Fate/Imaginary Boundary【日本史fateホロウ】 作:たたこ
カスミハイツ近くのコンビニのアルコール飲料の前で、悟は鼻歌まじりに品定めしていた。今日は午後に会社の健康診断を受け、そのまま直帰するよき日――であると同時に、先程さらに喜ばしいニュースを聞いたばかりだった。
「……♪」
今日くらいは第三のビールではなく正真正銘のビールを飲んでもいいだろうと、スーパードライを籠に放り込む。もう駅前でショートケーキなんかも買っている。
一人でコンビニ弁当、ビール、ケーキなど寂しすぎる気もするが、よいニュースを聞いてウキウキのため全く気にならない。会計を済ませて外に出ると、既に五時を過ぎているのにまだまだ沈まない太陽が眩しく照りつけていた。
築三十年のボロアパートも、今日はそれなりの建物に見えてしまうから実に現金なものである。錆びついた階段の脇を通り過ぎて、一階の自分の部屋へ。涼しかったコンビニから二分歩いただけでまた汗が噴き出していた。早く冷房をつけて涼もうと、鞄から鍵を取り出した時、部屋の中から物音がしていることに気づいた。
「なんだ、アサシン来てんのかな?」
聖杯戦争における悟のサーヴァント、アサシンはときどき勝手に悟の部屋にやってくる。戦争終了後、悟が碓氷の斡旋も借りて再就職するまでの三か月はほとんど入りびたりといっていい生活だった。しかし悟の就職後は、当然悟自身が家にいない時間が増えるため、アサシンが来る回数も減った。
それでも知らないうちに隠しているはずの紳士の本が散らかっていたり、アサシン曰く「隣人のマオさん(フィリピン人)からもらった」謎の酒が増えていたりするなど、来訪の痕跡はあった(むしろ悟自身より、アサシンの方が隣人と仲良くなっている気配がある)。
悟は急いで鍵を開け、部屋の中に入った。「アサシン、来てるのか? いい知らせがあるんだ聞いて……酒くっさ!!」
カスミハイツは年代物のボロアパートで確実に単身者向けである。悟の部屋も入ってしまえば馴染みの六畳一間があるだけなのだが、先客が既に酒盛りを始めていた。部屋には既に酒精が充満しており、眉をしかめるほどの匂いが立ち込めていた。
「へえ~~姉ちゃんは何でもいいのかと思ってたけどな。アバズレだし」
丸いちゃぶ台の上には裂きイカ、チータラ、ポッキー、あたりめ、ビーフジャーキー・焼き鳥といったTHE・酒のつまみが散らかり、同時に酒の缶も色々置いてある。酒盛りメンバーその一、アサシンはスーパードライを片手にトレードマークの紅い褞袍(宝具)をぐしゃぐしゃに放り投げて、派手な着流しでくつろいでいた。
「アバズレは認めるけど、アバズレだからこそ大体のモノは食べて来たからつまらないのよ。でもね私、気付いてしまったの」
方や北欧神話の女神フレイヤもかくやの美貌と豊満な肢体を持つ金髪碧眼の女。だがチューハイ缶を片手にチータラを加えている姿は、完全なるオッサンだった。ただ、その眼差しはやたらと真剣だった。
「へえ」
「私の食べてきた大体のモノって、魔術師の大体なの。つまり、全然魔術に関係ない一般人はほとんど食べたことがないの」
「そういや姉ちゃんはお嬢様なんだっけか? 一応。ったく魔術師ってのは大体いけすかねーんだけどな」
「これでも箱入りだったのよ? 箱入りに見えるでしょ?」
「黙ってて動かなけりゃなぁ! 神さんまで引っ張り出してきた女が良く言うぜ!」
何が面白いのか二人して一斉に爆笑する酔っ払い。自分の家が突如異空間になってしまったような感覚を抱き呆然とした悟にようやく気付いたアサシンが、図々しく陽気に声をかけた。
「おう悟! 邪魔してるぜ! お前もどうだ」
手近にあったスーパードライ缶を放り投げられ、あやうく取り落としそうになりながら受け取る。そしてさらに目ざとい女が、悟の右腕にかかっているケーキ屋のロゴ入りバッグを発見しひったくった。
「ケーキ? 差し入れありがとう、いただくわ」
なんだこいつら山賊か? いや、アサシンは本物の(義)賊だけど。最早どこから突っ込んでいいのかわからなかったが、悟は荷物を降ろしてアサシンの方ににじりよった。
「……アサシン、なんだこれ? というかなんでシグマ・アスガードが……!?」
「あん? そりゃあ流れだ。俺がゴミ捨て場で寝てるのを、こいつが発見した。それでこうなった」
いやだからどういうことだよ。だが超常現象みたいな二人に説明を求めるのも、徒労に終わりそうな気配が漂っている。
しかしよりにもよってシグマ・アスガード――聖杯戦争において碓氷明と死闘を繰り広げた、札付きの封印指定(悟自身は封印指定の意味をいまいち理解していない。すごくてヤバい魔術師程度の認識)がやってくるなど、ただごとではない。一体この一般市民の自分に何の用なのか。
「そうそう山内悟? 私、しばらくここに住むわ」
「……?」
これだから魔術師は。もう少し、一般人にもわかるように話をしてほしい。悟は魔術回路だの刻印だの聖杯だの、言葉の意味を呑み込むので精一杯なのである。
シバラクワタシココニスムワ、呪文?
「………ってはあ!? 何言ってんですか!? ダメですよ!」
「え~? どうして? 私どこでも寝られるから、押入れでもあなたの上でも大丈夫よ?」
「全然駄目です! お金がなくて済む場所に困っているなら一度警察に行きましょう!」
「両方とも困ってないわよ。私、あなたみたいな普通の人と暮らしたいの」
澄んだ、碧玉の瞳。吸い込まれそうなほどに誘う眼。そのまま、うん、と頷きそうにな――ったところで、アサシンがシグマの頭を煙管で叩いた。
「魅了をかけたら意味ないだろアバズレ」
「あら、かけたつもりはなかったけど……魔力殺しのコンタクトでも入れた方がいいのかしら。でも、そうね、魅了なんてしたら意味ないのよ。だから一緒に住むわ」
「いやいやいやいや駄目です! だからの意味がわからない! 俺はこう見えて妻子がいるんです! にもかかわらず、あなたみたいな女性と二人で暮らすとか、まずいので!」
「……? 何がまずいのかしら?」
「俺の家庭が完全に崩壊するので!! やっと今日、妻の実家にまた顔を出してもいいって話がでたのに!」
酔っ払いだから話が通じないのかそれとも、シグマだから話が通じないのか。前者ならまだいいが後者の気がしてならない。
いや、悟もこれでも成人男性であり、好みや性癖はあれど百人中九十九人は美女と判定するだろう女性と一晩だけ、とか妄想しないでもない。だが嘘が得意ではない悟は、もし過ちを犯してしまったら妻に対し誤魔化せる気もしない――それに、裏切りはしたくない。
悟は救いを求めるようにアサシンに眼をやった。アサシンはふざけたところも多いが、悟の家庭の快復を応援してくれる一番の味方なはずなのだ。
そのアサシンは力強く頷いた。
「……よし、わかった! 俺も住む!」
「なんでそうなるんだ!?」
「よっく考えろよ。この女、お前がいくら言ったところで聞かねえぞ。仮に今は追いだせたとしても、まとわりつかれるのがオチだ。だからせめてここにおいて、俺が監視するのが一番マシだ」
「……」
何故か知らない間に、彼女が暫くここに居座ることは既定路線になっていたらしい。悟は自分とシグマが間違いを犯してしまうこと(自分がその気になってしまう、というよりはシグマがどう出るかという方)、自分とシグマに妙な噂が流れてしまう事を危惧しているのだが、それ以上に彼女がまた魔術絡みの事件を引き起こそうとしているのかも気になる。
「……もう、なにもしないわよ。何もできない、って言う方が正しいけど。私の降霊術はいまへっぽこだもの。ま、これはこれで珍しいからいろいろチャレンジしてみてもいいんだけど、そのつもりもないし」
不穏過ぎる。そのチャレンジが一体何を意味するのか――説明されても悟にはさっぱりだろうが。見目麗しい美女は悟の心境を全く気にせず、胡坐でがぶがぶビールを飲んでカラにしている。既に家主の悟より家主顔をしている。
「安心しろよ。ヘンなことしてんなって思ったら碓氷の姉ちゃんに聞いてみるさ」
「……任せたぞ、アサシン」
正直彼女を追い出す方策も思いつかず、押し売りの詐欺に引っ掛かった気分である。それにアサシンも本気でシグマを追い出そうという様子でもない(おそらく、本当に危険だと思っていたらシグマに勝てずとも悟とともに逃げ出す)。アサシンの眼を信じるのであれば、ひとまず危険はないということか。
「やったわ。しばらくよろしくお願い、山内悟」
しかし悟としては正直一刻も早く帰っていただきたい気持ちでいっぱいである。だが、何故よりにもよって自分の所に転がり込んできたのか。金に不自由しているわけでもなさそうなのに。シグマは悟のケーキを勝手に食べながら世間話のように話す。
「そんなの、あなたが一般人だからよ。さっきも言ったけどこの世界じゃ食べるのにも意味ないし、黄金華も難しい。はあ、私の専門だけど降霊術ってまどろっこしいわよね。神を呼ぶより、自分が神になっちゃえば早いのに」
「……はあ」
やはり何を言っているのかわからない。考えても無駄かな、と思いつつ、悟は諦めて、汗をかいているビールを手に取った。
せっかくの良いニュースが今の衝撃で吹き飛んでしまった。いや、それでも喜ばしいことには変わらないのだが。
片手に弁当を下げている今、ここから消えるという選択肢もない彼はため息をつきつつ、ちゃぶ台の上のおつまみをおしのけてささやかな自分の食事スペースを確保して腰を下ろした。
**
――言えなかったことがたくさんありました。
たとえば、私が
たとえば、私が「鞘」として役目を負っていたこと。
たとえば、あなたがもう二度と大和へ帰れないと知っていたのに、黙っていたこと。
たとえば、結婚した時はあなたを憎んでいたこと。
師匠に口止めされていたのもあるけど、その中のいくつかは乙女のヒミツとして、このまま海の底まで持っていきます。
……もし私がいなくなることを、とても悲しいと思うのなら――本当につらいと思うなら、――ううん、そう思ってもらえるならちょっぴり嬉しいんですが……私のことは忘れてください。
あなたは一人に入れあげるタチでもなかったし、大碓様みたいに惚れっぽい性質でもなさそうだったし、「好き」と言われたこともないので、私は数いる妻の中のただ一人だとしか思われてないと思います。
だからうぬぼれだと笑い飛ばしてください。それはちょっぴり寂しいけど、私も悔いが残りません。
後の役目は、美夜受媛様に託します。大丈夫、あの方も師匠のお墨付きですよ。……それに、私よりも美人だしいいひとだし……やっぱ小碓様、爆ぜて!
……こほん、それはともかく……自分の代わりがいるというのは悔しいやら安心するやら、なんとも複雑な気持ちです。
さて、ほんとは見つからずこっそりするつもりだったのですが、見つかってしまったからには仕方ありません。
――さてさて皆さま、御覧じろ。
この橘の巫女神の鞘、かくして大和を護るもの――一世一代の見せ場なのです!
――師匠から教わったものはただ一回限りの業。
そこに在るのなら、
……でも、願いが叶うなら、もっと一緒にいたかったな。
*
「――ってなんじゃこりゃーーー!!」
夜の住宅街のど真ん中に、少女が一人絶叫していた。濡場玉の黒髪に白い肌、黒い瞳。薄桃色のゆったりとした貫頭衣に赤い帯を巻き、つややかな白い肩掛けを羽織った、かわいらしい少女だった。
夜も更けきった頃合い、住宅街を行く影は一つもない。空に浮かぶ月が、巨きくて夜の街さえ食らってしまいそう。そして街並みには、ただ奇怪な声を上げる女がいるだけ。不審者だった。
「えっ、意味がわからない……せ、聖杯戦争はぁ!?」
長く美しい髪が台無しになるほど狼狽えた表情で、少女はあたふたとあたりを見回したが、物言わぬ住宅が佇んでいるだけで、彼女の問いに答える者はどこにもいない。
だが動揺しながらも、彼女は己とつながるか細い因果線の存在に気づき、慌てて――蜘蛛の糸にしがみつく罪人のように――一心不乱にそれを辿った。
必死に走って辿り着いたのは、少々古い西洋風の屋敷だった。門の中のささやかな庭園は、元々は目を楽しませるものだったろうが、いまやぼうぼうに雑草が茂っている。
この中に、マスターがいる。彼女は雑草をかきわけ、脇目も振らず門を開き、無理やりに扉をこじ開けて屋敷の中に入った。室内はほこりっぽく、床にもうっすらと積もっていた。窓から差し込む月光を頼りに、彼女は気配のある二階へと急いだ。自分の着物の裾を踏みそうになりながらも、彼女は階段を上りきり寝室らしき部屋のドアを開け放つ。
「……!」
部屋には、風が吹き込んでいた。
薄手のカーテンがたなびいて、月光を導き入れていた。
その向こう――壁に接触するように設置されたベッドの上に、人の姿がある。
西洋の一大宗教の祭祀者が身に纏うカソックなる衣服にも似た、紺色の裾の長い服にズボンを纏った男が、微動だにせず横たわっている。
彼女は慌ててベッドの縁においすがり、その男の顔色を窺い、その頬に触れて温もりを確かめた。
温かい。生きている。女の手を鬱陶しがってか、金色のまつ毛が僅かに動き眉間に皺が寄ったが、男が目覚める気配はない。
「……マスター……」
彼女は男の胸の上で合された手を取り、自らの手で包み込んだ。
またその手も温かく、彼女は己の頬を摺り寄せた。彼は生きている。
安堵した彼女の心のうちに浮かぶのは、新たな決意。今まで自分の愚かしさで、多くのモノを台無しにしてきた。だがそれでも、助けを求められたなら助けてみせる。自分の出来ることをやり遂げる。
たとえ神の剣がいなくても、