仕合が終わったのは半刻ほど過ぎた頃。
どちらも負けじと木刀を交わし合っていたがあくまでも今回は仕合。決着が着くことなく終わった。
二人は縁側へと腰掛け、激しく動かした身体を休めていた。
「さっすが不死身の鬼美濃だ。伊達に物騒な渾名はついてねぇ」
その渾名が示す所以通り、兎に角一撃を入れるも受け流されていた。
傷一つ負わない———まさに不死身と揶揄されるものだろう。
「前田どのも同じでござるな。その強さはまさしく金ヶ崎を退いた一騎当千の武。拙は感服致しました」
「お、おう」
鬼美濃の言葉に慶次はどもる。
「……??」
「あ、いや。悪い。あんまりこう言われんの慣れてなくてな」
はははと苦笑を溢しながら慶次は動揺したかのように目を泳がせる。
「そ、それにしても。汗が気持ち悪りぃな」
胸元の衣服を引っ張るとむさっとした気持ちの悪い熱気が溢れた。
「ふむ‥‥‥」
彼女は慶次の言葉を聞いて考え込む素振りを見せるも程無くして顔を上げた。
「では前田どの。井戸があります故汗を流しにでも行くとしましょう」
「あんのかい?」
「ありますとも。拙についてきてくだされ」
言うや否や立ち上がるとすたすたと歩いていった。
遅れまいと駆け足でその背を追う。
「ここにござる」
「おお。ここか‥‥‥」
目の前にはくすんだ色をした小さな社が建てられていた。
円形に積まれた石で出来た井戸の上には唐竹で出来た蓋が被せてある。
周囲には磨かれた黒曜石のような石が敷かれていた。
井戸……と言うよりかは参拝するためにある社のような雰囲気だ。
すぐ近くには武田家のお台所らしき場所があるようで女中たちが忙しく動いている姿が目に入る。
「手ぬぐいを持ってくる故少し待つでござる」
そう言い鬼美濃は台所へと足を向けた。
女中たちの焦ったような声が聞こえると四人の女中が出て来る。
少しの間彼女が話し込んでいると女中の一人が母屋へと入った。急かす女中たちの声に、細かに足を動かした女中が白い物を彼女に恭しく手渡す。
受けとった鬼美濃は女中たちに微笑むと慶次の元へと戻って来た。
「前田どの。これをお使いくだされ。手ぬぐいでござる」
上品に畳まれた手ぬぐいを受け取る。どうやら二枚あるようで彼女の手元にもう一枚があった。
「悪りぃな。なんか‥‥‥」
この時代では手ぬぐいなどは貴重だ。四季折々で収穫できる原料は年ごとに種類、量ともにばらつきがあるのだ。ましてやこのように真新しく清潔感を感じさせる手ぬぐい。
正直使うことがためらわれた。
「気にしないで頂きたい。貴殿は客人。最低限の礼は尽くすことが武田の礼儀故に」
彼女はにこりとはにかむよう微笑む。
「そっか。んじゃあ遠慮なく使わせてもらうぜ」
「うむ」
満足そうに頷く鬼美濃は井戸にかぶさる唐竹の蓋を取ると近くに立てかけた。
慣れた手つきで天井から下げられた滑車の先に付く釣瓶を手元へと引き寄せ井戸奥へと投げ入れる。
ぽちゃんとした水の音が井戸奥から響いてくると鬼美濃は滑車に付く縄を引っ張る。井戸奥から徐々に顔を見せる釣瓶は水が張り光を返した。
「やはりこればかりは慣れんな」
そんな言葉と共に井戸から顔を出した釣瓶を足元へと置いた。
「前田どの」
「おう」
釣瓶に張った水で手ぬぐいを濡らす。
それを境に鬼美濃も釣瓶に手ぬぐいを入れた。
>>>
「ったくなぁ‥‥‥」
大きめな息の塊を吐いた。
慶次の前では鬼美濃が罰の悪そうな顔を見せながら視線をあちらこちら漂よわせていた。
実は鬼美濃、人目も気にせずいきなり衣服を脱ぎ始めたのだ。
実際慶次からして見ればむしろ全然かまわないことなのだが今の置かれた状況を鑑みると厳しいものがあった。
捕虜兼客人。ましてや武田に来て日が浅く裸の女性と手ぬぐいで‥‥‥なんぞ慶次としては自惚れてはいるが第三者から見られると誤解される絵面だった。
「男の目を気にしねぇのかい」
「うむ‥‥‥申し訳ない‥‥‥」
視線を下へ外しながら申し訳なさそうに言う。その表情は暗いまではいかないものの気まずそうな顔だった。
「しかし拙の身体など見ても何とも思わないのでござろう」
「? 何でそうなんだ」
「すでに婚期を逃している故、こんな年増よりかは年若い女性のほうが良い」
はははと自嘲的に‥‥‥ではなくそれが当然と言った感じの一歩引いた達観したような表情を見せた。
「‥‥‥」
まさかここまで鬼美濃が自己評価が低かったとは。
原作でも彼女は女としての自分を卑下していた。だがポニーテールに結んだ桜色の髪は光沢を持ち柔らかさを持っているだろうし、しなやかに描かれた鎖骨は女性らしく華奢。存在を豊かに主張する二つの双乳は握れば沈み込みそうなほどに大きい。
そして彼女自身のさっぱりとした雰囲気に整った顔立ち。
正直、どうしてここまで自己評価が低いのかわからない。
(まぁ、鼻にかけられんのもあれなんだがなぁ)
自慢されるよりはいいかと内心考える。
「前田どの、なにやら難しい顔をしておりますが‥‥‥」
怪訝そうな顔つきで慶次を覗く。
「あぁ‥‥‥この後どうすっかなぁ、なんて考えてた」
「ふむ……では丁度良い。実は粉雪から金ヶ崎での戦を知りたいと打診されておりましてな。前田どのさえよろしければ粉雪に話を聞かせてもらえませぬか?」
「いいぞ」
二つ返事で了承した。
「では案内の者を使わす故お頼み致す」
そうして彼女が踵を返そうとしたとき。
「ちょっとまってくれ」
「? どうかしたでござるか?」
「俺のことは慶次ってよんでくれ。なぁんか堅苦しいのは嫌なんだ。だから宜しくな」
嫌だ嫌だと肩を竦めると慶次は手を差し出した。
そんな彼の様子が可笑しかったのか鬼美濃ははにかむ。
「ふふ。では拙のことも通称の春日とお呼びを」
差し出した慶次の手を取り二人ら握手を交わした。
そうしててぬぐいを母屋の女中に渡すと二人は別れた。
>>>
「ここか‥‥…」
武田の兵に案内されたのは母屋からかなり離れた場所。
開けた場所で周囲には森が広がっていた。
目の前では赤色の鎧を纏う何百もの兵たちが威勢の良い声を上げながら槍や
刀を振るっている。
ここは所謂、兵の修練場なのだろう。
「そこー! 構えが甘いんだぜー!」
少女の声に兵達が顔を引き締めた……ように思える。
そうして一斉に得物を握る手に視線を向けた。自分じゃないよなと確認したのだろうか。
「これが赤備えねぇ……間近で見るとやっぱ迫力が違う。尾張の兵が弱兵ってのもよくわかんな」
兵自身の練度も在るのだろう。だが纏う雰囲気が違った。
滲み出る強者の雰囲気とでも言うのだろうか。苛烈さを感じ取ることが出来る。特にその雰囲気は白い髪をストレートに伸ばした髪が特徴の女の子からひしひしと伝わって来る。
「ほらぁ! もっと腰を入れるんだぜ!」
一人の兵の腰を木刀で叩いた。乾いた音と共に兵は身体をびくりとさせ怯えたような様子を見せた。
「も、申し訳ありません!」
「ああして兵一人一人に稽古をつけているんですよ」
「はーん」
「こなちゃん、誰一人死んでほしくないって言ってたから。そんな思いでやってるんです」
「なるほど……」
優しい。慶次は直感的にそう思った。
「話し方に癖はありますが人一倍優しいんです」
「……だろうな」
死んで欲しくない。その思いは先程の兵に対する厳しさを見ればよく伝わってくる。
「‥‥‥ん?」
普通に応対していたが、ふと気付いた。
慶次の隣には一人の少女がいた。彼の視線に茶色がかった短めの二つの三つ編みが揺れる。
「ご紹介がおくれました。私は内藤心昌秀と申します。お気軽に心とお呼びください」
そう言うと目の前にいる少女は恭しく頭を下げる。
「丁寧にありがとさん。俺は前田慶次。慶次って呼んでくれや」
「ふふ。よろしくお願いしますね」
「おーい、ここぉ〜……え」
間延びして聞こえていた声が途端に途切れる。視線を向ければぽかんとした顔を浮かべた少女がいた。
「お疲れ様、こなちゃん」
「よう」
「汗かいてるね。はいこれ」
心は少女に清潔感漂う真っ白な手拭いを手渡す。
しかし少女はボーッとしながらも受け取るが心ここにあらずと言った感じだった。
「あ、ありがとなんだぜ……」
「どうしたの?」
「……ま、前田慶次。ど、どうしてここにいるんだぜ」
驚きで顔を染め上げた少女はふるふると震えた指先で慶次を指差す。
「まぁ暇だったんでな。天下最強赤備えを見に来たんだ」
「ほ、本当なんだぜ!?」
「あぁ」
「そそそそっか。天下最強武田が赤備えを見に……えへへ。そうなのかなんだぜ……えへへ」
頬を染めた少女は両の手を頬に当ててはにかむように微笑む。
「ふふ。よかったね」
それが伝染したかのように心もふんわりと微笑んだ。
突然、「あ!」何かを思い出したかのように白い髪の少女が声を上げた。
「前田慶次っ! 金ヶ崎の戦を聞かせて欲しいんだぜ!」
「おう、いいぜ。さて、どっから話すかねぇ」
金ヶ崎は撤退戦が主たる戦だ。正直な話、特に話せる所などは───。
(鬼との戦い、か……)
慶次は暫時唸っていたが「よし」と覚悟を決めた。
遅くなって申し訳ございません