Fate/Imaginary Boundary【日本史fateホロウ】 作:たたこ
――天に唾吐け。己が運命に牙を立てよ。
たとえ結果として、報われることが何ひとつなかったとしても。
走水の海に消えた弟橘媛――それでも、神命であり帝の命でもある東征は終わらない。
編纂事象の日本武尊は、そのまま東征を続け美夜受媛のもとに神剣を置き、伊吹山で致命的敗北を喫して死を迎える。
編纂事象の日本武尊は、己の運命と己自身に絶望し諦めていた。
故に、死ぬ為に剣を棄てた。
剪定事象の日本武尊は、運命に対し激怒した。故に、抗うために剣を棄てた。
ならば、日本武尊は――何故、運命に怒り狂ったのか。
巫女は、神霊を降ろすもの。神霊の意思を伝えるもの。
その究極形は、自らが神域そのものとなることである。
編纂事象の弟橘媛は、神話に伝わる通りに走水の海で死に、海神の妻となった。とはいっても、海神が弟橘媛を求め夫妻となったのではなく――彼女が、神霊の一部となったことを意味する。
自らを神霊と一体化することにより、一時的に己の意思で空想具現の力さえも操る。嵐の日本武尊を救ったのは、紛れもなくこの御業。
だが神霊の一部になってしまえば、もう人には戻れない――大いなる力の一端となってしまえば人の時分に思っていたことはすべて吹き飛ぶ。
だからそれは――人身御供は、一回限りの奇跡。そして人間としての弟橘媛は消失したが、死んではいない。神霊の一部に成り代わっただけで、死してはいない。
ゆえに編纂事象の弟橘姫は、生きてもいないが死んでもいない。英霊の座に登録されてすらいないため、サーヴァントとして召喚されることもない。
しかし、剪定事象の弟橘媛は、神霊の一部にはならなかった。
海神とどのような遣り取りをしたのかは、日本武尊にはわからないが――生きて常陸の地にて、彼と再会したのだ。
彼と弟橘媛は、再会を喜んだ。部下たちももちろん再会を喜んだ。そして東征を続け、いくつかの夜が過ぎた、とある夜に――弟橘媛と日本武尊は焚火に当たりながら、走水での話をした。
彼女にとっても最大の危機であったあの海を越えてしまったことの気の緩みから、彼女は話してしまった。
きっとこれ以上の危機はないと思ってしまったから。
「私が生まれたのは、小碓様の東征を助ける為だったんです。いざとなったら自分が神の一部になって、小碓様を救うのが生まれた意味だったのです。もっと行っちゃえば、小碓様というより、神の剣を護る事そのものが私の役目だったんです」
彼女にとっては、幼いころに倭姫命から告げられた当然であたりまえだった神命。
大いなる東征を果たすための
「――お前は、神命の為に死ぬつもりだったのか」
剪定事象の日本武尊は、己が神命――東征をするために生まれてしまったことを、わかっていた。その運命に部下や弟橘媛を巻き込んでしまったことに引け目を感じ、なんとか全員無事に大和に帰ろうと粉骨砕身戦ってきた。
――だが、それは違った。甘かった。
神命は己だけにあるものではない。今まで、もうそうなってしまったのなら仕方がないと、目的を達して無事に帰ろうと考えてきた。
この身は、もうどうでもいい。だが、彼女まで粛々と身を投げなければならないのか。
俺一人では、足らないと言うのか。
父帝は、
彼女は日本武尊の幸せのためにいるのではない。
しかし、彼が望んだのは大和の平和なんかじゃない。もっと小さく細やかな、ただ一握りの人の幸いである。
その一握りの人が「平和」を望むから、障害はすべて殺すと決めた。
だが、その平和の、神命の代償に求められるものが、その「一握りの人」だったなら。
――日本武尊。神の剣にとって、平和なんて価値はない。
「……お前は、それでいいのか」
「それって、何がですか」
弟橘媛は、きょとんとして答えた。
彼女はまた、走水の海のようなことがあれば、きっと――。
ぽつり、と天から水が垂れた。星が見えない、暗い夜は曇っていたから――その雨垂れとともに、天啓は降りた。いや、黄泉からの知らせかもしれない。
――そうだ。俺自身が、この役目自体に縛られた者ではないか。
日本武尊という呪いと運命の元に生まれたなら、弟橘媛に「それは従うべきものではない」と示すなら――自分の運命にこそ、抗ってみせなくてはならないのではないだろうか。
憎んだものは、神霊と――それ以上に、ただ「神命」だからという理由で運命を受け入れていた己そのもの。
「小碓様、雨です。小屋に戻りましょう!」
弟橘媛が慌てて立ち上がり、日本武尊の袖を引いた。彼は先に戻っていろ、と言った。
彼女は小首をかしげていたが、それ以上踏み込むことなく二つ返事で先に戻った。
彼は激しさを増してきた雨も気にせず、腰元の剣を鞘こと手に取ると、両手で上から掴み――そして勢いよく、太腿に叩きつけた。
剣を胴から真っ二つに力づくで叩き折ろうとする所作であった。
しかし、これまで彼の膂力で振るわれて折れなかった頑丈さと、天羽々斬剣も欠けさせる硬度を持つ剣である。折れてはくれなかった。
彼は面倒くさそうに剣を持ち上げると、息をついた。
「壊せぬのなら、捨てるか」
*
「……」
――暫し、
彼は姿勢を整えるだけにとどめ、その場でもぞりと動いた。
陽は、暮れ切っていた。月の姿を留める美玖川は、風もなく、まるで鏡のように静まり返っていた。
最も新しい記憶は、土御門神社にて邂逅したキャスターと碓氷明に割って入り、ハルカ・エーデルフェルトの礼装によって捕えられた。
だが、これまた割って入ってきたライダーに助けられて、自分は逃げた――ところまでだ。美玖川に来たかどうかは、記憶にない。
正直時間間隔も怪しいが、おそらく昨日逃げてから丸一日が経過しているのだろう。夜の気配が、昨日時点より薄い。
――限界は近い。予想通り、明後日の夜が限界で、事によってはより早まる。
聖杯の呪い、この世全ての悪を受け続ける――それは並々ならぬことではない。四六時中毒を飲み続けているようなもので、それがもう九日は続いている。
神代文字を駆使して呪いの一部を黒狼として放し飼いにしているが、これは作りすぎると今度は春日を汚染しはじめる。
もし己が完全に呪いに侵されたら、正気を失い結界を荒らしつつ身から溢れた呪いが結界を変貌させるだろう。だから、それでこの世界は終わってしまう。
「……顔は会わせるつもりは、なかったんだがァ」
最後まで顔を合わせるつもりはなかった。だが、碓氷明とキャスターが顔を合わせるのは避けたかった――自分の意識がしっかりしていれば、明の方を足止めしにかかれたのだが、今と同様に気を失っていていたため、行動が遅れた。
キャスターと碓氷明が顔を合わせてしまうと、おそらく、
だがもう自ら姿を晒してしまったのだから、後の祭りではある。
それに、言いたいことは言った。
何がどうなろうとも、キャスターはキャスターのために戦うべきなのだと。
アヴェンジャーは、この世界(結界内)において聖杯にして創造主であるキャスターに召喚されてから――キャスター自身に召喚した意識はなかったろうが――結界の維持に努めてきた。
そのために、世界を崩壊させうる対象であるライダーと碓氷明には接触し意向を計ってきた。結局ライダーも、碓氷明も、泥に触れようとした影景もここを崩壊させる意思などなかったので、アヴェンジャーは何一つする必要はなかったのだ。
だがライダーのように因果律を見通せないアヴェンジャーは、自ら彼らに接触して確かめるしかなかった。
アヴェンジャーは召喚された際に、キャスターが手にしていた春日記録装置の記憶を共有されたため、状況把握に困ることはなかった。だがキャスターが何をしたくてこの結界を作りだし、維持を続けているのか記録装置ではわからない。それでも彼女がここを消そうとしない以上、維持したいと考えていると想定すべきだった。
ならばアヴェンジャーのすることは決まっている。この世界を維持することだ。
勿論それをキャスターから頼まれていない。彼女がアヴェンジャーを召喚したのは単に苦しすぎる聖杯の呪いを漏らさず、しかし自分以外にとどめておく入れ物を欲したから。
彼はただ、注がれつづける現実世界からの聖杯の魔力(呪い)を黙って溜めこんでいればよかったし、苦しければ自ら死を選び、世界と心中することも選択肢としてはあった。
それでも行動したのは――「自慰」のため。
――高天原から貸し与えられた神剣・天叢雲剣。あれは、この日本武尊に絶大な守りの力をもたらした。あれなしでは、いかな日本武尊でも東征は困難を極めただろう。
しかしあれは同時に「呪い」でもある。神霊の加護を過分に得るのが一時的ならまだしも、何年も何年も身に纏えばその感覚と思考はよりそちらに引きずられていく。
そもそもが人ではなく剣として生まれた日本武尊なら、その引きずられ方もより激しくなる。
アヴェンジャーがそれに気づいたのは、実際に剣を棄ててからだが……。
アヴェンジャーが見るに、編纂事象の日本武尊は著しくその思考の変化が遅かった。まあその理由に察しはつく。
あれは仕組みまで把握せずとも、神霊如きになりさがることを拒んでいたからだ。そこだけは、己も同じである。
そして神の加護を捨てたからこそ、アヴェンジャーが理解していることがある。
――あの女は、国の崩壊を望んでいなかった。
それでも自分は国を滅ぼした。
彼女が望まぬと知っていたが、やった。自分がしたくてしたことなのだ。
アヴェンジャーは、自分の人生に後悔はない。悔いこそあるが、すべては自分で選んだことだから、やり直そうなどとは思わない。
災厄ばかりを振りまき、憎しみばかりを産んだが、結構だ。編纂事象よりははるかによい。
『……おい、ヤマトタケル』
「なんだ、真神」
いつの間にか、月光を受けて神々しいほどの白を讃えた毛並みを持つ、大きな狼が木の音もとに坐っていた。大口真神、今は、榊原理子の使い魔としてあるもの。
『用はない。だが、生きているかと思った』
「フッ、嬉しいんねえ。こっちの俺の心配もしてくれるとは」
『お前もヤマトタケルだからだ……私も、最初は驚いた。ヤマトタケルの気配がふたつあるとは、俄かに信じられなかった』
数日前、理子から呼び出し(召喚)を受けた直後から、真神は二つの気配に気づいていた。普段、召喚を受ける以外では実体化しない彼であるが、その気配を気にして春日を歩き回っていた。
理子にできるだけ呼ぶな、といったのは、その時間を邪魔されたくなかったからにすぎない。
「お前が今の主人にそれを伝えなくて助かったぜ。もし伝えてたら、もっと早くキャスターにバレてたかもしれねえからな」
アヴェンジャーは太い枝を股に挟み、両足を宙に浮かせて前後に振った。
『……ずっと不思議だったのだが、何故お前は、そんなに妻から身を隠そうとした』
「……狼は義理堅いからなわからねえかもしれないが、俺らの夫婦ごっこは生前で終わってるのさ。今更過去を掘り返すのも面倒だ。お互い、好きにやるにはもう会わないのが一番だろう」
『そういうものか』
「そういうもんなんだよ」
今日もまた、夜が来た。
キャスターは、今度こそ自分のために戦っているのだろうか。