Fate/Imaginary Boundary【日本史fateホロウ】 作:たたこ
「はあ~痛え~~!」
草原に転がった十歳前後の少年は、腕を濡れた布できつく縛られると苦痛の声を上げた。彼は先程まで剣の稽古をしており、相手である双子の弟に叩きのめされた後であった。腕や足には内出血の跡がいくつもあった。
その彼の手当てをしていたのが、彼よりも三、四歳年下の少女だった。
「大碓様は将来、天皇になるんでしょ! これくらい、がまんしてください!」
少女が手当てを終えた打ち身を布の上から勢いよく叩くと、少年はぎゃっと情けない声を上げた。
「うぇぇ~~こんな我慢しなきゃいけないなら、天皇になんかならない~~」
「こらっ! そんなこと言うんじゃありません!」
もうどちらが年上なのかわからない光景である。腰まである美しい黒髪を持つ少女は、まるで先生のように少年を指さした。
「大碓様は御自ら熊襲のまつろわぬ者、土蜘蛛まで征伐なさり大和の安定に尽力した天皇の御子なのですよ! そんな偉大な天皇に、自分もなりたいと思わないのですか! 大和を守る大役を果たしたいと思わないのですか!」
彼女自身、その言葉の意味をきちんと理解しているかは疑わしい。彼女も教育係から教えられた言葉をそのまま繰り返している――ただ、それが「すごい」ことだと思って言っている。
今目の前に広がる青い空、吹き抜ける風、四季折々に咲く花々。この全身を包む暖かな空気――所与のものとして与えられているこれらが、決して何の代償も払わずに得られているのではないことを、少年もうすうす察している。
少年は父帝が偉大なことは知っている。だが、未来に己が父帝に代わって今も渦巻く神秘という名の猛威に立ち向かう覚悟があるかと問われれば――。
「うう、父君はすごいんだ! でも絶対大変なんだ! 俺はそんなの一人でできない!」
「……ッ、ひ、ひとりじゃありません、この、私がついています! 大碓様がへこたれたら、私がお尻をたたきます! もし、大碓様がそれでもへこたれたまんまなら――」
少女の白い肌に刺した赤みに、少年が気づいたのかどうか。少女は少年の手を取り、強く握りしめた。
「私が大和を守ります!」
それは、もう遠い昔の約束。
たとえ、貴方の妻になれなくても。
たとえ、貴方が殺されてしまって、いなくなっても。
たとえ、
約束は守るもの。誓いは果たすもの。
たとえ剣をとることができなくとも、身命を賭すことはできる。
「――神の鞘、拝命いたします」
――神の剣の付属物。女の形をした、妻と言う名の盾。
私は神の剣の為に死ぬのではなく、神の剣に与えられた神命の為に死ぬ宿命を背負った。
できることなら、私自身が神の剣として生まれればよかった。
そうであれば、本当に名実共に大碓様の代わりに大和を護ることができるから。
でも、そうではなかった。
その代わりに私には、特異な術を使う力があった。代々ニギハヤヒノミコトから受け継いだ神宝と共に、使うことが叶う術。
倭姫様はその私の力を見込んで、弟子にまでとった。いざという時の為、刀身を護る鞘の役目――それが私。
ただその力はたまたま私に与えられていたのではなく、意図的であると考えるべきだった。
かつての国譲りのように神霊が降りることはもうできない。それは神霊と同格の力を芦原国に降ろせないという意味だ。
しかし何も、毎度毎度神霊格の力が要請されるわけではない。時には神を殺す力として、時に呪いから身を護る力として、その必要な時に発動できればいい。
殺す力として神の剣を。護る力として天叢雲剣を。そして護りすら貫通した時の一回きりの奇跡を――分割して葦原国に降ろした。
現代っぽく例えるなら、旅行で必要なものを全部鞄に入れて持っていくのではなくて、必要最低限だけ持って身軽になって、旅先で随時調達する感じだろうか。つまり私はその分割された力の一端を担う者だったわけで、東征に行くことも生まれながらにして決定事項だったのである。
とにかく、あの原っぱでの約束を果たすため、私は神の鞘となり神の剣の妻となった。大碓様を殺した神の剣のことは、正直憎んでもいたけれど――私一人では大和を護れない。
私でも、鞘としてならば果たせることがある。だから私は、神の剣の妻となった。
元より巫女の家系、神霊に身を捧げるのはよくあることだ。人ではないものの妻になることくらい、大騒ぎすることでもない。それにどうあがいたって、もう大碓様の妻にはなれないのだから、どうでもよかった。
私はきっと、もう大和には帰れない。ただ、大碓様と楽しく過ごしたこの愛すべき土地を護るためにこの身を使うことに、後悔はない。
――だが、それはそれとして。
夫婦となり東征までついていくとしたら、長く共にいることになる。その相手が嫌いな相手というのは、つまらないというか精神衛生上悪いと言うか、楽しくない。
だから、相手が人間じゃなくても、正直嫌いな部類の人でも、好きになる努力をしよう。
好きでなくとも、好きだと言っていれば本当に好きになるかもしれない。
恋していると言い続ければ、本当に恋をする日がくるのかもしれない。
私は美人でも男の人受けする体をしているわけでもないから、神の剣が私を好きになるとはあまり思えないけれど、少なくとも私が神の剣を好きになるだけでも、旅は違うはずだ。
だって大碓様は、人も自然も大好きで、いいところをみつけるのもうまくて――いつも笑っている人だったのだから。
*
――遥か遠い、蒼い空を見た。
もう、蒸し暑い中の眼ざめではなかった。ベッドから上半身を起こしたハルカは現実を確認すると、自分の頬を叩いた。一時間程度午睡を取っただけだが、大分意識はすっきりしていた。
瞼の裏に残るのは、抜けるような青い空の下に立っているキャスターの姿だった。何もない野原――丘だろうか――もしくは集落を見下ろせる高台。周囲には武装した男たちらしき姿も見えたが、模糊として曖昧だった。
ただ彼女が危うい目に遭っているようには見えず、むしろ気心の知れた知り合い、仲間のようにも思えた。
「……やはり、昼は暑すぎます」
深夜に昨日の戦闘からこの拠点に戻り、キャスターの快復を待つために彼女を休ませていた。その昼間、ハルカは一人で出歩こうと考えたのだが、曲がりなりにも今は聖杯戦争中のため、一人で出歩くことは躊躇われた。
考えた末、遠出はせず周囲を歩いて回り食事の買い出しにとどめたのだが、彼は日本の夏の暑さに参ってしまった。生粋の北欧育ちのハルカには厳しく、昼間に活動するのならなんらかの魔術を施さなければ無理かもしれない。
いや、それよりも彼の脳裏を占めているものは別にある。
サーヴァントとマスターで欠けた記憶のまま。
そして、昨日邂逅したセイバーのサーヴァントの言葉。
「聖杯戦争はもう終わっている」
「ハルカ・エーデルフェルトというマスターは知らない」――。
その時、ぱたぱたと階段を上がってくる足音が聞こえた。
「マスター! お目覚めになりましたか!」
扉を開けて入ってきたのは、おなじみのキャスターだった。昨夜のダメージはすっかり回復したようで、ハルカの午睡中に食事をこしらえていた。
お盆の上には白い器に盛られたカレーライスと水の入ったグラスが載っていた。そして彼女の服装も祭礼用ではなく、この時代の服装に変わっていた。オフショルダーの淡い水色の半袖に、白い膝丈のスカートに黒い薄手のストッキングだ。彼女の見た目年齢からすればやや背伸びした格好だが、それでもよく似合っている。先日報告にあった、ハルカの財布を勝手に拝借して購入したものに間違いはない。
しかしその話を蒸し返す気はないハルカは、溜息をついてから口を開いた。
「……よく似合いますよ」
「キャッ、ありがとうございます! そして、あの……。ワンパタで非常に申し訳ありませんが、カレーライスです! 多分、前回よりはおいしいかと!」
「……ふむ。前回もまずくはありませんでしたが」
「……もうっ、おいしいって言っておけばいいんだろって思ってもらっては困ります! 日々クオリティの向上のため、私は研鑽を積んでいるのですから!」
もっと別のことを研鑽してくれ。そもそも、今更練習したところでサーヴァントは既に完成した存在であり、座に帰っても還元されない――とツッコもうとしたが、そういったところでこのキャスターはああだこうだと理論にならない理論を言い返すに違いない。面倒になったハルカはテンションの高いキャスターに従い、億劫だが階下に行って食卓に着いた。
目の前には、またしてもカレーライス。具材はにんじん、じゃがいも、豚肉、玉ねぎと前回から変化なし。出来立てで湯気が立ち、スパイスの香りが鼻をくすぐる。どことなく野菜の切り方が前回より多少マシになったようには見えるが、味の方は食べないとわからない。
「それでは……いただきます」
スプーンを右手にとり、ルーとご飯をからめて一口。食べるといかに自分が食事をとっていなかったのか今更自覚し、スプーンは動いた。にんじんやじゃがいもの芯はなく、十分火が通っている。問題があるほどではなかったが前回は少々硬さが残っていたから、確かに上達している。
あっという間に平らげたハルカをじっとみつめて、キャスターは身を乗り出した。
「ど、どうですか!? 進歩の形跡はありますか!? 前回よりイイ! と思ったんですがいかがですか!」
「……よく煮こまれていて、前回より美味しかったです。――さて、キャスター。色々と話したいことがあります」
「はいっ」
畏まったキャスターはその場に正座した。「今後の同棲生活についてのルール決めですね」
「違います。もしかして貴方は、生前の自分について何か思い出したのでは?」
「はうあ! スルゥー!!」
よよよ、とその場に崩れるキャスター。百パーセントウソ泣きである。
「過去より未来に目を向けましょうよマスター!」
「未来を語るにはまず過去を知らなければ、現在を超えることもできません」
「うぐぅ。……確かに御言葉通り、少し思い出しました。それは見苦しいながらも、マスターにもお見せしてしまったと思いますが……あと、それに加えて自分の力も思い出しました」
その言葉に身を乗り出したのはハルカの方だった。ベッドの上から降りて、自分も何故か床に正座をした。
「本当ですか。宝具は!?」
「す、すいません、宝具はまだ使えなさそうです……それに、凄く言いにくいんですけど……私、サーヴァントとしてはかなり弱いです」
「それは知っています」
「はうあ!」
再びよよよ、とその場に崩れるキャスター。今度は本気泣きかもしれない。
昨晩の少女騎士――セイバーのサーヴァントとの戦いを思い起こせば、自己申告されるまでもない。
「はい……多分、私の生前に武功とかはありません。多分、力としてはサポート系というか……もしかしたら、私がマスターを強化してマスターに戦ってもらう、っていうのが最適解なのかもしれません……」
「ならばそれで行きましょう」
「決定速くないですか!? 躊躇いゼロですか!? 相手はサーヴァントなんですけど!?」
真顔のハルカに、キャスターは渾身のツッコミを入れた。ただツッコんだはいいものの、彼女にいい代案はない。
昨日、セイバーとの戦闘――相手に戦意がなかったから帰ってこられたようなもの――でも、白兵戦においては月とスッポンほども実力差があった。相手が白兵戦最強のセイバークラスであることを差し引いても惨惨たる結果だった。
それでも――人間が超人・戦闘機並みの戦闘力のサーヴァントに立ち向かうことは死ににいくようなものだ。昨日ハルカがいきなりサーヴァントに突撃したのを見た時は、キャスターも肝を冷やしていた。
「宝具を使えなくとも、私をサーヴァント並みに強化できるのならばそれが最善です」
ハルカは表情を微塵も変えずに答えた。確かに、彼の言う事は間違っていない。
キャスターに戦闘の心得などない。ただその答えを躊躇いなく言えるハルカに不安を抱いた。
落ちる日が、橙色の光を投げかけていた。濃い陰影の中に沈む部屋の中で、位置的に逆光になった主へと、キャスターは念押しをした。
「マスター。マスターが自ら戦いを望んでここにいることは知ってます。戦う以上、命の危険はありますが、それは軽率に命を使っていいという意味ではありません」
「当然です。勝利の誉れと共に、私は北欧へと凱旋しなくてはならないのですから。死んでは凱旋も何もありません」
ハルカは、かつてのエーデルフェルトの雪辱を果たすと誓って北欧を出てきた。
御当主が最後までいい顔をしていなかったのは気がかりではあるが、勝利と共に帰ればきっと違うだろう。まだためらいがちなキャスターは、話を進めようとするハルカを圧しとどめた。
「あなたが死んだら、サーヴァントである私も現界できなくなります。ハルカ様が死ぬくらいなら、私が先に死にますから。そこをお忘れなく!」
「ならば、全力で私を助けてください。では、あなたの力でどう私を強化し戦うか話しましょう」
一時間後、話し合いを終えたハルカ改めて一階を見直してその変貌ぶりには驚いた。元々長年使われておらず埃はつもり蜘蛛の巣は張っていたので掃除はしたのだが、それだけだったはずの屋敷に、モノが増えていた。
淡い桃色のカーテンに、大きな葉を茂らせた観葉植物、薄汚れていたソファのカバーが新しくなっており、台所には新品のフライパンや鍋が見えていた。
「……あれは?」
「大事なのはメリハリです! 戦う時は戦う、やすらぐときはやすらぐ。私でやすらいでもいいんですよ!」
答えになっているのか怪しい返しだった。正直、ハルカの金銭感覚も日本の一般人とはだいぶ異なる。分家とはいえ富豪のエーデルフェルト家の一員であり、金銭の用途は把握しようとする気持ちはあるがどんぶり勘定だ。
一昨日の精算後、新たに使ってもいい分の金をキャスターに渡した結果がこれである。
「キャスター、一つ提案ですが」
「え? 他に食べたい料理ですか? レパートリー増やしたいので、どうぞ!」
ハルカはキャスター自体に闘争心はないことは知っている。彼女は聖杯に願いもないと言った。
嘘をついている様子は見られないためハルカは彼女をひとまず信用してはいるが、聊か暢気すぎやしないかと思う。
「……ちがいます。今日は敵を捜す前に教会に行きましょう。神父なら何か私について知っているかもしれません。それに、聖杯戦争についても聞きたいです。此度の聖杯戦争は、尋常なる戦争であるのかと」
ハルカ自身は聖杯戦争中にうかつに中立地帯である教会に向かいたくはなかったが、そう言っている場合ではなくなってきた。
しばらくすれば記憶は戻るかと思っていたがその気配もなく、この記憶障害が何に起因するのかを突き止める必要がある。それに少女騎士、セイバーのサーヴァントの言葉も、一笑には付せず気になり続けている。