翌日の朝。
いつも通り通学用のママチャリを走らせて学園に登校した。今日は普段よりも冷え込んでいて、ほうっと息を吐けば、それはそのまま白い
こういうことをしていると、冬だなあと身に染みて感じる。
乗ってきた自転車は例の如く校内にある駐輪場に止めるため自転車に乗ったまま、ゆったりとした動きで駐輪場に入り込むと(真似しちゃダメだぜ。自転車は歩いて押そう)、T字路の突き当たりに
口元を覆いかぶせるようにして、およそ
しかし、一体全体どうしたのだろう。何かあったのだろうか──あんなところにいて。どうせなら購買でオニオンスープでも買ってきて差し入れたいところだけれども、彼女はお気に召してくれるだろうか。
なんて安直かつ呑気なことを考えながら、自転車の速度を落としつつ、彼女のいる方向へ自転車の車輪を回した。ただ単に自転車を停める場所がそちらなだけであるが──でも、こんな寒い日に外で一体何をしているんだろうと、彼女へ近付くごとに益々奇妙に思えた。
声をかけるべきだろうか。一応──昨日話したし、全く知らない仲というわけでもないのだから。そう思えば考えるより早いか、自転車を漕ぐ足を完全に止めた。空回りし
「よう、七海。おはよう」
「おはよう、阿良々木くん」
一旦自転車をいつもの場所に停め、七海がいるところへ行った。
まるで誰かを待っているかのように見受けられた彼女に話しかけるのはあまり得策ではないように思えたものの、しかし長いこと立ち話をするつもりはないから別に構わないかと思う。
気軽に、手を振って。
「七海、どうしたんだ? こんな朝っぱらから。誰か人でも、待っているのか?」
「いや──まあ、待ってたって言えば待ってたけど、私は丁度今この駐輪場に来たところだから、待っていたっていうのはちょっと違うかな」
「ふうん……」
「あ、それでね。羽川さんから聞いたよ」
「おんぶのことかっ?! 僕は何もやましいことなんてだな……」
「やましいこと? ……阿良々木くん、見事に墓穴を掘ってるよ」
呆れ顔で言われてしまった。
「まあその“やましい”とかいう話は、また後で聞くとして──」
出来ればその話はもう二度出して欲しくないものだが──叶うならば、未来永劫記憶から消していただきたいものでもある。
その後、彼女は申し訳なさそうにはにかみ、続けた。
「昨日は、お話の途中だったのに寝ちゃってごめんね。その上で部屋の方まで送ってもらっちゃったみたいで──謝罪しても、感謝しても、しきれないよ」
七海はそう言った。きっと覚えちゃいないだろうことを、羽川から聞いたであろうことに対し、そう言った。
ひょっとして、この事のためにこの駐輪場にいたのかもしれない。というのはあまりにもおかしな考えだと思えた。さすがに僕のためにそこまでしてくれるほど、七海も聖人君子ではないだろう。こんな寒い日の朝早くから駐輪場に立っているだなんて、物好きもいいところだろう。
しかしそれでも──こうも面と向かって礼を言われる機会がなかった僕からすれば、照れ恥ずかしい気持ちにはなった。でもそれと同時に、自分が弱くなってしまっているのではないかという一抹の不安の雲も心を覆った。
「いいよ別に、僕は気にしちゃいないさ」
と返す。
「いやでも、それでも本当にごめんね。今度何かしらの形で埋め合わせするよ」
「いや──」
そんなことしなくてもいい。
そう──言おうとは思ったんだけれども、すんでのところで思い悩む。この機会を逃せば、きっと七海とはもうこれまでだろう。
このまま関係を途切れさせて──僕は後悔しないだろうか。果たして何も思わないなんてことがあるだろうか。関係といってもほんの数時間話しただけだけれども、それでも──僕は少しだけ、ほんの少しだけ、関係性を失うことを惜しいと思えてしまった。
埋め合わせといっても所詮口約束なわけだし、もし後から考えて嫌になったらなら用事があるからまた今度とでもいって、流してやれば自然消滅する話だろう。だから──まだ、この繋がりはあってもいいかもしれない。ないがしろにできるのなら、反故にできるのならまだあっていいのかもしれない。
しかし、けれども、たとえなにがあろうとも。人間強度が下がるから友達は作らない──というその気持ちは今もなお揺るがない。揺るぐことはない。揺るがせるわけにはいかない。
友達はいらない。でも、七海はただの話し相手なわけだし、友達に発展してしまうというならそうなる前に関係を途切れさせればいいだけだろう。それは七海のためでもある──いや、所詮はただの自己防衛だろう。
「いや、埋め合わせなんて大それたことはしてもらわなくっていいさ。また今度、暇な時にでも話そう」
「……うん。そうだね」
その柔らかい笑顔に、心のわだかまりが解かされそうだった。
なるほど、彼女に人望がある理由が今なんとなくわかった気がする。今なら心から言えるが、心の中で思ってるだけだからとはいえ良い子ぶってる奴みたいな評価を彼女に与えていたことについて自分がいかに酷い人間か思い知らされたと思うし、申し訳がないとも思う。
「ん、それじゃ」
「それじゃもなにも、あとから教室で会うんだけど」
別れ際に軽く手を振り、渡り廊下へと入る。
僕はお弁当を作ってこないので、基本購買部か食堂で済ませるのだけれども、今日は購買部のパンの気分だなと思いラインナップを見に行くため足を動かす。毎日品揃えが変わっているので当たり外れが激しいが、大抵自分の好みのパンはお昼休みにのんびりとした気持ちで購買に向かうといつも売り切れている。
ま──人気だと朝のうちから無くなることも多いらしいし、きっともうそれに関しては手遅れの段階だけれど、昼に行くよりは今から行った方が格段にいいだろう。ほんの少しだけの可能性だが、残ってるかもしれないし。
ちなみに購買人気ランキングというものがあり、三位が先輩である元超高校級のパン職人が作ったメロンパン、二位がこれまた先輩である元超高校級の酪農家が絞った牛乳で作られたパックのコーヒー牛乳。そして堂々の一位だが、それは予想してみて欲しい。
まだ少し残る眠気を取り払うようにして大きな欠伸をしながら、玄関ホールから校舎へ入り、同じ校舎内にある購買部へと向かった。
やはり廊下というのは異常なほどに寒さが
購買部にはどこか見覚えのある髪型をした後ろ姿があった。知り合いじゃないんだけれども──むむ、どこで見たんだっけ。なぜ記憶に残っているんだ。というか、こんな奇抜でギャルみたいな髪型髪色したやつが知り合いなら、僕は一体どんな顔をしてそいつと話していたのだろうか。分からない。
思い出せそうで思い出せない。まるでクシャミが出そうで出ないような状況と酷似したなかなか気分が悪くなってしまう場面に出くわし悪循環に陥りながらも、なんとか思い出そうと口から声を漏らし必死こいて記憶を探るが、ヒットするものは一つとしてなかった。
本当に、モヤモヤとする。
顔を見たら分かるかもしれない──と、ただひたすらひたむきに購買のパンを見つめている奇抜な髪型の女子の顔を拝まんと、チラリ覗き込む。──否、覗き込もうとした。
前屈姿勢を取ろうとした僕に対し、その女子は気配に察したのか──はたまた、ただの偶然なのか。ともかくこちらを振り返った。
「──なあんだ、阿良々木セーンパーイじゃん」
パンを握る手元の爪は赤いネイルがべったりと塗られており、ラメというものだろうか──顔全体やら髪やらが少しキラキラと輝いていた。髪は日本人とは思えないほどの金髪で──アバンギャルドなギャルといった化粧を施した顔でニンマリと笑顔を作り、朝とは思えないようなほどのテンションの高い声で、僕の名前を言う。
なんだ? ここはどこだ? そして誰だこの子? 全くもって記憶にない。
僕の記憶の中にはこんなアバンギャルドで
しかしなんだ。顔を見なければとそちらに注意を寄せ、そしてその結果メイクに目を取られていて他を見ていなかったが──少し落ち着いた今、彼女の服装を改めて見てみると、胸元が大きく開いてるし、スカート短いし、胸元が大きく開いてるし……。一年生には、あの羽川以上に(別に知り合いでもないから羽川に関しても詳しくはないけれど)風紀に厳しく規律正しい、まさしく校則をそのまま擬人化したようなちょっとやりすぎの超高校級の風紀委員がいるとかいないとか聞くが、これほどまでに風紀に多大なダメージを与えそうなギャルが、校内に野放しにされているのか……?
よくよく見てみれば、右手にチョコマヨネーズパンと左手には黄色い包装紙に【シュールストレミング入り《要注意!!》】と赤い血文字で書かれたパンらしきものを持っている。後者はかなり危険な感じがほとばしる感じがしたので、本当にそれが存在しないということを願う。
顔を覗き込もうと思っていた矢先に振り向かれた際、
「えー、あー……」
僕のあまりのテンパりようにビックリしたのだろうか。アバンギャルドなギャルの後輩(仮)は苦笑いを浮かべていた。しかしすぐさま表情を改め、テンパる僕に対し彼女の方から話しかけてきた。
「えーっと、阿良々木センパイですよねー? いやあ、この漂うようなぼっち感。阿良々木センパイ以外ありえないわ」
「初対面からぼっちとか言うな……」
「でも、友達いないじゃないですかー」
「ぐっ……そうだが、そうだけれどもだな──」
そうだけれども──
──ダメだ。反論出来ない。
確かに僕は、名前も知らないこのギャルの言う通り、友達のいないひとりぼっちなのだ。
一人じゃなくて、独り。
それは揺るぎない事実であり──まあ、揺らいで欲しいわけじゃないんだけど。
「──僕は、友達が出来ないんじゃないよ。自分からひとりぼっちの道を歩んでいるんだ」
「自分から──ねえ」
僕は未だに名前も知らないような後輩を相手に何を話しているのだろうと、ようやく動揺から立ち直り正気を取り戻すが、語るなら最後まで──だ。毒を食らわば皿まで。皿を食らわば膳まで。膳を食らわら人まで。中途半端に打ち切られる物語ほど面白くないものはない。
「友達を作ると、人間強度が下がるからさ。僕は自ら進んで独りであり続けるんだよ」
「…………」
かなり勇気を出して言った本音を聞いた彼女は目を丸にし、挙げ句の果てには、
「……ぷ、うぷぷっ」
と、どう考えても人間の出さないような笑い方をした。えっ! 笑われてるっ?! 後輩にっ?!
「い、いっやあ。絶望的に痛い発言だわ」
名前がわからないので、通称ギャルはわざとらしく腹を抱えながら、僕を指差し笑う。
「わ、笑うなっ。結構真面目に話してるんだぜ?」
「笑うなだなんて、それはいささか難しい注文ですよ。だって、絶望的に痛いんですから」
急に冷静になったギャルは、どこから取り出したか分からない黒縁メガネを装着。書類を入れるファイルを脇に挟み、伸び縮みできる金属製の指示棒という小道具を持ってあの髪を後ろでまとめていた。からの眼鏡クイッ。
早っ。
「……ともかく、誰だ? 君は、見ない顔だけどさ」
そもそも後輩先輩、同級生と関わり合いのない僕が見る顔だなんてそれこそ廊下ですれ違ったり帰り道の駐輪場で鉢合わせる──いや、そういう機会があったとしても、人との出会いにあまり気に留めていないから覚えてないかもしれないけど、なにしろ芸能界には疎い僕だ、超高校級の生徒というのは芸能人も漏れなく含まれるのだが、たとえ彼女がそう言った類の人種であろうとも、ネットもあまり使わない僕は知りっこない。
だから、もし彼女がなにかしらの有名人だとするなら下手すれば名前すら聞いたことがないという気まずい空気を生みかねないので、なんとかマイナーな才能が出てこないものかと願う。
「……もしかして、センパイ。私のこと知らない感じですか?」
「……」
頷く。
「私様のことを知らないだとっ!!」
テンション高いな。朝だっていうのに。もしかして徹夜してきたんじゃないか……?
異様に元気なギャルは、
「私が知ってるのに相手が知らないなんて、えっ。一方的に知っているだけだなんて、えっ。……絶望的ぃ」
と喚いていた。
「……はあ、残念なお姉ちゃん並みに、いやそれ以上に残念そうな残念な先輩のために、手取り足取り
「籠絡は余計だっ」
「じゃあ、手取り足取りで」
「……普通に教えてくれ」
「それが人に頼む態度ってものなのか? アアンッ!?」
……このギャル、情緒不安定の可能性があるぞ。もしくは二重人格者。私生活に支障が出かねないレベルだ。……まあ、それでも上手くやってるのかもしれないが。
変な奴に絡まれ、(絡みに行ったと捉えることも出来る)不安感を嫌なことに1日の初めである朝から感じつつ、これ以上何か言うと一向にギャルの名前が知れなさそうなので、僕は口を
「……んー、ちょっとやりすぎちゃったか? 私様には関係のないことだけど──そう、私は超高校級のギャル。
「…………」
やっべ、知らない。
自己紹介の際に、見事キメ顔を決めたギャル──もとい、江ノ島に、あからさまで露骨すぎる“知らない”といった感情を持って、そのままの表情を向ける。
しかし──本当に、聞いたことがない。
江ノ島盾子。
……でも、どこかで見たことがあるような気がしなくもない──そんな、中途半端な記憶。まあ、人の記憶なんてこんなものか。でもまあ、髪型に見覚えがあるのだから、どこかで見たのは間違いないのだろう。
名前を聞いても顔を正面から見ても声を聞いても会話を聞いても、超高校級のギャルという肩書きを持つ江ノ島盾子のことは、
よくデジャブとかがあるが──そう言う類だろうか? 昔見たことがあると錯覚すると言うやつ。ああ、そうだな。きっとそうだ……いい加減な記憶だ。まったく。
「……え、うそ? 本当に知らない感じ? 冗談にしては質が悪すぎじゃない?」
「……すまないがな、江ノ島。僕は知らないよ。芸能関係にはとことん疎いんだ」
「……まあ、この希望ヶ峰学園にいる人ってさ、それなりに個性が強かったりするけど──センパイはあれですね。《宝クジで一等当選、ただし当選者は原始人》みたいなっ!」
「誰が原始人だっ!」
「でも、テレビ無いし携帯電話もうまく使いこなせないんですよね?」
ぐぅ。な、なんでそれを。
「なんでも、通話とメールしか使わないだとか」
「確かにそうだが、でも、原始人っていうのはちょっと傷付くぜ?」
「傷付いているように思えないんですけど」
「傷付いてる傷付いてる。すごく傷付いていて今にも泣きそうだよ」
「え、泣くんですか? カメラで録画してSNSにあげよっ。拡散拡散」
声を大にしてやめろと言ったし、実際頭を叩く勢いでやめろと言いにかかり腕も振り上げたが、頭頂部を的確に狙った僕の平手は空を切るだけだった。ギャルといえども身体能力は悪く無いらしく、僕の平手を身を逸らして避けた後そのままバネのように足を伸ばして後ろに飛び退き、それからその勢いを殺さずに女子らしからぬ笑い声をあげながらかなり早いスピードで廊下を走っていった。
廊下を走ってはいけないという、下手したら憲法より有名なんじゃないかと思えるほどの校則がこの学校にもあるということを知らないのではないだろうか。
何はともあれ、これが超高校級のギャルである江ノ島盾子との出会いであった。
次の日の朝になったら忘れるような──購買部に行けば思い出す程度の記憶。
そんな──変哲のあるただの出会いだった。