Fate/Imaginary Boundary【日本史fateホロウ】   作:たたこ

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夜① はつこいのひと

 閑話休題。昼は和気あいあいとバーベキューに興じていたが、夜は夜で春日市の調査がある。

 

 今日からはアーチャーが一成・理子につきあって調査をする。また明側では今日の担当はヤマトタケル。ちなみにヤマトタケルと一成たちは別行動で、一成たちはハルカとキャスターを優先する。

 

 集合はアーチャー宿泊のホテルに夜十一時。理子もホテルの勝手を解ってきたため、難なく時間通りにやってきた。迎えに出たアーチャーに導かれ、室内に入った理子が目にしたものは――リビングの大きなソファーで、キリエに馬乗りされている一成の姿だった。

 

「……土御門、あんた……」

「な、何だその眼は! 俺は無実だ!」

「何が無実よカズナリ! 私の大事なものを奪ったくせに!」

 

 キリエは涙目になりながら、一成の胸や頭をやたらめったらぽこぽこ叩いた。アーチャーはその様子を、一歩引いて蔑んだ表情で見つめて呟く。

 

「……そなた……」

「何がそなた……だ! 榊原はともかくお前は全部知ってんだろーが!!」

「私のプッチンプリン、勝手に二つも食べて!」

「なんだ、無実じゃないじゃない」

 

 そんなことだろうと思った、と理子は肩を竦めて一成たちの向かいのソファに腰は下ろさず、よりかかった。

 

 このホテルのロビーにでも電話すれば、プッチンプリンよりも高級なプリンがルームサービスで運ばれてくる。深窓の令嬢たるキリエの舌にはそちらの方があっているのではないかと思われたが、むしろ庶民のプリンを妙に気にいってしまったのである。

 そういうわけで部屋の冷蔵庫にはプリンが常備されているのだが、それを一成が勝手に食べたという話だった。

 

「アーチャー、土御門、そろそろ行きましょ」

「お、おう……おいキリエ、ちゃんとプリンは買ってくるから勘弁してくれ。春日の調査に行ってくる」

「……プッチンだけじゃなくて、あの青と緑のコンビニの、俺のプリンもつけるなら許してあげるわ。あのおっきいやつね」

 

 一成がもがきつつ頷いたのを確認して、キリエはしぶしぶと彼の上から降りた。それから理子やアーチャーを一瞥して目を細めた。

 

「あなたたちも物好きね」

 

 キリエは一貫して、今春日に起こっている事象に興味がない素振りを貫いている。それはこの春日が結界である、とわかった後でも変わらない。

 一成にはどうして彼女はここまで関わろうとしないのかは、よくわからない。だが明の父はもう真相を知っているようでもあり、またキリエがやりたくないのに強制することは(力量的にも人道的にも)無理だ。

 

「留守番を頼んでもよろしいか、アインツベルンの姫」

「任せなさい。とはいっても、何もすることはないのだけれど」

 

 冬の令嬢は一成のどいたソファに再び腰を下ろし、深く体を鎮めてゆっくり手を振った。

 

 

 

 

 *

 

 

 

 今宵は月が明るい。冬ほど煌めく星がみえなくとも、明るさは十分である。さて、どこから探したものかと一同が顔を合わせた時、一成が思い出したように口を開いた。

 

「……今更だけどハルカと新キャスターの拠点ってどこなんだ? 碓氷は知ってんのかな」

「知っていたとしても向かうのはどうであろうか。キャスターは陣地防衛を最も得手とするサーヴァント、つまりは大西山決戦のようなもの。あまり気が進まぬのう」

 

 春日聖杯戦争において、サーヴァント五騎が入り乱れる大決戦となった大西山の記憶はアーチャーにも深く刻まれている。キリエの魔術も併用し一ヶ月以上の時間をかけて構築された陣地は、死地そのものであった。

 一成も確かに、と言いかけた時、理子が割り込んだ。

 

「ちょくちょく思うけど、あんた碓氷に頼りすぎじゃない? 確かにあんたはヘッポコだけど、きちんとサーヴァントもいて私もいるんだから、もうちょっと自分でやろうって思いなさいよ」

「う……た、確かに」

 

 以前より明に頼ることに抵抗がなくなっているのは否めない。頼ることが悪いのではないが、その分の借りを返せているか、ギブアンドテイクのギブができているかという話である。

 聖杯戦争時は互いにサーヴァントを連れており、明たちも問題を抱えていたが、今は違う。調査は一成が好き好んで行っていることであり、明から頼んだことではない。

 ただ、「春日自体が偽物」という大事で、明がそこにこだわるかどうかだが……。

 

「……そうだな、俺たちで探すか。やっぱ気になるのは美玖川か?」

「ええ。先日調べたけど、やっぱり春日の外に出られない。念写とかも試してみたけど、無駄だったもの」

「念写?」

 

 一成はハルカたちと戦闘した時の、理子の魔術について聞いていない。むしろ他家の魔術に深く突っ込むべきではないと思ってもいたため、一成は聞いていなかった。

 しかし日本の魔術師の特性、土着の信仰を護る家と言う意味では、理子は明たち西洋魔術師ほど神秘の漏えいに気を払ってはいないようだった。

 

「……詳しくは行ってから話すわ。行きましょう」

 

 

 

 

 *

 

 

 

 かつて、初代神の剣(神武天皇)とニギハヤヒノミコトによる大儀式(東征)が完了し、大和は成った。

 それから数百年が経過した今、第二代神の剣が造られた。とすれば、自然ニギハヤヒのような役が此度もいるのだろうと、大和の帝と近しい者たちは思った。

 

 ――しかし、此度のニギハヤヒは男ではなく、女だった。

 

 初代神の剣にして初代天皇・神武から下る事既に数百年が経った。葦原は落ち着いた――とは言い難い。

 むしろある意味、神武の時代よりも混迷しているといっていい。

 

 島国であるこの葦原中国は大陸が神の時代を離れた今であっても、奥深き神代の香りを色濃く残していた。大陸の幻想種の多くはとっくに星の内海(世界の裏側)へと移行したにもかかわらず、思惑は様々だろうが、内海に向かうことを拒んだ大陸の幻想種や神々の端くれは、世界の辺境の葦原へと流れ着いた。

 

 まだ真エーテルの深き葦原、世界の流れから遅れた田舎ではあったろうが、残された辺境だからこそそれらの幻想が生きるには適していた。つまり今の葦原はありとあらゆる、逃げ場を求めた幻想種の巣窟、神秘の掃き溜め、魔性と神性、外宇宙の遺物それらすべてが同居する坩堝に成り果てていた。

 

 ただ流れ着いても、こちらの規則(ルール)に従うならば良し。だがそればかりとは限らない――。古来の神々、天津神と国津神は一時結託し屠りつくすしかないと、今一度神の剣を鋳造した。

 神霊直接の降臨が難しくなった今、彼らは代理を遣わした。

 

 第二代神の剣、現世の名を小碓命にして日本武尊。

 

 神の剣は大和を害するあらゆる怪異を、神を、獣を、ひいては人を殺すことのみが至上命題。兵器を大和に置いていて腐らせるなら意味はない。

 それはただ滅ぼすもの。殺すもの。

 天皇に疎まれたから東征にいくことになった? それは違う。好かれようと疎まれようと、東征は既定であった。だから神の剣は、帰れない。

 

 だが帰れないのは彼だけではない。「神の剣」が帰れないなら「鞘」もまた帰れない。

「鞘」の役目は剣が斬ってはならぬものを斬らぬように、そして剣を護るもの。

 剣より先に壊れる宿命を持つもの。

 

 神霊そのものの降臨は不可能だが「剣」は滅ぼす力のみに比重を傾けて神霊を葦原に下ろしたようなもの。それを補強する鞘は別途、選ばれた。

 かつての東征において初代神の剣ともに東征を完遂した、邇藝速日命(ニギハヤヒ)の血筋と神宝を所持する者が。

 

 神命であり、天皇の命であり、その者に拒否権はなかった。

 大和を護るための、人を護るための人柱である。

 

 

 

 

 皆勝手なことばかり。好きで女になったわけでもないのに、さらに大和の為に死ね?はあそうですか、そうですか。ふぅ~~ん。

 

 彼女は内心ずっと不満を覚えてはいたものの、幼いころから「お前には大和を護る大任がある」と言われ続け、半ば諦めてもいた。

 たくさんの人が死ぬのは見たくないと思う普通の感性を持っていた彼女は、自分がやれば多くの人の死が遠ざかると聞いて渋々受け入れた。

 

 生まれた時から彼女にはその大任があるため、周囲は一豪族の娘以上の特別扱いをしていた――だがその扱いはよそよそしさに通じ、幼い彼女には親しい友人がいなかった。

 

 もう少し歳を重ねたら伊勢の倭姫命(ヤマトヒメ)へ弟子入りするなどの話も、耳から耳へ通り過ぎていくばかり。周りの人間にとって、自分は大和を護るための道具でしかないことを無意識のうちに態度から察してしまった彼女は、すべてに対して投げやりで上辺だけだった。

 

 そんな彼女が天皇家の者と触れることを許されたのは、将来的に大碓命と娶せるためではなく、弟の方と娶せるために親しませる目的のためだった。神の剣と、神の鞘として。

 

 新緑の薫る暖かい季節だった。彼女は父親に宮中に連れてこられたはいいものの、父は父で誰かと話があるとかで立ち去ってしまった。

 彼女は手持無沙汰にだだっぴろい板張りの広間で座って待っていたのだが、その時廊下からけたたましい音が響いてきた。

 

 顔立ちの整った、黒髪の少年がこの部屋の前で止まり彼女と目があった。すると少年はまた凄まじい勢いで彼女の方へ突進してきた――かと思えば、すれ違いざまに「黙ってて!」と言ったかと思うと、そのまま部屋の隅に置いてある大籠の中に姿を隠した。武器などを運ぶ際に使うもので、子供一人ならすっぽり入れる大きさだ。

 

 何が何だかわからない彼女の耳に、またしても足音が聞こえてきた。今度は静かで、ともすれば聞き逃してしまいそうな、小さな音だった。

 それはまたしてもこの部屋の前で止まった。

 

「……!」

 

 先程のうるさい足音の少年と、全く同じ顔をした少年が真っ黒な瞳で少女を見た。彼は無表情のまま、抑揚のない声で訊ねた。

 

「僕と同じ顔をした人がここに来ませんでしたか」

 

 彼女はどう返答したか迷った末に、首を横に振った。暫く沈黙が続いたあとに、後から来た少年は足音もなくその場を去った。

 念のため、暫く間を置いてから彼女は小声で籠の中の少年に声をかけた。

 

「い、行きましたよ」

「……ほんとか!」

 

 どすんと籠を横倒しにして這い出してきた少年は、まだ半信半疑の体であちらこちらを見まわしていたが、一通りあたりを眺めると気が済んだのか、息をついてその場に坐った。

 

「お前ありがとうな! 助かった! ……ん? 誰だお前」

 

 それは彼女からの台詞でもあるのだが、宮中を我が物顔で疾走するあたり、身分は上の可能性が高い。彼女は静かに答えた。

 

「タチバナ。弟橘です」

「へ~よろしくなタチバナ。俺大碓! ところでお前、ヒマ?」

 

 暇、かと言われれば暇ではある。だが父にここで待っていろと言われたので、勝手に動くのは良くないと思う。

 それを素直に大碓に伝えたところ、彼はなぜかにんまりと笑った。

 

「つまりヒマってことだな! よし、行こうぜ!」

「は、はい!?」

「野イチゴが生ってるとこ見つけたんだぜ~穴場~~の・の・のいちごッ」

 

 謎の歌を歌いながら、大碓は弟橘をずるずるとひっぱって晴れ渡る空の下へと連れて行った。弟橘は完全に流されるままに、勝手に話し続ける大碓の話を聞きながら野イチゴを食することになったのである。

 

 初めての出会いは、それだった。結果として大碓と遊びに行ってしまったことは父親からも咎められはしなかった。

 

 何もかもがつまらない、と思っていた彼女――弟橘だったが、大碓と遊んでいる時だけは違った。

 初めてできた友達で、色々なものを見せてくれて、いつも笑っている。

 いつか、大碓様には楽しい事しかないんでしょうと言ったら、腹を立てられた。

 

「む! 俺だってやなことあるぞ。たとえば教育係のババアに怒られるとか、父帝に叱られるとか、小碓にボコボコにされるとか、歴史覚えられなくて眠いとか」

「でも、大碓様、今まで一回もそれいやだって言ってないですよね」

「ん~~怒られるのとかボコボコにされるのは嫌いだけど、ババアや父帝、小碓は好きだから」

 

 ババアは怒るけど飽きずに俺にずっと歴史や政治を教えてくれる。

 父帝はこの大和を護るので忙しいのに、俺と楽しく話してくれる。

 小碓は凄くできるやつで、特に武術なら大人複数人にも負けない。

 

 放っておけば、今挙げた人々だけではなく宮中の役人や他の兄弟まで褒め倒しかねない勢いだった。けれど彼は無理に褒めようとしているのではなく、単に目についたことを言っているだけの自然さだった。

 

 宮中で、数多い現帝の子の中でも大碓と小碓の双子は、良くも悪くも有名人だった。小碓は小碓で出来が良すぎて不気味がられているが、大碓はその弟と引き比べて出来が悪いことで影で不肖の子と謗られている。

 その陰口を大碓が知っているのか弟橘にはわからなかったが、大碓は陰口をたたく者の悪口を全く言わなかったし、宮中でも彼らに普通に話しかけていた。

 

 ――大碓と話すとき、多くの顔が笑っていた。

 たとえ天皇として不適合だと思われていても、無能だと思われていても、彼の人格が嫌われていることとは話が違う。

 

 彼に呆れながらも、バカだと思いながらも、たくさんの顔が笑っていた。

 

「大碓様は、人のいいところを見つけるのは上手ですね」

「そうかな? でも、やなところより好きなところを見つける方が得意かも?楽しいしな!」

「……私は、いいところよりやだな~ってところの方が目に入ります」

「そうなのか。お前には、俺とは違うものが見えるんだな! すげえな!」

 

 なんだか、大碓と話していると自分がつまらないことで悩みすぎているような気がしてくるから不思議だ。

 弟橘は手渡されたハシバミをつまみながら、ふと思いついたことを聞いた。

 

「大碓様、私のいいところを言ってみてください」

 

 きょとんとした大碓だったが、直ぐに破顔した。「かわいい!」

 

「ギャーッ!」

「何で殴るんだよぉ!」

 

 衝撃のあまり大碓の腕を殴ってしまった弟橘は彼から距離を取り、そっぽを向いた。熱を出したわけでもないのに頬が熱くて恥ずかしい。

 とても大碓の顔を直視できそうになくて、彼女はしばらく不自然にそっぽをむいたままだった。

 

 

 

 

 

 どんよりと垂れこめた雲が泣いていた。肌寒さの取りきれない季節に、白い装束と羽織を身にまとった弟橘は一人、こんもりとした丘の前に立ち竦んでいた。

 周囲は林で人気は皆無だ。一応、豪族の娘である彼女が友も連れず一人きりで歩き回るのはよろしくないのだが、既に倭姫命に弟子入りしている彼女は、魔獣避けの術を使っているため不安はなかった。

 

 傘を小わきにかかえ、雨に濡れるのも気にせず、彼女は目の前の丘に手を合わせた。この丘は、墓。

 

 大碓命が永久に眠る、墓である。

 

 仔細は彼女も解らない。ただ父帝から麗しい乙女を連れてくるように仰せつかった大碓命が、魔がさしてその乙女を自分の妻にしてしまい、そのくせ罰せられることを畏れて引きこもったらしい。だがそこから死に至った経緯が判然としない。

 

 ひとつには、怒った父帝が小碓命に命じて大碓を殺させた、とか。

 ひとつには、父帝は小碓命に説得して顔を出させるように命じたが、説得の段階で争いになり、誤って小碓命が大碓命を殺してしまった、とか。

 ひとつには、父帝は小碓命に説得して顔を出させるように命じたが、「殺せ」と言われたと思った小碓命が大碓命を殺した、とか。

 ひとつには、この機に皇位継承の敵である大碓命を、小碓命が殺したとか。

 

 弟橘の所見からありえないと思われる説もあったが、ありえると思える説もあった。何が真実かは藪の中。

 大碓命が初めて妻を持ったときから、弟橘は彼から距離を置いていたため、なおさらわからなかった。ただひとつの真実は、大碓命はもういないということだけ。

 

「……大碓様、あなたのことが大好きでした」

 

 結局、最後まで伝えなかった言葉が虚空に木霊した。今思えば、言うだけ言っておきたかった気もすれば、やっぱり言わなくてよかった気もする。

 

 私はあなたの妻の一人にすらなれない立場ではあるけど、それでも――。

 

 一人の友達として扱ってくれて、ありがとうございました。

 貴方のお陰で、つまらなかった世界に興味を持とうと思いました。

 だから、

 

 

「――あなたが好きだった大和は、私が護ります」

 

 大碓命との日々を、過去の想い出として、懐かしむだけにすることもできた。

 でもそれは、懐かしむには美しすぎた。風化させるには輝かしすぎた。

 

 自分は神の剣なんかの為に死ぬのではない。また大和の為に死ぬのでもない。

 

 ただ失われた(景色)の為に死ぬのだと――まだ十代も半分に満たない少女は、その時、本気で思っていたのだ。

 

 

「……何をしている?」

「ウヴォゥァアア!?」

「魔獣みたいな声を出すな、お前」

 

 静かな林の中、背後からぬっと顔を出したのは、傘を片手に持つ小碓命だった。いつもと変わらぬ無表情で、こちらもただ一人で現れた。彼の場合、宮中の誰かに適当に行ってくると残して出てきたのだろう。

 彼が魔獣や強盗に襲われる心配をする者は、もう宮中に皆無だろうから。

 

 この時既に小碓命と弟橘の結婚は決まっていたが、婚儀自体は執り行われていない。その理由は、小碓命に熊襲(クマソ)討伐が命じられたからである。

 いわば東への前哨戦――熊襲の地は元々、初代天皇の生まれた土地であり人の住まう土地である。ただ、今では大和に従わない者たちによる支配となっている。

 

 つまり、敵は神ではなく人の範疇にあるものではある。

 だが数えで十五歳の少年に、軍もなしにしろというのはあまりに厳しい。

 

「……お、小碓様、いったい何しにここへ」

「これから伊勢に行き、熊襲に向かう。その前に墓参りくらいしろと武彦が」

 

 吉備武彦(きびのたけひこ)とは、弟橘に先んじて妻となっている女の父であり、つまり小碓命の舅である。小碓命も弟橘と同様に墓に向けて手を合わせたが、その内心は杳として知れない。いつも通りの無表情だ。

 熊襲討伐の命をどう思っているのかも読み取れなかった。

 

「た、大変なこと命じられちゃいましたね! 熊襲討伐とか!」

「そうだな」

「やっぱ怖いですよねぇ、私おしっこちびりそうです」

「戦うことを怖い怖くないで考えたことはない。命じられたからには殺すまで」

「失敗したらとか考えちゃいません?」

「失敗したところで俺が死ぬだけだ」

 

 またとんでもないやつの妻になることになっちまったもんだ、と弟橘は嘆息した。もし大碓命が同じことを言われたら「絶対無理~~! いやだ~~!! 死んじゃうだろ~~!」って恥も外聞もなく断るに違いない。

 表だっては言えないが、これは天皇に相応しくないと、弟橘ですら思う。

 

 かといって、小碓命が天皇に相応しいかとと言えば、それも違うと思っている。

 

 しとしとと雨の音だけが響き、獣の気配も人の気配もない静寂の森で、会話は途絶えた。交流を心がけようと質問を投げてみたはいいものの、最も聞きたくて、かつ最も恐ろしい問いが弟橘の内でずっと木霊していた。

 

 

 ――小碓様、あなたは望んで大碓様を殺したんですか――?

 

 小碓命の妻となる決心がついた時から、彼女は決めていたことがあった。

 

 恋はできなくても、小碓命を好きになる努力をすると。大碓命は、人のいいところを見つけて好いていた。その彼は、この弟の悪口を一回も言わなかった(ケチだ、とは言っていた気がするが)。

 だから大碓命を見習おうと決めた。

 嫌いでいるより、好きでいる方が楽しいと――人を楽しんだ彼のように。

 

 けれどもしも、小碓命が「殺したかったから殺した」と返してきたならば、その努力をする心が折れてしまうと思った。それが、彼女の口を凍らせていた。

 

 結局その問いを投げかけることなく、代わりに彼女は笑った。

 

「あのっ、小碓様はいつ伊勢に向かうんですか?」

「明日だが」

「私も一緒に行っていいですか? ホラ、結婚しますし? 小碓様の叔母様にも挨拶したいですし? それに観光逢瀬できますし? キャー!」

 

 何言ってんだこいつみたいな顔されたが、めげるものか。ついでに倭姫命に会いたいのも本音だ。挨拶ではなく最近伊勢に行っていないから、修行をの成果を見てもらいたいという内容だが。

 

 正直、師匠たる倭姫命にも不可解なことが多い。元々天照をしょってるとか未来が見えるとか変な噂があり、弟橘にも噂の真偽はわからない。

 それに加え、何故か小碓命に神の剣であることを伝えていないらしく、弟橘も鞘であることを言うなと口止めされている。

 

 

 ――うーん、わからないなあ。

 

 これから先のことも、小碓命のことも、倭姫命のことも。大変な困難が待ち受けているだろうことは薄々察しているが、それでも楽しい人生として過ごしたいのだ。

 相変わらず小碓命は胡乱な顔つきをしていたが、半ばどうでも良さそうに頷いた。

 

「……ついてきたいなら好きにしろ」

「やった! キャー小碓様しゅてき! 好き!」

 

 幾ら空疎な言葉であっても、繰り返せばいつの日か本当になると願っていた。

 


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