かじかむ手を握りしめ、僕はアパートを背に駆けだした。
頬にあたる雪が冷たくて、僕の瞳から涙がこぼれ落ちる。
街の大通りを抜け、学校の横を曲がり、僕は走り続けた。右手にちらりと松山の家が見えたけど、僕は見ないふりをして走り続けた。
やがて、建物がまばらになり、僕はようやくすっかり町外れまで来てしまった事に気付き、走るのをやめた。立ち止まると、手と顔が凍える程、冷え切っているのが解る。
いつの間にか雪は止んでおり、僕はふと頭上に重くのしかかっている雲を見上げた。
ポツンと独り。
誰もいない。
何故だろう。笑いがこみあげてきた。
僕は、何を惜しがっていたのだろう。
いつだって僕はこんなふうにずっと独りだったのに。
少しだけ、此処の人たちがいつもより優しかったからといって、それが何だっていうんだ。
此処を離れて数ヶ月もすれば、彼らだって僕のことなんか忘れてしまう。
いつだってそうだ。
当たり前だ。連絡先だって解らないんだから。手紙も書けない。電話も出来ない。逢うこともない。
僕は通りすがりの誰かさんと同じで。
同じで。
「岬! どうしたんだ、おまえ」
「…………!」
顔をあげると、目の前に金田が立っていた。
「か……金田!? なんで……こんな所で……」
「その台詞、そっくりそのままお前に返すよ」
呆れた顔でそう言うと、金田は腕に抱えていたマフラーを僕の首にかけた。
「いくら春が近いったって、まだまだ夜は寒いんだ。マフラーも無しでこんな所に来て、お前、凍死したって知らないぞ」
「…………」
金田がかけてくれたマフラーがやけに暖かくて、僕はその時初めて金田が自分の首にもきちんとマフラーを巻いているのに気付いた。
「……あれ? このマフラー……」
「服の中入れてずっと抱えてたから暖かいだろ。お前、マフラーも手袋もなしで走っていったって松山が言ってたからさ」
「……えっ?」
「お前、さっき松山ん家の前、すごいスピードで駆け抜けてったんだってな。様子が変だったから、そっちに行ったら気を付けておいてくれって電話もらったんだ。ほら、ちょうどこの近くだから、オレん家。そろそろ来る頃かなあと思って様子見てたんだ」
「…………」
小学校の大通りの側にある松山の家から、少し先の町外れにある金田の家。
連絡をもらってすぐ、金田はマフラーを抱えて外へ飛びだしたのだ、きっと。
「何? どうしたんだ? 岬」
「……父さんと」
「…………」
「ちょっと……父さんとやりあっちゃって…………」
小さく僕が言うと、金田は意外そうに目を丸くして僕を見つめた。
「珍しいな。なんかお前が喧嘩するとか、想像できない。いつも優等生の良い子なのに……」
「僕は良い子なんかじゃない!!」
自分でも驚くほどのきつい口調で、僕は金田の言葉を遮った。
「僕は良い子じゃない。良い子を演じようとしてきただけで、本当はちっとも良い子じゃない」
「……岬?」
「僕が本当はどれだけ悪い奴か、みんな知らないだけだよ」
「…………」
本当は、いつだって言いたかった。
旅も嫌いだし、貧乏な生活も大嫌いだった。
お母さんにも甘えられず、友達も作れず。転校を繰り返すのも、もうウンザリだった。
寒い地方も暑い地方も、炊事も洗濯もゴミ出しも何もかも。
大嫌いだった。
明日の保証のない生活も、物珍しそうに僕を見る不動産屋の主人もアパートの管理人も。みんないなくなればいいと思った。
荷物になるからいけないと、必要最低限の物しか持てず、遊び道具はサッカーボールひとつだけで。
他の楽しみなんか何一つ与えられなくて。
僕は……
「やっぱり、お前、雪割草みたいだ」
ぽつりと金田が言った。
「知ってるか? 雪割草の花言葉」
「……?」
「雪割草の花言葉はね……」
「忍耐だろ」
突然の後ろからの声に、僕達は驚いて振り返った。
「松山!?」
「お前、結構足早いのな。急いで追いかけたのに、こんなに引き離されちまった」
そう言って笑いながら、松山は僕に手袋を投げてよこした。
「ほら、これで完全防備。寒くなくなったろ」
「…………」
僕は松山の言葉に従い、おとなしく手袋をはめた。
凍えた手にじんわりと奥から暖かさが戻ってくる。
「……雪の下でさ、ずっと寒さに堪え忍んで、ようやく春先に花を咲かせるんだ。雪割草は」
金田が言った。
「辛いこといっぱい抱えて、でも、それをじっと我慢して、オレ達に春をプレゼントしてくれるんだ」
「…………」
「岬、実はさ、オレ達が全国大会にいける自信を持てるようになったのって、ここ2ヶ月くらいなんだよ」
「…………?」
「お前が此処に来て、いろいろ教えてくれたろ。ゲームの組立から、センタリングのあげ方のコツ。ドリブル、パス。オレ、同じMFとして、お前のサッカーセンスってすごいなって思ってた。お前にもらった沢山の技術がオレ達に全国大会の夢をくれたんだ」
「…………」
「オレ、雪割草、好きだよ」
「…………」
「すごく、好きだよ」
金田の言葉を聞いていると、なんだか涙が溢れてきた。
マフラーも手袋も暖かくって、涙がとまらなかった。