Fate/Imaginary Boundary【日本史fateホロウ】 作:たたこ
「――!!」
ハルカはぐっと、喉元に何かがせり上がるような感覚を味わった。今の、再生体たる自分には絶対にありえないと思っていた戦いが、目の前に蘇ったことによる興奮。
おまけに今の自分にはサーヴァントがいるうえに、シグマにはいない。
比較的、正攻法の戦闘を好むハルカ・エーデルフェルトではあるが、彼も華麗なるハイエナの一員、サーヴァントの有無があるから引いてやろうという心はない。
元々、土台シグマは格上の相手なのだ――このアドヴァンテージを見逃すなど、ありえない。
ハルカの殺意を察知したシグマは――そもそも、出会った時点でこうなることをわかっていたのだろうが、不敵に微笑む。
「あなたは素晴らしい魔術回路を持っているのでもないけれど、垣間見た魂は悪くなかったわ……」
シグマがサンダルでステップを刻む。歌うように、踊るように――彼女の碧眼が明るい黄金を帯びる。円を描きながら、踊っている。
「私の陰陽術は一.五流止まりだし、先輩にはむしろ悪手だから自前の魔術を使うわね――」
同時にキャスターが攻防一体の鏡を実体化させ、さらに宙に浮かぶ魔法陣から魔力――遠当ての弾丸を一気に打ち放った。
濃密な魔力を込めて打ち放たれ、物理的破壊力を持つ弾丸は彼女を狙ったが、シグマの手前で不自然に曲がり、地面を抉るだけに終わる。
「
シグマを取り巻く濃密な魔力が、あたかも宇宙服のように、彼女を隙間なく覆ってあらゆるものから保護している。それは、歌が紡がれるごとに視認できるほどに密度が上がっていく。狭い空間の中で充満する魔力の鎧に覆われて、あらゆる魔術的干渉を阻害するバリアだった。
ハルカは知らないが、春日聖杯戦争最終戦におけるシグマは、大空洞という空間に限って
「
キャスターは遠当ての雨を降り注いでいくが、意味がないことには気づいていた。サーヴァントとしての彼女の力は、誰かに戦ってもらうためのものであり、彼女自体の攻撃力はたかが知れている。
その本質は、神話時代の巫女だからといって変わらない。
「ッ……! 全く、この薄いエーテルの時代にこんな巫女がいるなんて、信じたくないですね……! ……ハルカ様っ!?」
いきなり飛び出し、シグマに突貫していくハルカを見たキャスターは驚きの声を上げた。いや、ハルカが前のめりなことは、彼女もとっくに知っている。だがしかし、いつもより遥かに素早いように見えたのだ。
ハルカに恐れはある――魔術師であり人間であるが故に。
この世界で戦い勝つことに何の意味もないと一時は思ったが、今は違う。たとえこのシグマが再生体であっても、それと戦うことが自分にできる唯一であるならば成そうと思っていたハルカが、シグマが本物と知った。発奮しないわけがないのだ。
それについていけていないのは、キャスターのほう。原因は自分が戦闘向きではないことではない。自分で自分に、勝手にあきれ返っているだけ。
「キャスター!」
それでもキャスターは、ハルカ・エーデルフェルトのサーヴァントである。この人を救うと誓ったサーヴァントである。
彼が戦うことを選ぶなら、彼女もまた同じ。
「……ハイッ!」
ハルカは手持ちの宝石量を確かめた。持っている量は『
超超至近距離での、宝石魔術解放――!!
「
閃光と爆風が広がり、池が激しく波だった。今のハルカの耐久力はサーヴァント換算でBランク、長年魔力を貯めてきた宝石の破壊力はBランク。
彼自身は無傷だがシグマは――
「
美しい歌声はそのまま――彼女を覆う魔力の鎧は、Bランクの攻撃さえも凌いだ。凄まじい魔力の奔流、これは
「……ハルカ様、強化を続けますッ!あれでも、彼女の鎧は完全じゃない――お得意の格闘技ぶち込んでください!」
「――はい!」
彼女の眼が尋常ならざる光を帯びているのは、ハルカも気づいていた。セイズはガンド・ルーンに並ぶ北欧の魔術であり、呪歌と円を描くような舞踊を伴い、神霊や精霊を降ろす降霊術。シグマはそのためだけに生まれた傑作であると。
――このままシグマの降霊が完全に終われば……。
決着をつけるなら短期決戦しかない。あの魔力の鎧を一時でも突破しなければ止められないが――ハルカは一瞬だけキャスターを振り返り、念話で伝えた。
「――ッ、ふるえ、ゆらゆらとふるべ!」
流石は神代に近い巫女、魔力については
その雨嵐の中を駆けるハルカ・エーデルフェルト。
――自分で自分を貶めるのはやめなさい。戦う相手は、まず己ですわ。ベストを尽くし、死力を尽くし、限界に挑む。それから考えなさい。
あなたは最早エーデルフェルト――闘争本能と誇りがないとは言わせませんわ。
遠く、遥か昔のようだ。エーデルフェルトにやってきたとき、落ち込んでいた己にかけられた、当主の片割れの言葉。
この結界が新たな土地とするなら、エーデルフェルトにやってきたときのように、また己は戦うだけだ。
使うのは/信じるものは、いつでも鍛え上げてきた己の力だったはずだ。
「
「――shit」
刹那、瞬でシグマの至近距離――懐へともぐりこむ。ルーンで強化を施してある両の拳、その腹部へと連撃を叩き込む――その程度で効かないことは百も承知、魔力に触れるその瞬間に、放つ。
「
この紐自体は魔獣・幻獣ではないシグマに直接の拘束力はない。だがフェンリルの魔力さえ縛りつけた礼装、それは拘束できなくても――一時的に魔力を薄れさせることはできる。
一歩足を引き、グレイプニルを巻きつけた左拳で殴りつけた後間隙もなく右拳を叩き込み――握りこんでいた宝石を炸裂させる!
「
シグマの歌声が途切れる。今しかないとハルカは畳み掛ける――さらに踏み込み、左拳、右拳、左拳、右拳、左拳、右拳を目に見えぬ速さで叩き込み、左手でシグマの襟ぐりを掴むと自らの身体を右に捻り、顔面から背負い落した。
正式な柔道であれば危険すぎて反則になる禁じ手である。
骨を砕く音を感じ、ハルカは間にあったかと振り返った――だが、足元のシグマはまだ呪歌を紡ぎ続けていた。そしてハルカは、足元の彼女を見てしまった。
「……ハルカ様! ダメです!」
「……
黄金の瞳が輝いていた。魅了の魔眼――神をも惑わせた神の眼が、ハルカを捉えてしまった。呪歌を終えた、巫女の眼が。
「……っう……!」
ハルカはその場にグレイプニルを手放し、座り込んでしまった。頭に霞みかかったように動かず、遠くから心地の良い声が聞こえてくる。その声は囁く「己の首を締めよ」。
心地よい響きの中で、ハルカの手は己の首にするすると伸びる。酸素を求めるのも馬鹿馬鹿しく、遠のく意識に身を任せる。
もう何も考えることなく、美しい声――女神に出会えたらこのような声をしているのだろうという夢に身を任せ――「ハルカ様ッ!」
「ッ……!!」
目の前には、暗闇と星空が広がっていた。恐ろしいほど強い力で、ハルカは自分の首を締め上げていた。一気に肺に酸素がなだれ込んできて噎せ返る。
我に返ったハルカは事態を理解し――嗚呼、また敗れた事実を理解してしまった。
「先輩は、祓うことは得意だものね……」
シグマはつまらなさそうに嘯き、顔を上げた。すっかり戦意は失われており、瞳もいつもの碧に戻っていた。元々強い敵意や殺意を持っていなかっただけに、彼女はちらりと噎せているハルカを見たが、直ぐに目を放した。
「……戦っても絶対に死なないなんて、やっぱつまらないわよ、先輩。まあ、この死なないってのはあなたの企んだ機能じゃないから、どうしようもないんだけれどね」
世界の創造主に対し、シグマは正面から愚痴を垂れた。創造主としてシグマのことを既知としているキャスターは、真っ直ぐ見据え返す。
「……世界の造りについては、もう言い訳のしようもないです」
「先輩は、きっと戦いが好きではないのね。でも、貴方のマスターは戦いを望んだ。殺し合いの果てに死ぬのなら、それは良いと。聖杯戦争に死なない世界。あなたたちのちぐはぐな願いを、折衷しちゃったみたいね」
既に知れた、この世界の在り方の話。あまりに歪で、もう僅かの命脈しか残らぬ世界。
「……ところで、シグマさん。何の御用なのですか。……今更ですけど」
シグマは不思議そうに首を傾げ、頭を振った。「用? ないわ。私、サトルの家に居候しているから戻ってきただけよ」
「……」
そういえばそうだった。そもそも、キャスターたちは帰宅するシグマを待ち構えていたのである。シグマはキャスターに支えられるハルカを見て笑った。
「再生体のあなたに言ってもしょうがないんだけれど、私ね、ちゃんと現実、実数世界に戻るのよ。だから現実のあなたが何時殺しにくることを、楽しみにしてるわ。ん~~ここであなたを殺しても、私食べられなくて意味ないもの。なにしろ生き返っちゃうんだから」
現実世界――実際に春日聖杯戦争があった世界の記憶を持つシグマは、誰よりも早くこの世界の違和感に気づいていたはずである。殺しても、生き返る。シグマに取り込むことのできない
「……己の魂の薄き者。ゆえに人の魂を求めるもの。……あなたにとって摂取する人間の魂が色鮮やかでなくなるのは、魂の死活問題でしたね」
「そうね。元々私に人格なんてないもの。神の器。私はその為だけに生まれたのだから、人格など不要だったもの」
アスガルド家の傑作、神霊を降ろす者。神を顕現させるためにあった体に自己の意識は要らなかった。けれど「器」に残った魂は、欠けた魂の埋め合わせを求めた。肉体に依存しない存在証明、己の記録。魔術師を食べるだけ自らの回路を増殖させる魔女は、ただ回路と刻印を求めるだけではなく、己の欠けた部分を取り戻すために人を食らわねばならない。
この世界において、人は死なない――つまり魂食いができない彼女は、ただただ自己が/自分が薄れていく感覚を味わっていた。それを一般人に一番近く例えるなら、己の人格が壊れる恐怖。
「――平和って何かしら。安穏って何かしら」
彼女は生まれてからずっとこの通り。神の器。器に何か入っていては、降ろす者にとって邪魔だから、彼女はカラである。
今更魂食いをやめろということは、彼女に生きることを辞めろと言うのに等しい。聖杯戦争に彼女が神父と共謀したのも、宿命染みたものがある――方や傍観に徹し、方や自らの糧とするためであるが、戦う人間を求めていたのだ。
時代は違うが巫女として、キャスターは半ば憐れみを持って呟いた。
「……あなたも災難な生まれですね。だけど、そんなだからこそ、
「ライダーも人格なんてなくてもいいはずのものよね。あれ、もともと私が降ろそうと降霊する対象の側だもの」
シグマは大きく溜息をついて、肩を落とした。言葉通り彼女は、常と変らず過ごすつもりか、二人に向かって歩いていくと、何もせずに通り過ぎた。そう、山内悟の家は、今の彼女の家である。
「ハルエ・エーデルフェルト。また会えるなら会いましょう。覚えているならね」
最後に向けたシグマの顔は、つぼみが花開くように艶やかで、それでいていつか散る花を惜しむような表情だった。
非常にわかりにくいが、シグマなりの褒め言葉――魔術師としてではなく、人としての。手をひらひらと振って、シグマはカスミハイツの敷地に踏み入った。
気づけば、夜のランニングをしている人が再びちらほら見えるようになった――シグマが帰りついでに結界を解いていったのだろう。凍るような空気は解けて、
「……ハルカ様、大丈夫ですか」
「……ええ」
まだ荒げる息を整えながら、ハルカは差し出された手を取って立ち上がった。あの黄金の眼に見つめられた時は危なかった。キャスターがいなければ、うかうかと手中に落ちていただろう。聖杯戦争前に襲われた時も、あの魔眼を使われたのかもしれない。
「……あの眼、厄介ですね……黄金以上の魅了でも兼ね備えている……」
シグマ・アスガードが恐ろしいか。恐ろしいとも。
だがしかし、その恐怖の正体はもう知れている。
何よりも恐ろしかったのは、恐怖の正体がわからないこと。名前を付けるという行為は呪的ある。
名前をつけることによって、対象を認識可能なものに引きずりおろす。名もなきものは示せない。語ることができない。
ゆえに名前を付けることは、世界を認識することである。
ハルカは恐怖の正体を知った。本当の自分がここにいないことも。
だがそれは、この足を止める理由に足るものではなかった。
敬愛する当主は、たとえ世界が百年後に滅びるとわかっても、滅びを回避するよりもその間に根源に至る努力をすると冷徹に言った。
であれば、ハルカがすることはどうあっても変わらない。自分はエーデルフェルトの雪辱を晴らすために来た。ならば挑まなくてはならないだろう。
――現実世界でシグマを打倒すことは、現実世界の自分に任せるしかない。
そして現実世界の自分が立ち上がれるかどうかは、現実世界の自分次第だ。
「現実世界の自分には、せめて、誰かの力を借りてでもいいからとにかく動けと伝えたいですね……」
ハルカ・エーデルフェルトは戦いながら考える。沈思黙考して部屋に閉じこもり続け、納得いく解決策を見つけだすタイプではない。
脳は五体の筋肉にあり、じっとしていては頭も回らない。
「キャスター。貴方から見たシグマというのは、どんな魔術師ですか」
急に話しかけられ、キャスターはびくっとした。「……あれも巫女です。きっと神を降ろすためだけの、器です。魂が希薄で、そのために自分の人格がない。他の人間の回路と刻印を取り込み、魂を食べて、あの女の人格は成立しています。北欧の魔術使いでしょうが、陰陽道だって使えても可笑しくないです。……って、ハルカ様、まさかまだあのシグマを倒そうと考えているのですか!?」
「――ええ。ただそれには情報が欲しい……それでも勝てるかは怪しいですが……。こうなれば、死なない利点を今のうちに活用するしか……キャスター! 家に帰りますよ」
「え!? あ!? はい!?」
「おっと、食事のことを忘れていましたね。作ってもらってもいいですか。材料がなければどこかに寄って行きましょうか」
「あ、は、はい。あんまり冷蔵庫にはなかったような気がします」
すたすたと威勢よく歩いていくハルカ・エーデルフェルト。その後ろ姿は、まだ彼が何も知らなかったころに勇んだ姿と全く変わらなかった。
キャスターは彼を追いかけながら――いや、この戦いの前からわかっていた。
彼は、もう大丈夫なのだろうと。たとえあとわずかな未来でも、現実世界の己が酷い状態でも、彼は了解してしまった。
もう彼の中には、ずっとずっと昔から精神の柱となった誰かの言葉がある。
キャスターの「ハルカを助ける」という目的は、ある意味ここに成った。シグマを倒せるかどうかはともかくとして、彼は今を生きている。
わかっている。ハルカは、きっとキャスターが何もしなくても、今のように起ちあがっただろう。
それを理解したキャスターの胸に過るものは、喜びだけではなかった。
「……ハァ……私、今も昔も、バカですねえ」
相も変わらず愚かな、自分への蔑みだった。
*
自分と彼女は幼馴染で、家も隣同士。お互いに二階の窓を開ければ、窓から窓で会話ができる。昔やんちゃな彼女が、あちらのベランダからこちらのベランダへ飛び移って、コンコンと窓を叩き「来ちゃった」なんてかわいいことを言ったことがあったっけ。
とまあそれは何かの折に読んだ少女漫画かラブコメ漫画の話で、駅前の高層ホテルに隣接する高いビルもなく、突如ベランダに現れコンコンと窓を叩く白髪赤眼の成人男性とか完全に怪奇現象で、さらに今日日の高層ホテルの窓は落下防止のために人が出入りできるほどに開かないため、招き入れる事自体できないのであった。
まあその白髪の男は普通に霊体化して入って、ふわふわのソファーに勝手に腰かけているのであるが。緊張感的な意味でドキドキはするがトキメキは皆無である。
「……ほう、陰陽師。お前一人か」
悠々とした態度を崩さない原初の帝は、フツヌシを伴わず単独でいた。今はお祭りに行くかのような黒い甚平を纏っているが、全身白の彼にはよく似合っていた。一成はてっきり謎のアーティスト活動として、アーチャーに用があるのかと思った。
世界が崩壊しようがパラダイスになろうが、この男には全く関係ないだろう。
「アーチャーなら榊原とレストランだ。後三十分も待てば戻ってくるんじゃないか」
「いや、お前がいるならお前に話そう」
「座ったらどうだ」と自分が客のくせになぜかホストのような顔をして、ライダーは一成に向かいのソファを勧めた。
一成はまだ学校の制服のままである。目の前のライダーと向かい合って腰を下ろすが、なんとも気詰まりである。神父はこんなやりにくいサーヴァントとよろしくやっていたのかと思うと、それはそれで頭が下がる。
こちこちと、壁に懸けられた豪奢な時計が時を刻む音が妙に響いている。ライダー自体は礼儀にうるさくなく、むしろかなり鷹揚な方であるのだが、圧迫感はある。
そもそも、ライダーが一成に声をかけること自体が珍しい。大抵ヤマトタケルやアーチャー、明や神父がいる時に一緒に一成がいるから会うだけで、話はほぼしない。
ライダーの内心など分かりようもないが、なんとなく一成は「自分には興味を持たれていないだろう」と考えていた。
「で、何の用だよライダー。俺には芸能活動のノウハウも人脈構築術もないぞ」
「ハッハッハッハッ、お前にそんなことを期待していない。今日は提案とお願いに来たのだ」
「は? お願い?」
ライダーができないことで自分にできることなどあるのか。その表情を読み取ったライダーは肩をすくめた。
「公は計算ドリルの答えを自認してはいるが、全知全能・万能と言ったことは一度もないし、実際違う。できないことは星の数よりもある」
ときどき、ライダーは十得ナイフだか計算ドリルだか、妙なものを自認する。
「……それはいいけど。で、やりたいことって何だよ。人を傷つけるとかはお断りだぞ」
「安心しろ、お前が危ぶむようなことには興味がない。少々、過去の因果律を操作しようと思っているだけでな」
「は?」
「やることすらも確定ではないが、準備だけは整えておかねばな。やるかどうかは、あのハルカ・エーデルフェルトの選択如何で決めちゃおうかと思うが」
「い、いや全然話が読めねえんだけど……? 過去の因果律操作……どうやって、つーか何のために?」
「公流のこの世界の延命のためだ、陰陽師。だがこの世界の始まりはあのハルカ・エーデルフェルト。あれが聖杯戦争を望んだから、キャスターはここを生んだ。あれに気概なくば、これは取りやめる」
「いやほんっとまじで全然何言ってるかわかんないんだけど……? つうか延命って無理って言ってたじゃねえか」
「人の死は二つあるという。一つは肉体が滅ぶとき。二つは全ての人間から忘れ去られた時。これは後者の意味での延命術だ」
相変わらず一成にはさっぱりだが、とにかく、ライダーはこの世界の救済策を講じているのか。それでも滅びは免れ得ない。世界にも何一つ残さず、ここは消える。
しかし、一成たちは消えてしまうとしても、「現実」から来たキャスターと明はそのまま帰還できるはずだ。一成たちがいたことは、彼女たちが憶えている。
「キャスターの神話を忘れたか。あれは海の藻くずになる女。日本武尊が生きている以上、剪定事象でもそれは変わらぬ。ただ履行を後延ばしにしていただけだ」
そうか、この世界はあのキャスターの宝具。海神の末端となった精霊の力。それを使ったから、弟橘媛はこれまでの彼女ではいられなくなった。
ゆえにこの宝具が終息した後の結末など、最初からわかりきっている。
「でも碓氷は違うだろ」
ライダーは意味深に笑った。「女がヘタなりに一生懸命隠していることを暴き立てるのが趣味だと言うなら、公は止めないが」
「……ちょっとエロい言い方するなよ」
一成はあえて軽口をたたいたが、あまりの驚きでその意味するところを呑み込めなかった。話の流れから、つまり、――碓氷明はキャスターと同様の終わりを迎えるということか。
しかし、明は優秀な魔術師であるものの、命と引き換えの魔術行使などしているとは思えない。確かに、それを自分(一成)が聞けばうるさく言うから、明は敢えて黙っているという線も考えられなくはないが……。
その時、ピピっという電子音とともに部屋の借主と同級生が帰ってくる音がした。一成が思っていたより結構早い。
この広いアンバサダースイートのリビングは、入り口玄関から真っ直ぐに見える位置にない。廊下を通り、いやににこやかなYシャツ姿のアーチャーと、やや硬い表情の理子が姿を見せた。
「一成、テイクアウトでケーキを持ってきたぞ……おや、ライダー」
箱を片手にあくまで友好的だが、アーチャーがこの至近距離に至るまでライダーに気づかぬはずはない。ただ、戦闘する気配も感じず、一成からの念話もなかったため危険は感じていなかったろう。
「なんじゃ、芸能活動の資金かのう」
「いや、今回の要件は違うぞ
一成のみならずアーチャーと理子にも、ライダーの意図は読み取れなかったが、ぶぶ漬けを出しても帰ってくれる相手ではない。
アーチャーはもう嫌そうな顔を隠さず(腹芸が通じないから、取り繕うのを止めている)一成の隣に腰を下ろし、所在ない理子は仕方なくライダーの隣に座った。
「さっきも陰陽師には言ったが、やるかどうかはわからん。だが準備はしておくのだ。きっといいものがみられるぞ」
*
ハルカたちの拠点が今まで誰にも感知されずにいたのは、この結界構築時にキャスターが空白地帯として「拠点」を設定したからである。エアポケットのようなもので、キャスターとハルカ以外の一般人には、全く別の家が映っているはずである。
キャスターがこの世界の創造主であるとはいえ、構成のもとは春日自動記録装置に記録された春日である。
もちろん元ネタから自分で改造した世界の結界を作成することもできるのだが、結界構築時に改ざんするならまだしも、一度結界を構築してからの再編成となると、一歩間違えば結界が自壊する恐れがある。
一旦一つの世界として結界を構築した後、その結界内は最初の作成時の規則で動く。そこに無理やり違う規則を持ち込めば、これまでの記録と齟齬をきたして結界内における因果関係の整合性が取れなくなって、世界の秩序が焼失する。
通常、規則を変えたいのなら一度結界を解除して、再度結界を作り直すものである。
だから結界の主とはいえ、最初以降は大橘媛に主導権などなかったのだ。
今日も蒸し暑い夜である。キャスターとハルカは、カスミハイツから十分ほどで拠点であるこじんまりとした屋敷にたどり着いた。
「……ただいま、戻りました。ハルカ様、作り置きのカレーがありますので、それまで暫しお待ちくださいね」
「わかりました」
まだ魔眼の力が跡を引いているのか、本調子といえないハルカはゆっくりとリビングに入ると、ソファにどさりと腰かけた。疲れて言葉少なではあるが、彼はこれからどうするかを考えているに違いなかった。
キャスターはそそくさと台所に向かい、冷蔵庫の中からカレーの収まったタッパーを取り出した。これをレンジで温めるだけで、カレー大復活である。
文明の利器ってすごい。
「……ハァ……」
昨日から、誰もかれもが動揺の渦に叩き落されているだろう。それはキャスターも同じ――いや、彼女の場合、最初から大体の事情を了解しているだけに、自らの知らぬ事態がある点においてはより強い衝撃を受けていた。
現実世界で召喚されたての弟橘媛はただ、ハルカを守ることだけに必死だった。土御門神社で自分を屠ろうとした碓氷明から逃れるためだけに、現実世界のハルカを引き連れて混合結界の展開をもくろんだ。
元々、自分が戦って人を殺すという発想のない人間だった。だからハルカを守るために明を殺す、という発想がとっさに出ず、結界内に安全圏を作って逃げ込むことになった。
混合結界はそう便利な力ではない。好きな世界を創造できるといっても、すぐさま何でも作れない。役に立ったのは聖杯に付属させていた春日自動記録装置――その記録から春日を再生、この「拠点」を作った。
キャスターは結界構築後、碓氷明の気配に気を払い、ハルカが目を覚ますまで春日中を探し回ったが――実際の記録をもとに作成された「春日」では、碓氷明は「これから時計塔よりやってくる」設定になっていたようだった。
また、修正力を受けて結界が消滅しないことを訝しみ――直に「現実世界に展開されたのではない」ことに気付いた。そのままハルカが目を覚まし、ハルカたっての願いだった「聖杯戦争」で戦えるように体をこっそり宝具で強化し、聖杯戦争を始めたのである。……彼女が今まで気づかなかった最大の誤算とは、現実のハルカを連れてきたつもりだったが、連れてこれていなかったこと。
つまりハルカも、サーヴァントたちと同じくこの結界の再生体だったこと。
何故そんな事態になったのか。サーヴァントとしての存在があやふやだったシャドウの状態で宝具を使ったため、宝具を完全にコントロールできなかったのだろうというのが有力だ。
とにかく、結局この結界内で「現実から」やってきたのは、キャスターと碓氷明のみ……それにイレギュラーで、シグマ・アスガード。
――たとえここがウソの春日だとしても、ハルカが現実を受け入れて元気になってくれれば、キャスターとしてはそれでよかった。
そして、再生体のハルカは、自分が本物のハルカ・エーデルフェルトではないということも、現実の状態も知ったうえで、それでもいいとシグマに立ち向かった。
つまり、もうすることなど何もないのだ。キャスターは無事、お役御免なのである。全てを伝えた今も、ハルカはキャスターのことを恨んでおらず、サーヴァントとして遇してくれている。
キャスターは、これ以上のことを望むこともないほどに最良の状態にあるといっていいのだ。
彼女が呆れているのは、自分自身。自分の願いの、奥の底にあったもの。
ハルカに助けを求められたから応じた。キャスターは、誰かを、自分の力で救いたかったのだ。相手は誰でもよかった。どんな犠牲を強いられてもよかった。自分の命が引き換えでもよかった。むしろ、そのくらいの方が良かった。
――あの時、走水の海で死ねなかった。命を賭して護るはずの大和を護れず、国は滅んだ。
だからもし、今一度の生があるならば――誰かを、何かを助けて死にたかったのだ。
「バカは死んでも治らないものですねえ。我ながら頭が痛いです」
小声でぼやきながら、温め直したカレーを電子レンジから取り出した。今度は白米を温めるべく、タッパーに入った白米を再びレンジに突っ込んだ。
――けど、あの人……倭武天皇、小碓様は、いったいなんでこれまで私に何も言わなかったんでしょう。
腐っても自分は春日の聖杯(の残滓)と繋がった身体であり、聖杯がサーヴァントを呼ぶものだ。おそらく、自分がアヴェンジャーを召喚したのは結界を作成した最初期である。一度生成された結界は、魔力供給と基本骨子こそキャスターの手にあるとはいえ、細部は結界内で時間が経つほどに独自に変化をしている。
元々が人であるキャスターに、自ら変化する世界を管理し続けるほどの、神の権能はない(人間が操れるのは、固定の心象風景を再現する固有結界が精々である)。結界内の時間が経つほど、キャスターに手出しできる部分は減ってくのだ。
ゆえに、アヴェンジャーは最初からいた。召喚した理由もわかる。自分は、正気すら失うほどの呪いの濃さに耐え切れずに、真先に思い浮かんだ者を召喚したのだ。
(けど、あの人が私に付き合う理由というか……この世全ての悪を黙って受け続ける理由なんてないような。それに、私が何でこの世界を続けているのかも、わからないはずなのに)
アヴェンジャーに、なぜキャスターが世界を作ったのか、維持しようとしているのかはわかるまい。彼は昨日まで、声さえ彼女にかけていなかった。
彼自身も、この結界内でしたいことがあったから付き合っていたのだろうか。彼が呪いの苦しみを肯ってまでここを護る意味が、キャスターには読めなかった。
(……まあ、あの人がよくわからないのは昔からですし……)
正直、何がきっかけで彼は神の剣をやめて国を滅ぼそうと思ったのか、今でも彼女にはよくわからない。生前も嫌われてはいないと思うが、どの程度好かれているのかもよくわからない。ただ長くともにあったことは間違いないので、腐れ縁というか情くらいは持ってくれているんじゃないかな、とは思っている。
頭を抱えていたところ、あっという間に白米の再加熱も終了し、電子レンジの音で我に返った。
「うぉっと! ……できましたできました」
せっせと白い器に白米とカレーを盛りつけ、インスタントスープは後で出すことにして、取り急ぎカレーライスをお盆にのせて運ぼうとすると……先ほどまでソファに座っていたはずのハルカが見えなくなっていた。
「……ハ、ハルカ様!?」
慌ててソファにまで走り寄ると、何のことはない、ハルカはソファに横になってすやすやと眠りこけているだけであった。先程の戦闘の疲れだけではない、昨日から今日にかけて、色々な事実が明らかにされ、彼は衝撃を受けていた。
今や全てをよしとして承知したがゆえに、これまでの緊張がどっと出てきて、弛緩しているようなものだ。
健やかに眠っているハルカを見て、キャスターは胸をなでおろした。自分の愚かさ加減にはげんなりするものの、こうして彼は救われた。
いや、キャスターは何もしていない。彼は、自分で自分を救ったのだ。
「……とにかく、よかったです」
折角温めたカレーが冷めてしまうと思いつつも、起こすのも忍びない。キャスターはカレーライスにラップをかけて、テーブルの上にそっと置いた。