Fate/Imaginary Boundary【日本史fateホロウ】   作:たたこ

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愛は事故、恋は天災、私には不要だったもの。
――悲劇のヒロインとは、片腹痛い。
私は、国の為、あの人の為に身を投げたのではない。


夜③ 巫女の悔恨、巫女の未来

「――小碓様、さっき、あっちで市が開かれてるっぽいです! あとで行きましょう!」

「そういうものは見つけるのが速いな。何か欲しいものでもあるのか」

「いや、別にないですけど」

「ならば何故行く」

「店に色んなものが並んでるのとか、おいしそうな食べ物とか、見てるだけでも楽しいじゃないですか!」

「……?」

「ンアー!! 何でそこで首を傾げるんですか! 常々思っていますが、小碓様は娯楽に対する感覚なさすぎです! もっと! こう! ハァイ!!」

「全くわからん。そぞろ歩きに何の意味が……この土地の調査……?」

「ンアー!! だから意味とか理由とか考えなくてもいいんですって! 楽しむのヘタクソですか!そんなんだと息つまっちゃいますよ!」

「む……。ならば、お前が娯楽に対する感覚?を教えろ。息がつまっては困る」

「……言っときますけど、息がつまるってのは窒息しそうって意味じゃないですからね」

「それくらいわかっている。俺よりお前の方がこう……人生を楽しむ術に長じているらしいからな……?」

「それ、誰が言ってたんですか?」

「弟公彦」

「ああオトさんですか……というか小碓様に比べれば誰でも長じてますけどね」

「!?」

 

 ――一番大好きな人も、もういない。

 

 私は大碓様の代わりに、彼が愛した、私が愛した国を護るために、この命を使う。彼が人を愛したように、私も人を愛して生きると決めたけど――彼がいないのだから、私はもう誰の何番目だって、構わなかったのだ。

 

 だから小碓様が美夜受媛(みやずひめ)様と婚約した時も、嫉妬とは無縁だった。

 美夜受媛様自体も気風のいい人で、むしろいい友達ができたくらいに、能天気に思っていた。

 そう、だからマジ一回寝たくらいで、「この女は自分の」面されるのムカつくんですよね! 好きじゃなくても寝ることくらいできるんです、死ね! ……こほん、話がそれました。

 

 何故、大碓様を殺したのか。その禁忌の問いを口にすることはできなかったけれど、私は小碓様こと日本武尊と、まあまあ仲良くやれていた。

 

 誰が神の剣であっても、私は隣に寄り添い、楽しい日々が送れるように努力したと思う。

 そして大碓様を殺したことがまるで嘘ではないかと思えるほどに、私たちの関係は穏やかだった。けれど、私は鞘として、神の剣の傍にいる。旅路にて、長く連れ添ってしまったが故に、他の誰もが気づかないことに、私は気づいてしまった。

 

小碓命(この人)は、まだ自分が他の人間と同じだと、思っている?」と。

 

 誰も、日本武尊の「神の剣」としての使命を告げなかった。ただ、誰も何も言わなくても、明らかに彼は「異質」いや、「異物」だった。

 如何なる傷も一瞬で治癒する加護はホイホイ誰にでも与えられるものではないし、誰でも人を人捻りで殺せる膂力を、子供のうちから持てるはずがない。他とは違うなんて、子供でさえもわかる。

 それでも彼は、意図的か無意識かはともかく、差を自覚していないように見えた。

 

 日本武尊は言葉数こそ多い方ではなかったが、端々から人間に憧憬を抱いていることを、私は徐々に理解した。

 大碓様と出逢う前、元々、人間など憧れるに足るものではないと、私自身こそが懐疑的に思っていたから――あなたはそのうち、その憧れたものに殺されると思いながら黙っていた。

 

 しかし、心の内で――私は、美しいとも思ったのだ。彼に自分の運命の自覚がないなら、彼は手探りで、死にもの狂いで彼の目指す未来へと向かって全力疾走している。

 皆で、戦いのない平和な大和へまた帰るために。

 

 彼女は、生まれながらにして――倭姫命の教えを受けたこともあり――自らの末を薄々察して受け入れている。だから、未来が全く分からない不安がない。

 

 しかし彼は、先の見えぬ未来を求めて走っている。

 

 大碓命とは違うけれど、それはとても、前向きな――良き人の姿ではないだろうか。

 

 人ではないものに、人の善性を見るとはおかしな話だ。

 私自身は、人そのものが好きなわけではない。一体大碓/小碓様からは、世界はどう見えているのだろう。

 彼女は改めて、いつも追いかけている、神の剣たる日本武尊の背を見た。

 

 

 ――そっか。

 

 本当に間抜けな事に、彼女は旅路の途中でようやく気付いた。

 ――この人が、私の夫なのか。

 

 それでも、これが恋とか愛なのかはわからなかった。

 恋というには長く共に居すぎて、愛と呼ぶには大碓の殺害(不信)が蟠っていた。

 

 そして私の役目は常に傍にいることであり、行いも変わらなかった。そして私の内心の変化に気づくほど、日本武尊は人心に――女心に敏くはなかった。

 

 私は日本武尊の正妻でもなく、最初の妻でもない。私が妻となった時には、もう彼には複数人の妻がいた。だがどの妻も彼が選んだのではなく、周囲に勧められるままに娶った者たちだった――(神の鞘)も含めて。

 

 だが、唯一彼が自分の意思で選んだ妻がいた。尾張は天火明命の子孫である、美夜受媛。彼は自ら彼女に結婚を申し込み、東征の帰途に立ち寄り、その時に正式に娶ろうと約束した。日本武尊が初めて、自分から求婚した女だった。

 

 男が複数の妻を持つのは当然であり、そう騒ぐ事でもない。だが、気付いてしまってからは、不穏な想いにも囚われた。

 

 ――私は大碓様とは絶対に一緒になれなかったのに、小碓様(神の剣)は好きになった人はみんな妻にできていいな。

 

 長い旅を共にして、相模の火計を乗り越え、私も彼が自分のことを悪く思っていないことは了解していた。だけどこうして夫婦として旅をしているのは、好意からではなく、ただ役目の為だけだ。

 

 ――東征が進めば進む程、始めは思いもしなかったことを考えてしまうようになった。

 

 

 ――この旅が終わらなければいいのにな。

 

 東征が終われば、日本武尊は美夜受媛を娶り、そして大和へと帰る。大和には彼の正妻も他の妻もおり、きっと自分は忘れられてしまう。

 飛び抜けて美人でもなく、よい特技もなく、彼から結婚を申し込まれてもいない。ただ、彼の役目の為だけに死ぬ神の鞘。

 

 ――嫌われてはいないけど、一番じゃないしね。

 

 だから走水の海において立ち往生した時は、日本武尊(神命を受けた神の剣)の身代わりとなる命を果たすときだと気づいたとき、それでもいいと思った。

 ――最初から、いざとなればこの人の身代わりとなって(神の剣を護る鞘として)死ぬ運命だった。

 だけどこの人にとっては、身代わりとなって海に身を投げる妻がいた、という記憶になる。

 

 一緒に旅をしてきた女が、身代わりに死ぬ。

 

 きっと東征を終えて美夜受媛と結婚し、たまには海でも見るかと遠出した時には――きっと私を思い出すだろう。

 

 永遠なんて望んでいない。

 ただ忘れないでほしい。だから――せめて傷つけようと思った。

 

 遥か未来に偉業と称えられるその生涯に、露と消えた――しかし、気合の入った女がいたと。

 

 時間はかかった。でもちゃんとわかっている。自分は、日本武尊が好きなのだと。

 今も何故大碓を殺したのか聞けずにいて、蟠りがあるけれど、それでも伴侶として。

 

 だから、ここで死ぬ。

 

 役目の為に死ぬのではなく、初めての恋の為に死ぬのでもなく、世界の為に死ぬのでもなく、貴方を助けるために死ぬのだ。

 

 ――だが、死ねなかった。

 生きることに希望があったわけでも、もしかしたら、この人は自分が一番好きなのだろうという確信があったわけでもなかった。

 

 ――最後まで、見届けたいなぁ……。

 

 生涯、戦い続ける定めの夫の人生を、そばで見届けたい。神の剣には不釣り合いな願いを抱き、彼の願いが叶わなくても――自分が彼の一番でなくっても、一緒にいることはとても楽しかったと、最後まで伝えたい。

 

 その願いのために、彼女は自分の使命よりも感情を優先した。

 

 ただ彼女の一存のみで生存できる世界ではなかったが、彼女はくしくも生き永らえた。

 走水にて死ななかった世界の弟橘媛の話は、ここから始まった。

 

 

 

 彼女の過去の記憶は、日本――大陸から離れているため、西暦一〇〇〇年まで神秘が残り続けていた稀有な地域――の神代にほど近い時代として非常に興味深かった。

 魔術の多くが魔法であった時代。精霊や神霊を近くに感じた、エーテルの深き時代。神と同一となり、星の触覚となり力を振るう――現代魔術師のハルカには、夢物語にも似た話だった。

 

 神命を受けて神の剣の鞘となるべく生まれた巫女が、その命よりも自分の人生を優先した。そういう話に、ハルカには思えた。

 

「……はぁ……」

 

 ハルカが目を覚ました時には、すでにこの拠点に運ばれていた。一昨日、そして昨日と立て続けに信じがたい、信じたくない話を聞かされ続けて感覚が麻痺しているのか、ハルカは妙に落ち着きを取り戻していた。

 眼を醒ましたらベッドの上で、すぐ隣にはキャスターが腰かけていた。夢で生前の記憶を共有していたことを二人とも察知していた為か、ハルカを落ち着かせるためか――キャスターはあくまで平静だった。

 

「おはようございます! あっ、もう隠す意味があんまないんですけど、私の過去、みえちゃいましたよね。キャッエッチなんだから」

 

 キャスターもうとうとしていたのか、ハルカはたしかに彼女の過去を垣間見た。真名が判明した今彼女が話したくないのであれば、これ以上突っ込む気はないのだが変態(エッチ)の誹りは断固撤回してもらう。

 

「性的は夢ではなかったはずですが……」

「ひー性的って何か……生々しい!」

「何が生々しいですか。貴方、話では結婚して子供もいたはずでは」

「い、いましたけど! 一応、当時の上流階級なので、乳母が育てるものですし……それに、私の役目はそれではなく、神の鞘なのです」

 

 巫女とは神の鞘。神をその身に降ろすもの。彼女の場合は神の剣の鞘でもある。剣を、護るもの。

 

 ハルカは大きく溜息をついて、ベランダの窓から外を見た。もう何回も見続けてきた、春日の夕暮れが佇んでいるのだが、場所が変われば雰囲気も違う。

 あの拠点から見た景色よりも、子供が多く、さらに生活臭がする。

 

 さて、どうするか。昨夜、このアパートにシグマ・アスガードが入り浸っていると聞いて直行し、居座っているのだが、肝心のシグマの気配は皆無である。

 そもそも、客観的に見て今ここでシグマを倒す意味はない。本来のハルカ・エーデルフェルトは現実世界におり、本来のシグマ・アスガードもまた同じなのだから。

 

 しかし、現実のハルカの状態は、死んではいないものの――良いとはいい難い。どっちにしろ、現実には何の影響も及ぼさない。

 

 ハルカは、見た目は元気そうにしていても、気落ちしているだろうキャスターに、眼を向けた。現実世界でキャスターを召喚したのは自分らしいが、その記憶はない。

 倒れた自分は、夢現の中で聖杯戦争とまだ見ぬサーヴァントを追い求めていたのだから、その魔術師の願いに彼女が応じてしまったのだろう。

 

 そして彼女は「助けを求められたから」という理由だけで召喚を果たし、異変を察知した碓氷明によって虚数送りにされそうになったところ、どうにか自分を助けようと苦し紛れに宝具(混合結界)を展開した。

 

 思えば、このキャスターもとんだ事態に巻き込まれたものだ。彼女は「ハルカを助けたい」という願いでここにないるのに、結局マスターたるハルカ――現実のハルカを助けられずに終わることになる。

 

 ……しかし、やはりじっとしていることは性に合わない。身体もなまる。またこのアパートに戻ってくればいいのだし。

 

「……キャスター」

「? 何でしょうか」

「デートしませんか」

 

 たっぷり間を置いて、耳をほじってから、彼女は言った。

 

「……はい?」

「デートと言う名の巡回です。運動がてら、シグマを探しに行きましょう」

 

 俄かにハルカは立ち上がり、自らキャスターの手を取って立ちあがらせた。日は暮れかけ、東の空には星が瞬いている。

 キャスターは召喚時の服で出ることは躊躇われたのだが、彼女の服装を全く気にしていないハルカは、もう六畳間の部屋から出ていた。

 

「とりあえず、食事でもとりましょう。あなたの力があるとはいえ、戦う段になって空腹で全力が出せないなど、バカバカしいにもほどがあります」

 

 悟のアパートは住宅街にあるため、コンビニやスーパーはあるものの、食事施設は目につく範囲には見当たらない。

 駅前まで出向いた方が豊かであることは、聖杯戦争一色だったハルカも了解していた。

 

「……あ、あの……ハルカ様? もしかして、今、ヤケクソです?」

 

 一蹴して呑気そうに見えるハルカの後ろ姿を、おそるおそるの声がやっと追いかけた。

 

「……? 何故そう思うのですか」

 

 アパートの長い影が、二人を覆っていた。日はまだ沈まずとも、東から藍色に侵食されていく空は(日常)の終わりを如実に告げている。

 通りかかる人は、いない。ハルカとキャスターの間は、二、三メートルほど。

 少し駆けよれば届く距離。だが遠い。

 

「その……」

「?」

「……その……だって、ここで何しても、何もならないじゃないですか」

「そんなことはありません」

 

 消え入りそうなキャスターの言葉に対し、ハルカは断乎として首を振った。

 

 ハルカ・エーデルフェルトは戦わずして聖杯戦争に敗れ、行動不能となった。キャスターの宝具で、聖杯戦争を再現した結界に連れ込まれ、五体満足で自由に戦える機会を得た。

 

 ――蓋を開けてみれば、最上ではないにしても、決して最悪なんかではない。

 

 キャスターがいなければ、自分はただ深手を負って倒れているだけ。

 エーデルフェルトの屈辱を雪ぐ以前の問題だった。けれど今、こうしてサーヴァントを得て戦うことができる。シグマのコピーもまたここにいる。

 

 たとえこの結末が、誰一人知る結果にならなくても、今ここにいるハルカ・エーデルフェルトには千載一遇のチャンスなのだ。

 

 誰にも伝わらないのだから、自己満足には違いない。

 それでもこの身は、泡沫の中で、現実では一度失われたはずの戦いへと赴くことができる。

 

 たとえ相手が本物のシグマでなくとも、自分が彼女を打倒するのであれば、今ここを置いて他にない。

 だから、自分は戦う。

 

 いつまでも起きた出来事に動揺しつづけ、何も決断を下せないでいるほど、軟な精神修養をしたつもりはないのだ。

 

「これは、どう考えても我欲です。誰かを助ける、世界を救うというわかりやすい大義名分もない。死にたくない、という人間と言う動物の欲求とも異なる。エーデルフェルトの恥を雪ぐという元来の目的からも外れかけている」

 

 地上で最も優美なるハイエナ。……いや、戦うこと自体が目的になっているハイエナは、やはりその集団からは異端だろう。

 

「あなたが、どうして再度自分の命と苦痛までかけて、私の願いを叶えようとしてくれているのかまではわかりません。私は礼を申し上げるのみです」

 

 日は、暮れる。

 近い距離にあるはずだが、キャスターはうつむきがちで、ハルカからその表情はうかがえなかった。

 

「全く、貴方が何も隠さずすべて教えてくれれば、こんなややこしいことにならなかったのに。怒りませんよ、こんなことで」

 

 怒るのならば、己の不覚と非才のみ。ハルカが口の端を持ち上げたその時、不意に点灯し始めたはずの電灯が瞬き、消えた。

 周囲の温度が一、二度下がったような寒気。急造で張られた人避けの結界か。

 

 裾の長い白Tシャツを右端で結び、淡い水色のマキシスカート。つばの広い白い帽子――真夏の姿の、シグマ・アスガード。

 前に教会で出会ったときとは異なる、夏の女神。

 

「――あら、ハルカ・エーデルフェルト」

「……」

 

 前に教会で出会った時には理由のわからなかった悪寒の理由が、今ではわかる。自分はこの女に敗れ、令呪の宿った体のみ良いように使われた。

 

「ふふっ、わかりやすいのね。私を殺すために待っていた、って顔をしているわ」

「……ッ!」

 

 一歩、シグマが足を踏み出す。同時にハルカが一歩下がる。だがハルカは己を奮い立たせ、引いた一歩を取り戻した。

 

「シグマ・アスガード。あなたは何を求めて聖杯戦争に」

「失敗していたとはいえ神域の天才たちの大儀式よ。魔術師として何か得るものがあればと思ったの。後から加わった理由では、虚数の明ちゃんもあるけどね」

「何故私を襲ったのか、聞いても?」

「エーデルフェルトの誰かが聖杯戦争に出るって話は聞いていたから。碓氷は土着、アインツベルンは冬木からの御三家、他は誰がマスターになるのかわからない。狙うに易いのがあなただっただけよ」

 

 月下、女は微笑んでいる。普通の男であればとうに骨抜きにされているであろう、蠱惑的な笑み。彼女は現身――かつて神々を争いへと導いた黄昏(ラグナロク)の女神。

 

「――ただ、もし食べようと思うほど特殊だったり飛び抜けて優れた魔術回路だったら、傀儡にしないで食べていたとは思うけど」

 

 幾多の魔術師を咀嚼してきた女にとって、ハルカごときは物の数ではないと告げられた。一度いいようにやられてしまった前科があるため、ハルカは自信を持って言い返すことはできないが、今はキャスターがいる。

 昨夜からどこか彼女には元気がないが、彼女は自分の味方だと信じている。

 

「……ハルカ・エーデルフェルト。面白いことを教えてあげましょうか。貴方がもっとがんばれるようなことを」

 

 太陽は、その巨体をほとんど地平の彼方に沈めていた。だが、まだ光が消えきるには猶予がある刻にもかかわらず、この住宅地一円が、まるで丑三つ時のように静まり返っていた。

 人気も、生命も感じられない――シグマの人払いだろうか。

 

「この結界内では、人も、動物も全てが記録からの再生体。結界が消えれば全部終わり……そこのキャスターと、楔の明ちゃん以外は」

 

 彼女は誰からその事実を聞いたのか、それとも自分で辿りついたのか。とにかく、その認識はキャスターとハルカと異なるものではなかった。

 

「でもね、私も再生体じゃないの。私も明ちゃんと同じく、現実世界のシグマ・アスガードなのよ」

「―――!!?」

 

 ハルカはかろうじてシグマへの注意力を残したまま、目線を背後のキャスターにやった。彼女もまたハルカと同様にまさか、と二の句を告げずにいた。

 

「……う、ウソです! あなたは現実世界の土御門神社にはいなかった! だから碓氷明さんのようの巻き込まれるはずが、あ……!?」

 

 虚を衝かれたかのように、信じられないものを見るように、キャスターは息をつまらせた。

 

 そう、春日記録装置の記録を識るキャスターは、現実世界のシグマの末路を知っている。

 末路を知っているが、その先は知らない。

 

「……まさか、あなた、虚数空間の中で生き続けてッ……!?」

「はい、よくできました♪」

 

 慈母のように微笑むシグマは、その場で小首を傾げてみせた。春日聖杯戦争におけるシグマ・アスガードの最後は、想像明によって虚数空間に放逐されたというものだ。

 通常であれば、虚数空間に放り込まれたら意味消失を免れず消滅してしまうはずだ。

 

「最後の明ちゃん……想像明ちゃん。あの子は元の明ちゃんが虚数世界で魂をコピーしてできたものだから、命自体は蜻蛉のように一瞬だった。だけど、それでも魂は魂、崩れかけでも肉は肉。私が食べられないこともないわ」

「――!!」

 

 流派も属性も違う魔術師の魔術回路と刻印を我が物として、無限に自己を拡張する神降ろしの器。想像明――虚数魔術師の血肉を得て、虚数の世界で生きながらえようとした。

 

「……でも成功してないのよ。私が火属性の魔術師の回路と刻印を奪っても、私が火属性になるわけではないもの。で、私が虚数属性になるわけでもないから、虚数世界でのうのうと快適に生きてはいられなかった。だから、私は眠るしかなかった」

 

 ――虚数空間に呑まれる前のシグマ、つまり春日の大空洞に佇むシグマは、暫定的不死の神の身体だった。

 虚数空間という時の流れさえも異なる世界で、シグマは不死のまま―自身の肉体を境界として、体内に結界を生成し、その中で神霊降ろしでありつづけた。最小単位の固有結界展開を維持したまま、中身だけは死ぬこともなく、虚数の中で漂っていた。

 

 通常であれば、シグマは未来永劫このまま――当初碓氷明が想定した通り――虚空を漂い続けるはずだった。

 

 ――しかし、虚数空間内に聖杯戦争中の春日を模倣した結界が展開されようとしたとき、既に春日に縁持つシグマの肉体は、縁に引きずられて固有結界に取り込まれた。

 記録体から再生されるかわりに、本物のシグマが呼ばれて居座っている。

 

「だから、ね」

 

 既に夜は深い。人気もない。ハルカの前に立つ女は、異形めいて美しい。

 

 

「あなたが今相対しているのは、再生体などではないの。貴方を傀儡にした、正真正銘本物のシグマ・アスガードよ」

 


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