阿良々木暦は望まない   作:鹿手袋こはぜ

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 地獄のような春休みが過ぎ、悪夢のようなゴールデンウィークすらも遠い昔の思い出かのように思えてきてしまう夏休み。僕は学園に敷設されている、国立図書館のように大きな図書室の一角にて受験勉強をしていた、外は唸るような蝉の鳴き声が輪唱を続けているが、図書室はそんなことを忘れさせてしまうほどに静かであった。

 僕ももう高校三年生である、今まで嫌よ嫌よと目を逸らし続けていた大学受験が間近に控えているのだ、半年前までは僕が大学に通うだなんて思いにも寄らなかったし、それ以前になにかしらの職に就いているという未来予想図すらも思い浮かんでいなかったのだけれども、今は明確に目標を立てているわけだから、五里霧中という言葉がお似合いであった先の見えない未来は、少しづつではあるものの確固たる輪郭を持ち始めていた。

 まあ受験に失敗してしまうと意味ないんだけど。

 

 ともかく、クーラーが効いていてとても心地が良いこの図書室で、僕は同級生である戦場ヶ原(センジョウガハラ)ひたぎに勉強を教えてもらっていた。苦手科目から得意科目までなんでもござれ、学年トップクラスの成績を誇る戦場ヶ原に教えてもらえるというのは、なかなかどうして僕みたいな底辺からすれば有難い話だ。勉強のできるやつが教えることも上手いとは限らないのだが、今回の場合に関してさえ言えば、戦場ヶ原は人にものを教えるのが上手い人間だ。さすが超高校級、いや、こいつは頭を使うような才能じゃないか。

 

 僕の家でもいいんじゃないかと最初は提案していたのだけれども、「彼氏でもない人の家に上がるのは抵抗があるし、何より阿良々木くんの部屋って狭いじゃない。聞いてるわよ、なんでも三畳半だとか」と言われ、それはキッパリと丁重にお断りされてしまった。

 

 確かに僕の部屋は狭い、狭いけれども──んん、言葉が出てこないな。ぐうの音も出ない。

 

 まるでどこかのジブリ映画かのようにフワリ空から降ってきて──体重が()()()()彼女も、毒にまみれ毒をもって毒を制した挙句どこぞのスタンドのように自分の毒の獰猛性ゆえに己の毒と毒が殺しあった結果、毒が消えてしまったという戦場ヶ原ひたぎは、今こうして僕の目の前に座っている、そこにいる。

 昔は深窓の令嬢とまで呼ばれた高嶺の花であり、また、線が細く今にも消えてしまいそうな儚さをまとっていた彼女は──戦場ヶ原は、今、僕の目の前にしっかりと存在している。

 彼女に対しては思うところがあるものの、しかし、そこにいるという事実が──そこにいるのだという実感が──そんな、日常にありふれている気にも留めない現実がそこにはあるというだけで、それだけで良いのかもしれない──そう思える時がある。

 

「──阿良々木くん。阿良々木くん?」

「……ああ悪い。聞いてなかった、なんの話だっけ」

 

 うつらうつらと首を揺らし、まぶたがとても重くやっとこさ開いているといった状態であった僕は、到底勉強ができるような状態ではなかった。戦場ヶ原はやれやれと首を横に振り、「今日はもう無理そうね。頭の悪い阿良々木くんにしてはよく頑張った方よ」と言って、長机の上に広げてあった教材を閉じる。

 今はもうホッチキスもカッターナイフも持たなくていい空っぽの両手を組み、高々と己の頭上に持って来ては大きく伸びをした。

 僕も同じように伸びをした。

 

 深い息を吐く、特に意味はない。

 

 目覚めからは程遠いが、しかし意識はこちらへと引き戻された。何か言おうと口を開くが、話の前後がよくわかっていないからだろうか、そうすんなりと言葉が出てこない、そんな様子を見かねてか、戦場ヶ原が言葉を口にした。

 

「最近どう?」

「どうって……なにが?」

「七海さんのことよ。それ以外に何があるっていうの、あなたの体調でも気にしてると思った? ……最近、どうなのよ、上手くいってる?」

「ん、七海か? あいつとは──まあ、上手くいってるんじゃないかな。僕としては珍しく、ちゃんと友達してる」

「ふうん」

 

 戦場ヶ原はどこか不満げだ。何か──こう、僕を疑っているような目で見つめてくる。そして意地悪な口調でこう言った。

 

「私のこと振ったくせして、友達が関の山とは……いったい私は、こんな男のどこを好きになったんでしょうね、死ねば良いのに」

「それは、今でも悪いと思ってる……。それより、だからといって死ねは酷いぜ? 死ねは」

「私自身に言ったのよ」

 

 どこかを見ながら、戦場ヶ原はそう言った。

 

「というか、別に阿良々木くんに対して言ったって良いじゃなあい? 所詮阿良々木くんなんだし。阿良々木、死ね」

 

 前言撤回、毒はまだ残っている。

 

 戦場ヶ原はため息をつきながら席を立ち、そしてそのまま図書室の出口に向かおうとする。その背に追いつこうと僕も急いで教材やら筆記用具やらを学生鞄に突っ込み、彼女の方へと駆けていく。図書室という場所は静かにしないといけないため、走ることなんていうのはもちろん厳禁なのだけれども、今は人っ子一人いないため対して問題はないだろう。

 部屋を出るギリギリのところで彼女の隣に並ぶことが出来て、今度は僕の方から口を開く。

 

「お前こそ上手くいってるのか? 神原(カンバル)のやつと」

「あの子は、まあ。今も昔もこれからも、私の従順な後輩だもの。上手くいくもなにもいつも通りよ、正常運転」

「そうかそうか、そりゃ良かった」

 

 神原駿河(カンバルスルガ)、彼女もまた、怪異に関わってしまった人間だ。左手に悪魔を宿すといういかにも中二病みたいな設定であるが、表向きではバスケットの練習中による事故で故障してしまったということになっている左手に巻かれた包帯の下には──その左手の形を隠すように巻かれたその包帯の下には──猿の手がある。女子高生の体躯に似つかわしくない猿の手が──。

 

 神原は後輩であるが、先の話に出て来た七海というのは僕の同級生である。

 七海千秋。

 怪異との関わり合いは全く無い、純粋無垢な人間で、純度百パーセントのただの人だ。その経歴に怪異なんて言葉が刻まれることは決してなく、いつだってそれら魑魅魍魎の類とは異なる道を違った方向に進み続けている。やはり綺麗な心を持つ人間に、怪異という非日常的であり日常に溶け込んでいる異形の存在はは近付かないのかもしれない、あまりにも綺麗な水の中では魚は生きることが困難であるように。僕のように捻くれたやつは、背筋が凍るほど綺麗な吸血鬼に恥ずかしながらも田舎街で襲われ、戦場ヶ原は家庭の事情があったがゆえに蟹に体重をかっさらわれて──ともかく、怪異に関わってきた人間には必ず心に深い何かが、赤の他人がおいそれと触れてしまってはいけない何かがあるのだが、きっとそのようなものを七海は保持していないのだろう。

 

 廊下に出たそのすぐそばに、僕の後輩である江ノ島盾子の姿があった。図書室にはいくつか出入口があるし、この扉から出たのは偶然のことなので、ここで鉢合わせたというのはまさに運命的なことだろう。偶然も偶然、きっと彼女は図書室に用でもあったのだろうけれども、待ってましたと言わんばかりの顔で江ノ島は言葉を発する。

 

「お、阿良々木センパイ。奇遇だね」

「先輩には敬語を使え、江ノ島」

「へぇい」

 

 江ノ島はどこか落ち着きがなく、キョロキョロと僕の後ろの方を見ている。なにがあるのだろうとふと気になり後ろを振り返ってみると、真顔で戦場ヶ原が棒立ちしていた。怖っ、ガハラさん怖っ。ひょっとして何か因縁めいたものがこの二人の間に存在しているのだろうか……? そういった噂は聞いたことがなかったが……いや、戦場ヶ原とて、いくら神原という後輩との繋がりがあるといっても七十八期生全員とは知り合いなわけじゃないし、僕とて関わり合いがあるのは片手の指で足りるほどなのだから、ただ単純に江ノ島とは初対面であるということなのかもしれなかった。

 それにしたって怖い表情だけれども、元々こいつは危なくって怖いやつだったから、あんまり意外とは思わない。

 

 何はともあれ、この場合は戦場ヶ原に江ノ島を、江ノ島に戦場ヶ原を紹介するのが良いだろうと思い、僕は一歩右側に逸れて仲介役に勤めようと考えた。

 

「戦場ヶ原、こいつは一つ下の学年である七十八期生の後輩、超高校級のギャルである江ノ島盾子だ」

「ご存知あげてるわ、よろしく、江ノ島さん」

「ほーら、阿良々木センパイ。知らない方がおかしいんだよー。よろしく、戦場ヶ原センパイ!」

「知ってるなら戦場ヶ原の紹介はいいか」

 

 キャルルンという効果音が出そうなほどにぶりっ子を演じている江ノ島を冷ややかな目線で見つめる戦場ヶ原……一触即発ありそうな雰囲気であると流石の僕でも察することが出来たので、江ノ島に軽く手を振って適当にあしらってから、戦場ヶ原の背後に回り肩を押して寄宿舎の方に向かおうとする。その間戦場ヶ原はずっと江ノ島の方をまばたき一つせずにガン見していた。それを見て背筋がブルリと震えたが、ともかくこの二人は遠ざけようと奮闘する。しかし、江ノ島の方から満面の笑みで近寄って来た。

 

「阿良々木セーンパーイ。ちょっと話があるんですけど、いいですかね」

「あ、ああ。僕は別に構わないが……」

「…………、はあ、私はもう帰るから、阿良々木くんは後輩ちゃんとお話になりなさいな。じゃ、また明日」

 

 ひらり、と、戦場ヶ原は手を振ってそのまま寄宿舎の個室へと帰っていった。追いかけようかと迷ったものの、しかしどうしても僕はたったの一歩を踏み出すことができなかった。

 

「…………、話ってなんだ? 江ノ島」

 

 江ノ島の方へと向き直り、面倒くさいという雰囲気を醸し出しつつ学生鞄をひっさげている手を肩にかけ訊いた。すると、満面の笑みを浮かべて江ノ島は話し始めた。

 

「えっと、ほら、私ってお姉ちゃんいるじゃん」

「初耳なんだけど」

「えー、話してませんでしたっけ? 残念なお姉ちゃんっていつも言ってた気がするんですけど」

「そうだっけか?」

「そうですよ、残念なお姉ちゃんなんです。略して残姉」

 

 やたら落ち込んだ雰囲気で、江ノ島は言った。

 

「で、確か阿良々木センパイって、妹さんいましたよね?」

「ああ、確かに僕には無粋な妹がいるよ、まったく、可愛げのない奴だが──僕の妹と君の姉が、関係あるのか?」

「まーそこらへんは知らないんだけど、詳しくはお姉ちゃんから聞いて」

 

 適当な返事だなあと不満に思いながら、分かった。とそれを承諾した。なに、かわいい後輩の頼みだ、僕に出来ることならなんでもしてやろうじゃないか。成り行きではあるが、連絡用にと江ノ島の姉のメールアドレスと携帯番号を僕は入手することとなった。名前の欄には『戦刃むくろ』とある。名字が違うところを見ると──かなり、複雑な家庭環境なのかもしれない。あまりそこには触れないようにして、僕は江ノ島と別れるのだった。

 

 家に帰り少ししたくらいに、一通のメールが届いた。

 江ノ島の姉からのメールだろうかと思い少し緊張しながらメールボックスを開けると、それは意外なことに戦場ヶ原からのメールだった。……僕は今日のことを咎められでもするのだろうか、確かに、少し対応が悪かったとは思うが……、今度はまた違う意味で緊張し、そして手が震えるものの勇気を振り絞りメールを開く。内容はこうだ。

 

『阿良々木くんへ

『あの、江ノ島盾子っていう子。あまり関わらない方がいいわよ。

『嫌な予感というか……変な感じというか、上手く言えないんだけど、会っていい気分がしなかった』

 

 おいおい、もしかして嫉妬しているのか?

 

 なんてお気楽に考えては、適当におやすみだなんてメールを返した。


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