佐倉杏子は夢を見ていた。
昔の夢。家族の希望を祈り、家族の絶望に終わった過去の夢だ。
杏子は父のための願いを叶え、それが父を終わらせてしまったことを胸に刻み、それを最大の教訓として生きている。
奇跡はタダではない。
奇跡が生んだ希望は絶望を呼び、そうして差し引きをゼロにして世の中は回っている。
佐倉杏子は、そう信じていた。
世の中には良いことも悪いこともあり、最後には帳尻が合っていく。
良いことだけが起こることもなく、悪いことだけが起こることもない。
それは当たり前のこと。
摂理は必然の理であり、それは人間だけでなく―――インキュベーターにも適用される。
この宇宙に生きるのであれば、どんな命でも、災害や通り魔のような予測不可能の不幸に見舞われる可能性はあるものだ。
「……んっ」
佐倉杏子は目を覚ます。
新しい寝床を探すのが面倒臭くなって、ギャラクトロンの中で寝たことを思い出しながら、目をこすり、機内のモニターで外を見ようとして……杏子は、燃える宇宙を見る。
ギャラクトロンは、燃える宇宙の只中に居た。
「は?」
宇宙は燃えない。
ならば、そこで燃えているものはなんなのか。
星が燃えていた。
星の外の被造物が燃えていた。
インキュベーターが燃えていた。
宇宙空間を埋め尽くす勢いで、そこかしこでインキュベーターが燃えていた。
「な、ん……だ、これっ……」
『インキュベーターの母星、生息範囲、関与星系のリセットを完了した』
「―――」
『地球に残った一部の個体のリセットを完了させれば、インキュベーターのリセットは完了する』
一瞬、杏子はギャラクトロンの言葉を理解できなかった。
つまり、ここは、インキュベーターの故郷。
ギャラクトロンはインキュベーターの主張の一切を無視し、魔法少女の利害を尽く無視し、人類全体の損得さえ無視し、この虐殺を実行したということだ。
自分の中で寝ている杏子のことさえ気にせず、キュゥべえのほぼ全てを殺し尽くした。
その上で……止まらない。
『続き、他星系の食物連鎖を行う生態系をリセットする』
「っ! やめろ! 止まれ! これ以上殺すんじゃねえ!」
この宇宙に存在する他の生命――まどかに殺すなと言われた『人間』以外の全て――を殺そうとするギャラクトロンを、杏子が止める。
その言葉に従い、ギャラクトロンは動きを止めた。
―――ギャラクトロンくんも……その、できれば、杏子ちゃんのお願いを聞いてあげて欲しいな
あの時まどかがギャラクトロンに言い聞かせた
どの程度まで有効かは分からないが、今のギャラクトロンは杏子の願いを聞いてくれている。
本当に、鹿目まどかと交わした約束を忘れず行動しているようだ。
ギャラクトロンは思考し、適応している。
まどかの言いつけを守りながら、自分のすべきことを実行しようとしている。
殺すための抜け道を、探している。
「もう人間以外の生き物も殺すなよ。
まどかが食うもんが最終的になくなっちまうぞ?
あと、もう地球から出んな。
お前が地球を離れてるのが短時間でも、その短時間でまどかの奴が殺られるかもだろ?」
杏子の言葉に、ギャラクトロンは悩む。
悩んで、悩んで、ピコーンピコーンと音を鳴らして。
ソウルジェムを握り"万が一"に備える杏子の期待通りに、頷いた。
『了解した』
杏子がほっと息を吐くと、ギャラクトロンは魔法陣を展開する。
次元を跳躍する術式が応用された、空間を跳躍する魔法術式だ。
杏子は宇宙に浮かぶ、既に星ですらなくなったインキュベーター達の故郷を見やる。
彼女が昔読んだ本には、星の死の例として、超新星爆発やブラックホール化等のものが記載されていた。
それが、星の寿命の果てにあるものなのだと書かれていた。
宇宙もいつか死んでしまうと、そこには書かれていた気もする。
だが、違った。
インキュベーター達が住まう星は、そういった"星の死"とはまるで違う終焉を迎えていた。
彼らの星は、寿命で死んだのではなく、ギャラクトロンに殺害されたからだ。
殺害された星の死体は、超新星やブラックホール以上に無残な死に様を晒している。
砕けた星の大地は星の肉。
ビームで完全に蒸発させられ、宇宙空間で結合した水分は星の血。
灰と炭になったキュゥべえは、無残に破壊された星の欠片と混ざりあって、どこからどこまでがキュゥべえの死体なのかも分からない。
吐き気を催す光景を見ていた杏子だが、ギャラクトロンが魔法陣で空間を跳躍すると、彼女が見ていた光景は一瞬で地球のものへと変わった。
「……便利なもん持ってんな。
戦闘で使ってねえのは相手が弱すぎるからか、事前動作に時間食いすぎるからか」
『当機は長距離移動を前提としたチューニングがされている』
「そうかい」
杏子はギャラクトロンの胸部を開け、コードを解いて外に出るでもなく、座ったまま頭を抱えて沈黙する。
ギャラクトロンの胸部内に保管された花の冠が、杏子の目に入った。
まどかが感謝の心と共に贈ったそれが、昨日と今日でまるで違うものに見えるのは、杏子がギャラクトロンを見る目がガラリと変わってしまったからだろうか。
開いた胸部から見える街の夜景さえ、杏子に"この夜景もギャラクトロンならすぐ壊せる"という嫌な連想をさせてしまう。
「おかえりなさい。やはり宇宙の方に行っていたようね」
「! 暁美ほむら……」
「聞かせてくれる? 何があったのか」
迎えてくれたほむらに、杏子は一部始終を話した。
ほむらは淡々とした反応を見せていたが、杏子が言葉に恐怖を滲ませているのに対し、ほむらは言葉に嬉しさを滲ませないよう必死に抑え込んでいるように見えた。
「……あたしは、こいつが怖い」
杏子がギャラクトロンを見る目は、すっかり変わってしまっていた。
まどかが贈った花冠も、まどかの優しさが形になったものと見ていたのに、今ではまどかの見る目のなさが形になったものにしか見えていない。
そのくらい、ギャラクトロンへの印象がひっくり返ってしまっていた。
「でしょうね。
悪は憎めばいい。でも、暴走する正義は怖いでしょう?」
「正義? こいつが正義だっていうのか? 悪じゃねえのか?
曲がりなりにもキュゥべえに願いを叶えてもらった、あたしらが」
「ええ、少なくとも私にとってのギャラクトロンは悪じゃないわ」
自分の話を聞いた上で、ほむらがギャラクトロンの足に寄りかかるようにして背中を預けるのを見て、杏子はよく分からないものを見ている気分になった。
やがて、そこにキュゥべえが現れる。
「地球人の善悪感覚は置いておくとして、定義としては悪に近いんじゃないかな」
「! キュゥべえ! ……やめろギャラクトロン!」
ギャラクトロンが反応し動いたのを見て、杏子が慌てて止める。
ほむらはキュゥべえを見て目を細めた。
「あ、あのさ……キュゥべえ……あんたの仲間が……」
杏子は気を遣っている。
キュゥべえを胡散臭い奴だと思っている杏子は、好きか嫌いかで言えば嫌い寄りの感情を抱いてはいるが、仲間が多く死んだキュゥべえにはつい同情してしまう。
仲間の死を、故郷の滅亡を、どうキュゥべえに伝えたものか。
杏子は悩み、言葉を選んで、口ごもってしまう。
それは彼女が普段心の奥に隠している、彼女本来の優しさだった。
だが、キュゥべえは自分に優しさの感情が向けられていることさえ理解せず、語り出した。
「さっきの攻勢は恐ろしいものだったね。
僕らの抵抗がまるで無意味だったよ。
予想以上に、ギャラクトロンという存在は恐ろしいものだったようだ」
「……え?」
キュゥべえは総体生物である。
一が全であり、全が一。
個体の知覚は、総体の知覚。
彼は星の上でギャラクトロンに抵抗し、応戦し、敗北した記憶をちゃんと持っている。
「これは僕らの手には負えない。
できれば、まどかがギャラクトロンの消滅を願って契約してくれれば良いのだけれど」
その一言が、二者の逆鱗に触れた。
ギャラクトロンの爪がキュゥべえの横に突き立てられ、ほむらの銃口がキュゥべえの額に突きつけられる。
「させないわ。まどかを魔法少女なんてものには、絶対にさせない」
「さて、それはどうかな」
「……? 何を企んでいるの?」
「僕らもなりふり構っていられない。
今、他の僕がまどかとさやかとマミに、魔法少女の真実を伝えたところさ」
「―――!」
ほむらが、手にした銃でキュゥべえを思いっきり殴った。
「なんてことを!」
「このままだと僕らは宇宙を救済する前に全滅してしまう。
それだけは避けなければならない。
僕らの死滅は、宇宙の終焉をほとんど確定的にしてしまうからね。
だからこそ、僅かな可能性を見出すために、場を乱す手を打たなければならない」
不確定要素が増えれば勝敗はあやふやになり、不確定要素が減れば勝者と敗者はより確定的なものとなる。
場を乱して不確定要素を増やそうとするのは、大抵敗北が確定しかけている者だ。
もはや地球にしか個体が残っていないキュゥべえは、ギャラクトロンという確定要素を超える不確定要素を求めている。
「ギャラクトロンが僕らを全滅させるのは、ほぼ確定事項だろう。
だからこそ、僕らは全滅する前に、宇宙を救済していくことにした」
「……まどか一人契約させれば、帳尻は合うってわけね」
「その通り。彼女は素晴らしいよ。
人間のような言い方をすれば……彼女が、今の僕らの唯一の希望なんだろうね」
人類史上最高とも言える資質を持つまどかが魔法少女になりさえすれば、そのエネルギーで、キュゥべえの目的である宇宙の熱的死の回避は成る。
キュゥべえには、その後ならば自分達が絶滅してもいいとすら思っているフシがある。
彼らは残り少ない個体の全てを、まどか契約のために費やすつもりのようだ。
「私達が居る限り、あなたの思い通りになんてならないわ。絶対に」
ほむらはギャラクトロンに拳を叩きつけるようにして、"私達"と言い放った。
鹿目まどかという中心点と、それを狙うインキュベーターと、まどかを守る守護者という構図が浮き彫りになる。
杏子は話の細かな部分が理解できなくて、けれど嫌な予感だけはしていて、キュゥべえ達に真面目な顔で問いかける。
「なあ、魔法少女の真実ってなんだ?」
「僕らが告げる魔法少女の真実、それはね―――」
キュゥべえは語る。
無感情と微笑みの二種類しかない、いつもの顔で語る。
魔法少女とは何なのか。
魔法少女の末路とは何なのか。
インキュベーターの目的とは何なのか。
口調は淡々としているわけでもなく、むしろ陽気な少年のようですらあるのに、語られる内容に気遣いも情もまるでない。
インキュベーターが語った真実は、論理的には正しいと解釈できるものであったが、人情的には全く納得できないものだった。
「……は?」
杏子の目に殺意が宿り、杏子の手がキュゥべえの首を掴み上げる。
「てめえ、ふざけんじゃねえぞ!
んなことしといて、てめえ、てめえ……なんでそんな平気なツラして語ってやがる!?」
「僕はいつもこんな顔だよ。君も知っているだろう?」
「ざっけんな!」
杏子はようやく、ギャラクトロンがキュゥべえを殺し尽くした理由を理解した。
「そのまま殺してしまってもいいわよ、杏子。
さっきそいつ自身が言ってたけど、そいつ自体は無数に居る。
けど、事ここに至っては一体でも数を減らすことは無駄じゃないわ」
「今日は知りたくもなかった話ばっかで、やんなるね」
「そいつはまどかを契約させたがっている。
だから美樹さやかと巴マミに真実を語ったのよ。
まどかの因果なら、契約の際にどんな願いも叶えられる。
魔法少女を人間に戻すことも、ギャラクトロンの打倒も、おそらく死者の蘇生ですら」
「……まどかを追い込むために、まどかの周囲から追い込もうとしてるってことか?」
「ええ、その通り。
やはりあなたが一番魔法少女に向いたメンタリティを持っているわね。
追い込まれても絶望せず、冷静に思考を回し、ある程度情を廃してものを考えられる」
ほむらは褒めたつもりだったが、杏子は褒められた者の表情とはまた違う苦笑を浮かべる。
「まどかと話してるとさ、思うんだよな。
あたしはそんないいやつじゃないよって。
まどかの目は、あたしを実情以上にいいやつに見てる気がする」
「ええ、あの子はいい子だもの」
「で、お前と話してると思うんだ。
お前があたしを見てる目を見ると思うんだ。
あたしはそんな悪いやつだったっけか、って」
「……」
「ま、あたしは実際まどかと違っていい子じゃねーけどさ」
杏子はほむらに対し抱いていた本音を口にして、ほむらの目を見る。
ほむらもまた、本音を――少しばかり冷たく酷な言い方にして――語った。
「当たり前じゃない。
まどかは少女としてのあなたを見ている。
私は魔法少女としてあなたを見ている。
まどかはあなたと私生活でも一緒に遊びたいと思っている。
でも私は、戦いの時以外で積極的にあなたと一緒に居たいだなんて思ったことはないもの」
今現在のほむらには、まどかしか見えていない。
まどかのためなら何もかもを犠牲にできるだけの覚悟が、そこにはある。
「はっ、酷薄な奴だなてめー」
ほむらの酷薄な言い方に、杏子は反発を覚えるでもなく、むしろ納得したようだ。
突き放した言い方だったはずなのに、ほむらと杏子の心が少し近付いた音がする。
「だけど、こいつよりはマシか」
杏子は、掴み上げていたキュゥべえを思いっきり上に投げた。
「ギャラクトロン!
人間以外は殺すなってあれ、撤回する!
こいつはお前の大切なまどか様を害するよ、絶対に!」
『了解した』
チュイン、と細いビームが放たれて、投げ上げられたキュゥべえがビームで燃え尽きた。
「ほむら、どうする?」
「手分けして美樹さやかと巴マミを探しましょう。
ソウルジェムが濁っていたら、取り押さえてでもグリーフシードで浄化して頂戴。
使った分のグリーフシードは、後で私が自分の保有分から補填するわ」
「あたしがそんな意地汚く見えるか? 要らねえよ、あたしの分から勝手に使うさ」
そして二人は駆け出していく。
杏子は「マミは大丈夫だがさやかは絶対にヤバい」と思考して。
ほむらは「巴マミも美樹さやかも絶対に危険」と思考して。
二人は仲間を救いに向かう。
ギャラクトロンも後を追い、ゆったりと夜空の飛行を始めた。