10月も後半に入った。過ぎてしまえば早いもので、新学期が始まってから2ヶ月が経とうとしている。
ハリーもホグワーツ生活二年目とあって、慣れたものだ。動く階段に長い廊下など、ホグワーツの造りに四苦八苦している新入生を懐かしい目で眺めていた。
では今は完璧かと問われると、決して首を縦には振れないが。
毎日の過ごし方と言えば、朝は湖畔でトレーニングをして、それから授業。午後は図書館、もしくはこっそりと必要の部屋へ、と変わらない満ち足りた日々が続いていた。
「よし…ポッターはシュートの精度が上がってきたな」
「ありがとうございます」
「マルフォイも、周りとの連携はもうバッチリだ。もう少し自分を出して好きにプレーしてもいいよ」
「どうも」
中でもやはり、クィディッチがある週末は特別だった。雨が弾丸のように降り注ぐような悪天候でも、ハリーにはノープロブレムだ。ドラコと、チームの皆とプレーできることが、いつも最高の気分にさせてくれた。
チームの上級生は皆、ハリーとドラコに親切だった。特に、キャプテンで同じポジションのガブリエルは、2人へのコーチングが上手かった。
ただ指示を出すだけではなく、考える余地を残すことによって、2人の戦術思考を成長させた。そして彼自身も、頭を悩ませるハリーとドラコを見守りつつ、下級生に負けられないと自身の力も伸ばしていった。
充実した学校生活を送っているハリーだったが、ひと月前とは少しだけ変わってしまったことがひとつ。
「ハリー、ごめん先に行っててくれ」
「あ…うん」
ドラコにガールフレンドが出来たことだ。それによって、一緒に行動していた時間が、やはり前よりも少し減ってしまった。
初めは寂しさを覚えたハリーだったが…人というのは、たいていのことは時間と共に順応していく。
だから、今ではこれが普通にーーいや、本音を言えばやっぱりすごく寂しくて、少しだけ羨ましい気持ちがあった。
だからと言って、ハーマイオニーやネビルと過ごす時間にうんざりしているとか、物足りないわけではない。大切な時間だ。
勘違いでなければ最近、二人とはもっと仲良くなれた気がする。
ただやっぱりドラコが…と、もやもやとした感情がいつもハリーの心の隅に存在していたことも事実だった。
「ハリー!お疲れ様っ」
「あ、うん、ありがとう」
フィールドを出たハリーに、タオルをもって出迎えてくれたのはハーマイオニーだった。此処のところの湿気のせいで髪のボリュームが増しているため、後ろで簡単に結っている。顔のラインがスッキリとして、どこか活発な印象を与える姿だ。
防水呪文の効き目が薄れていたのか、雨に濡れたハリーの髪にタオルを掛けて、わしわしと拭いてくれる。ふんわりと温かくて気持ちよくて、ハリーは目を細めた。
ハリーは、ふと背中に視線が刺さるのを感じた。振り向けば、そこにはメンバーがいて、皆いそいそと自分の箒の調子を確かめていた。
ハリーはどうかしたのかなと首を傾けた。
「…?…あの、僕ももう失礼します。今日もありがとうございました」
「あ~うん。ポッターもお疲れ。風邪引かないようにね。最近流行ってるみたいだから。あ、でも耳から湯気を出したいなら別さ」
ガブリエルに続いて、メンバーもそれぞれ声を掛けてくる。皆何故かやけに笑顔だった。
「はい、気をつけます。…先輩方も」
ハーマイオニーと一緒に挨拶をして、ハリーは競技場を後にした。ハーマイオニーが杖から防水の幕を出して傘代わりにして、ハリーは今日の練習の成果を話しながらゆっくりと城へ戻った。
ハリーが去ったあとの控え室。
「なあ、セドリック」
「何?キャプテン。なんかスネイプみたいになってるよ」
それそれ、とセドリックはガブリエルの眉間を指差す。
ガブリエルは反射的に顔を手で覆い、幾らか指先で解したあと、わざとらしい晴れやかな笑顔を作った。
「あー、いやさ、ガールフレンドを練習に連れて来るってどうなの?ほら彼女グリフィンドール生だし?」
「うーん、グレンジャーがスパイって?殆どハリーと一緒にいるみたいだし大丈夫じゃない?それに別に練習も覗かれてないよ。あとガールフレンドではないみたいだし…送り迎えくらい、贔屓しすぎない程度にはいいんじゃないー」
「嘘だろ」
ガブリエルが目を白黒させたのは、ガールフレンド否定の所だ。今の下級生は…と、てっきり恋人だと思っていたのだ。
「冗談じゃないさ。ハリーも親友って言ってたよ…ハリーはまだまだ子どもだしね。
それよりもマルフォイ、マルフォイだよ。……この前、図書館の隅の方でレイブンクローの監督生と並んで座ってた。反省会終わってすぐ出ていったのも、関係してると思う…はー」
「…どうなってんだ、最近の若者は……というか僕よりポッター達と仲良くなってないかお前」
「さあ?」
セドリックは明後日の方向に顔を向けた。
それをしつこく追いかけるガブリエルの姿に、他のメンバーから苦笑が漏れた。
□ハロウィーン
10月末のハロウィーンの日。ホグワーツの大広間では、例年の通りに、ハロウィーン一色のパーティーが行われていた。
ステージのバンドの演奏に耳を傾け、ハロウィーン限定の料理に舌鼓を打ち、持ち寄ったお菓子を交換し合う。この日は寮の壁も取り払われ、多くの生徒が他の寮のテーブルを行き来していた。
「平和だなぁ」
「ホントにな」
「私、パーティー終わるまでは絶対にここから出ないわ…」
ハッフルパフのテーブルの一角では、ハリー、ドラコ、ハーマイオニーの3人が昨年の騒動をどこか遠い目で思い出しながら、しみじみとした雰囲気で席に着いていた。
賑やかな周りと比べると、灯りを一段落としたかのようで、少し浮いて見える。その場違いな空気を察しているのか、周りに生徒はいなかった。
「ロングボトムはどうした?」
「グリフィンドールの席にいるんじゃないの?」
ドラコの疑問に、ハリーはパンプキンパイを口に詰めながら答えた。そして、2人はスープをちょびちょびと口に運んでいるハーマイオニーに視線を向ける。
注目されたハーマイオニーは、こくりと頷いた。
「こっちに来るとき探したけどいなかったわ。…たぶん、絶命日パーティーに行っているんだと思う」
「なにそれ」
「そんな行事はなかったはずだけど…」
聞き慣れない言葉に、ハリーとドラコは首を傾げる。
「ほとんど首なしニックの…グリフィンドール寮のゴーストが地下室でパーティーを開くらしいの。この前、談話室で男子達がこそこそ話しているのを聞いたわ。もしかしたらそれに行ったのかも」
「…いやそれさ、ゴーストだけのパーティーだったんじゃない?」
「年中冷えてる連中が大勢…おまけに地下室だよな…」
その光景を想像して、ドラコがぶるっと身を震わせる。
「私は少し行ってみたかったんだけどなあ…」
「それは、うん。確かに少しだけ」
「やめとけよ」
3人そろって、パンプキンケーキにフォークを刺して口に運ぶ。
バンドの演奏が最後の曲に移る。
パーティーも、もうそろそろ終わる頃だった。
「…そういえばさ……もってる?」
ハリーが何気なく――たった今気づいたといった風に、ドラコとハーマイオニーに向かって尋ねる。ポケットに突っ込んだハリーの手の中には、チョコレートの包みが握られていた。
「…どうだったかなー。あ、ある。うん、あるよ」
ドラコが考えるような素振りでポケットを探り、棒読みでコクコクと頷きながら答えた。
「…あ、偶然」
ハーマイオニーが、手提げのバッグを開いて、奥の方を覗きこんで言った。
そして、3人は顔を見合わせ納得顔になり、次にちょっと気まずくなって目を反らしてーーなぜか無性に可笑しくなって、ひとしきり笑ってから、揃えて口を開いて同じ言葉を言った。
パーティー終了と同時に寮の部屋へと直帰したハリーとドラコは、3階で起こっていた秘密の部屋の事件を、この日のうちに知ることはなかった。
パーティーの余韻に浸りながら、幸せな眠りについたのであった。
□11月
ついに、クィディッチシーズンが始まった。ハッフルパフの今年の初戦の相手は、グリフィンドールだった。最終的には、全ての寮と戦うことに変わりないが、昨年の成績から、今シーズンの初戦はこのカードからのスタートだ。
ハリーにとっては、これが初の試合。スクールの授業でやったスポーツも、ダドリーに付き合った数合わせのフットボールも比べ物になんてならない。正真正銘の初の舞台である。
ーー心臓がバクバク鳴ってうるさい。ガブリエルが話しているのに、音が遠くに聞こえて何もわからない。何より、さっき少し覗いたフィールドの――観客席のざわめきが頭から離れない。あんなに人が多いなんて思ってもいなかったし、聞いてもいなかった。
ハリーは、去年の組み分けの時より、人に注目されることを、恐怖の体験として記憶してしまっているのだ。
その点ドラコは、ハリー同様緊張が極限に達しながらも、瞳にはギラギラと闘志の炎が灯っていた。
何でもない、意地である。緊張より、恐怖より、出来たばかりの人生初のガールフレンドにカッコいい所を見せたい。それがドラコの力の源だった。因みに、父親が見に来ていることは知らないドラコだ。観客席なんて視界にも入っていない。
今ドラコの視界を埋めるのは、ゴールサークルだけである。
「ーーまずは2年生2人。君たちにとって……って、君ら極端だね。さっきまでは平気そうだったから、逆に心配してたけど…まずは肩の力を抜こうか」
「ひゃい」
「ーーああ」
「ドラコは…うん、もっとクールいこうぜ。気持ちはわかるけど」
「まさに去年のキャプテンみたいだね」
口を挟むセドリックに、その通りだと頷く周りのメンバー。ガブリエルは思い出したのか、途端に小さくなった。
昨年は、ガブリエルのガールフレンドの卒業年である。
「ハリーは、そうだなぁ…好きな子とかいないの?応援してもらいたい子とかーー」
『ーーーーーー!!』
フィールドを挟んで逆に位置している控え室からだろう。グリフィンドールチームの雄叫びがこちらまで轟いてきた。
『……』
ハッフルパフのメンバーは皆、向こうと此方の温度差をひしひしと感じた。妙な空気になり、ガブリエルへと白けた視線が集まった。
「……トンクスに見てほしいなぁ」
ここで、空気を読めていないハリーがポツリと呟いた。
「?…トンクス?それって、ニンファドーラ・トンクス…?」
「うん」
ハリーの肯定に、メンバーの中にざわめきが生まれる。お互いの顔を見合わせ、まさかまさかという顔をしている。
「訳あって1ヶ月間一緒に生活してたんだ。ドラコの従姉だよ」
この後、控え室はトンクスの話題で大いに盛り上がる。1ヶ月間の同居生活の話で女子メンバーが食いついたり、トンクスの学生時代の話で、ハリーのテンションが上がったりーー話の終着点が見えなくなったところで、審判のフーチから催促が掛かり、一同は慌ててフィールドへと飛び出した。
その頃には、ハリーの緊張はどこに行ったのか、笑顔を見せるくらいの余裕があった。ドラコも少し力が抜け、いいコンディションになっている。それを確認したガブリエルは満足げに頷き、2人の肩を叩いて間を通り過ぎる。そして大きく息を吸ってーー飛翔した。
「さぁ、行こう!!」
『ああっ…ハッフルパフゴール!新メンバーのマルフォイ、連続ゴールです!グリフィンドール70点、ハッフルパフ90点!まだまだ勝負はわかりませんっ!!』
序盤は、グリフィンドール優勢。主に、ハリーとドラコのミスが目立つ展開だった。初試合ということもあるが、相手のビーターが優秀だったことが主な理由だろう。双子ゆえのコンビネーションによって、チームの穴を狙われる形になったのだ。
ガブリエルは序盤にも関わらず、タイムアウトを掛けた。そして、ハリーとドラコに作戦を伝えた。
「うーん、やっぱり初戦から相手がな…ほら、にやけながらこっち見てるよあの双子…。うん、まずは、君らの得意なことからやろう。僕はそれだけで勝てると思ってるよ」
それから、ハリーは2人へのパス、そしてパスカットに集中し、ドラコは周りを見て、シュートを決めることだけを考えた。通常ならば、それで試合が成り立つはずはなかったが、ガブリエルが完全に2人のカバーに回ったことによって、快進撃への一手となったのだ。
そして現段階では、試合の空気にも慣れ余裕が出来たハリー達は、練習通りのびのびとしたプレーが出来ていた。
『ーーあれはスニッチか!?ハッフルパフシーカー、セドリックがスニッチを見つけたようです。…ぁぁ、もうだめだ…ああっ…セドリック、スニッチを掴みました!300対90、試合終
りょーーーーー?』
ハリーは、幸福感に満たされていた。ミスも数え切れないほどにしたけれど、ゴールも決めたし、試合にも勝てた。そして…何より楽しかった。雨に濡れ、冷たい風が肌を刺しても、少しも気にならなかった。
早く、速く。スニッチを掴んだセドリックのもとへ。ハリーは満面の笑みを浮かべながら、一直線に向かった。
試合終了と同時に機能を停止させるはずのブラッジャー。試合時よりも勢いの増した凶弾に最初に気づいたのはドラコだった。
視線の先にあるのは、ハリーの小さな背中。
ドラコは悲鳴をあげるように大声で叫ぶーーーーしかし、ドラコの声は無情にも歓声によって掻き消され、ハリーには届かない。
杖を取り出した時にはもう、全てが遅かった。
そんな中で、視界の端に覚えのあるものが映っていた。
「私が君の腕を治してみせようーーーーブラキアム・エメンドー!!」
気を失ったハリーが目を覚ました時、ロックハートの呪文により、ハリーの腕の骨は肩からきれいに無くなっていた。まるで、初めからそうだったみたいに、なんにも。
「え、なに…これ」
肌色のゴム手袋みたいな何かが、ローブの隙間から除いていた。ハリーは、まさか、それが自分の手だなんて思いもしなかった。
「ま、まあ根本的な問題はなくなりましたね。応急処置は済んだ。あとはマダム・ポンフリーにお譲りしましょう」
さっさとその場を去ろうとしたロックハートだったが、
「ーーロックハート教授、どちらに行かれるので?」
肩を叩かれた。振り返ったロックハートが見たのは、冷笑を顔に貼りつけたガブリエルだった。
「私はこれから急用がーーそもそもこの試合も大変無理を押して来たわけでしてーーおや、君は監督生でしたね!丁度いい!ハリーのことは君にまかせーー」
「マダム・ポンフリーへの説明には教授が適切でしょう。僕ではどんな効力の呪文を掛けられたのか検討がつきません。どうかお願いします。ハリーの迅速な治療のためにご同行を」
「いや、ねーー」
「ーーいいのではないですかな、ロックハート教授」
「…スネイプ先生?」
影のように姿を現したのは、真っ黒なローブに身を包んだスネイプだ。こちらもニタリと笑ってはいるが、目は冷えきっていた。
「授業の準備は我輩が手伝いましょう。まさか、ファンレターを書くわけではありませんからな。ははは」
ネチネチとした声色が、ロックハートを責め立てる。
「いや…」
「ポッターの腕が手遅れになる前に早くッ!!」
「ハイッ!!そうですねっ急がねばっ。ハリー行くぞっ」
「…あ、はい」
「…おや、なぜスネイプ先生も?」
「先ほど、授業の手伝いを約束したばかりでしょう」
「…そうでしたね!」
「……」
「ーーーーですから、ーー」
「ーーーははっ、ーー」
ロックハートと、スネイプの声が遠くに感じる。
ハリーは、黙ってスネイプの浮遊呪文に身を任せていた。かなり楽だ。ぷらぷらの腕はどうにもならないが、ふわふわの透明なベッドに寝転んでいるみたいな不思議な感触。
「ポッター…?」
今日は初試合だった。身体は限界まで動かされ、脳は酷使されていた。緊張もあって、疲労は普段の練習とは比べ物にはならない。それに、昨日は緊張してよく眠れなかったのだ。
「すぅ」
睡魔に抗う術はなかった。
「なんで、おまえがーーーー」
「ぼっちゃま…」
真夜中。ホグワーツでは、ほぅほぅと小屋に残っている梟達が合唱していた。しんとした空気は冬の始まりを感じさせ、星空は眩しいくらいに輝いている。
「うひぇええええぇぇぇぇぇ……」
そこに、ひとつの悲鳴がこだました。
まるで拡声呪文を使ったかと思うほどの大音量だった。
「うぇ…なに……げぇ」
ハリーは目を覚ました。倦怠感を感じながらも身を起こしてーー右腕から伝う奇妙な感覚に呻く。
「骨、なかったんだっけ…」
これ、いつ元通りになるのかな。ハリーはぼんやりと考えながら備え付けのテーブルから眼鏡を取った。
その時、マダム・ポンフリーが医務室から出ていくのが見えた。かなり慌てている様子だった。トイレだろうか。
しかし、いいタイミングだった。ハリーは彼女が戻ってきたら腕を見てもらおうと考えた。いい加減気持ち悪いのだ。
「あ、やった」
お見舞い品だろうか。幾つかのお菓子がテーブルの上にあった。すると途端にお腹が空いてきた。
ハリーは包装を乱暴に剥がして口に入れたーーーー目の端に何かが写る。
「ひ…ぃ」
ハリーは心臓をねじられたような感覚を味わって、ヒュッと息を飲んだ。
チョコレートがベッドから跳ねて、こん、と小さく音を立てて床に転がる。
視界の端。
そこに、ギョロりとテニスボールぐらいある大きな2つの眼が、闇の中で浮かんでいた。
何かが、此方をじぃっと見ている。
少しずつ近づいてきているような気もする。思わず手探りで杖を探すが、もちろんあるわけなかった。
「ドッ、ドラコ…」
ハリーはすがるような気持ちで隣のベッドを見た。
もちろんドラコがいるわけがなかった。ここは寮の部屋ではないのだから。
絶望するハリー。
ふっと全身から力が抜け落ちる。
「え…?」
そこにドラコの姿が見えたーーーー?と、不意に外の廊下から物音が響いてきた。ハリーは反射的にその方向に視線を向けた。随分と慌てているようだ。バタバタと数人の足音が近づいてくる。
パチッと大きな音がした。
「あ」
ハリーは恐る恐る視線を戻した。
そこには何もない。目玉なんて何処にも見当たらない。気のせいだったのだ。カーテンがゆらゆら揺れているだけだった。
次に、隣を見る。ドラコのまぼろしも消えていた。ハリーは少し自分が怖くなった。そして、自分の行動を思い出して、あまりに女々しかった自分にドン引きした。
「早く、こちらへ!!」
マダム・ポンフリーの悲痛な声が響いた。
そこでハリーは、目が覚めた時に何か悲鳴のようなものが聞こえていたことを思い出す。
慌ただしい声が、どこか遠くの方で鳴っていた。
「ーーと、今思えばあれが屋敷しもべ妖精だったのかも。シルエットもそんなだった気がしてきた」
「…そう」
日曜日の朝。起きた時にはもう、ハリーの右腕の骨は綺麗に生え揃っていた。しかし朝起きたと言っても、眠れたのは空が白み始めてからだったため、睡眠は1時間くらいだ。
昨日の夜に目が覚めるまではぐっすりだったし、何より、時間を空けて何度かに分けて飲まないといけない酷い味の薬。そして骨が生えていく感覚が酷くて眠れなかった。身体の内から何かが這い回っているような、くすぐったい感覚が何時間も続いた。
半分くらいは生えたなと思ったところ(願望)で、早く終われと念じた。そうしたら生えるスピードが上がった気がしたので、少しだけ気が楽になった。実際、本当に速くなっていたのかもしれない。そういえばホグワーツに来る前ーーおばさんに変なヘアスタイルにされた時も髪の毛も一気に長くなっていたような。
始めから念じていればよかったと、ハリーはどっと疲れた気分になって、いつのまにか眠りに落ちていた。
再び目覚めた後は、マダム・ポンフリーを呼んで朝食を食べた。
そして寮へと戻る許可をもらい、医務室を出たところで、ふてくされた様子のドラコが待っていた。
医務室が立ち入り禁止になっていたらしい。
「ーーでね、結局ロックハートの杖を調べたら、忘却呪文と盾…擬きの呪文が使われていたみたいなんだ。つまり…」
「クリービーのここ最近の記憶が失われているのはロックハートのオブリビエイトで?」
「うん、でも、先生たちはロックハートを称賛してた。まあ、誤射だったのかもしれないけど…クリービーが吹っ飛ばされてなかったら、これだけじゃすまなかったかもしれないって」
「へぇ」
「……うん」
「どうした?」
ドラコは、ハリーが暗い顔をしていることに気づいた。
ハリーはドラコの言葉に身体を揺らし、言いづらそうにして、重く口を開いた。
「…ブドウと、サイン入りのチョコレートの箱が落ちてたらしいんだ。二人とも僕のお見舞いに来ていたんじゃ……」
自分が怪我なんかしなかったら、こんなことは起きなかったのかもしれない。
そんな負い目がハリーにはあった。
「…いや、君が気にすることじゃないさ。それに、クリービーはまだしも、ロックハートは自業自得のような気もするし」
「でも、マンドレイクが採れるまで早くても半年以上あるよ。どこかで買えないのかな…」
「…どうだろう。あれ自体かなり貴重なものだし、たぶん難しいな。それに魔法薬に使うのは新鮮なものじゃないといけないらしい」
日曜日の夕食時には、ハロウィーンの日のミセスノリスに続いてのロックハートの石化は、既に城中に広まっていた。
マグル生まれではないから安全だと、他人事だった生徒達には、悪い意味で劇的な事件だった。ましてや教師がその対象になったのだ。最上級生であっても…誰もが恐怖の表情を浮かべていた。
ホグワーツには置いてはいけないと、子どもを引き取りに来る保護者もいた。
そのうちに、ロックハートは教師に相応しくなかったために、継承者によって粛正されたのだ、という噂が飛び交う。
そして、誰が言い出したのか、本になっている冒険の数々も嘘っぱち。忘却呪文を身に受けたコリンがいるのも噂を加速させ、終いには、忘却呪文を使って他の人の偉業を自分のものにしたーーそんな噂が広まっていた。加えて、ロックハートが回復しだい、尋問が掛けられるーーなんて噂にまでなっている。
誰がこんな噂を流したのだろうか。ハリーはあまりにも酷い噂にショックを受けていた。
そして、そんな噂が飛び交う学校生活だ。噂が広まってからは再び活気を取り戻したホグワーツだったが、ハリーは居心地が悪かった。やはり、自分のせいだという気持ちが強く、負い目を感じていた。
しかし、何かができる訳もなかった。
不謹慎な噂を止めるようにと呼び掛ける勇気も、度胸も、ハリーは持ち合わせていない。早く噂消えてくれないかなと願うばかりだった。
マンドレイクを求めて、ムーディに手紙を出そうともしたが、トンクスの訓練の邪魔をしてはいけないと、思い留まって止めた。そもそも、今は国外にいるのだ。住所すらわからない。そんな状況でヘドヴィグに頼むわけにはいかない。
寮監のスプラウト先生相談するも、稀少なためそうないだろうと、断念するしかなかった。他にも考えてはみたものの、結局どれも上手くはいかなかった。
□12月
クリスマスが近い。
トレーニングを行う朝方は、肌を刺すような寒さだ。早い時間に起きることが少し辛くなってきている。
ドラコも同様なようで、動いて身体が温まるまでは顔を顰めていることが多い。
ネビルだけは、雪のおかげで転んでも痛くないと笑っていた。両方から鼻水を垂らしながらだが、ネビルは元気だった。
こういうとき、風邪を引いてもすぐに治る環境は、本当に便利だと実感する。ダドリーなんかは、きっと雪にはしゃいで雪まみれになって後からひーひー言っているはずだ。
雄鶏の声が響く。
これは本物の鳴き声だ。こんな寒い中でお疲れ様とハリーはウンザリとした気持ちで労った。
最近、時間を問わずに、やけに廊下で鶏の鳴き声がして少し気になっていたが、それが毎日続けば特別気にすることもなくなった。
ずっと鳴いているわけでもなく、ふと思い出したように聞こえる鳴き声。誰も音の発生源は分からないらしく、不思議現象の1つに数え始められていた。
変わらないようで、少しずつ変化している日々の中。訓練メニューをこなし、授業を受け、図書館で勉強をして、呪文の練習。今はクィディッチも。それと、最近ドラコが蛇語を覚え始めた。
ドラコに蛇語を教えてほしいと頼まれたハリーだったが、最初は、残念ながら力にはなれなかった。自分でもよく分からないものを教えるなんて無理だったのだ。それでもドラコが覚えたいと意気込んでいたため、二人で試行錯誤した。そして今では魔法で出した蛇に自分が話しかけて、それをドラコが真似している。しかし習得難易度が高いようで、あまり上手くはいっていない。マスターしているのは数個の単語のみだ。
それでも、単なるシューシューという音ではない、ちゃんとした言葉になっているのだから、ドラコはすごい。そのうち、本当に話せるようになるかもしれない。
何故、ドラコは蛇語を熱心に覚えようとしているのか。
ハリーにそんな疑問は浮かばなかった。
迎えたクリスマスの日の朝。
城の外は真っ白で、凍えるような寒さである。そんな中、ハリーはポカポカと暖を感じつつ安らかに起床した。
時計の針はまだ早朝を指している。いつも通りの時間だ。これから、朝のトレーニングが待っている。
隣のベッドは無人だった。まっすぐと上を向いたまま、規則正しい寝息を立てるドラコの姿はない。
ドラコは、クリスマス休暇中は実家に帰省していた。ルシウスは用事で家にいないそうだが、あの優しい母と温かいクリスマスを過ごすのだろうか。
ここ数日でほんの少しは慣れたはずだったが、今日がクリスマスの日だからか。ハリーは、無人のベッドを見つめて、無性に寂しさを覚えた。
「ん…」
どくん、と心臓が跳ねた。自分以外の吐息、何かがいる気配に、ハリーは虚を衝かれた。
ドクンドクンと弾む心臓が落ち着き始めた頃、ハリーは同時に胸の奥が軽くなっていくのを感じた。探し物をするように、手指がフラフラと宙を彷徨う。
腕をを伸ばしかけたところで気づく。ほんのりと柑橘系の香りが部屋を満たしていた。心がくすぐったくなるのはなぜだろうか。
深呼吸する。ほっと安心した。香りの正体を思い出した。
独りじゃなかったことを思い出したのだ。
昨夜は、いろんな話をした。
お菓子を片手にジュースを飲みながら、ハーマイオニーの話を聞いて、それから自分のことも沢山話した。
互いのホグワーツの生活、クィディッチ、本の内容、寮の違い……とにかく、沢山の話して、聞いた。そして、話すつもりのなかったホグワーツに来るまでのことも話してしまった。
今思えば、途中からハーマイオニーは完全に聞き役になって、決してクリスマスに話すような内容ではない話を静かに聞いてくれていた。
対して自分は、何か溜まったものを吐き出すかのように話し続けてーー多分、そのまま眠ってしまったのだ。
「ああ水…」
ハリーは、後悔や反省、緊張で急にカラカラになった喉を潤す。テーブルの上に置かれたボトルから注いだ水は、酷く甘く感じた。
ベッドの端の方に、そこだけ不自然に毛布が断ち切られた場所ある。ハリーは手を伸ばして、念のためにと掛けられた透明マントを静かに捲った。
ブラウンのふわふわが視界に広がる。窓ガラスから射し込む朝日に透けて、いつもと違って見える髪の色に、ハリーは言葉では言い表せない変な気持ちになった。
ふわふわに埋もれた中に、気の緩む寝顔が少しだけ覗いている。横向きに身体を小さく丸めた姿に、まるで猫みたいだとハリーは小さく独り言ちた。
そう言えば、前に猫を飼いたいって前に言っていたような。
ドラコのベッドを使えばよかったのに、とんでもないと言った風にハーマイオニーは断わって、結果こうなったのだ。しかし、それならばハリーもハリーでドラコのベッドを使うこともできたが、了承なしに勝手に使うのは…と、遠慮した。
最上級生までの使用を考慮したベッドは、小柄なハリーがゆうに三人は横になれるほど広いが、ハーマイオニーは端に寄って丸まっている。
落ちてしまっては大変だと、ハリーは浮遊呪文を唱えた。
ハーマイオニーは自分のために残ってくれた、たぶん。
今年はママとパパが忙しいから…と言っていたけど、それだけじゃないと思う。ドラコが残っていたら、彼女は帰省していたような気がする。
そしてきっと、彼女の両親は例え忙しくても何とか時間を作って、久しぶりに会えた娘とあたたかいディナーを楽しんでいただろう。
でも…。
ハリーはそれを承知の上で、申し訳ないと思う気持ちはあっても、堪らなく嬉しかった。ハーマイオニーがいなかったら、他に誰1人いない寮の、薄暗い部屋でうずくまりながら朝を迎えていたはずだ。それが、こんなにも満ち足りた朝になっている。…そう!今すぐ箒に乗って飛び回りながら叫びたい気分だ!
ーーでも、こんなの友達としては間違っている。本当は抱いてはいけない感情なのだ。
大切な人の時間を奪って喜んでいる。彼女の友達を名乗る資格なんて無いに違いない。自分だけじゃない、誰もがそう思うはずだ。
僕はなんて醜いんだろう。
でもーー本当にどうしようもない。嬉しい気持ちがどうしようもなく勝ってしまっている。
幸福が溢れていくのを止められない。
何て幸せなんだろう。口に広がるチョコレートの香りみたいに溶けてなくなってしまいそうーーーー
「ハーマイオニー」
「ひゃ!……え?えぇっ」
ハーマイオニーは、耳元に感じた熱と音に驚いて飛び起きたーーいや、飛び起きようとして、できなかった。ハリーが頭のすぐ横に両手をついていたからだ。顔なんか目と鼻の先だ。
ハッキリと意識が覚醒した中、恐る恐るハリーの顔を見るも、ハリーはニコニコしているだけだった。眼鏡の奥の瞳がキラキラと輝いて見える。
少しだけ怖い。
あと、顔が近い。何か酷く甘い香りが漂ってくるし。
ーーあ、もしかして。
そこで、寝起きながらもハーマイオニーの優秀な頭脳は、即座に覚醒して原因を突き止めた。
満足そうになったハリーがコロンと横に転がっていくのを見ながら、ハーマイオニーは眉をひそめた。
「ハリー」
「なあに、ハーマイオニー」
コロンコロンと転がっていたハリーがこちらを向く。
聞いているこちらが恥ずかしくなるような甘えた声だ。これは重症だと、ハーマイオニーは更に眉間のしわを深くさせた。
「昨日ウィーズリーの双子から貰ったドリンク飲んだでしょう?ほら、緑のボトルに入ってる…私、それ飲んじゃダメだって昨日言ったのに!」
「え~うーん…あ、さっき飲んだような…?」
「それ……惚れ…えっと、もしくはそれに類似した…そう、そんな感じの成分が入っていたのよ。そんなに強いものでも無さそうだけど」
「惚れ薬…?というか、ああ、うん。だから、こんなにも君のことを見ていたいんだ。声ももっと聞いてたい。ハーマイオニーの声って、優しくて、落ち着くね!」
「…あ、ありがとう?……いや、これは重症ね。ハリー、双子のところに行きましょう。他にも何かあったらいけないし」
「あとちょっと、こうしていたいな…」
「駄目です」
「……じゃあ、一回だけ抱きしめても…」
「はぁ?」
「…その、君が本当に…僕、わからなくて…だめ、かな…」
今のハリーは普通ではない。正直怖い。
ハグはいつだってできるけど、今のハーマイオニーの気持ちは引けていた。
しかし泣きそうな表情のハリーに見つめられると
見ている此方の方が、胸の奥が締めつけられる。
だから、ハーマイオニーは返事はせずに、ハリーの右手をとって両手で握った。
「えっと…大丈夫よ?ハリー。…貴方を独りにしないわ」
「……うん」
「ええ」
「……うん……」
この後、朝食の席で双子を問い詰めて知ったドリンクの効果は、少しだけ感情の自制が利かなくなるというもの。この言い方も大袈裟なほうで、実際は効果はないに等しく、ちょっと素直になる程度のものだった。
それが、ハリーには効きすぎてしまっただけだったのだ。
ちなみにハーマイオニーはその説明を信じてはいない。
『ハリー大丈夫かな。こんなーー先生方の前でもくっついてくるなんて、相当に重症なのかも』
ハリーは不思議な体験をしていた。生まれてこの方不思議ばかりな人生だったが、今回のも中々のものだと思っている。
ハーマイオニーの口は声を発していない。パンをちまちまと食べているだけだ。
だというのに、はっきりとした声が聞こえてくるのだ。
見当はついていた。何故なら、ハーマイオニーが目覚めた時から聞こえていたのだから。
おそらく、あの飲み物が原因で開心術の制御がきかなくなってーーいや、何かが根本的におかしくなっている。
今まではどんなに上手くいったとしても、簡単なイメージでしか読み取れなかった。それも、相手と目を合わせた上でだ。
しかし今はどうだろう。
『うわーお。あれってもしかして僕らがプレゼントしたあれのお陰かな?』
『ハッハー』
聞こえてくる声は、ハーマイオニーだけではなかった。少し意識するだけで、離れて座っているウィーズリーの双子の声まで聞こえてくるのだ。
真顔で食べているのに、心の中では爆笑している双子の片方は見ていて面白い。
湧き上がる興味。
他の人は何を考えているんだろう、と。
今のハリーの頭の中からは、ムーディに警告されていたことなどスッカリと抜け落ちてしまっていた。
そうしてハリーが選んだ対象は、さっきからチラチラと変な目でこちらを見てくる魔法薬学の教授だった。
ーー魔法のステッキを振り回す丸眼鏡の子グマの前には、一片の隙間も存在しない絶対防御が展開されている。他の場所と比べて、そこの守りは比較にならないくらいに厳重だ。
しかし子グマは、何重にも張られた防壁を何事もなかったかのように正面からすり抜けていく。
最後の守りである雌鹿も、隣をスキップ気味で駆けていく子グマに気づく様子はない。
『セブルス、ほらそんな所にいないでこっちで遊びましょう!』
『セブルス、見て!この手紙!』
『寮が別なんて関係ないわ。私たちは変わらない。そうでしょ、セブルス』
『ーーあなたが、そんなことを言うの……?』
『(リリー、ごめん本当はそんな…)』
『なぜ、なぜ!!なぜリリーを助けてくれなかった!!』
『では、あの子は死なねばならぬと?屠られる豚のように生かしておくと…?』
『そうじゃ』
『…これをーー』
「ーーッッツ!!!?」
ゴトン!!、と椅子が床を叩く強烈な音が広間に響き渡った。その音に、ある者は音に心臓を飛び上がらせ、またある者は喉に詰まる食物からえづきあげた。
一同の視線が、音の発生源と向かう。
そこには、目玉が飛び出さんほどの驚愕、そして青ざめ、恐怖を貼り付けた顔のスネイプが立ち上がっていた。
スネイプの目は、一点を向いたかと思えば一瞬で鋭くそれを切り、ナイフとフォークが投げ出されたテーブルへと下がった。
そしてスネイプは下を向いたまま無言で広間を出て行った。
次に、ハリーはこちらを見つめるアイスブルーの瞳と目を合わせた。
「ーーという、訳なの」
「なるほどなぁ。先生方も驚いとった。まあ、その後のスネイプ先生やダンブルドア校長先生の怒鳴った声のほうがもっと驚いたがな…」
「いかんっ!て、すごく大声だったものね。お腹の調子が悪かったって言ってたけど、先生ももうだいぶご老体だし大丈夫かしら…ね、ハリー」
「…ん?ごめん聞いてなかった」
「だなぁ…無理されんといいが」
「…それで話を戻すけど…先生方だったら直ぐに治せるんでしようけど、タイミング逃しちゃったし…それに、そうしたらウィーズリーの双子が罰則受けちゃうしね…明日中…ううん、あと3日して元に戻らなかったら先生に頼ります」
ハーマイオニーは、ふん、と鼻を鳴らしながら言った。彼女には、同寮と言えど特に関わりのない上級生…それも問題児と呼ばれる彼らと、あまり関わりたくなかったのだ。平和が一番である。
それに、決して今のハリーの状態にウンザリしているわけでもなかった。
雪が地面を真っ白に染め続ける午後、ハーマイオニーは、ハグリッドの小屋でお茶していた。テーブルにはハグリッド、ハーマイオニー、そして幸せそうな顔でハーマイオニーの左腕を抱いているハリーが座っていた。
ハーマイオニーは、小さくため息をついた。
朝食の席でもこうだったのだ。食べにくいから離してと言えば、ハリーから返ってきたのは、この世の終わりかと思うほどの絶望の表情。これでは離せと言えるはずもなく、朝からほとんどこの状態である。さっき図書館も追い出されたばかりだ。
しかし、そう言いながらも、今ではもうこの状況に慣れている自分がいるのも事実だ。ハリーの背の低さも相まってーーそう、手の掛かる弟が出来たような心境だった。
一人っ子の自分に、弟がいたらこんな感じだったのだろうか。
もしくは、猫か犬かもしれない。これがずっとだから、少しだけ鬱陶しいけど。
頭を撫でると、擦るが大きくなる。黒色の癖っ毛が三角耳のようにピンピン跳ねる。
ペットには梟か猫がいいと思っていたけど、犬もいいかも、なんて。
「かわいそうになぁ…そんなに寂しかったんだよなぁ…俺にも分かるぞハリー。いや、俺にはまだ父親がいてくれたからよかった。しかしハリーはなぁ…」
ハーマイオニーも、ハリーの気持ちが少しだけ分かる気がした。
ハリーは、去年と比べてどこか人懐っこい雰囲気になっていた。言い方を変えれば、精神的に隙が出来ていた。でも、ハリーは隙を作れるくらいに、充実した日々を送れていたのだ。
去年のハリーは、初めて親友を得て、今まで考えもしなかった家族の軌跡を知った。そして今年、トンクスと一ヶ月暮らしたのが切っ掛けだろう。きっとハリーはそこで初めて、家族の温かみを知ったのだ。
だけどハリーの中で、それはーー家族に向ける愛情は、きっと曖昧なものだ。多分この状況から判断する限り、その情は自分にも向けられているのだろう。すこし嬉しい。
ハリーは今、その情を向ける対象のトンクスとドラコがいないことで、自分にしか向けることが出来ないのだ。
きっとハリーは、表に出さなくとも、いつも寂しかったのだ。
ふと、ハグリッドがこっちを生温かい目で見ていることにハーマイオニーは気づいた。
なんとなく居心地が悪くなり、何か話題はないかと頭を回転させる。
「…あー、そう言えば、ハグリッドの子どもの頃ってどうだったの?ホグワーツ出身よね?」
「あ、ああ…そうだがな…」
「あ…言いづらいのならいいの。ごめんなさい、不躾だったかも。ただ、秘密の部屋について何か知ってたらと思って…五十年前のことなんだけどーー」
「え!?…し、知らん…!!!」
「キャッ!…えっあっご、ごめんなさい!」
ハーマイオニーは、ハグリッドの突然の変化に目を瞬かせる。同時に、ぎゅっと、左手にかけられる力が強くなるのを感じた。
「俺は何もしてないっ!俺じゃねぇ!!アラゴグじゃねえんだ!!」
「えっ」
今、ハグリッドは何を言った?アラゴグ?
いや、それよりハグリッドの瞬きの回数が凄いことになっていることの方が気になるような…。
「…は、え?な、なんか口が…」
「ちょっと、ハグリッド…何か知ってるの?アラゴグって何なの?」
ハーマイオニーは、何かおかしなことが起きていると気づきつつも、知りたがりの性分が、どうにも止めてくれない。
「ア、アラゴグはアクロマンチュラだ……あ、あいつは殺してなんかねえのに!スリザリンの怪物なんかじゃねえのに!分かってくださったのはダンブルドア先生だけだった!!それなのに他のやつらは、あいつの、トムのーー」
言葉はーーいや叫びはそこで途絶えた。ハグリッドは信じられないような目をして、自分の口を両手で塞いでいた。
「か、帰ってくれ!!今日はもう帰ってくれ!!」
「うん、今日はありがとう。お茶美味しかったよハグリッド」
「えっ?ハリー!?」
ハーマイオニーはハリーに腕を引っ張られて、ハグリッドの小屋をあとにした。
外に出ると、来たときよりも強く雪が降っていた。
透明な傘に積もっていく雪。枝に雪の葉を携えた木々。しゃくしゃくと、真っ白に染まった道を進む。まるで別世界にいるみたいだった。
「ねぇ…ハリー?」
「何、ハーマイオニー?」
相変わらず自分の腕を抱いたままのハリーが、ニコニコと返してくる。
「あなた、さっき何かした?」
「…えっと…ああ、うん。ハーマイオニーの助けになりたくて…そう考えてやってみたら出来て…あれも開心術なのかな……あれ…もしかしてだめだった…?」
「…うん、よくない。アレは多分……ううん、もう使っちゃだめ」
「ぁ、ご、ごめんなさーー」
「ううん、私も気づいてたのに止めなかったから…ハグリッドに謝らないと」
「…うん。僕も謝るよ」
「そうね、少し日を開けてまた…でも、ハグリッドの話も気になるわ。何か知っているのは確かだし…うーん、これがいけないのよね…」
ハーマイオニーは、自分の浅はかさを恥じた。
すると、腕にぎゅっと力を感じた。つい、先程と同じように。
「…アクロマンチュラは、禁断の森にいるよ。ハグリッドの意識がそっちに向いてたんだ。それと、トムって人のフルネームはーートム・リドルって…ハーマイオニー、誰か知ってる?」
「…いいえ。そうね、でもーー」
知らないけど、調べてみればわかるかも。
ハーマイオニーは、そう口にしようとして唾を飲み込んだ。
確かに、調べたら何か分かるのもかもしれない。というか、知りたい。しかし同時にこの時、ハーマイオニーの頭をよぎったのは去年のハロウィーンの出来事だ。
根拠などありはしない。しかし、ハーマイオニーにはそれで十分だった。もしかしたら危険かもしれない。去年のような危険に出会って、大切な友達を失ってしまったら?それだけは、嫌だった。
ハーマイオニーは、ハリーの瞳を真っ直ぐに見た。考えを読まれているのかもしれない。しかし、それを承知で言う。なぜなら、きっと今のハリーは聞いてくれるだろうから。
「いいえ、何でもないわ。もう忘れましょうハリー。私達が気にすることではないわ」
「うん、そうだね。ハーマイオニー」
ハリーは屈託のない顔で笑った。
「昨日はごめんなさい!」
「ううん、気にしなくていいの」
「ほんとごめん……あぁ~…ハグリッドにも謝りにいかなくちゃ…」
昨日の朝と同じ、ベッドの上。
ハリーは昨日の出来事をまるごと覚えていた。どれだけの醜態を晒したのか、全てくっきりと記憶に残っているのだ。
それを教授達や残っている生徒達に見られていたことよりも、ハーマイオニーに対しての、申し訳ない気持ちで心が押し潰されそうだった。
それなのに、ハーマイオニーは何も責めることもなく、ただ目を細めて、よしよしと自分の頭を撫でているだけ。
かなり、恥ずかしい。きっと顔は真っ赤になっているだろう。出来れば止めてほしかった。
でも、止めてほしいなんて言えなかった。ハーマイオニーは自分のためにやってくれているんだから。それに、決して悪い気はしない…いや、本当はすごく嬉しい。それ以上に恥ずかしいけど。そう、きっと、自分はまだおかしいままなのだろう。効果がまだ残っているのだ。そうだとも。
ハリーは、昨日のことは早く忘れてしまおうと決心した。
『セブルス、ほらこっちよ!』
しかし忘れたくない、絶対に忘れるつもりのない記憶もあった。
ハリーがスネイプに抱く感情は、多大なる感謝と大いなる罪悪感である。これから魔法薬の授業の時どうしようと悩むばかりであった。
そしてもう1つも、深刻といえるだろう。
その日の夜、ハリーは両親のアルバムを眺めた。
アルバムには昨日まではなかった、手触りのよいカバーが着けられていた。
“リリーとハリーのために。
端に小さくキッチリと、そう刺繍が施されていた。
ついでに叔父のバーノンからは人生最大の商談が成立したとかの自慢話の手紙と、5ポンドがしたためてあった。従兄弟のダドリーからは言うまでもなく、プレゼントの催促のみだった。
ハリーはお礼の手紙だけ送った。
□1月
クリスマス休暇が終わる1日前に、ドラコがホグワーツに戻ってきた。
休暇は楽しかったかと尋ねる前に、ドラコの顔を見てしまって、そんな言葉は言えなかった。
目の下に酷い隈が出来ていた。本人は列車で眠れなかったせいだと言っていたけど…。
そして、つい。
心を覗こうとしてしまった。
クリスマスのあの出来事から心のコントロールが甘くなっていたなんてのは、言い訳だ。
しちゃいけないことなのに。
最低なことをしてしまった。
久しぶりに会えたのに…ドラコがよそよそしくて、それが酷く寂しくて…でも、そんなのは言い訳にもならない。マッド・アイにもあれだけ注意されていたのに。トレーニングの中ではいつもやっているからと言っても、今回のは訳が違う。
そうだ。わかっていた。何故かドラコの心は弱っていて、今ならできるかもと少しだけ思ってしまって、失敗した。
自分を止められなかった。
閉心術に長けているドラコは、自分の浅はかな考えなど、一瞬で気づいた。
ドラコは、顔を真っ青にしてーー激昂した。
胸ぐらを掴み上げられて苦しくて、でもそれよりも自分がしてしまったことを後悔した。
何かみたか、と聞かれたので、何もみてないと答えた。
ドラコは暫くこちらを睨み付けてーー失望した目になって、そっと手を離した。
僕を見るな。しばらく関わらないでくれ
拒絶された。
死んでしまったかと思った。生きた心地がしなかった。
ついには、ドラコは部屋を出ていって、必要の部屋で寝泊まりを始めた。
そのままだと、ハリーの心は完全に折れていただろう。そうならなかったのは、ただひとつ。ドラコが部屋を出ていく際、せめてもと差し出した透明マントを、迷いながらも受け取ってくれたことだ。
ありがとう、借りておく。そう言ってくれた。
ハリーは、まだ本当に見捨てられた訳じゃない、嫌われた訳じゃないと必死に思い込んで、これからの日々を過ごすことになる。
読んで頂きありがとうございます。
秘密の部屋編は、あと3話ほど続きます。賢者編くらいにまとめればよかったです。
投稿、長らく遅れて申し訳ありません。次は早めに投稿できたらと思います。
ありがとうございました平成。