希望ヶ峰学園予備学科棟近くにある路地裏──
──それは、場所の指定をする言葉としてはあまりにも曖昧なものであり、そしてなんとも粗雑で大雑把なものである。言うなれば、この地球上で月が見えるところ……というのはいささか規模が大きすぎるかもしれないが、今のでなんとなく伝わっただろうか? 希望ヶ峰学園の近く──と言っても、その概念は手の届く場所であると言う人もいれば足で歩いて行ける場所と言う人まで多様に存在している。人は一人ひとり違った、常識という名の偏見を持っているわけであり、つまりは近くといっても一概に語れないわけで。人によって近くという言葉の意味は変わってくるというわけだ。なにより、路地裏とて、たった一つしかないというわけじゃないのだ。そんな中から七海と日向がいる一つの路地裏を見つけ出すと言うのは、ここいらの地形にあまり詳しくない僕にとって、かなり困りものであった。
実際、探してる途中には初めて見る場所がいくつかあった。迷うことこそなかったものの、しかし気の迷いは心に存在していた。
早くしなければという焦りの気持ちを抑え、高鳴る鼓動を体で感じ、胸の内で確実に大きくなって行く不安を噛みしめる。
自転車を全力で漕ぎ、時には信号も無視して希望ヶ峰学園裏、予備学科棟へと向かいながら、探していた。しかしとはいえ、なにも無限に路地裏があるわけではない──幸運か、それとも不運か。ふと横を見ると、そこは路地裏で、複数人の同年代ほどの男女複数人に囲まれている見知れた二人がいた。
ああ、人間強度なんてどこ吹く風だ。
今の僕の人間強度は、暴行を受けたと思われるその二人よりもボロボロだったことだろう。もはや無いに等しい。
──ともかく、二人とその他勢を見つけるやいなや、少し通り過ぎたものの右足を軸にし、百八十度プラス九十度回転し出来る限りのフルスピードでその集団に突っ込んで行く。ただ、突っ込むだけだと僕自身が怖くなってブレーキを踏んでしまうかもしれない。ので(むしろ踏むべきなのだが)僕は不恰好な跳躍を見せ、楕円形の弧を描きながら自転車から飛び降りた。
運転手を失い、暴走した闘牛のように走り進む自転車はその集団をかすめるようにして逸れる。勢いそのままで自転車は進んで行き、結果、ママチャリは裏路地のコンクリート塀に派手な音を立てて衝突し、そして大破した。
その音に気付いてか。また、大破してしまった僕の大切なママチャリの破片が当たったかで、二人を囲む奴らはこちらを勢をなして睨みつけてくる。
「阿良々木だ」
「超高校級の、阿良々木だ」
「本科の生徒だ」
そんな言葉が聞こえてきたし、彼ら彼女らの目とその言葉にはひしひしと伝わってくる憎悪の感情が込められていた。人の目をあまり見ず、感情を汲み取ることが苦手な僕でもわかる。火を見るよりも明らかで、隠す気なんて全く無い、彼らが曝け出した心からの感情であった。
「──お、おい。なに、やってんだ? ……そんなところで」
「なにって……見ればわかるだろ。本科の生徒の、阿良々木暦」
まさに生徒Bみたいなやつが、口を開いた。
彼らの表情、身なり、態度など、どこを取ってもリーダー格の主犯者らしき人物は誰一人としていなかった。本当に、いなかった。全員が全員、同じようで、リーダーのように誰かに命令するものはいない──ただ、やけに統率が取れているというか……ともかく、不自然な光景であることには違いなかった。
もしやどこか離れたところからリーダーのやつは高みの見物でもしているのではないかと考えたが、ここはそもそも死角が多く人通りが少ない上に、唯一の出入り口であるところからでも時間によっちゃあ陰で奥が見えないだろうと推測できてしまうほどに危険で、警官の方が巡回すべきような場所だ。
それに、注意深く、居そうなところを探したって、そんなやつはいない。
主犯が……いないのか? いや、そんなはずはないはずなのだが……。
しかし、もし本当にいないのであればなかなかどうして厄介かもしれない。
リーダー格である一人と愚かにも戦って、ギリギリ勝てるかもしれない──そんな希望的観測を実現させれば。今回の行動に至るための心の支柱であるだろう主犯を折れば。急に彼らは不安がって、蜘蛛の子を散らすように逃げるだろうという望みにかけていたが──その考え故に僕は行動しているのだが、これだとまた話が違ってくる──これだと、一対一ではなく一対群だ。
わけが違う。
そもそも護身術すら身に付けていない僕は……いや、たとえ身につけていたとしてもこの量相手じゃ無理だろうし、それこそ火憐ちゃんくらいじゃないとこの状況はとても打開できそうにないのだと考えずとも理解できた。
奥には傷だらけで血を流している七海と日向の姿があった。どこかの不良を襲われた二人を介抱している同じ学校の生徒たち……という風には、どうにも思えない。やはり彼らが予備学科の生徒なのだろう。
比較的七海の傷が少ないのは、やはり日向が守っていたからだろう……それに比べて僕は──なんて情けないんだろうか。自分で自分が嫌になった。
ともかく僕は、彼らに向かって抵抗する意志のないことを示しながら、一歩一歩、ゆっくりと近付いていく。なんの真似だと言うより早いか、こちらに三人の男子が駆け寄ってきては体を拘束しようとしてきた。しかし──そう簡単に拘束されるわけにはいかない。
僕は、二人をなんとかして助けなきゃいけないんだ。
あの江ノ島ですら、謝って恩として返そうとしていたわけなのだから、僕も七海と日向に謝って恩として返さなければならないのだ。これは義務でもなんでもない、必須事項だ。
人間強度はまた──その後で取り戻そう。
護身術は身に付けちゃいないが、妹との喧嘩を含めても良いのであればかなりの場数を踏んでいると言えるだろう。未来の超高校級の生徒と噂される妹との殴り合いの喧嘩だ。それなりに経験値は高いと思う。
とはいえ、流石に手を出したとしても勝てるようには思えない。そもそも勝つなんて考え自体おこがましいのではないか──とも思えてきた。
あくまであれは一対一だっただけで、さっきより数は減ったものの今だって一対三なのだ。さらにその後にだって人がたくさんいるわけだし、条件が違う。
体を捻るようにして彼らの隙間を縫い走り抜け、そしてその勢いを保ったまま七海日向のところにまで行く──が、そう上手くはいかない。やはり、そちら側にも人はいるわけで、ここは路地裏一本道。後ろに三人、前に複数人と完全に挟まれる形になってしまった……。
窮鼠猫を噛む、となればいいのだが、その望みはあまりにも薄すぎた。
結局僕はどうすることもできず、すんなりと彼らに捕らえられてしまうのだった。
奥にも人がいるため具体的な人数は分からないのだが、およそ十五人ほどに囲まれている。かなり絶望的な状況といってもいいんじゃないだろうか。これから僕のことをどうしてやろうかと考えているのか、ニヤニヤと笑みを浮かべる者がいれば、またこちらをギロリと視線に感情を乗せ睨みつける者もいた。
二人に腕を掴まれ、抵抗むなしく強引に路地裏の奥へと投げ込まれた。後ろは壁、前は予備学科生徒。
「……僕たちを、どうするつもりだ……?」
「──それは、想像に任せるよ」
拳を強く握りしめ、彼は言う。名前も知らない、彼は言う。
「……お前、阿良々木だよな。阿良々木暦。本科の生徒の」
「……知らない人間に名前を知られているって言うのは、あまり、いけ好かないな」
僕は不敵に笑ってそう言った。疑問文に疑問文で答えてはいけないらしい──ので、思い切ってその質問を無視した。やはりその行為が逆鱗に触れてしまったのだろうか、彼は態度を急変させ僕に詰め寄っては鬼の形相で胸ぐらを掴み、怒鳴った。
「ああっ!? 舐めてるのかっ? そうやって、俺たちを、見下してるって言うのかっ! お前ら、本科の生徒は、俺たち、予備学科の生徒をっ」
そう言い切れば、彼は深い息を吐く。
彼の熱に対し、僕は至って冷たい態度であった。高温と低温を交互に繰り返すと脆くなり壊れてしまうと聞くが、そもそも僕と彼とは接触することなんてないのだ。壊れようがない。
「……見下してなんかない。ただ、眼中にはないし、そもそも誰なんだ? お前。僕の名前を知ってるなら、名前くらい名乗ってくれても構わないだろう」
さらに──彼を挑発し、煽り、激昂させるようなことを言う。そして単純なことに彼は怒り心頭のようで、その感情に任せて僕のことを──殴った。
ベキリという音とともに、口から硬いものが飛び出したのがわかった。白い残像が見えたため、きっとそれは歯だったのだろう。鉄の味が口の中を占めた。
とても痛かったし、それがどうにかなるのかどうかといえば、それは決してそうでは無いのだろうけれども……しかし、どうやら、上手くいったらしい。僕としては、よくやった方だと思う。全然なっちゃいないけれども、しかしやれることはやれたんじゃないだろうか──。
後ろから、バイクのマフラーの音が鳴り響く。僕はその音の方を、ゆっくりと首を上げて見た。幾人もの予備学科生との向こう側からライトの強い光がこちらを照らす。そのライトの光を背に立つ多数の人影があった。中央には──大きなリュックサックを背負った人が、仁王立ちで構えて立っている。あんなリュックサックを背負っているのは、我らがクラスの担任しかいない。
「──生徒がこんな目に遭っているっていうのに、気付いてあげられないだなんて……先生失格だな。私」
八九寺先生は、相変わらず仁王立ちのまま言う。その後ろには、超高校級の暴走族。超高校級のマネージャー。超高校級の体操部。超高校級の──ともかく、僕のクラスメイト──元来不登校、病弱による通院により二人かけてはいるものの、僕と七海を除くのなら77期生八九寺真宵クラスプラスアルファが勢揃いしていた。中には戦力にならなさそうな者もいたが、それはあまり関係ない。
その光景は、とても凄まじく。
まさに圧巻。
眩くって──瞬きすることも憚られるような、そんな景色。
正真正銘、正義の味方の登場──である。
「あ、ああ……」
僕の胸ぐらを掴む手の力はみるみると落ちていき、やがてその腕はだらんと脱力した。僕らを取り囲んでいた彼らは、ざわざわと騒ぎ始めた。なんせ、出口は塞がれてしまっているのだ。ここは裏路地、袋小路。今八九寺先生がいる場所以外に出口も入り口もない。もう逃げようがないのであった。
あとは、彼らの仕事だ。
僕は家に帰るため、ゆっくりと立ち上がった。
ちあきフレンド、残すは後一話!