Fate/Imaginary Boundary【日本史fateホロウ】 作:たたこ
明を見送った後アルトリアは掃除機をかけていたが、何やら一階の客間からヤマトタケルが姿を現したことに気づいた。これまで彼は二階の碓氷影景の部屋で寝起きしていたが、真の主人が帰ってきた今、彼は一階の応接間を自分の部屋として使用することになった。
ちなみにアルトリアは二階の客用寝室を自室としている。その新・自室から出てきたもう一人のセイバーに、アルトリアは胡乱な目を向けた。
「……何をしているのですか」
「見て解るだろう。女装だ」
彼の言葉通り――ヤマトタケルはマキシ丈の白いスカートに水色の大き目のシャツ、夏用スカーフを巻いて、パーマの入った黒髪の長いウィッグを装備して現れた。
腰から下のラインをスカートで隠し、喉仏をスカーフで隠し、ウィッグで顔のラインをカバー。
しかし女装における彼の難点は、体格――百八十超えの細身とは言えない筋肉質の身体だった。サーヴァントとなった今、どうやっても体格は変更できない。
彼自身「少年時代ならよかったが、今の姿では女装はイマイチだな」と落ち込んで女装することは滅多になかったのだが、いったいどんな風の吹き回しか。
アルトリアとて最初は驚いたが、女装が誰かに迷惑をかけているわけでもなし、というか彼女とて生前は男装で通していた身だ。好きにすればいいと思ってはいる、が。
「まさかまたアキラのパンツを勝手に穿いているのでは……?」
「フン、俺は同じ過ちを繰り返さない。今穿いているのは明からもらったパンツだ」
……過去に女装時、ヤマトタケルは明のパンツを勝手に穿いた。彼自身はノーパン主義だが、現代女性の大多数がパンツを履くと聞いて、ならばと手近にあったもの――すなわち明のパンツを拝借したのだった。
ヤマトタケルが勝手にパンツを履いた――その時の明の、憤怒とも戸惑いとも軽蔑ともつかぬ表情を、アルトリアは忘れないだろう。
「何となく女装の気分だからな。今日一日はこれで過ごそうと思う」
「……先ほどからあなたの気配が薄いと思っていたら、女装のせいでしたか。ところで話は変わりますが、一応伝えます。今日の夜、アキラが心配だからといってついていかないように」
「……ついていきそうに見えるのか」
「ええ。アキラもそう思っていますよ。あとで直接言われると思いますが」
正直、アルトリア自身も心配ではある。聖杯戦争後、幾分マシになってきたとはいえまだ明は自分の身を蔑にする傾向がある。本人も意識して気をつけてはいるが、まだまだ途上だ。
それに碓氷影景自体もまだ掴みきれていない――しかしそれでも、マスターたる明は影景を「師」としてきちんと認めている。彼女は子供ではない、大人の魔術師である――ゆえにアルトリアは、彼女の要請があるまで待つ。
だがヤマトタケルは、おそらくアルトリア以上に碓氷影景に不信を懐いている。それ以上に、聖杯戦争について明に何も告げなかったことに対し憤っている。
彼が伝えてさえいれば、明があれほど傷つくことはなかったと。
(しかし、明の父の方も必要以上にヤマトタケルを煽っているように見えますが……)
だが、何故影景はそうしたのか。その理由がわからない。単に口が悪い、そういう性格だからとは思えない。
「明がそう言うなら従うが……買い出しに行ってくる」
ぶつくさ言いながら、ヤマトタケルは女装姿のまま玄関へと向かった。彼の女装に道行く誰もが二度見してしまう……ということはない。
スキル「偽装」の賜物で、女装時には低ランクの気配遮断を取得し、さらにパラメータ隠匿も可能となる。ゆえに一般人に対して多少の違和感は懐かれても不自然には思われない。攻撃態勢に移らずある程度距離を取っている限りは、サーヴァントとして認識されることも遅れるだろう。
そして明は言葉通り、三時過ぎに一度家に帰ってきたがそれ以降は家に帰ってこなかった。影景も同様で、夕食はヤマトタケル作のグラタンだったのだが、食卓にはアルトリアとヤマトタケルのみだった。
ここにキリエか明が居れば話は違うが、二人は特に仲がいいわけではないため会話も多くない。むしろちょっとしたきっかけで口論になってしまうと朝まで決着がつかない。だから二人とキリエで生活していた時も、一成が聞いて怒るような風紀の乱れは皆無であり、完全にただの同居人だった。
アルトリアが風呂に入り、テレビを見ながら茶を嗜んでいる間に、ヤマトタケルはさっさと一階の応接間、彼の新自室に籠ってしまった。アルトリアも茶と菓子を片付けて、二階の客用寝室へと向かい、床に就いた。
夜も更け、同じく寝床に入ったが、何故か――アルトリアは眼を醒ました。ベッドは壁に面しており、その壁に窓がはめ込まれている。
そこから見える夜の景色は、静まり返った住宅街。何の不自然さもないいつもの春日。ふと壁掛けの時計を視ると、時刻は午後十一時十五分。
今頃南の自然公園にて、明と影景は魔術の修行をしているはず――と、彼女は突然ベッドから飛び降りてドアを開き、一直線に階下へと向かった。
向かったのは応接間。申し訳程度のノックのあと、勢いよくドアを開いた先には――誰も、いなかった。脇に押し固められたソファやテーブル、持ちこまれたパイプベッドの上にも人影はなく――ただ開け放たれた窓から吹き込む生温い風で、白いカーテンが波を打っていた。
「……!」
ひとつ屋根の下にいるサーヴァントの気配は、索敵に突出した能力を持たないサーヴァントでもわかる。ゆえにもしヤマトタケルが勝手にいなくなったら、アルトリアもすぐ気付いたろう。
しかし今日ヤマトタケルは日がな女装していたせいで、彼のサーヴァントとしての気配はずっと希薄になっていた。もちろん女装による気配遮断は戦闘態勢に入ればランクはがた落ちするが、ただ彼は女装をし続けていただけで、アルトリアに敵意はなかった。故に、ヤマトタケルの気配はあるのだかないのだか、はっきりしない状態が続いていた。
今日、彼が女装をしていたのはアルトリアの眼を欺くため。夜に突然女装をして気配を薄れされたら、アルトリアはヤマトタケルがいなくなったと判断して捜し始める。
だが、今日一日サーヴァントとしての気配が薄いまま、姿を消したら――アルトリアの気づきは前者よりも確実に遅れる。
彼女の眼を騙し、明と影景の手合わせを見に行く。アルトリアにばれたら、きっと妨害されると思っていたから。
明は「魔術とは秘匿するもの」と言う。ヤマトタケルもそれは承知であっただろう。彼とて修行の邪魔をする気はないに違いない。
ただ影景を信じきれず、黙って待ってはいられない――サーヴァントとしての気配を断ち、成り行きだけを見守るつもりなのだろうと、アルトリアは推測した。
場所は南の自然公園。ヤマトタケルを追いかけるべきか否か――逡巡は僅か。瞬時に銀の鎧を纏うと、彼女は弾丸のように窓から飛び出した。
元々、彼女は明の留守の間管理者代行代行を務めるヤマトタケルが無茶・暴走をしたときに止めることを任されていた。それに今日の手合わせは、明と影景だけで行う予定だったろうが、彼が首を突っ込んだ時点で破たんしている。
*
春日市立春日自然公園――春日駅からバスを利用して四十分南へと向かった先にあるのは、東端は大西山と連なる丘と野原を抱えた広大な公園である。市の主導できのこ、昆虫、野鳥の観察会やハイキングが催され、春日市の小学生は必ず遠足で来たことがある場所である。より春日駅に近い海浜公園よりもはるかに広い。ただの野原、という市民の声もある。
とにかく、温い空気の漂う夜の野原にて――街灯もなく、光源は月明かりのみの状況下で、碓氷明と碓氷影景は、三十メートルをおいて対峙していた。
影景は朝と同じスーツ姿だが眼鏡を外しトランクを足元に置いて、両手を自由にしている。明は両太ももに礼装のナイフを吊っている以外は、武器もなく手ぶらだ。
明は深く息を吐いて、離れた影景を見つめた。生まれてから一度も、影景に勝ったことはない。いつもボロボロにされてきた。
正直、負けて当たり前と刷り込まれてしまっていると自覚もしている。だが影景は決して戦闘向きの魔術師ではなく、むしろ突発的襲撃に対する攻撃力・反撃力だけ見れば既に明の方が上である。それでも勝てない理由がある。
「さて、いつも通り先手はお前からだ。いつでもどうぞ」
声は静かに。己の身体を切り裂くイメージと共に、魔術回路が
全くいつもふざけた真似をする
普通、まともな魔術師に対して妨害術式などかけはしない。通常明ほどの魔術師であれば、妨害術式をかけた相手の魔力を弾きとばし、相手の回路を逆に焼切ってしまう。
――だがしかし、碓氷影景に対してはそこまでの対応はできない。
「――
明は太ももにくくりつけた礼装のナイフ・黒刃影像を引き抜き投擲する――それは彼女の詠唱に合わせて姿を消した。
そして勢いよく踏み込んだ彼女自身も、夜闇に忽然と姿を消した。
「……ほほう」
呑気に口元を緩めた影景の背後およそ五メートルに、姿を消したはずの明が、溶けるように姿を見せた。その腕は真っ直ぐ構えられて、魔術刻印の力で詠唱もなくガンドを連射――ほぼ同時に先ほど消えたはずのナイフが、解けるように再度現れて真っ直ぐ影景を射抜くべく走った。
「背後を取ろうとするのは良策ではあるが安直すぎる」
明が消えた瞬間から背後を取られることを予期していたらしい影景は、後ろ手のまま振り返らずにガンドを連射。互いの呪いは中間地点――つまりは互いの近距離にて激突し、お互いにはずしたものは実弾さながらの威力を伴って野原を削り取った。
そのまま次の挙動に移ろうとした明であるが、それは己のナイフに妨げられた。影景を襲う筈の明のナイフは彼の目の前で逸れて向きを変え、二本とも明に向かって飛んできたのである。
「……!」
方向を変えたナイフは、明のわずか二メートルの距離でようやくコントロールが効く状態になり、明は無事受け止めて自分の腿のホルスターにもどすことができた。
しかし前方にいる影景の真上、上空に、月の光を受けて輝く黒いナイフが何十本も浮いていた。
明の黒刃影像と同形のナイフ――月光を弾いて光り、まるで地上近くに星々が煌めいているよう。
「――
空を切り、風を切り、黒のナイフは一斉に明へと降り注ぐ――!
自分が用意した以上の本数、刃の雨霰。このナイフを父の前で使ったのは前回の時だけのはずだが、と考える間もなく彼女は急いで詠唱を紡ぐ。
「……
詠唱が完了するとともに、再び明の姿がこの世から消え失せた。
容赦なく降り注ぐ黒銀の嵐は、しかし対象を喪ってただただ空を切り裂いて地面へと、墓標のように突き立った。
戦闘前のように静まり返る公園の中、碓氷影景ただ一人。彼の隣には、トランクが無傷で佇んでいる。
「
眼鏡を外した彼の眼は普段の茶色の瞳ではなく、僅かに赤みがかっていた。その瞳が、右端の視界に歪みを捉えた。彼はここで後ろ足でトランクを遥か背後に蹴りとばし、軽く右手と左手に硬化のルーンをきざんだ。足には既に
影景は歪みを見定めて、地を蹴った。壮絶な速さで彼が向かう先には何もないのに――しかし次の瞬間、向かう先の空間が波打ち、明が再び姿を見せた。
彼女は腕を前に向けガンドを発射する体制だったが、その腹にルーンの刻まれた影景の拳がもぐりこむ。避けようもなく彼女は疾走による速度と魔術のかかったストレートを食らった。
明は勢いよく吹き飛んで滑るように野原を転がった――だが、影景の顔はどこか笑みを含んでいた。
「……ふむ、既に予想していたか」
数度地面を転がった明だが、彼女は案外けろりとした顔で立ち上がっていた。影景もインパクトの瞬間に違和感を覚えており、手首を振って離れた娘を見やった。
明はスカートに草をくっつけたまま、大きく息をついた。
明は
管理する土地である春日市内なら誤差上下左右三メートルに収まるが、縁の薄い知らない土地や、もしくは何らかの魔力に満ちた土地であれば、たちまちその精度は落ちる。土やコンクリートの中に埋まって帰還することになるのはまだマシで、体の中身だけ虚数世界においてくる、上半身だけ帰ってくるなどした暁には終いである。
そしてこの限定的空間転移は当然「魔術」であり、発動し明が消えて戻ってくる際には魔力を使っている。
さすれば、影景には明がどこの地点に帰還するかは直前には把握できることになる。
影景の有する魔眼の名は、「
本来眼球は、外界からの情報を手に入れるための器官である。魔眼とは、それとは逆に外界に働きかける力を持った眼のことだ。魔術師に付属した器官でありながら、半ば独立した魔術回路でもある。ゆえに、稀に一般人であっても魔眼を持つ者もいる。
妖精眼自体は稀有というほどの魔眼ではないが、持ち主によって能力の振れ幅が大きい傾向にあり、影景のそれは強い妖精眼に分類されるだろう。
この眼は現実の視界とは焦点がずれており、魔術の気配・魔力・実体を持つ前の幻想種などを把握できる。魔力の気配や魔力を感じることにより、相手がどのような魔術を放とうとしているのか察知でき、春日の魔術的異変にも早くに気づく。また、サーヴァント同士の高速戦闘も追うことが可能である。
さらに彼の眼は魔眼の定義にある通り、外界にも働きかける――放たれた魔術の纏う魔力の流れを掴み操作する、濃い魔力のある場所で大雑把に魔力を動かし、物理的破壊力を持たせることができる。
先程自分に向かってきた明のナイフを捻じ曲げたのはその一端である。ただし彼曰く、「何でもかんでも他人の魔力を操作できれば苦労はしない。そもそも暗示や洗脳、他人の魔力を帯びたものに干渉するのは難しいのは常識だ」――明の魔力は彼にとって既知であるから可能な技でもある。
そう、影景は明が生まれてこの方、彼女の魔術回路と魔力をずっと見続けてきた。どのような
朱色を強める影景の妖精眼――彼が常にかけている眼鏡は魔眼殺しの眼鏡である。魔眼は術者と独立した魔術回路であるがゆえに、酷い場合は魔眼が勝手に術式を発動し、魔術師本人の魔術回路から精気を強引に搾り取りだす。
勿論影景はそのようなことになっていないが、魔眼は年々強力になっていっているそうだ。
――私が小学校に上がる前は、父はまだ、眼鏡なんてかけていなかった。
影景曰く、まともな「人の眼」としての機能を維持できるのは後精々十年程度だそうだ。
その時を、自分の眼が魔力と魔術・神秘をみるだけのモノになる日を、父は待っている。完全に現実の視界が失われ、魔力と幻想を把握するだけの眼になるときを。
あれはいつの日だったか。明が初めて魔術の手ほどきを受けることになり、地下室へ誘われた時だった。いつものように父はにこやかに微笑んでおり、明の目線に合わせるために腰を落として話しかけたのだ。
――お前が俺を殺す日を、楽しみにしている。
あの言葉は、冗談でも諧謔でもない。あの時にすでに、父は「魔術師であることを全肯定するゆえに己がたどり着けない地平」に、明がたどり着けると予感していたからこそあの言葉を投げたのだ。魔術師の大義のために自らの子供さえ殺すことが大いにあり得る世界だからこそ、その逆もまた然りと、たどり着くのは自分でなくとも構わないと……。
ぬるい風が吹き付けて、明は頭を振った。考えることは後でしよう――また、父が得意とするルーンの光が見えたから、その暇もなくなったのである。
影景は明特攻持っているようものなので……