできないだろう。
出会って一週間程度の赤の他人を守る必要はないかもしれないが、しかし救えるはずの命を救えなかったという事実は、一度でも起こってしまえば心に深い禍根を残すだろうことは明らかだ。
現に、舞園のことがそうだ──私は彼女のことをきっと忘れることができないだろう。
忘れることはできないし、忘れるわけにはいかない。
それは苗木も同じだろうし──そんな苗木だって、私からすれば守るべき対象なのかもしれなかった。
何か恩義があるわけでもないのだから、ましてや命を救われたというわけでもないが──それでもみすみす彼らを殺されるわけにはいかない。
なぜだか分からないが、私はそういうなんの利益にもならないようなことをする人を知っているような気がするのだ。
だから私も、そうするべきなのだろうと思うのだ。
ともかく、練習をすることは昔からよくやっていた。
だから私は少しでも早くこのアンバランスな身体に慣れるために、いつも行っているバスケットボールの練習をしながらも不均衡な身体の重さに慣れようとしていたのだ。
バランスもそうだが、もともと私は右利きなのだから、箸を持ったり物を書くことなんかも練習をしなくっちゃならないだろう。
……そんな練習も早二時間、休憩を挟みながら続けていてもさすがに疲れが見えてくる。水分補給でもしようかと考えながら一人でドリブルをしていると、体育館の扉が開く音がした。
ボールを弾ませるのを止め、流れる汗を拭いながらそちらを振り返ってみる。すると、ジャージ姿の不二咲が、おどおどとした様子でこちらを見ているのを目で捉えることができた。
私の視線に気付いてだろう、不二咲は慌てた動きで扉を閉めようとするが、それよりも速く扉の方へと駆け寄り不二咲へ声をかけた。
「どうしたんだ? 不二咲」
「えぇ……あぁ、ボクは……えっとぉ、その」
まるで小動物のように不二咲は惑う。
かわいい!
かわいいなあ!
それも不二咲はボクっ子であるのだ!
思わず抱きしめたくなるほどの可愛さだが、自分の体が汗で
「すまないすまない。ついうっかりな」
「……なにが?」
「いや、気付いてないならそれでいいんだ。それで」
よく見てみると、不二咲は青のジャージを着ていた。
別に青が男、赤は女という決まりはないのだが、しかし彼女は青というイメージではなかったので少し驚く(赤というイメージもない。そもそも不二咲のジャージ姿というものは想像しにくいものだった)。
「ところで、やはり不二咲も運動をしに体育館に来たのか?」
「う、うん……」
「声に元気がないな。どうしたんだ? 朝食はしっかりと食べてきたか?」
「朝はきちんと食べたよ、目玉焼きとヨーグルト」
「そうか、じゃあ睡眠は?」
「あんまり、眠れてないかも……やっぱりちょっと、怖くって」
「そうなのか……まあなに、身体を動かせば、疲れて夜もぐっすりと眠れる。きちんと準備体操もしておけば、筋肉痛だって随分と和らぐだろう」
「うーん、そうかもしれないけど、やっぱり今日はやめとこうかなって……」
「んん、そうなのか。いやもったいないな。やる気なんてものは、存外、後からいくらでもついてくるものだぞ?」
「そういうものかな?」
「そういうものだ。私だって練習をするのが面倒な日くらいある。それでも結局は毎日楽しく練習をしている。不二咲だってそういう日はあるんじゃないか? プログラミング……というものはあまりよく分からないけれど」
「ボクもそういう日はあるかも。調子が良いかどうか分からないけど、ちょっと面倒だなぁってときあるもん」
「そうだろうそうだろう、きっと今がその面倒なときなんだ。とりあえず体を動かしてみれば調子が良いか悪いかが分かる、悪ければ悪いなりの練習をすれば良い」
そう言って、不二咲の返事を待たずに私は彼女の胸元にボールを放り投げた。
随分と驚いたらしく、不二咲は慌てたようにボールを手元で無作為に跳ねさせてからキャッチした。
「わわっ、か、神原さん」
「バスケットボールは好きか? バスケットボールはいいぞ。ドッジボールとは違って、顔に当てられることもないしな」
少々強引な誘いではあったが、問題はないだろう。
そもそも体育館にジャージ姿で来ているのだから、不二咲は運動をするつもりだったはずだ。できるできないに関係なく、しようとする意思を自主的に立ち上げていたことは確かだった。
それに、まだ彼女のことはなにも知らないから憶測でものを言うのは気がひけるが、こうやって強引に引き込みでもしなければ、不二咲は体育館に入ることすらせずに帰ってしまいそうだった。
それが私のせいだというのなら気の毒だ。……つまりは、不二咲を体育館に引き入れたのは私のエゴでもあるのだろうが。
だが体を動かすことはいいことなわけで、それに既に一週間もの長期間に渡り狭い閉鎖空間に囚われているのだから、より一層体は動かしたほうがいいのだと思えた。
人は太陽光を浴びないと気が狂ってしまうというが、それにもう一つ付け足すのなら、人は身体を動かさないと死んでしまうという事柄を加えたい。
私たちの年頃であれば学校への登下校の際には必ず足腰を使うわけだし、体育で軽めの運動をすることもある。だというのにこの施設では食堂への行き来と探索くらいでしか身体を使う場面が見られない。
そんな環境下じゃあ、いくら若くても不健康になりかねない。健全なる精神は健全なる肉体に宿るのだ。ただでさえ疑心暗鬼でギスギスとした雰囲気が流れるこの場所で正気を保つには、やはり、運動しかないだろう。
身体を動かす他あるまい。
……そんな中で、特に不二咲は運動をすることを避けているようだったから(以前探索の最中に出会ったときは、プールに入りたがっていない様子だったし)、自主的にやろうとしているのならなおのこと運動をすることに意味がある。
ただ、彼女を体育館に引き入れたのは随分と押し付けがましい親切心だと自分でも思う──私は、一人で練習をするのに少し飽き始めてしまっていたのかもしれなかった。
コソ練はいつもやっていたし、一人で練習をすることはよくあるのだが……コロシアイ生活という環境下に身を置かされるようになって、私は以前よりも人恋しい性格になってしまっていたのかもしれない。
ともかく、不二咲が迷惑そうな顔をしていないのを確認してから、彼女の小さな手(本当に小さい。超高校級のプログラマーだというけれど、こんなに小さいとタイピングをするときにキーボードの端の方には指が届かないんじゃないだろうか?)を取って、体育館の中へと引き込む。
「……ええっと、神原さん」
「? どうかしたか?」
「あ、あのねぇ? ボク、力が弱いから、運動とかもできなくってぇ……」
不安そうに不二咲は言う。
確かに彼女の体の線は細く、小動物のようなか弱さであった。
「なあに、体を動かすのに力の強さは関係ないぞ。なくったって、力とか運動神経なんかは後から付いてくる」
「そ、そうかな……?」
「力が……欲しいか……」
「やめてよっ、ボクは中二病じゃないよぉ」
「そうだったのか、てっきりそうなのかと」
「どこが中二病っぽく見えたの……?」
「後ろ髪がツンツンしているところとかか?」
「えぇ? 天然だよ。それに疑問形で答えられても……」
「そうだ。実際私がそうだった」
「髪型が!? それとも中二病が!?」
「いや、力とか運動神経が後から付いてきたってところだ」
「話が戻りすぎだよぉ……」
今でこそ私は超高校級のバスケットボールプレイヤーなんてこそばゆい肩書きをもらってはいるが、昔の頃の私は──特に、小学生の頃の私は、今とは比べものにならないほどに体が弱かった。
足も遅かったし、体力はまるでない。
運動会で活躍できた試しはなかったし、持久走なんていうのは地獄のそれだった。
だけれど練習に練習を重ねて、努力に努力を重ねて……私はそれなりによく運動ができるようになったのだ。
今の自分は努力の積み重ねでできているのだということだけは、胸を張って言うことができるほどに……それほどに努力をし、努力し続けている。
それは桑田や舞園だって変わりなかっただろう。
「不二咲は力が強くなりたいのか? ランボーとか、コマンドーみたいに」
「うん、ボクも機関銃とか乱射してみたいなあ……。いやそうじゃなくって? いや、ううん、そうなんだけど。でも、もっと強くなりたいっていうか……こう、誰かに頼ってばかりじゃなくって……頼られるような人になりたいんだよねぇ……」
「頼られるような人、か」
その言葉で思い出したのは、戦場ヶ原先輩のことだった。
同じ中学にいた、一つ歳が上の先輩。
私はバスケットボール部で戦場ヶ原先輩は陸上部と部活は違ったけれど、そんな私に対しても大切な後輩として接してくれた先輩で──
きっとあの人は、頼られる人に違いない。
頼りがいのあるその後ろ姿に、私は憧れは抱いていた。その背を追って、希望ヶ峰学園にまで来たのだ。
だから頼られる人に憧れているという不二咲の願いは、なんだかとっても分かるような気がしたのだった。
不二咲もまた、誰かの背中を追っているのだろうか。
「頼られる人になれるかどうかは不二咲自身だろうけれど、男らしく……つまりは強くなるための手伝いくらいは私にできると思うぞ」
「そう?」
「ああ、きっとできる。実はだな、私も昔は運動ができなかったんだ。バスケットボールのことで昔からできていたことなんて一つもない。体力もなかったし、力も弱かった」
新しく手に取ったバスケットボールを力強く弾ませて、ゆっくりと駆け始める。
「行動を起こさなきゃ、才能があるかないかも分からない。まずは何が得意で何が不得意か。不得意でも何が好きで何が嫌いなのかを見つけるべきだと、私は思うぞ」
両手でボールを持ち、走ってきた勢いをキープしながら真上にジャンプして──シュート。
手から離れたボールは、綺麗な放物線を描きながらゴールネットの中心へ落ちていった。
よし。ようやくこの偏重心に身体が慣れてきたような気がする。
「ボクにできるかな……?」
「できないなんて法はない。できるに決まってる」
できなかったとしても、それでなにも得ることがないなんてことはあり得ない。良いものであれ、悪いものであれ──多くの場合は良いものを得るはずだ。
「じゃあまずは準備体操から始めよう。どんなプロ選手だって必ずやっていることだぞ」
「うん」
取り損ねていた水分を補給してから、私は不二咲に付き添う形でもう一度準備体操を行い、筋肉トレーニングも行なった。この時点で不二咲はどうにもバテ気味であったものの、走り込みをして(外でできないのが口惜しい)ようやくボールを手に取った。
「え、えぇ? もう終わりじゃないの……?」
「だって……まだ……準備体操だろう」
体育館の床で両の腕と足を放り投げるようにし大の字になって横たわっている不二咲の顔には汗が滲み、そして苦しくあえぐように胸を激しく上下させていた。
いわゆる“バテ”というものだろう。
天を仰ぐ不二咲の口元に経口補水液を持っていってやりながら、ぼそりと呟くように私は言う。
「それなりに覚悟はしていたが……まさかこれほどとは」
「あぁ……明日絶対筋肉痛だよぉ……」
「むう」
こんな状態になってしまうような準備体操はした覚えがないのだが……はたしてこれは私が行なった準備体操があまりにもハード過ぎたのか、不二咲が予想できないほど体力がないのか、それともその両方か──
「多分両方じゃないかなぁ……マイナスプラスマイナスで……カケルじゃなくって」
「でもゼロよりかはマシだろう」
「それは一とか二とかの少ない数字の時に言っていい言葉なわけで、マイナスな時点でアウトだよぉ……?」
ダメじゃないか。
もっとこう、格闘漫画でありがちな物理法則を無視しがちの方程式は適用されないのだろうか……。
「格闘漫画じゃなくて推理ゲームだからね……大神さんは、格闘漫画の世界の住人っぽいけど……すごいよねぇ」
大神……ひょっとして不二咲は、大神のように筋骨隆々で、鎧袖一触という四字熟語を羽織っているようなボディを目指していたりするのだろうか?
「不二咲は、ムキムキになりたいのか?」
「なりたいなぁ、いいよねぇ。ムキムキ。フライパンとか曲げてみたい」
「なっ……不二咲、お前はてっきり『ほほう……ですが、力が全てではありませんよ』とか言いながら、フライパンを効率的に曲げる機械を開発して主人公に立ち塞がる効率重視の科学者ポジションかとばかり……!」
「長いよっ、設定とシチュエーションが長い……! それに、フライパンを曲げるためだけに機械を作るなんて、明らかに効率的じゃないよっ」
そうつっこんでから、不二咲はホッと息を吐き、心配そうにこう言うのだった。
「ねぇ神原さん……ボク、やっぱり向いてないのかなぁ」
そう聞いて、私は言葉に悩んだ。
とあることができる人間の言葉というものは、そのことができない人間からすれば、例え自分に向けられた感謝の言葉でさえも攻撃に見えてしまうことがあるからだ。
だからこそ、できるだけフランクに──でも、伝えたいことは伝えられるような、そんな言葉が必要だ。
少し言葉選びに迷いながらも、それを悟られることのないようにし、言った。
「なあに、なんだって初めてやるときはこんなものだ。古びた水道管に勢いよく水を流しているようなものなのだから、痛いのも当然なんだ──少し休憩をしてから、軽くボールで遊ぼう。身体が動かなくても、慣れようとすることはできる」
「……ごめんねぇ」
「なにを謝ることがある。別に不二咲は悪くないんだ、むしろよくやった方だと思うぞ」
「いや、そうじゃなくってね。神原さんもしたい練習があったと思うから、こうやってボクに付き合わせちゃって、悪いなぁって」
ギシギシと錆びついたロボットのような動きで上体を起こした不二咲は、やや俯き加減で、申し訳なさそうに口をぼそぼそと動かしていた。
「そんなことはない。……ほら、よく、教えることは勉強にもなるっていうだろう? 私も別に、今日の練習で……準備体操ではあるが、それでなにも得ていないというわけじゃないんだ」
「そう……?」
「そうだ。なにより朝のお前の様子を見る限りだと、どうやら一人きりでやろうとしていたからな──実際、私が無理にでも誘わなきゃ一人で身体を鍛えようとしていただろう。だからこうして一緒に体を動かすことができて、私は嬉しいんだ」
誰かと体を動かすことはとても楽しい。
先の話になるだろうが、いつかその感情を不二咲と共有したい。
「……大和田クンも、一緒に鍛えようって言ったら、楽しんでくれるかなぁ……。それとも迷惑がるかなぁ」
「楽しんでくれるに違いない。彼は運動とか、嫌いじゃないタイプのはずだ」
なんの根拠もない返しだが、不二咲は嬉しそうに頬に
その表情を見て、私も自然と笑みを返した。
「やっぱりボールに触るのはまた今度にしよう。どうにも汗で左腕に巻いてある包帯が蒸れてるんだ。……どうだ? 不二咲、一緒にお風呂にでも入るか?」
「それは遠慮しようかなぁ……っ」
夏なんてなかった。
あと副音声を書きました。おそらくこのURLからなら飛べるかと。作者作品覧、チラシ裏からでも。
→https://syosetu.org/novel/206385/
ちなみに八日目というのは、大和田くんと不二咲さんが男の約束を交わした日ですね。深夜には大和田くんと石丸くんとがサウナで対決したりします。