Fate/Imaginary Boundary【日本史fateホロウ】   作:たたこ

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夜③ 真実を知る者たち

 春日教会。数日前に訪れ、神父とシグマに見えた場所。

 彼女は教会に住んでいるのではないため、行ったところで彼女の居場所が分かるとは限らない。だが手掛かりは教会のみだったことと、何故、神父は倒れたはずのハルカを見て平然としていたのかという疑問もある。

 

 教会の礼拝堂は、やはり静かだった。白く照らされる講堂内には、十字架像の前に御雄神父が一人きりで立っていた。

 

「神父。シグマ・アスガードはどこにいますか」

 

 ハルカは鬼気迫る形相で講堂の床を蹴り、真っ直ぐ神父へと詰め寄った。神父は何ら動揺なくはて、と首を傾げた。

 

「さてな。あれは腰の落ち着かない女だからな」

「まさか匿っているわけではないでしょう」

「直截な聞き方をするな。急いでいるのか――しかし、私にアレを匿うほどの義理はなく、また私ごときの二流聖職者の助けを必要とする魔術師でもないことくらい、お前も理解はしているだろう」

 

 それも、そうである。封印指定を受ける魔術師が、魔術的な庇護を他に求めるとは考えにくい。その時、ハルカはうっすらと教会に漂う煙草の香に気が付いた。苦み走った、目の覚めるような特徴のある香――時計塔ではしばしば顔を合わせた男の匂い。

 

「……ここにエイケイが来たのですか。この聖杯戦争のことを、既に終わっていることを――彼は知っているのですか。それに、神父……前回、私が訪れた時、何故聖杯戦争がおわっていることを言わなかったのですか」

「私も私なりに、この状況を楽しんでいる。あっさりお前に聖杯戦争が終わっていると告げるより、お前に合わせた方が面白そうだと思ったからだ。そもそも、春日聖杯戦争の発端は私だ」

 

 十字架像の両脇に灯されたろうそくが燃えている。

 右側のみだいぶ蝋がとけて、そろそろ交換が必要そうに思える。

 

 聖堂教会と魔術協会は長年犬猿の仲であり、今は不可侵の取り決めがされているとはいえ、裏では殺し合いに発展することもある。だが「神秘の秘匿」という点においては意向が合致するため、その土地の管理者と教会はある程度友誼を結び、協力しあうこともある。

 その上この神内御雄という神父は不心得者で、敬虔なる信心を以て神に仕えているのではなく、「春日の神父・聖杯戦争の監督役」という立場が欲しいがために神父になった男である。

 そのため、影景としてはやりやすい相手であり、聖杯戦争を目論んでいた神父にとっては共犯者だった。

 

 しかし、今まで聖杯戦争の首魁を知らなかったハルカにとっては衝撃の連続だった。

 

「……!? ……聖職者の貴方が、何故、聖杯戦争を……」

 

 がたん、と揺れたハルカの身体が長椅子に当たって大きな音を立てた。

 

「美琴が起きる。あまり騒ぐな……話せば長くなるがな」

「……し、シスターは知っているのですか」

「知らん。思えばあれには不憫な事をした。また何も知らぬまま息絶えさせるが慈悲だろう」

 

 御雄は書見台の上に乗せた聖書を開きながら、他人事のように呟いた。自分に呆れているようにも、吐き捨てるようにも思えた。

 だが、今ハルカの頭の中は自分のこととシグマのことで占められており、神父の様子まで気を使う余裕はなかった。

 

「老婆心ながら言うが、頭を冷やせ。ライダーではないが、楽しい方を選んだ方が良い」

「……わけの、わからないことを」

「……ハルカ様、行きましょう、あの神父の言う通りです。戦ったところで、策もなにもない今の貴方ではシグマには勝てません」

 

 ハルカは強く唇をかみしめ、強く神父を睨みつけた。ここで神父を殺したところで何にもならない。彼は踵を返し、肩を怒らせて教会を後にした。

 

 荒々しく扉が締められたあとに、再び静寂が講堂を支配した。神父が聖書を手繰る音だけが、響いている。

 

「kyrie eleison」

「……お父様、お客様ですか?」

 

 ぱたぱたと、右側の扉の奥から姿を見せたのは、ネグリジェ姿の美琴だった。彼女も自室で起きていたのか、あまり眠そうな様子は見えなかった。

 

「客と言うほどでもない。もう帰った。私もそろそろ眠るから、お前もそろそろ寝るといい」

「私も寝ようとしていたんですけど、最近夢見がよくないんですよね。……なんか、お父様に殺される夢を見るんです」

 

 神父は何一つ表情を変えず、聖書を閉じた。「そうか。お前も元は魔術畑だからな――そういうことに無縁であったのでもあるまい」

 

 美琴はぽかん、と目を見開き、噴出した。

 

「……プ、それでもよくあるみたいに言われちゃたまりません。全く――自分用に牛乳を入れますが、お父様もいかがですか」

「……それではいただこうか」

 

 神父は本を閉じ、ろうそくを消した。

 仮初の親子関係を続ける。既に壊してしまった関係でも、今この時だけは繕い、最後まで保たせる。あまりにも欺瞞に満ちて、自己満足に過ぎない。

 己の歪みは己が一番よく知っている。

 

 最早後悔もないが――かつて己が人らしい生活に戻れるかと望みをかけた娘も、この欲には届かなかったのだ。

 

 

 

 *

 

 

 

「……」

「何故お前がいる、と顔に書いてあるぞヤマトタケル。お前表に出にくいだけで、本来喜怒哀楽の激しい方だろう」

 

 本日、街の巡回担当のヤマトタケルは屋敷の玄関を出た瞬間に、その顔をひきつらせた。

 右手にトランクを携えた碓氷影景が、門の前で笑顔で手を振っていたのだ。最初ヤマトタケルは彼を無視しようとしたが、マスターの父を無視するほど神経は太くない。だが嫌そうな顔のままだ。

 

「お前はもうひとりのヤマトタケルに会いに行くのだろう?頑張れ!」

 

 適当に頷いて行こうとしたが、ふと彼は影景の身体に眼を止めた。

 

「その体……」

 

 彼の顔は笑っているが、その体は既にギジギジと悲鳴を上げていた。ヤマトタケルは医術には長けていないが、人体の構成は理解している。巧妙に隠しているが、影景は右足を軽くひきずっており、顔色も優れない。内臓もよくないのだと看破できた。

 

「死なないなら今まで理論立てしたものの、成功の見込みが少ないものを何度でも実験できる。「造られた春日」という条件下ではあるが、これは貴重な機会だ」

 

 影景は自ら暗示をかけ、体には浅い眠りを、脳には深い眠りを纏わせ、数分のショートスリープによって長時間活動を可能にさせてきた。

 自分の意識解体を利用した短期睡眠であるが、意識解体は一度自分を殺すようなものなので、明も影景もめったに使わない。

 

 つまり、碓氷影景は精神的にも肉体的にも自分を追いつめていることになる。

 

「まだ試したいことは多いからな、ギリギリまでやる」

 

 影景は自分の隣に置いたトランクを手のひらで叩いた。今まで実験しまとめた結果がすべてこの中にまとまっているという。

 

「ならば今日も実験に勤しむがいい。お前はもう、わかっているのだろう」

「うむ。だが少々息抜きだ。身体と精神は別物ではない。精神が脳のみに宿るものではない以上、休息を挟まねば実験の質の低下は免れないからな」

「……そうか」

 

 ヤマトタケルは影景を得意としておらず、好いてもいない。

 だが、彼がすべて間違っているとも思わない。その手法はどうかと思うが、「一人でも魔術師としてやっていける」「魔術師として大成をできる」という目的の為、試練を与えることは、きっと明にとっても良い事だからだ。

 

 ゆえにもう関わるまいと、話しかけはしなかった。しかしそれはヤマトタケル側の話で、影景は実に気楽に、世間話のように語りかけてくる。

 

「しかし、明にここまでしてやられたのは初めてだ。全てが終わったら俺は引退だな。あれは自己より他者を顧み、己を嫌うがゆえに、きっと俺にはたどり着けない地平へ到達する……俺は魔術師としての才能としてはよくても、資質としては健康すぎた。俺は魔術が楽しくて楽しくて仕方がないからなあ」

 

 心の底から楽しげに、嬉しそうに語る影景の姿と声音は、娘を誇る気持ちで満ちていた。それを見るにつけ、ヤマトタケルの心中はなおいっそう複雑になる。

 生前自分が得られなかった賞賛を彼女が得て喜ばしいと同時に、しかしその褒め言葉の内容は、幼い明が願った希望とは、きっと全く違うから。

 今の明は魔術師として生きる決意を固めているから、この父の言葉さえも諾うだろう。それはいい――しかしヤマトタケルとしては、背反する願いであったとしても、明には幼い明の願いを捨てないで(殺さないで)欲しいと思っていた。

 

 ――己は、明の幸せを願って消えたのだから。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 

 セイバーとの入れ替わりに、なんと父が帰ってきた。

 正直予想していなかった、というより予想不可能なので最初から考えていなかった。だがしかし、ここに至って父相手に誤魔化すのも馬鹿馬鹿しいと、明は開き直っていた。

 

 一階のリビングのソファで、我が物顔で寝そべっているヤマトタケル――ただし髪が短く、Gパンに白Tシャツで、冷蔵庫の缶チューハイを勝手に飲んでいるふてぶてしい来客。しかし彼は明が鈴を使って呼んだ相手である。

 

「はー疲れた疲れた……ってオルタじゃないか!」

 

 宝具による気配遮断でさっぱり気が付かなかったため、玄関をくぐるなり影景は大げさに飛びのいた。しかしそこですぐ明に振り返るあたり、彼もわかっている。

 

「お前がオルタについてなにか隠していることはわかっていたが、あれを呼び出せるなら最初から言ってくれ! そのせいで俺は昨日死にかけたぞ!」

「ゴメンナサイ。でも死にかけたのはお父さまの勝手だと思う」

 

 明はすたすたと影景の脇を通り過ぎると、ためいきをつきながらヤマトタケルオルタ――アヴェンジャーに対するソファに腰かけた。

 それから玄関前に立ったままの父に振り返る。

 

「今から彼と話すけど、お父さまもいるでしょ、どうせ」

 

 

 存在がうるさい影景がいるため、静寂という言葉が似合わないリビングではあったが、――それでも音は、アヴェンジャーが酒を啜る音だけだった。

 

 ちなみにアルトリアには、「ちょっと一成たちが心配だから、こっそりキリエと一成たちを追いかけてもらってもいいかな」と依頼して、キリエと一緒にいなくなってもらった。

 

 我ながら微妙な言い訳だったとは思うが、最初から訳知ったキリエがいるのはやはり心強い。ヤマトタケルは夜の巡回ことアヴェンジャー探しで不在である。

 

 目の前のアヴェンジャーは、今は眼帯を外していた。アルトリアと影景からの戦闘報告が明にも伝わっているため、「片目が見えている」ように偽る芝居をもうやめていた。見えもしないのに焦点を合わせる演技をしていた理由は、小手先みたいなものと彼は吐き捨てていた。

 

「んで、マスターは白い方の俺に無駄足させている間に俺と密会しているわけだが? 何の用だ?」

 

 アヴェンジャーは後天的に視力を失ったせいか、眼の焦点こそあってはいないものの、視線を声のするほうに寄越すことはしている。

 

「アヴェンジャー。……いや、境界主。頼みがある。この結界の創造主であるキャスター弟橘媛、ハルカの拠点に案内してほしい」

 

 結界の主が弟橘媛、もとい土御門神社で見えた影のサーヴァントであろうことなど、碓氷明は最初(・・)から知っている。

 そしてハルカ・エーデルフェルトのサーヴァントとして振舞っているならば、拠点は教会が貸し与えたはずの洋館。もちろん明は洋館の場所を知っているが、どうしてもそこに辿り着けない。

 結界の主が誰にも認識されないように隠蔽を計っている――ここ春日は碓氷の土地であるが、結界である以上最大の主導権はキャスターにある。しかしアヴェンジャーは気のなさそうに首を振った。

 

「却下。自分で頑張れ。応援してる」

「……却下っていうのは、キャスターの意向?」

「それもある」

「キャスターは何をしたくて、こんな偽春日結界の維持を望むの」

「さあ知らね。折角現界できたんだし、現代を楽しみたかったんじゃねえの」

「それは結界を作る理由になってない。……埒が明かないなあ、最初からはっきりさせよう」

 

 明は勢いよく立ち上がり、アヴェンジャーの持っている缶チューハイをひったくると景気よく飲み干して、テーブルに叩きつけた。

 

「あなたは、弟橘媛のサーヴァントでしょ。元々聖杯の残滓から召喚されたのは弟橘媛で、彼女はキャスター。聖杯とつながったままの彼女は、結界内にてあなたを召喚した。結界内ならすべて自分の工房みたいなものだから、あなたを自由に遊ばせられる。目的は多分――泥の押し付けと管理」

 

 春日の聖杯は、冬木のコピー。それは、内に潜んでいたこの世全ての悪までも等しく、魔力は真っ黒に染まったそれ。その残滓から召喚を受け、聖杯そのものから魔力を受けるキャスターもただでは済まない。正気を保てるかどうかすら怪しい。

 

 キャスターは魔力は欲しいが泥はいらない――彼女は魔力を自力で濾過するが、呪いを吐き出す場所としてゴミ箱をこしらえた。

 

 それが、この復讐者(アヴェンジャー)

 

 アヴェンジャーというクラスは通常召喚されず、ヤマトタケルにそれらしき逸話もない。

 だがしかし、聖杯戦争の記録に残るアヴェンジャーは、その聖杯の奥に潜むモノ。それを受けたからこそ、彼は後天的にアヴェンジャーとしてここにいる。

 

 彼は、この結界内だからこそ並みのサーヴァント以上に戦えるのだ。この結界外では、彼は姿を保てない。そして、キャスターは結界を崩壊せしめる要員に対して観察・春日の巡回を命じ、アヴェンジャーはそれに従う。それがこれまでの彼の振る舞い。

 

 明の話をひとまず最後まで聞き届け、アヴェンジャーは手を打って笑った。「おおすげーな、大体合ってるわ」

 

 アヴェンジャーは我が家の如く、立ち上がると勝手に台所へ向かい、冷蔵庫からチューハイのお代わりを持ってきた。本当に選んでいるのかはわからない。

 

「でも目的については知らねーよ? やれって言われてるの、この結界を護ることだけだしな……俺はもう死んでるんだし、今更消滅が怖いもなにもねーけど、折角だから現世を楽しみたいからな。ちゃんと言う事は聞いてるぜ?」

「……本当に?」

「ほんとほんと」

 

 どこまでも態度が軽薄極まりないため、明はいまひとつ信じきれない。「ちなみに、真でも生き返るってのは、俺のせいであり俺のせいでもない。泥、つまりこの世全ての悪(アンリマユ)の影響を受けて、自然とリセットされるんだよ。生き返るっていうか、巻戻るってアレ。……だけど、昨日のそこのオッサンみたいに、直に泥に触った場合は話が違う。本当に消える《・・・》。俺としては、そんな本来の春日ではありえない、イレギュラーな死に方をする奴は極力防ぎたい」

「呪いといえば、ときどき夜に眼にする黒い狼。あれ、お前のだろう?」

 

 ソファの肘掛に頬杖をついて成り行きを追っていた影景が、面白くなさそうに口を挟んだ。

 

「ご名答。俺が聖杯の呪いの受け手になっちまってるわけだが、それが溢れ出しているわけだ。俺という出力口を通す以上、俺になじみ深い狼の形ととっている。で、御察しの通り」

「いまもキャスターは聖杯と繋がり、それから魔力を得ている。それを止めない限り、呪いも一緒にこの結界に取り込まれ続ける。で、俺も呪いを積み続け、留めておけない分は黒い狼の形で街を徘徊する。あとはわかるだろ」

 

 呪いの集積場であるアヴェンジャーの閾値を超えれば、行き場を失ったこの世全ての悪はこの結界の中に溢れかえる。

 聖杯戦争最終段階、土御門神社の境内を満たしていたあの呪いの塊が街を覆い尽くす――それはもう、人が生活する場所ではない。

 

 つまり、この結界の終わるとき。

 

「だから俺を今ここで抹殺すれば何もかも、すべてが解決。で、俺を殺さなくても、……体感であと三、四日で閾値を超える。何もしなくても三日で元通り、皆晴れて自由の身というわけだ」

 

 ふらりと、アヴェンジャーは起ちあがった。「マスター、どうせお前はキャスターに直接事情を聴くために案内しろって言ってるんだろ。でも要諦は俺が話した。異変はあと三日で終わる。結界は消える――管理者として、もう行く必要なんてないだろう」

 

 明は黙り込んだ。仮にアヴェンジャーの言うことが本当として――これまでの観察結果から嘘はないと判断していても――それでも、明はキャスターに会いたい。

 勿論魔術的に問い質したいことは山とあるが、根本の動機はもう違う。

 

 管理者だからではなく、魔術師だからでもなく、一個人として――あの土御門神社で出会った、影のサーヴァントにもう一度。

 

 視線は見えずとも雰囲気で感じ取ったのか、アヴェンジャーは笑った。「悪いがキャスターへの手引きはできない。だがあれは結界の主だが、この結界全てをコントロールできるわけでもない。陰陽師のガキと巫女、それに騎士王なんかは遭遇してっだろ」

「……」

 

 ハルカの拠点の外で、どうにか補足するしかないというわけか。おそらくキャスター自体に戦闘の意思はない、とは思うが、ハルカは。

 考える明を置いて、アヴェンジャーは話は終わったとリビングを出て行こうとする。

 

「さーて、白い方の俺は呑気に俺を探してるんだっけか。折角だから会ってきてやるよ、今更もったいぶることもないしな」

 

 ひらひらと手を振ると、アヴェンジャーは霊体化してその場から消え失せた。

 邸には明と影景が残されたが、二人の間に会話はない。影景はもう明がアヴェンジャーと連絡を取っていたことにも、何も突っ込まない。

 二人とも、特に気まずい様子はないが――同時に顔を上げた。二人の魔力回路に響き渡る、訪問の響き。

 

 碓氷の結界は知らぬ魔術師の来訪を告げていた。

 

 その魔力は明にとって既知のものであるが、もう未来永劫会うことはないと思っていたもの。

 

 現代に蘇った神代の巫女。そして虚数空間に葬り去ったはずの封印指定。

 

 二人は揃って玄関の扉を開いた。夜の温い風が頬に触れるが――それはどこか棘を孕んでいるように思えた。

 玄関から真正面、礼儀正しく門前で佇む金髪碧眼の女が微笑む。

 

「頃合いも頃合い、ほんとは明ちゃんがひとりの時がよかったんだけれど」

「シグマ・アスガード……」

 

 もう遠い昔のように思える、聖杯戦争での記憶。土御門神社での最後の戦い――明はこのシグマ・アスガードと戦い勝利した。

 その時は明一人ではなく、想像明と共にあった。

 

 そしてつかんだ勝利とは、具体的に言えば――

 

「何故貴方がここにいる。虚数空間に放逐されたはずのあなたが」

「ええ、私は間違いなく虚数空間に葬られた。だけど死んではいないの」

「虚数使いでない魔術師が生身で虚数空間に放り込まれて生きていられるはずがない」

 

 虚数空間において、人を実質的な死に追いやるものは意味消失と呼ばれる現象である。存在し得ない架空が存在する世界の中では、物質界のモノ(実数)こそが異物であり、虚数空間内では定型を保てない。

 そこで外部から存在を観測・証明して保護することでやっと形を保てるのだが、虚数使いでもないかぎり虚数世界での自力での観測は不可能だ。まさか彼女がアトラスの兵器を持っているわけでもあるまい。

 

 だが答えたのはシグマではなく、隣に佇む父親だった。メガネのブリッジを押上げ、当然のように言った。

 

「明、鈍いな。そこの女の力は知っているだろう? 魔術師の魔術回路や刻印を食べて、自分のものにできるの一代限りの異能――」

「あら、影景。始めまして、というべきかしら」

「初めましてだな。こちらこそ、本家の鬼子にお会いできて何よりだ」

 

 明よりもはるかに碓氷の大本、北欧の地とアースガルド家に慣れている影景はあくまで余裕を崩さない。能力は明の口から伝えているため、知っていておかしくはないのだが、――まさかシグマにすら喧嘩を売るのではないかと、それはそれで気が気でない。

 

 ただ影景のことよりも、今はシグマである。彼女は今の明より遥かに魔術を鍛え上げた想像明の魔術によって、シグマ・アスガードは虚数空間に放逐された。

 

 その想像明は製造上の宿命で、シグマを葬り去るとほぼ同時に霧散したはずだ。

 

 ――あの刹那の瞬間にシグマは想像明を食っていたのか? 虚数使いである想像明の回路と刻印を手に入れ、自らを観測し虚数空間での意味消失を防ぎ生き延びたというのか。

 

 いやしかし、それで虚数使いとなったのであれば自力で虚数空間からもとの世界へ戻ることも可能であり、わざわざこんな珍妙な結界に手を出す必要などないはずだ。

 

「ふふっ、半分当たりで半分はずれ。私は他人の魔術回路と刻印を自分の身体に吸収できるけど、それでも、私は私なの。空っぽでも私っていう器は変わらない」

「……」

 

 シグマの特異な体質が在ろうと、彼女の起源や体質は変化しない。いくら他の魔術師の回路と刻印を身に着けていっても、他人の回路と刻印を吸収するという彼女本来の体質は変わらない。

 

 つまり魔術師個人に帰属する属性である五大元素・架空元素を、シグマは吸収することができない。

 これまでノーマルの火属性の魔術師はいくらでも摂取したろうに、それでも彼女が火属性になることがないように。

 

「……私が虚数空間で生きていられたのは、ほんと偶然よ。あの時、フレイヤを落していたから――虚数に完全に落ちる寸前に自分の身体を「世界」の区切りとした。「神様」は世界の中では死なないもの」

 

 大魔術の域であり禁呪でもある固有結界の展開は、世界の修正力を受けるために大量の魔力があっても長続きしない。

 この固有結界の展開を容易にする方法に、結界の範囲を術者の体内に設定することがある。持って生まれた体を境界として設定するのは最も無理がなく、世界からの修正力もゼロとはいわずとも受けにくい。

 土御門神社地下大空洞を己の結界(世界)としていたシグマは、結界規模を自己の体内に設定しなおした状態で虚数に呑まれた。

 時の概念もなくした虚数世界でただ一つの「世界」として浮遊していたシグマは生きることも死ぬこともなく、虚数の海を漂い続けていたのだろう。

 

 ただ生きながらえることができても、物質界には帰れない。極小の「世界」として浮遊するシグマは、虚数から物質界に戻る道標、座標を観測できないからだ。

 

 ゆえに明は、実質シグマを殺したようなものであったのだが――。

 

「マスターでなくても、私が春日聖杯戦争に深くかかわっていたから? それとも、「世界」として浮かぶ私は、この虚像の春日と同じだったから? 永劫にも似た停滞の中で、私はこの「春日」を見つけた……逆かも」

 

 ――とにかく、終末の黄金華は、碓氷明が本当の春日聖杯戦争で葬り去ったはずのシグマ・アスガードは死なずに今、ここにいるのだ。

 

 偽りだらけのこの春日にある唯一の本物が、このシグマとは笑えない。

 それはともかく、仮にシグマが通常の思考であれば、自分に何を願うか明は察しがついていたが、相手はシグマである。

 

「ねえ明ちゃん。折角だし私も元の物質界に帰りたいの。一緒に帰りましょ」

「……おどろいた。貴方にしては普通な事言うんだね」

「だって虚数空間、飽きたし」

 

 理由が苦しいとか、生きているのか死んでいるのかわからない状態を厭うからではないあたりはシグマである。

 だがしかし、そんな希望を碓氷明が通すと思っているのか。

 

 確かに現実では大聖杯が破壊された以上、シグマが春日に仇なすことはないだろうが、魔術師食いである彼女が明に何をしないとも限らない。やはり許すわけにはいかない。

 

「そんなの却下。今もう一度、虚数に送り返して「いやまて明」

 

 自らの回路を起動させかけた明を制し、碓氷影景が歩き出した。石畳の上に鎮座し、いまもさらさらと清浄なせせらぎを届ける噴水を挟んでシグマと対峙する。

 

「鄭重に実世界にお返ししろ、明」

「……!? 何で」

「この女は本家の鬼子だが、邪魔者でもないさ。神代に遡ろうとする本家の最高傑作――封印指定を受けてしまっこともあり、本家に置かず自由にさせているが、同時に大切な最終兵器でもある。諸刃の剣という奴だ」

 

 ――なにしろ本当に神になりかねんからな、と影景は笑う。

 

「しかし本家もこれを扱いかねているのは事実。俺は態々丁寧に本家に、シグマは死んだぞとお伝えしたのだが――逃げるのに一苦労だったが、信じてもらえなかった。何しろ死体すらない。本家も完全にこれを把握できていないから、証明ができんわけだな」

「あら、あなた」

 

 黄金が嗤う。金糸の髪がふわりと舞い、瞳も同じく黄金の色味を帯びていく。「実世界に返す代わりに、本家から切り離そうというの?」

 

 影景が懐から投げ上げた一枚の羊皮紙。風に乗ってシグマの足許に転がったそれを、彼女は見るまでもなく何かを認識していた。

 

自己証明強制(セルフギアス・スクロール)』――契約者は碓氷明と、シグマ・アスガード。

 権謀術数入り乱れる魔術師の世界において、決して違約不可能な取り決めをする時にのみ使用される、最も容赦のない呪術契約の一つ。この証文を用いての交渉は魔術師にとって最大限の譲歩を意味し、滅多に見ることのできない代物である。

 

『束縛術式 対象:碓氷明

 碓氷の刻印が命ず。

 各条件の成就を前提とし、制約は戒律となりて、例外無く対象を縛るものなり。

 

 制約:碓氷明はシグマ・アスガードに対し、虚数空間からの脱出を約束し、十日以内に履行すること。

 

 条件:シグマ・アスガードは、死ぬまでアスガード家本拠地に足を踏み入れねばならない。また、アスガード家嫡流からの援助を受けてはならないまた、アスガード家本拠地と魔術的交信をしてはならない。何らかの理由で上記を行わねばならない際は、碓氷の者の同行を必須とする。

(嫡流の範囲、碓氷の範囲は後述する)』

 

 

「……あえて聞いてあげるけれど、これ、穴だらけじゃないかしら」

「それは承知だ。奴隷にするにはお前は勿体なさすぎる」

 

 明も同様の内容をコピーした紙を渡され、眼を通す。対象は明だが、まだ明のサイン自体は入っていない。影景はシグマに可否を問いつつ、明にも判断を迫っている。

 

 だがしかし、明の力なしにはシグマはどうにもならないはずである。にもかかわらず、黄金の女神は即答せずに、羊皮紙を胸にねじ込んだ。

 

「話はわかったわ。どーせ私も虚数空間の話をしに来たんだし、目的は達したし……けどあなた、碓氷影景」

「何だ?」

「明ちゃんほどじゃないけど、あなたも十分おいしそうよ」

「それは光栄」

 

 艶やかな美女の視線。並みの男であれば、単に誘惑された以上の強制力で意識を奪われるだろうものも、影景は笑って受け流した。

 

 シグマが去った後の碓氷邸には、いつもの静けさが戻っていた。

 影景がいなければ危うく戦闘に入るところだったと思うにつけ、明は自分が案外脳筋なのではないかと思ってしまう。

 

 明はそっと、自分の斜め前に立つ父の姿を見上げた。いつもと変わらず皺ひとつないスーツの裾が、風で舞い上がる。しかしあの自己強制証明といい、シグマの口ぶりと言い、父もシグマも、やはり何もかも知っている。

 

 ふと、影景が振り返った。

 

「……一縷の可能性として、昨日お前に課題を出したものの無意味だったな」

 

 明から返す言葉はない。流石はわが父、と心の中だけで呟いた。

 

「……私は今夜、もう何もしない。セイバーたちの帰りを待つけど、お父さまは出るの?」

「勿論。最後にはお前に全て託そう。現実の俺とお前に、しっかり伝えてくれ」


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