阿良々木暦は望まない   作:鹿手袋こはぜ

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002 (非)日常編

 翌朝、私は不本意ながらも朝時間を知らせるアナウンスで目を覚ますこととなった。

 普段常日頃から走り込みやストレッチなどの軽い運動を行うため朝は早くに起きるようにしていたのだが、今朝ばかりはどうにも体が起き上がらず、いかんせん精神面での疲労もあってのことだろう、いつもなら早くに目を覚ますところをそれよりも大分後の──つまるところ朝時間が始まる時間帯に、私は目を覚ましたのであった。

 普段通りであればきっと、私は生活習慣により朝時間を知らせるアナウンスよりも早い時間帯にその日の活動を開始していただろうに。

 早朝の起床が私の日常であり、その日一日を生きるにおいての肝心なスタートダッシュだと言えるのだが……その習慣が乱されたことに憤りとまでは行かずとも、出鼻を挫かれたようで不快感を感じずにはいられなかった。

 朝時間を迎えるまで眠ってしまっていたのは太陽の光が届かないこの劣悪な生活環境のせいであると言えるのだろうし、ここ最近、走り込みを行わずバスケの練習ばかりしていたからか生活のサイクルそのものが乱れ始めていたのかもしれないが(バスケの練習といっても、履物が専用のシューズではないので十分に満足のいく練習というのは出来ていない。今履いている靴は結構お高めの運動靴なので、別に運動に適していない靴というわけでもないんだけど──新学期にあたり新調したばかりのはずなのに、何故だかもう靴底がすり減ってしまっているので期待通りの動きができるとは言うまい。ハッキリ言って既に買い替え時である。結構な頻度で靴を新しくする私ではあるけど、今回ばかりはあまりにも早すぎると不思議で仕方がない。この左腕より不思議なことはないにしても)、しかし、なによりも最大の原因であるのは、火を見るよりも明らかに昨日の出来事だった。夜かどうかは分からない。ひょっとすれば昼の出来事だったのかもしれないが、それを明確に判断する基準はこの学園には存在しないため、仮に夜であると定めておきたいと思う。

 もしこの閉鎖空間に時計があったとして、極論それが合っているのかは分からないし──案外、私たちが朝だと思っている今は、外では深夜の時間帯なのかもしれないけれど。今日まである程度いつも通りの時間帯に起きていたであろうから、生活リズムがその際に正常に働いていたというのであれば時計の時間が合っているのだろうという推測は出来なくもないのだが……。

 疑心暗鬼の泥で浸されたような今の状況で唯一の味方である自分自身を疑い始めてしまうと何を信じていいのか分からなくなってしまいそうだから、あまりそこら辺の時間帯は考えないでおくことにしようと思う。生活リズムまで疑いだしたら、ほんと、キリが無くなる。

 本当にキリがない。

 

 ともかく、昨日の出来事だった。

 昨日あったことだった。

 涙無しでは語れない──なんていう安い口上を述べられるような出来事ではない。たった一日で三人もの人間が死んでしまったというのだから、どうしたって言葉は選ばなければならないと自然に意識してしまう。十六人という人数の中で三人というのは、なかなかにして多い。およそ五分の一、──人類人口がとうとう七十億人を突破した昨今の人口事情であるが、そのうち十四億人が死んでしまったのだと言われるとことの大きさが感じやすいと思う──この閉鎖的な世界における総人口十六人のうち三人が死んでしまった。

 それもただ死んだわけでなく(ただ死んでも大問題だけど)コロシアイという非日常的な妄想めいたシチュエーションに巻き込まれての死だ。現実は小説よりも奇なり、というけど、それになぞらえていうのなら、現実は小説よりも非情である。いつだってそれは残酷で、どうしようもない現実を打ち寄せる波のようにして私たちに迫ってくる。現実に対して傷心中の私たちを少しは気遣えというのはあまりにも荒唐無稽な話だけど、土台無理な要求をしたくもなるほど──胸の内から叫んでしまいたくなるようなほどには、私の心は乱されていたりする。

 結構辛い。

 

 こんなとき、走りにでも行けたらいいんだけど。

 どこまでも走って行きたい。明後日の方向でもいいから、不安も恐怖もない地平線の彼方まで──

 

 しかしつくづく現実っていうものは、私を追い詰める。

 いつかは逆に、追いかけ回してやりたいものだ。

 そういうときの私は大人気ないぞう。

 今時擬人化されていないものの方が少ないであろう昨今のインターネット社会において、きっと現実ってやつもその魔の手から逃れられず毒牙にかけられていることだろうから、現実がとびっきりの美少年か美少女に変わっていることを想像してみれば、そうすればなんだかやる気が出てきた気がする。美少年や美少女に追い詰められる人生というのは、なかなかにアリかもしれない。

 

 走れない理由として、思い切り走れる場所がないというのもあるが……それを除いたって、今朝ばかりはどうもそうはいかないらしかったのだ。

 

『オマエラ、体育館にお集まりください』

 

 そういったアナウンスが朝時間を知らせるそれと同時に流れてきたというのだから、満足にできやしないであろう朝の運動よりもそちらを優先させるべきであることは明白であった。

 それでもまあ。

 心なしかは、走るような感じで。

 私は体育館に向かったのだ。

 

 アナウンスが流れてから目を覚ましたため、他のみんなと比べて移動を始めた時間帯はだいぶ遅く、道中を駆け抜けたとはいえ既に彼らは体育館に集まっていた。……人数がいつもより少ないからだろうか、これで全員なのだということに実感がなかなか湧かない。それでもその現実を無理矢理にでも飲み込んで、彼らの群れに混ざる。

 

 無意識に探していた彼の影を見つけ、そちらにゆったりとした歩幅で近付いた。

 

「苗木、なんだか石丸がいつにもまして元気じゃないか……? とても血色が良いというか」

「ああ……、モノクマがさ。モノクマラジオ体操っていう朝のラジオ体操みたいなものをやっててね。……石丸クンだけ参加していたものだから、多分、彼だけ体が暖まってるんじゃないかな?」

「なるほど……モノクマラジオ体操?」

 

 こうもド直球に自分の名前を入れるとは……ツッコミを入れずにはいられなかった。ひょっとすればモノクマは、自己主張が激しいタイプの人間(熊?)なのかもしれない。

 

「モノクマラジオ体そ……ラジオ体操は、まあ、毎朝やるわけじゃあないだろうけどさ……。体育会系の神原さんが『血色が良さそう』って、見た感じ気付く程度に効果はあるのかな? ……モノクマってさ、変なところで手が込んでるよね」

 

 『モノクマラジオ体操』をわざわざ『ラジオ体操』に言い換えるあたり、苗木はモノクマの名前を言うのに少し抵抗があるようだった。

 魔法界よろしく名前を呼んではいけないあの人ほどではないものの、温厚な彼でも少なからず嫌悪感というものは抱いているらしい。

 

 モノクマラジオ体操、もといラジオ体操でかいた汗を拭いながら、モノクマは(機械が汗をかくなどあり得ないので──排熱用の液体と考えればまだ無理はないが──全く無駄な動きにしか見えない)肩にスポーツタオルをかけて壇上へと登壇した。

 

「ふう~。全くオマエラったら、すっかりインドアな生活になっちゃって、運動不足で生活習慣病になりかねないからね。こうやってラジオ体操をするのも、たまには悪くないよね」

 

 どこか機嫌の良いモノクマは、肩を反らせ真っ直ぐと立っていた。

 このときの私たち生徒側の気持ちを総じて述べるのであればそれはきっと、嫌悪や憎悪、または呆れというものだろう。ただでさえモノクマが関わってきた事象で私たちは希望やら幸福なんかを見出せたり感じることができたことはなかったというのに──むしろかえって、平穏を乱すものばかりであったのだから、こうして体育館に……モノクマという、今現状この施設内で敷かれている殺人ゲームの首謀者と一緒の空間にいるというのは、シンプルに言ってストレスだった。呼び出されたということは、もちろんその呼び出した本人がその場に現れることは火を見るよりも明らかであったのだが、それでも嫌気というものは嫌々でも差してしまうものなのだ。

 (いか)ることが出来る理由があって。

 そのフラストレーションを放つ対象は目の前にいて。

 ──復讐や仇討ちをするには十分すぎるほどにお膳立てされた構図のそれは、私たちの首を真綿で絞めるかのように苦しめるのだ。超高校級のギャル、江ノ島盾子がモノクマに反抗した結果ああなってしまったことを目にしてしまった以上──怒りに身を任せようにも、感情に揺さぶられようにも、無謀としか形容することのできない行為に身を躍らせることはできない(実際、そういう屈辱の感情を私たちに抱かせることがモノクマの狙いだったりするのだろう)。

 自身の命を守る自制心というものは更に、昨日の出来事で強まってしまっていた。自制どころか、半ば諦めの心が生まれ始めていたというのが実際のところだろう。完全に諦めたわけではないが、けれども、そんな言葉だってただの強がりのようにしか聞こえない……。

 昨日、あの裁判後に漂っていた暗澹たる雰囲気からして、そこはかとなく私たちは絶望を味わい……心の拠り所であった微かな希望も、暗闇の向こう側に見える六等星も、あの夜彼らの命とともに砕け散ったのだろうと安易に想像がつく。

 砕けて、粉々になって、風に飛ばされて。

 反抗心やら自尊心なんかが一気に折られて。

 

 現実逃避に夢中で目に入らなかった──入れないようにしていた現実を、心のドアに叩きつけられた。

 

 それが多数派であったはずだ。

 もちろん、多数があれば少数もある。コインに表があれば裏があるように──メビウスの輪やクラインの壷は例外として──そうでない人物も何人か居ることにはいるのだが、そいつらだって、私たちが抱いているような希望とはまた違う種類の何かを抱えているように思えて仕方がない。むしろそうだからこそ、多数派と違ってさほどダメージを受けた様子はみせないのだろうけど……ただ、違うにしたって、そのベクトルが非常に危ういと私は感じている。

 特に十神なんかは、この狂気満ち溢れるイカれた監禁生活をゲームとして楽しんでいる節がある。彼にどんな過去があったのか、私には預かりしれないが、その危険思想と言える危うい考えを個々人の個性として看過することは決してできない。関わるべきではないのだろうが、しかしこれから先、必ず衝突する場面は訪れるのだろうと思うと気が重い。

 霧切は……あいつは、私からはよく分からないといった所見しか述べることができないが、得体の知れないというのはいつの時代だって畏怖の対象である。悪いやつじゃないんだろうけど、かといってそれで良いやつなのだと心置きなく接することは自身の破滅につながるということは知っている。

 人と親しく話しただけで破滅につながるだなんて、良い歳して中二病でも拗らせたんじゃないかと嘲笑の的になりかねないが、こんなコロシアイなんていうそれこそ中二病の白昼夢みたいな状況に身を置いている以上、私は苦笑いだってできやしない。

 

 誰にだってフレンドリーで、明るく話せるというのが中学校時代の私の強みだったような気がするけど、そんな、面接でみんなが潤滑油の次に決まって言いそうな特徴はすっかりなりを潜めてしまっている。

 

 ……ダメだな。どうにも、考えが悪い方悪い方へと向かっている気がする。

 バスケでも経験したことだけど、負けを意識するということは──すなわち死を意識するというのは、その最悪の結果を自身に招きかねない。最悪を想定して、最悪より少し良いなんていう結果を迎え、「ああ、良かった。()()ならなくって」と安堵するのは……今までは最悪の結果というのがまだ試合での敗北であったりしたから良かったものの、「死」という最悪極まった結果から少し良いだけの結末なんていうのはどう足掻こうとあまりに残酷な未来でしかないだろうから、「ああ、良かった」だなんて安堵は出来やしない。それこそさっきの表と裏の話のように、最悪の反対は最高なんていう単純な話であれば良いのだが──この場合、表が出るよりも、裏が出るよりも、コインが立つという有り得ない状況がもっとも出やすいことだろう。

 なにせ既に場は異常なのだから、実際無重量下でコイン落としをするようなものである。鬼と蛇がいっぺんに出てくるようなことになりかねない。

 

 故に、弱いままに最悪だけを回避するなんていう思想は、その考えこそが最悪のそれなのだ。

 強くなくったって良いから──せめて、そうあろうとする姿勢だけは持たなくては。

 姿勢さえ良ければ、中身だって誤魔化せる。

 人の考えてることなんて、他人からすれば分かりっこないのだから──

 

「苗木クンなんかは、ちゃんと運動した方がいいんじゃない? 身長伸びないよ」

「なっ……! 余計なお世話だよッ」

「とてもとても、ボクは心配なのです……高学歴、高収入、高身長……所謂『サンケー』が重視されるこの世の中で、苗木くんは生きていけるのだろうかと……」

「…………ッッ」

 

 将来を案ずるだなんて……コロシアイを強要しているやつの言葉とは到底思えないけれど。

 しかしどうやら苗木はとても深いダメージを負ったらしく、さっきまでモノクマの白黒ボディを鋭く刺していた眼光は、その小さな肩が下がるのと同時に目の奥へと引っ込んでいた。

 

「苗木、気にすることはないぞ。確かにお前は身長が低いが、高収入くらいならなんとかなるんじゃないのか……? ほら、宝クジとか」

「宝クジとか、そんなのもう、無理って言ってるようなものじゃないか……っ」

「いやいやっ、も、もし収入がないとしてもだ。希望ヶ峰学園に入学した時点でほぼ頂点と言っても良いくらいの高学歴だろう?」

「その希望ヶ峰学園に通う前に死んじゃいそうなんだけど……」

 

 生気のない、今にも消え入りそうな声で苗木は言った。

 むぐぐ、恐るべし、「サンケー」。

 

「えーまず、昨夜の学級裁判、大変良く頑張りました。コロシアイなんて初めてだろう平成生まれのオマエラにしては、初々しくも醜い殺人ができたと思います。そこで、ね。これからも伸び伸びと健やかなる殺人をしてもらうために、グラブジャムンより甘いオマエラにご褒美を与えたいと思いますッ! ま、言うなれば達成報酬のようなものだよ、一つの学級裁判を乗り越えた、達成報酬」

 

 アーッハッハッハ、と、体育館中に広く響く三段笑いを見せたあと、モノクマは目の奥を怪しく光らせ、その達成報酬と称した新要素の内容をつぶさに語った。

 

「要はね、二階の開放だよ」

 

 二階。二次元的な今の状況に現れた縦軸の新たな三次元的概念の環境に、思わず息を飲んだ。

 私自身、シャッターが閉まった階段があるなと二階を意識してはいたのだけれど、それはそれで、閉まっているものなのだと──つまり、その上には見られて困るものがあるから閉ざしているのだと解釈していたものだから、だから、二階に行くことができるというのに内心驚いていた。

 

「RPGみたいで分かりやすいでしょ? 一つの学級裁判を終える度に、その都度一つづつ新しいエリアが解放される──学園内でのマンネリ化を防ぐっていうのもあるけど、僕は残酷なだけであって冷酷ではないからさ。どっかの財団とは逆なんだよ、逆。だからちゃあんと娯楽だったりリフレッシュする要素は与えるんだよ」

 

 残酷も冷酷も似たような言葉だとは思うが……どこにどう相違点があるにしろ、モノクマが私たちにコロシアイ生活を強要していることに違いはないし、既に犠牲者が三人出てしまっている事実も変わりない。

 彼らとは短い付き合いだったとはいえ──私はその事実に悔しさを感じずにはいられない。だが、その雪辱を晴らすことは、今の私には到底出来ない。

 

「うん、うん。とにかくだよ、新しいステージでバシバシ殺人のインスピレーションを燃やして欲しいんだ! 新しい環境は脳に良い影響を与えるって、ばっちゃが言ってたからね!」

 

 そう言って、モノクマは暗幕の奥へと消えて行った。

 

 新たな生活の場が増えるというのは喜ばしいことだったが……しかし、人が死んでしまっていることを考えると、素直に喜ぶことはできない。それでも悔しいことに好奇心というものはいつだって人の心に住み着いているもので、気分こそ落ち込み気味であるものの行ってみたいという思いはどうしても湧いてきてしまう……。

 体育館に残された私たちは逸る気持ちを抑えつつ、なるべく冷静な態度で話し合った。話し合うといってもいつもの通り「探索後、食堂で報告し合おう」といった約束が結ばれただけだったが。

 コロシアイ生活初日、みんなでこの施設内を探索したことを思い出さないでもなかったが(苗木は気絶していたけど)、あの時とは違って、少し手慣れた感じも生まれてきたような気がする。初めて施設を見回ったときと事件を捜査したとき、二度も探索という行動を行なったのだから、否が応でも慣れてしまうというのは当然といえば当然であるのだが……そのことが、私は怖くもあった。

 慣れとは、本来怖いものなのだ。

 友人曰く、コンタクトレンズを初めてつけるときは、眼球という人間にとっての急所にレンズという異物を取り付けるわけだから、そりゃ当然のように最初の頃は抵抗心があったのだという。コンタクトレンズを付けるのに鏡と睨めっこをし、痛みを覚えながらもなんとか両目にレンズを付けていたのだとその苦悩を聞いた。けれども今ではすっかり()()()、最初の頃と比べれば素早く取り付けが可能になったと言う──慣れというものは、体に備え付けられていない機能を持つ道具をたくさん使う現代社会において、もはや必須ともいえるスキルだ。慣れているからこそ自転車に乗ることができ、慣れているからこそ毎日のように仕事をこなすことができる。()()という必須スキルを身につけていないと、まともな生活はまず送れないことだろう。パソコンのタイピングはおろか、下手すれば交通手段すら使えない。

 生活に慣れるというのもまた大切なことだ。その点私は生活に慣れるということに過去、失敗しているのだが──けれども、このような異様な生活に慣れてしまうのは──大変危険だ。ゆくゆくはみんなから危機感が失われてしまうことだろう。

 疑心暗鬼のままの状態を良しとしているわけではない、かといって、みんな仲良くという幼稚園で習うような倫理を彼らに要求しているわけでもない……ただ、争いが起きなければ良いと思っているのだが、危機感という感情が心を占めているうちはともかく、そのうちそれに慣れてしまい、心に余裕が生まれたら──次に心を占めるのは、不満であったり怒りといった不平不満だろう。

 その矛先がモノクマにでなく、お互い味方であるべき人物に向けてしまうことこそが恐ろしい……。モノクマに刃向かうことが自滅に繋がるということを江ノ島の死で知ってしまった以上、そうなってしまうことはもはや必然的であると言える。

 訪れるべくして訪れる、決定的な未来だ。

 

 ……皮肉だが、人が死ぬということで恐怖心が高まったのは確かなことだ。いつもなら顔を合わせていただけで揉め事だって起きていただろうに、昨夜あのようなことがあったからだろうか、いつもあれこれ言い合っていたイメージがある十神や大和田、朝日奈なんかは今朝ばかりは言い争いをしていなかった。私は体育館に行くのが遅れていたため、それまでの間に喧嘩が勃発していた可能性もあるけれど、私が到着したときにはそういうピリピリした雰囲気ではなかったように思う。感情が表に出やすい大和田と朝日奈は、特に苛ついた様子もなく、不安そうな……または、いじけたような態度であったし。

 たまたま今朝、何も衝突することがなかっただけ──そう解釈することもできなくないが、それよりもずっと考えられるのは先述した恐怖による抑圧である。

 しかしそれすらも慣れてしまえば……また、殺人が起こりかねない。

 それで一時的に恐怖を与えられたとしても、それでも一時的……。麻薬と同じで、一時的な平穏しか訪れない。どんどん恐怖に対する抵抗力が生まれてしまう。こうなってしまえばそれはもはや慣れではなく、麻痺だろう。

 今はそのようなことになってはいないけど……けど、いずれそうなる。

 もう二度と殺人が起こさないなんていう戯言を言う口は、私にはついていない。

 殺人を起こさないのではなく──殺人が起きる前に、なんとかしなければ。

 そのなんとかができれば苦労しない。

 

「神原さん、一緒に探索しようよ。実は探索って今回が初めてで」

「ああ、別に構わないぞ。そういえば苗木は最初の探索のときは気絶していたからな、探索のいろはを教えてやろう」

「や、やけに自信たっぷりだね。もしかしてこの生活が始まる前にも、似たようなことしたりしたの?」

「まあ、似たようなことはな。物はよく探すんだ」

「忘れっぽいんだね」

「いや、別に物を失くしてるってわけじゃないんだ。ただ、本当によく探すだけで。ちょっとばかし部屋に荷物が多いものだから」

「? あんまり変わらない気がするんだけど」

「一緒に探索するんだろう? これは私の経験則だが、目は多い方が良い。今まで一人でどれだけ苦労してきたことか。爪切りなんて何度新しいものを買ったか覚えていない」

 

 ひとまず私は、電子生徒手帳のマップを確認した。一定のロード時間ののち、マップが更新されているのを認めて、どこから探索しようかと牧歌的な思考で考える。

 

「水連場に、図書室、か……朝日奈や、腐川なんかが喜びそうなラインナップだな」

「そうだね……はは、でもどうしてだろ、腐川サンが喜んでるところ、想像できないや」

「言われてみれば、うむ、確かに私も想像がつかない……一口に本といっても様々なジャンルがあるからな、あいつが好きなジャンルばかりというわけにもいかないだろうし──案外、朝日奈あたりが文学少女だったり」

「それはないんじゃないかな」

 

 やけに否定が早い苗木とそんなことを話しつつ、私たちは二階へと赴いた。二人共々、水連場と図書室のどちらにも強い興味を示さなかったため、先に階段から近い位置にある水連場へ行くことにした。


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