雑多な人々のざわめきと喧騒がどこからか聞こえる中で私の意識は浮上した。
「うぅ……頭に響く……どこのバカが騒いでんの。こっちは、二日酔いだっつうのに……」
毛布の下でガンガンと響く頭を抑えて、ふと気がつく。
我が家がいくら安い賃貸アパートとは言え、こんなに外の音が聞こえることはありえない。
だって、私の部屋は3階にあるのだから。
慌てて、寝ていたベッドから飛び起きると、そこは知らない部屋だった。
「……は? え、どういうこと?」
まず薄暗い部屋の中で目に入ったのは石造りの壁と石造りの床。壁にはガラスのはまっていない窓があるが木戸が降ろされており、隙間から外の光が漏れていた。
その窓際には机があり、そこには淡く青白い光が灯るランプと何かを書きかけだったのか広げられた羊皮紙とインク瓶に入った羽ペンが見えた。
床に敷かれた麻のような繊維の粗いラグの上に散らばった、革張りの表紙の本と羊皮紙。
そのまま目線を回すと質素な白木のクローゼットがあり、だらしなく半開きになって中の服らしきものが見えていた。
そのクローゼットの横には木の扉があるから、そこからこの部屋に出入りできるのだろう。
恐る恐るベッドから降りようとして更におかしな点に気がついた。
色気も何もないジャージを着て寝ていたはずなのに、今身につけているのはノースリーブの生成りのマキシ丈ワンピース。そのワンピースから外に出ている手足はきれいな象牙色で、シミひとつなく細く華奢だ。その細い右手の薬指と左手の中指には、銀色の指輪をつけている。
そして、顔にかかるように見え隠れしている腰まであるさらさらの長い銀色の髪。私は、こんなに長い髪ではなかったし、第一こんなに綺麗な銀色ではない。事務職という仕事柄、黒髪……とまでは行かないけれど、落ち着いた栗色に染めたセミロングだ。
そして、床との距離に違和感を感じる。目線が低くなっている気がするのだ。
私の身長は170センチと女にしては、かなり高めなのだけど……身長が少し――具体的に言って10センチは縮んでる?
「どういうことーーーーー!?」
叫んでしまった私を咎めることはできないと思う。
ただ、その一方でこれは夢だと思う自分がいる。夢だからこそ、こんな理解不能な状態なのだ、と。
ガンガンと二日酔い特有の痛みが強くなった頭を抱えて、窓の木戸を開ける。開け方なんてわからないと思ったのだが、どうも身体が覚えている感じだ。
溢れる強い光に思わず目を細めて、その次の瞬間目に入ってきたのはゴチャゴチャとした石畳の道と階下に立ち並ぶ露店とヨーロッパのような街並み。高台には城や塔、神殿のようなものも見えた。
うん、夢だ。
夢以外のなにものでもない。
開けた木戸をもう一度閉めて、今度はクローゼットの横の扉を開けた。
向かい側にも扉があり、廊下の左手奥は行き止まりになっていて、そこにはよくわからない骨董品のような物が積んであった。右手側は鉄柱を中心とした螺旋階段になっていて、階下へと繋がっている。
その螺旋階段を囲むように円柱の壁にそって棚が作られており、ぎっしりと本が詰め込まれている。だが、無造作に本の縦横お構いなしに並べてあるので、住人の無頓着さが出ていると言って過言ではない。
そんな螺旋階段を降りてすぐの本棚の間に申し訳程度にあった扉を開けると、左手の方には台所らしきものが見える。
たぶん、あの台所の更に奥には風呂場があって、その風呂が大理石でできていてやたら大きいはず。
うん……私は、この家の造りを知っている。
何気なく手を自分の耳にやってそこが尖っていることを確認した私は、そのまま無言で風呂場まで向かって、脱衣所にある大きな鏡に全身を映す。
「……ああ、やっぱりね」
そこには白いワンピース姿のあのキャラクターシートで微笑んでいたエルフ――ユーチャリス――がいた。
これはきっと、二日酔いが見せる夢だ。
だから、たとえ痛みを感じたとしても、それは幻痛であり夢である。
酷くなる頭痛と闘いながらそう思う私だけれど、一方でこの痛みの強さに現実なのではとも思う。
そもそも夢に五感があるかないかと言われれば、無い人のほうが当たり前に多いらしい。
頭の一部でそう考えながら、私は台所に戻る。
ユーチャリスの家があるこの都市オランは、大陸東部最大の国、オラン王国の王都でもある。
だから上下水道がきちんと引かれ、都市内の道路は全て石畳で舗装されている。もちろん、現代の水道のように蛇口を捻れば水が出るというものではないし、石畳とはいえアスファルト道路とは比べようもないけれど。
この家にも上下水道は完備されているが、飲み水用は古代遺跡で手に入れたマジックアイテムを使用している。それは10カラットもあるブルートパーズをペアシェイプカットし、意匠を凝らしたミスリルのバチカンがついたペンダントヘッドだ。
下位古代語の
流れるように棚に置いてある銀製のカップを手に取り、宝石を放り込み水を汲むと、疑問が湧いた。
私にとっては10年以上も前のキャラクターであり、そもそも若干忘れかけていた黒歴史のようなものなのに何故こんな細かい設定まで覚えているのか? と。
まるで、ずっとここで過ごしていたかのように当たり前に行動している。
食器棚の上に伏せて置いてあったカップが銀製であるとか、都市と水道、そして宝石の件。最初の間取りだってそうだ。
おまけに極自然に、発音すら難しいはずの下位古代語を日本語のように流暢に発音してる。聞いたこともない言葉なのに内容がわかるとか、現実じゃありえない。
「……わからないことは、とりあえず後回しにしよう。きっと夢のせいだから」
そう夢なのだから、わかっていてもおかしくはない。
まじまじと水が溢れそうなカップを見つめていたものの、のどが渇いていた私は一気に飲んだ。
冷蔵庫で冷やした水とは比べ物にはならないが、十分冷えている水が喉元を過ぎて全身に染みわたる。
ミネラルウォーターのようで美味しい。
カップの中に残ったペンダントヘッドを取り出し、ざっと拭いてから元のガラスの小皿の上に置く。そして使ったカップを流し台に置こうとして、瓶が足元にいくつも転がっているのを発見した。
ワインやエール、蜂蜜酒だけでなく、アルコール度数がきつくて大酒飲みのドワーフですら酔って倒れるという火酒の瓶まで……。ユーチャリスが飲んだものだろうか。
なんとなく、今の頭痛の原因がこの酒たちのような気がする。ちゃんぽん呑みは酔いが回りやすいし、二日酔いの原因にもなる。昨日の現実の私が結婚式の二次会でそうだったように。
「む……コレも片付けないと。でも、面倒だな……」
ちらりと、空き瓶の山を見つめて軽くため息をつくが、とりあえず片付けも後回しにする。
水を飲んだことで、少し落ち着いたらしく頭の痛みが若干引いたようだ。
この体がユーチャリスなら、古代語魔法、神聖魔法、精霊魔法が使える。
古代語魔法を使用するには、発動体と呼ばれる媒体が必要だ。
基本的に杖を発動体にする者が多いけれど、人によっては他の武器だったり、指輪だったり、ブレスレットだったり、ペンダントだったり、髪飾りだったりする。でも、魔法を使用する際は手に触れていなくちゃいけない決まりがある。
私の場合、発動体は右手の薬指につけている指輪だ。この指輪は過去の冒険で手に入れたモノでミスリルという特殊な魔法銀でできており、古代語魔法だけでなく精霊魔法の魔力すら+1する逸品だ。
精霊魔法は精霊に精霊語で呼びかけて精霊に手伝ってもらう。
そのかわり、銀以外の金属を精霊が嫌うから、装備するものには注意が必要。
神聖魔法は神への信仰心さえあればいい。
ユーチャリスは服の中に信徒の証である聖印を首からかけていた。
知識の神ラーダの象徴である天空に煌く星光を象ったものだったので、信仰している神は変わらないようだ。
そういえばこの頭痛、精霊魔法の《レストアヘルス》か神聖魔法の《キュアー・ポイズン》で治るかも……?
どちらを使うか悩んだ挙句、《レストアヘルス》を選択した。
これは女性にしか使用できない精霊魔法で、生命の精霊(ユニコーンのような姿をしているらしい)に呼びかけて、文字通り身体を健康な状態に戻す魔法だ。
精霊語は風がささやくような、早口言葉のような……不思議な音の言葉だったけれど悩まずに言えた。感覚的には、先ほどの下位古代語と同様で日本語じゃないのに日本語のように意味すら感じ取れる。
おかけで、全身の倦怠感もスッキリし、頭痛も消えた。
二日酔い程度に神様に頼るのはなにか間違っていると思うしね?
ついでに他の魔法も確認してみた。
セッションの時は、あまり役に立たない情報源くらいにしか使えなかった精霊語魔法の《ブラウニー》が、実はすごい魔法だと気がついた。
面倒な家の掃除を彼等に頼めるなんて素晴らしい。散らかった家の中を就寝後、整理清掃するようにお願いする。
家が建ってから百年以上経たないと、家に居着かない家を護る守護精霊をこんな使い方するなんて……と思うけど、本来のこの魔法の使用方法はこういうものだったのかもしれない。
古代語魔法は、かまどの薪に《ティンダー》で火をつけて感動したり、《テレキネシス》でカップを浮かせてみたりと地味な魔法をためした。
神聖魔法に至っては、神に祈りを捧げて《インスピレーション》を使用しただけだ。
神聖魔法は信仰する神によって使用できる魔法が変わる。
《インスピレーション》は知識の神ラーダの加護を願う魔法で、ソード・ワールドにおいては知識系限定だけど、判定を失敗……例え自動的失敗をしたとしても成功に変えるという効果がある。
ダイス目が偏りやすい私には、頼みの綱とも言える魔法だった。まあ、ここでの効果も同じなのかはわからないけれど。
さすがに、これ以外の神聖魔法や古代語魔法の派手な魔法は別の意味で色々と問題がある気がしてしまい、使用するのは躊躇してまう。だって、攻撃魔法を家の中で使うとか、馬鹿でしか無いじゃない?
使用を躊躇したといえば《ファミリアー》の魔法もそうだ。
ユーチャリスの使い魔は"カルマ"という黒猫だったが、残念なことに反応がない。
どこか遠い場所にいるのか、契約が無効になってしまったのか。
そもそもこの夢では、使い魔契約をまだしていないのかもしれない。
だからといって、ファミリアーの魔法を使用して確かめてみるのもカルマの存在を否定してしまうようで嫌だったのだ。
魔法の確認を一段落とした私は、寝室に戻って例の半開きのクローゼットから 白の長袖のマキシワンピース引っぱり出して着替えた。これに若草色の袖なしのサーコートを重ねて、黒に近い緋色のフード付きクロークを身に付ければ、フードをかぶった少し華奢な魔術師のできあがり。フードのお陰でエルフ耳も目立たない。
この家は、ユーチャリスの両親が冒険者を引退してから営んでいた古書店でもある。
道楽半分だったために扱う種類は両親の趣味を反映したマニアックなもので、魔術師や学者の中でも知る人ぞ知ると言う店だった。
冒険者を経験している両親は偏見も少なく、年老いてから出来たユーチャリスに魔術を教え、愛情を持って大切に育ててくれた。しかし、寄る年波と病には勝てず、相次いで他界して古書店は経営難により閉店。
そして、ユーチャリスは古書店を再開するために冒険者となった……と言う設定だったのだ。
今のユーチャリスは、この両親の残した古書店を再開して暮らしている。キャンペーンのラストが、古書店を再開できたところで終わったのだ。
この家の1階には台所や風呂トイレと言った水回り関係の他に、その古書店のスペースがある。
通りに面した場所で、その入り口がこの家の玄関にもなっていた。
私は幼い頃から本が好きだ。活字に触れることは心躍る。だから、ユーチャリスの設定もそれにともなうものだった。今は電子書籍という手があるけれど、あれは手軽ではあるが、本とは違うものだと私は思っている。
小説やマンガだけでなく、専門書、実用書、雑学、絵本も好きだ。歴史は時代や国によって全く違う描かれ方をするから、その解釈を自分なりに考えながら読むことが好きだ。
現実であれば収納スペースの問題で、手に入れた本はずっと手元に置くことは出来ない。だから、読んだ後はリサイクルへと回してしまうものだがここにあるものは違う。
古い本独特の黴臭い匂いや埃っぽい匂いすら、嫌悪感ではなく期待をうながすものだ。
入り口の鍵を開けて、ドアノブに付けた『閉店』と共通語で書かれた看板を『開店』にひっくり返す。
それから、狭いスペースにごちゃごちゃと本棚が並ぶ中、店奥にある小さなカウンターの中に座り、適当に目についた本を手に取り開いた。
こうやって、店番していても滅多に客は来ないのは知っているが、一応コレが仕事なのである。
持ってて良かった、セージ技能……! 見たこともないアルファベットを崩したような字で書かれた本も、今の私は読める。日本語のように理解して読めるなんて、なんという幸せだろう。
聞いたこともない名前の著者が書いた旅行記や、古代カストゥール時代の文献の一部など時間を忘れて読みふけっていた私は、日もだいぶ傾いてから、大きくお腹が鳴ったことで本を読むことを一時中断した。
夢のはずなのに、お腹が空くものなのだろうか?
さらなる不安を感じながら本を閉じて、台所へ移動する。
そして、台所の隅においてある大きな宝箱のような食料庫を覗きこんだ。
中には、ワインが数本とイモらしきものが数個あるのみ。
いくらなんでも何もなさすぎだ。外の露店で買うか、酒場に行くことが脳内で決定される。
この食料庫は遺跡から持ち帰ったものの一つで、見た目以上に物が入り、中に入れたものは腐敗することがない。
効果だけ聞くと、神聖魔法のプリザーベイション機能付きの無限バッグのようだが、箱に入れられるものは飲食物のみ。生きているものは食用植物以外は入れることはできない。また、容量よりも大きなものは入れるということが出来ないつくりになっているらしい。
売り払うか、使用するか迷った挙句、メンバーの女性が全員私の家に居候していたので、食品が長持ちするなら家に置いておこうと、ここに備え付けられた。
……そういえば、寝室の向かいの部屋は彼女達の部屋だったはずだが、半日以上ここにいるのに見かけていない。
夢特有の御都合主義的に出てこないのだろうか?
気になった私は、部屋を覗いてみることにした。
螺旋階段を登リ、部屋の扉をノックするが返事はない。
扉を開けて見ると誰もいない。きちんと畳まれたリネンキルトが載ったベッドが二台あるが、それ以外の家具もない。
というか、床にはうっすらと埃が積もっていた。少なくとも半年から一年以上は部屋に入らず、放置しないと積もらないだろう。
そう思うと、頭の中に唐突に理由が浮かんだ。
もう、彼女達はここには居ない。彼女達はここから旅立っていったのだ。