お姉さんの愛し方。   作:とととー腑

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たまには距離感を変えてみて。

コンクリートで出来た地面を、なんとなく視線でなぞってみる。

すると、新しく見えてくるモノは沢山ある。

 

それは近くで見ないと、そもそも見ようともしなければ絶対に見れない。

遠くで見ているだけでは、何も得られない。

 

多分それは、何においてもそうなんだろう。

遠くから眺めているのは疲れないし、期待外れだった時に絶望しなくてもいいから楽だけど。

 

近くから見てみないと、何も分からない。

というか、自分から何かを始めないと何も起こらない。

 

クジは引かないと当たらないし、ボタンは押してみないと分からないし、ゴリラの群れには飛び込んでみないと勘違いするだけだし。

 

恐れて何もしないのが一番の悪手なんだ。

…と、大それた何かを語ってしまっていたが、別に大したことはない。

 

 

タメ口で陽乃さんに接してみると、色々見えてくるモノも多い。

ということだけだ。

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

いつもの通りに、俺と陽乃さんはお互いの思い思いに過ごしている。

 

俺はソファに寝っ転がって話題の新作ラノベを読み、陽乃さんは洗濯物を畳んでいた。

 

ちなみに家事は分担して行っている。

俺は陽乃さんに何でもやらせるほど、生粋のヒモじゃないんだ。

バイトだってしてるし。

 

そんな何気ない人生の1ページを更新している最中に陽乃さんが唐突に口を開いた。

 

「ねぇ、八幡」

「………なんすか?」

「あれ?反応遅くない?」

「今良いところなんですよ。あと、質問を質問で返さないでください」

「あはは、ごめんごめん。でね」

「はい」

「この後、デートしよ。デート」

「えぇ…」

「む。何だその反応」

「だって、今からですか?」

 

もうすでに正午は過ぎており、今からデートなるモノをするにはいかんせん微妙ではある。

 

「むー。いいじゃん。大丈夫だって!」

「イヤです」

「別にそんな変な時間でもないじゃん!」

「イヤです」

「なんでそんな頑ななの…?」

 

だって、今良いところなんです。

主人公とヒロインがくっつきそうなんですよ。

と、心の中で行けない理由を述べておく。

…当然伝わるわけがないが。

 

いつしか陽乃さんは、洗濯物を畳み終わっており、俺の方にそそくさと近づいてきた。

そして、自分を主張するかのように、俺の顔を覗き込んでくる。

 

当然、距離が近づくので陽乃さんの美しい香りが鼻腔を撫で上げる。

何度も嗅いだ香りだけど、今でも慣れることはない。

 

「何若干ニヤつきながら、ラノベ?だっけ。読んでるの?」

「今良いところなんですよ。だから邪魔しないでください」

 

あなたの事を意識してしまって、全く集中できません。

と、声の調子にその思いを込める。

 

そして、横目でチラチラ陽乃さんの動向を観察する。

この人、ロクでもないことを平気でしてくるから油断も隙もない。

 

「見せて!」

「ダメ。大人しくしてて」

 

目をなぜかキラキラ輝かせて、自分の欲求を満たそうとする陽乃さん。

俺は邪魔されたくないので、もちろん要求を拒否する。

 

そして、俺に拒否された陽乃さんは、なんだか腑抜けた表情で固まっていた。

どうしたんだろう。

 

「…初めてだ」

「何がですか」

「八幡が私にタメ口使ったこと」

「……」

「あ!無視したー」

 

ほんとにどうでも良いことだった。

気にした俺がバカみたい。

ていうか、タメ口ぐらい普通に使っていたと思うだけど。

陽乃さんの認識としては、俺は使ってなかったらしい。

 

「私の願望としては、ロマンチックに夜景でも眺めながら、ボソッと囁いてもらうのが良かったかなぁ」

「….知らないです」

「なら、今知ったわけだ。じゃあ、」

「やらないです」

「ぶー。そんな速攻で断らなくても良いじゃん」

 

陽乃さんは拗ねたように、その唇を尖らせる。

いくら陽乃さんの頼みでも、コレだけはできない。

恥ずいし。

 

「もしくはこの部屋で夜景を眺めながらでも良いよ」

「夜景は確定コースなんですね…」

「とーぜん。真昼間に囁かれても、何もロマンチックでもないからね。どうせなら、オトナな時間にやった方がいいじゃない?」

 

オトナな時間。

そんな扇情的な響きに、心なしかドギマギする。

 

「…乙女ですね」

「それは褒め言葉なのかな?」

「さぁ?」

「む。ムカつくなぁ。そんなキミには罰ゲームだよ」

「は?」

「今日1日、タメ口ね」

「は?」

「お、そんな感じ。いいねぇ、八幡。早速実行してくれて」

「あの」

「んー?」

「バカじゃないですか?」

 

心の底から思う。

陽乃さんの妄想ワールド全開じゃないか。

 

「えー、してくれないの?」

「しません」

「…キミってさ、歳下萌えな所あるよね?」

「なんすか突然…否定はしないですけど」

 

妹とか天使とか小町とかいるしな。

あとは次点で、ルミルミとけーちゃん。

…どっちも倫理的にアウトだが。

あ、いろはすもいた。

 

いろはすなら合法だぜ!

…興味ないけど。

 

「八幡せんぱぁい…。好きです…。私のこと…どう思ってますか…?」

「ん!?」

「ど、どうかなぁ…萌える?」

「こ、これはヤバイっす…」

 

頬を染めて、遠慮がちな声で、敬語で。

破壊力がヤバすぎる。

後輩はるのん。

いいと思います。

 

胸が絶対に体に悪いだろってぐらいのペースで動き始める。

心臓が活発になったせいで、全身に血液が送られてくるから、なんだか全身が熱い。

 

なんだか、お互いに見つめ合いながら照れ合うという、新婚さんみたいな状況になっている。

…いやまぁ、新婚さんなんだけども。

 

「めっちゃ恥ずかしいけど…八幡がして欲しいなら、私はしてあげるよ?」

「い、いや…別に」

 

正直、可愛すぎるのでやめていただきたい。

お姉さんキャラで、妹属性もあるとかチートかよ。

俺を萌え殺す気ですか?

 

 

「せ、せんぱぁい……私のこと、知りたくないんですか?」

 

 

上目遣いしながら、手を握ってくる。

…そんなの反則だろ。

サッカーで言うなら1発レッド。

 

俺はもう、無意識に頷いていた。

遅れて、声になる。

 

「これは…ヤバイ」

「ふふふ。じゃあ、今日は1日これね。私が後輩で、君が先輩だよ?」

「えぇ、できないですよ」

「八幡せんぱいならできますよ!」

「もうスタートなのか…」

「ほら、出かけますよ」

 

グイグイと、俺の腕を引いて催促してくる。

抗議をしようとも思ったが、楽しそうな陽乃さ…陽乃の姿を見て、そんな意思はぺちゃんと潰えた。

 

 

…まぁ、こんなのも悪くはないか。

 

 

そう思って、俺は出かける準備を始めた。

 

 

 

ーーーーーー

 

 

 

「ほら、早く歩いてくださいよ!可愛い可愛いはるのんちゃんとのデートですよ!」

「なんだよ、はるのんちゃんって…」

「い、いちいち突っ込まないでくださいよ」

 

珍しく、豪快に自爆した陽乃。

まだキャラが定まっていないらしい。

顔、真っ赤だし。

 

俺たちは歩きで街に出てきた。

今、住んでいるマンションはめちゃくちゃ立地が良いので、歩きで行くことは苦にならない。

 

「で?何すんの?」

「はい、せんぱい。マイナスポイント。それ、はるのん的にポイント低いですよ?」

「それ、妹な。歳下と妹は別物だから。むしろお前が妹の真似するとか滑稽ですらあるよ?」

「必死すぎでしょ…」

 

ていうか、はるのんて言い過ぎ。

無駄に語呂がいいから使いたくなるのは分かるけど。

はるのん、はるのん、はるのん。

 

なんとなく陽乃のキャラが一色っぽいんだよなぁ。

コレのせいで今度から一色に接しづらくなる。

…多分。

 

「ちゃんと、デートコースぐらい考えてないとダメじゃないですか!」

「いやだって、唐突に言われたし」

「歳上としてリードしなきゃダメです!」

「ダメかなぁ…」

「ダメなんですよ!」

 

プリプリと怒りながら陽乃は言う。

仕方ないだろ。

俺がそんなデートの引き出しとか持ってるわけがないし。

 

 

俺と陽乃は街を歩く。

もちろん、手を繋いで。

 

いつもなら会話は自然と弾むが、慣れない関係にしているせいで、お互いに何となく沈黙してしまう。

慌てて俺は切り出した。

 

「は、陽乃」

「あ………ごめん、八幡」

「なに?違った、何ですか?」

「呼び捨て、くるものがある…」

「…ガチの変態じゃないですか」

 

恍惚とした表情で、『くるものがある…』なんて言わないでくださいよ。

響きが官能的すぎます。

しがない男子高校生にはシゲキが強すぎて何だかドキドキする。

 

「頑張って、タメ口には堪えていたんだけどね…。俺様系にもキュンと来ちゃった」

「俺様系って…俺とは明らかにかけ離れたキャラじゃないですか…」

 

そもそも、これを俺様系とは呼ばないだろ…。

ただのタメ口だし。

やっぱり、この人は基本的にズレてる。

タメ口でキュンとくるところとか。

 

「そうかなぁ…?」

「うん、絶対そうですよ」

「あ、キャラがお互い崩れているよ!まだ続けるんだから!」

「えぇ…もう良くないですか?」

「ダメ!…です」

 

陽乃も忘れてんじゃん。

慌てて取り繕ってたけど、分かりやすすぎ。

 

「じゃ、ウインドショッピングでもするか?」

「はい!」

 

俺の提案に嬉しそうに乗ってくれる陽乃。

ルンルンとした足取りで歩いている。

そんな嬉しいか。

と、少しだけ苦笑してしまう。

 

「あ、せんぱい」

「ん?」

「見てください。指輪いっぱい売ってますよ。ちょっと見に行きません?」

 

陽乃が指さした方向に目を向けると、高級そうなアクセサリーショップが鎮座していた。

…これって、そういうこと?

早く結婚させろとかいうアピール?

 

「えっと…」

「あ」

 

俺が口ごもっていると、陽乃は短く驚き、その後に何かを思い付いたような顔を浮かべた。

 

なんだろう。

俺がそう思っていると、急に陽乃が俺の耳元にその綺麗な桃色の唇を寄せてきた。

一気に変わる香りに、クラクラしてしまう。

 

「せんぱい…」

「な、なに」

 

この距離だと、息継ぎの音だって全て聞こえる。

そのことに、妙にドギマギして心臓が跳ね上がった。

 

 

「けっこん……早くしましょうね」

「………陽乃」

「な、なんですか!」

「限界…」

「う、うわ!ちょっと!せんぱい!大丈夫ですか!?」

 

もう、無理。

これ以上は俺のメンタルが持たない。

 

「ちょっと座りましょう」

「あ、うん。いいよ」

 

すごい心配そうな顔を浮かべて、俺をベンチまでリードしてくれる陽乃さん。

 

…やっぱり、歳上キャラだな。

俺が好きなのは。

 

だいたい、3つも上の人を後輩として扱えるわけがない。

 

ボーッとする頭でそんなことを考えていた。

と、ベンチの前にたどり着いたので、2人揃って隣に腰掛ける。

 

「大丈夫?水でも買ってこよっか?」

「いや、そこまでじゃないです…」

「ホント?」

「嘘つきませんよ…」

「…うん。顔見ても多分嘘はついてないね」

「顔見たらわかるんですか?」

「ふふふ、キミのことなら何でも分かるよ」

 

カーッと頬のあたりに血液が流れ込んでくるのが良くわかる。

…ホントにこの人は卑怯。

不意打ちでからかってくるし。

 

「…じゃあ、俺が歳下好きか、歳上好きどっちでしょうか」

「え?さっき言ってたよね?歳下でしょ」

「違います」

「え?」

「俺が好きなのは、」

「待って、言わせて。…歳上!」

「違います」

「え、ちょ!?それは反則だよ、反則!」

 

陽乃さんは自信満々で外したことが恥ずかしいのか、照れ隠しで俺の脇腹を突いてくる。

…メチャメチャくすぐったいし、恥ずかしいし、鬱陶しいし、陽乃さんが可愛く見えちゃうのでやめていただきたい。

 

「俺が好きなのは…陽乃さんだけです」

「………ふふっ」

 

ポケーッとした表情で俺見ていた陽乃さんだが、耐えきれなくなったかのように突然噴き出す。

 

「わ、笑わないでくださいよ!」

「あっははは!ホントに最高だね。キミは」

「言わなければ良かった…」

「でも、ちょっとだけ安心したかも」

「え?」

「キミが好きなのは、年下でも年上でもなく、雪ノ下陽乃だけなんでしょ?」

「…そうですけど」

 

改めて確認されると、どうにも恥ずかしい。

なんで俺はあんなことを言ったんだろうか。

ボーッとして、頭が回らなかったのかもしれない。

 

「キミの周りって何故だか女子が多いよね。しかも、みんな可愛いし」

「まぁ…そうですね」

 

いくら俺でも、あのルックスを馬鹿にすることはできない。

中学生のときに、あいつらに会っていたら勘違いしていた自信がある。

それで告白して振られてクラスメイトに嘲笑されるまでがテンプレ。

 

…あれ?俺のテンプレ、ハードすぎないか?

 

「しかも、そこに美人にモテる八幡だよ。婚約者としては不安にしかならないんだよ!」

「いやいや、モテてないから。美人とかじゃなくて、そもそも人からモテないから」

 

なんなら、すべての動物にまで嫌われてるまである。

長年一緒に暮らしていた、カマクラにさえ嫌われているフシがある俺だ。

 

「はぁ?何言ってんの!?」

「え、そんなに驚くことですかね…」

「無自覚。ヒネクレたらし。ばか」

 

陽乃さんは流し目でジトーっとこっちを見て、静かに罵倒してくる。

…なんだか変な性癖に目覚めそう。

 

って、『ヒネクレたらし』なんて造語を作らないでください。

そもそも俺は、誰かをたらし込んだ過去なんて持っていない。

…歳上のお姉さんならたらし込んだかもしれないけど。

 

「そんな馬鹿にしなくても…」

「ふん。バーカ」

 

急にヘソを曲げる陽乃さん。

何でこうも女心って複雑なんだろうか。

その点で言えば、男心なんて簡単だ。

 

ちょっと話しかけたり、その人の目の前で落し物をしたりするだけで、すぐ勘違いするイキモノだから。

 

しかも、勘違いしたら相手のことがなんだかよく見えてくるフィルター持ちだし。

 

「そもそもキミはね、彼女をどんだけ待たせる気なの?」

「はい?」

 

なんですか。

藪から棒に。

 

「私はね、3つも離れてるし、学校も違うしから、常に不安になるの」

「面倒くさいっすね…」

「む。何を言うか。面倒くさくない女のコなんてどこにもいないんだぞ」

「そうなんすか…」

 

確かに陽乃さんは面倒くさい。

毎日好きって言わせてくるし、ちょっと無視するとすぐ拗ねるし、かまってアピールが激しいし。

 

「それでね、不安だから。早く結婚したいんだよ」

「いやでも、もう便宜上は俺らはもう夫婦なんじゃないですかね?」

「それでも、だよ。まだ結婚式だって挙げてないし。私は早く静ちゃんにブーケを投げたいんだから」

「なに平塚先生をからかおうとしてるんですか…」

 

俺たちは平塚先生には挨拶しにいった。

驚かれるのかなって思って、先生の顔を観察してたら、憐憫を垂れるような表情をされた。

多分あれは、陽乃の相手は大変だぞというメッセージだったんだろう。

実際、大変だし。

 

「あはは、冗談じゃないけど冗談だよ」

「どっちですか…」

「さぁ?でね、私はずっと待ってるから。左の薬指はいつでもフリーなんだよ」

 

自分の言葉を証明するために、陽乃さんはその左の薬指を見せつけてくる。

雪のように、美しくて儚い雰囲気を纏った魅力的な指。

思わず俺は、その指を食い入るように見てしまう。

 

ああ、ダメだ。

陽乃さんのどの部分も愛しく見えてしまう。

もはや、病気の域だ。

 

そういえば、陽乃さんの指のサイズはどれぐらいなのだろうか。

家に帰ったら測ってみよう。

 

そんな予定を考えながら、俺は息を吸い込む。

軽く吸い込むはずだったのに、緊張のせいか、深く深く吸い込んでしまう。

そして、言葉を喉の奥から放った。

 

「…待っててくださいね」

「え?」

「ちゃんと、いい指輪買いますから…」

「……あ、うん!待ってるよ!」

 

俺の言葉の意味が伝わったのか、一気に表情が華やぐ。

それを微笑ましく思いながら、おれは頭の中でバイトの計画を立てる。

 

少々、無理したとしても高いのを買おう。

安っぽいのは陽乃さんには似合わないし、俺が嫌だ。

将来、パーティーの席で陽乃さんが自慢げにその薬指を見せれるように、多少無理しても、買うんだ。

 

「あ、八幡。そろそろ行こっか?」

「オッケーです」

「ね。買い物しようよ」

「良いですけど、俺は買いませんからね」

「え、なんで?」

「指輪を買うお金がなくなるからです」

「ふーん。じゃあ、お小遣い増やしてあげる」

「え、マジすか!?」

 

これはまさに寝耳に水。

まさか、陽乃さんは結婚を盾に取ったら優しくなるのか!?

と、俺が新しい事実に驚愕していると、陽乃さんはにっこり微笑んだ後にゆっくりと喋り始めた。

 

「その代わり、これから毎日のご飯は全部、パン粉ね」

「…できる限りの範囲で買い物します」

 

どうやら陽乃さん的に指輪のために生活するのはNGらしい。

危うく公園のハトのような生活をするハメになるとこだった。

…いや、パン粉だけとか、ハトでももうちょい良い生活してるぞ…。

 

 

ちなみに、家のお金関係は全部陽乃さんがやってくれている。

金の扱いに疎い俺からしてみれば、かなりありがたい。

…その分、無駄遣いとかしたら怒られるけど。

 

あと、家事も完璧なウチの奥さん。

料理、洗濯、掃除などバッチリだ。

 

もちろん俺だってしている。

協力する姿勢が夫婦円満の秘訣なのである。

 

「うん。それでよし。ちゃんと無理せずに指輪を選んでね?八幡からなら、何でも嬉しいから」

「…分かりました」

「ふふふ。聞き分けがよろしい。じゃあ、八幡のお小遣いはパーっと使っちゃおう!」

「はい?」

「八幡の奢りで居酒屋いこ!」

「行きません」

「ちぇっ。ま、いっか」

「あ、引っ張らないでくださいよ」

 

ゆっくりと、時間は過ぎていく。

過ぎていくモノはもう手に入らない。

だからこそ、今を大切にしていきたい。

今、俺の横にいる陽乃さんは、今の俺しか愛せないのだから。

 

 

美味しいご飯も、移りゆく季節も、寂しいという感情さえも。

全て、陽乃さんから始まっていく。

そして、陽乃さんから終わっていく。

 

まるで太陽が昇って、沈むみたいに。

沈んだら、また昇ってきて。

 

恋心なんてアリの命ほど儚いけど、だからこそ尊い。

溢れんばかりの想いが俺の鼓動をたまに妨害する。

 

 

俺は繋いだ手を、再び強く握る。

もうホドけなくても良いなと思うぐらいにココロが落ち着いて。

それでいて森の中に涼風が吹いたかのように、胸の中がざわついて。

 

陽乃さんは一回、繋がれている手を見てから、俺の方に顔を向けてニッコリと微笑む。

 

…やっぱり、その笑顔だ。

俺の景色に色を付けられるのは陽乃さんしかいないんだ。

灰色だった俺の世界をデザインしたのは、陽乃さんなんだ。

 

おかしいぐらいに跳ね上がる左胸。

体に悪いんじゃないかってくらい不規則に踊っている。

 

 

もうこんな複雑で単純な感情。

抑え込むなら認めるしかない。

俺はゆっくりと、その言葉を頭に浮かべる。

 

やっぱり俺は、陽乃さんのことが、好きなんだなって。

 

 

バカップルほどのペースで愛を囁く気は一切ないが、たまになら言ってもいい。

そう、思えた。

 

 

歳下設定。

それもたまにならいいんじゃないかな。

新しい陽乃さんを見つけられるし。

なんでも、近づいてみるのが大切なんだ。

 

…やっぱりこの人といるのは楽しい。

今までも離したことはないが、これからも絶対離さない。

そう決意して、俺は少しだけ隣との距離を詰める。

 

すると、陽乃さんもちょっとだけ距離を近づけてくる。

驚いて顔を見てみると、そこにはイタズラな表情を浮かべた陽乃さんがいた。

 

 

…もう最高ですよ。

 

 

俺はふっと独りごちる。

今この時間がひたすらにかけがえのないモノに感じる。

1秒が経つたびに、今は1秒だけ遠くに行ってしまう。

 

それがひたすらに悲しい。

もう、戻ってこないということが寂しい。

 

 

だからこそ、この時間が好きだ。

だからこそ、陽乃さんが好きだ。

 

 

好きで好きで、大好きだから。

たまには、変えてみよう。

 

何かを変えるのは逃げかもしれないけど、逃げたら見える景色は変わる。

その景色が嫌なら、もう一回戻ればいいだけの話だ。

 

 

だからこそ、陽乃って呼ぶことが好きだ。

 

 

お互いがお互いをいつまでも好きでいること。

簡単そうで難しい。

恋心なんてフクザツだ。

 

 

だからこそ、たまには距離感を変えてみること。

 

 

それで更にあなたを好きになれる。

そんな気がした。


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