阿良々木暦は望まない   作:鹿手袋こはぜ

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連投のため、本日3話目です。
まだ一つ目、二つ目を読んでない方は、ちあきトラップ15、16をお先にお読みください。
ちなみに、お察しの方もいらっしゃるかもですが、後日談を除けば最終話です。


017

 僕はあの映像の舞台となっていた教室に、見覚えがあった。七海の後ろに写っていた黒板──それに、妙な落書きがあったからだ。

 確かあれは、ある日に江ノ島が悪ふざけで書いていたものと同じものだ。とある四字熟語をもじったものだから、誰かが真似して書いたりしない限りはきっとあの教室のものだろう。まだあれが残っていただなんて思わなかったが──しかし、こうして役に立つと思うと、落書きとは言え一概には案外侮れないものである。

 

 走りながらも、僕は七海に電話をかける──しかし、やはり出ない。そして、江ノ島、戦刃、日向にも電話をかけたが、一向に通じることはなかった。

 

 ともかく、僕は朧げな記憶を辿りに、おおよその階へと到着した。その後はただひたすら教室の扉を開けては閉め、開けては閉めの繰り返しである。

 

 そのうちすぐに見つかると思っていたが、なかなかどうして、七海のいる教室は見つからなかった。違う階だったんじゃないかと記憶を疑う頃、ようやく、七海を姿を発見することができた──しかしそれは、とてもとても──無惨な姿だった。

 

 七海以外の姿は見当たらず、ホームビデオは部屋に打ち捨てられていた。

 

「七海!」

 

 僕は急いで駆け寄り、意識はまだあるのか、傷の具合はどうなのかを急いで確認した。傷はとても深いようで、首元に付けられた切り傷から、血は今もなお、どくどく勢いを止めることなく流れ出ている。

 動脈は傷ついてないらしい──その辺り、カムクライズルが計算してやったことなのか、それともただの偶然なのかは不明である。しかしそれでも、危険な状態には変わりないだろうということは明らかである。

 ガムテープやら手錠なんかは外されていたが──単純にもう動けないと判断してのことだろう。助かることはないと、彼女たちは判断したのだろう。しかしあいつらにも知らないことはある。

 ともかく、何も知らない僕でも、この傷が、この流血具合が非常にマズイっていうことくらい、すぐに分かった。どうするべきか──ふと閃いたことが、一つだけあった。

 

「忍! 助けてくれ、緊急事態だ! 七海が、七海が死にそうなんだ!」

 

 僕は自分の影に向かって、声を張り上げた。いくら眠っているからとはいえ、僕の声は届いているはずだ。不死身の吸血鬼──圧倒的な治癒能力を保持していた、伝説の吸血鬼の成れの果てである忍野忍の血液は、今もなお、傷を塞ぐ程度の治癒性を持っている。僕の血液も少しは治癒力はあるだろうが、しかしそれでも忍と比べれば劣るものだ。

 僕はそれしか方法がないと考え、忍を呼んだ。すると忍は案外すんなりと出て来た。しかし、急ぐ様子は見られなかった。

 

「見ての通り、七海が大変なんだ! だから──」

「血か? この小娘のために、儂の血を分け与えよと」

「──あ、ああ。そうだ。分かってるなら話は早い。ドーナツならいくらでもやるから、早く──」

「嫌じゃ」

 

 忍はそう答え、影に戻るわけでもなく、かといって七海に近づくわけでもなく、教室の隅の方へと行き、いじけたようにして三角座りで腰を下ろす。

 

「な、なんでだ? なんで、嫌なんだ……? ドーナツが足りないなら、本当に、いくらでも出す。店ごとでも──それこそ、一生をかけてでも、お前にドーナツを──」

「ドーナツを積まれても、儂は助けたりなどせぬ。その娘は今死ぬべき存在じゃ。怪異の力などを使って死を免れたとて、その小娘に未来があると思うか? 怪異に出遭えば、怪異に出遭いやすくなる──それは、うぬ自身が体験したことじゃろう。のう、我が主人よ」

 

 その娘に、一生残る(とが)を負わせるつもりか?

 

 忍は、呆れてものも言えないといった表情で、そう言った。

 言いたいことは山ほどあったが、しかし、こうなってしまえば忍はなにもしてくれないだろう──くそう、僕が一人で、どうにかするしかないのか……?

 

 僕は、未だ意識の戻らない七海の肩を揺らす。ただ、強く、揺らした。……すると、薄っすらと、七海は目を開いた。

 まだ意識はあるのだと、僕の心に希望の光が差し込んだ。

 

「──な、七海! 待ってろ、喋るんじゃないぜ。今僕が傷を塞いでやるから」

 

 僕はそう言って、自分のポケットをまさぐった。中にはボールペンが入っており、それを急いで取り出せば、強く強く握った。

 

「うぬの血液で、その小娘の血液を塞ごうというのか……無駄なことを。血を最後に吸ったのはいつかのう……直後ならともかく、今のうぬは、もはやただの人間と同じ」

 

 後ろで忍がそう、呟くようにして言った。

 しかし、そんなの構いっこない。

 

 僕だって、それくらい、分かってはいた。

 

 ただ、少しでも──ほんの少しだけ、治癒力はあるのだ。ちょっとでも七海の傷が癒えるなら、苦しみが消えるなら──それでよかった。

 僕はボールペンのペン先を出し、自分の左腕の袖をまくる。露出した肌をまじまじと見つめる。今からペン先で抉るように傷をつけると思うと、手が震えた。

 しかし、最悪僕は腕だけで済むが、七海は命がかかっているのだ。こんなことで震えてどうすると、自分を鼓舞した。

 再度気合いを入れ、僕はボールペンを握る拳を振りかざす。すると、

 

「……やめてよ、あららぎくん」

 

 今にも消えてしまいそうな小さな声で、七海は言った。

 僕の意思は、とても弱く、ボールペンを止めてしまった。

 

「……大丈夫だよ、七海。安心しろ。僕に任せとけ」

 

 僕は、出来るだけ優しい声を出して、七海に言った。

 でも七海は、僕の期待通りに黙っていてくれちゃいなかった。

 

「どうせまた、私のために……傷つくんでしょ? もう、目も、見えなくなっちゃって、あららぎくんの顔も……見えない、けど……分かるよ? 私。……あららぎくんは、困ってるひとがいたら、誰だって、自分をないがしろにしてまで……助けちゃうもんね」

 

 七海は、微笑むようにしてそう言った。

 目元に大粒の涙を溜め、僕のすることを制止しようと震える手を空中で動かしながら、微笑むのだった。

 

「……助けてなんかない、僕は、恩返しをしてるだけだ……っ」

 

 そう言って、僕は自分の腕にボールペンを突き刺した。

 鋭い痛みが腕を襲う。筋肉が強張るような感情を味わい、一瞬手を止めるが、しかしもう後戻りはできないと、強く皮膚を引き裂いた。

 鮮血が飛び散り、血飛沫が七海に振りかかる。左腕は見るも無残に一つの赤い線が走っており、なみなみと血液が流れ出る。僕はそれを七海の傷口にかけるように、腕を傾ける。七海の首元に深く深く付けられた、傷口にだ。

 少し動かすだけで、痛い。血管が脈動するだけで、痛みが生じるほどであった。

 七海が見えないと言っていたことをいいことに、僕は苦悶の表情を浮かべていた。しかしこれを悟られてはいけないと、声だけはなんとか優しくあろうと、努力に勤めた。

 

 すると、廊下の方から誰かが走ってくる音がした。

 この姿を見られてしまってはマズイと思ったが──時既に遅し。その足音の正体は、老倉育であった。

 

「──なっ、なにをしてっ。阿良々木! お前、ついに気が狂ったか!」

「違う! これには訳があるんだ! ……ただ、お前には教えられない、けど! それはお前のことを考えて──」

「知らない! お前の事情なんて、知ったことか! 説明して、この状況を、全部説明して、その腕を早く止血して! じゃないと──下手すれば、お前が死ぬ!」

 

 老倉はこちらに駆け寄ろうとするが、僕が大きな声でそれを制止する。やめろ、と。

 

「僕が死ぬなら、お前にとって満足じゃねえか! 老倉! お前は僕のことが大っ嫌いなんだろう? それこそ、親の仇みたいにさっ。だからほっといてくれよ!」

 

 僕はきっと、この時凄い剣幕で老倉に怒号を飛ばしていたのだろう。老倉は圧倒されてか、少し後ずさりをし、扉に背をぶつけた。

 

「あららぎ、くん。大きな声だしちゃ……おいくらさんが、かわいそうだよ。仲よく、しなきゃ……」

 

 七海は、とても力のない声で言うのだ。あくまでこいつは、自分が死ぬ間際であろうとも──自分の生死を考えず、僕らのことを考えるのだ。

 

 改めて、七海の優しさを──度が過ぎた優しさを感じた。

 

「元々仲が悪いんだ……どうってことはない。それより、どうだ? ちょっとは気分がマシになったか?」

 

 僕は半ば焦り気味に言う。なぜなら、七海の傷は徐々に塞がってきているとはいえ、意識が確かなものにならないからだ。自分の腕の傷の痛みもあり、僕はもう既にまともな判断ができていなかった。

 

 七海はゆっくりと、そして小さく、こくりと頷く。

 僕はなぜか──安堵した。

 

 傷口が消えることはなかったが、それでも徐々に、出血は収まっていく。傷口も──元の大きさの半分以下となっていた。元々切り傷だし、くっつけるような感覚だったのだ。

 

「もう、だいじょうぶ……あららぎくん、なにか、自分を傷つけるようなこと、したんでしょ? 私はもう、大丈夫だから、治しなよ……」

 

 七海は、微睡んでいるかのような目で、僕を見て、言った。

 そして、力のない手で、僕の手をそっと触ってきた。

 

「……あ、ああ。分かった。でも僕は自分を傷つけちゃいないさ。少し老倉と話をしてくる」

 

 僕は、自分の手を触った七海に返すように、そっと、頭を撫でてやった。僕なんかと比べて、とても、柔らかい髪だった。

 七海は再度微笑んだ。斜陽に照らされ、紅く染まったその顔は、とても脳に焼き付いた。僕はそれを見てから、未だに出血が止まらない腕を隠すことなく、老倉の元へと向かった。もはや隠す意味もないだろう。

 

「……なに?」

 

 老倉は、僕のことを指すように、鋭い目線を向けてくる。

 僕は、さっき怒鳴ったせいで少し怒らせてしまったかと、下手に出てしまう。

 

「……さっきのことは、悪かったよ……僕は僕で、少し切羽詰まってたんだ……本当に、悪かった……」

「……知らない。謝らないで。私は、ますます、お前のことが、嫌いになった」

「……ああ、当然のことだ」

 

 老倉は、僕のことを決して見ようとはしなかった。

 僕はしばらく老倉の前から動けなかったが、やがて忍のところに行き、突然無理を言ってすまなかったと、謝罪の言葉を述べた。

 

「……我が主人よ、その小娘を儂が助けなかったことについては詫びをする。しかし、今後一切、儂は誰かを助けることはせん。たとえそれがうぬの命の恩人であれ──家族であれ──誰でもじゃ」

 

 そう言えば、忍はおもむろに僕の元へと寄り、そして首元へ口を運べば、牙を刺し、血を吸った。

 傷口こそ消えなかったが、僕の腕からの出血は無くなった。そして、まるでプラモデルのように忍は己の腕をもぎ、噴水のように溢れ出る鮮血を、僕の左腕へ浴びせるのだ。

 

「儂のことを──許してくれ。しかし、超えてはいけぬ一線というものが存在する。儂は、うぬのためを思って──それを守りたいのじゃよ」

 

 忍はそう言いながら腕を取り付け、僕の影へと消えていった。とても悲しい、表情をしていた。

 この非常に奇妙な状況に、老倉が口を出すことはなかった。ただ黙って、じっと、見ているだけだった。

 

 今更ながらに、体に疲労が押し寄せてきた。しかしそれでもまだ仕事は残っている。七海は完治したわけではないのだから、これから病院に運ばなければならない。僕は七海の様子を見ようと、疲れ切った筋肉を動かして、振り返る。

 

「──なあ、七海」

 

 まるで、眠っているようだった。

 しかし、一目で分かるほど、七海からは何かが抜けていた。

 脱力しきった手足は放り投げられていて、身体中から生気が見て取れない。

 眠っているだけ──と言われても、僕には直感的にソレを感じることができた。そして老倉も、ソレは感じているようであった。振り返る途中に見た老倉の表情は、とても暗かったからだ。

 

 七海は死んでいる。

 もう既に、死んでしまっている。

 

 僕の心は、絶望色に染まった。




本日0時にちあきトラップ018を投稿予定です。そちらもご覧になってください。

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