思い出と記憶
球磨川禊の印象を訊ねれば大多数がマイナスと答えるだろう。
その印象は決して間違えてはいないし、最も相応しいとまで言ってもいいだろう。
しかし彼と小学生時代を共にした彼女達はもう一歩踏み込んだ意見を語るだろう。
アリサならば「人間の最底辺でイカれた男だ」と答えるだろう。
すずかならば「私からしても人間には見えないけど私を助けてくれた恩人だ」と答えるだろう。
フェイトならば「私達を救ってくれた今の生き方を示したヒーローだ」と答えるだろう。
なのはならば「何も知らなかった私の理想を螺子曲げた友人だ」と答えるだろう。
頭は悪いが狡猾で、馬鹿だけど悪知恵が働き、邪悪じゃないけど凶悪。
すべての人間の欠点を集結させたような過負荷。
過負荷の希望にしてリーダー。
強きを挫き弱きを助く。
それでいて絶対に正義の味方などではない。
それが球磨川禊であった。
私達の前にミソギが守るように立っている。
色がなく、景色も古いテレビみたいに砂嵐がかかって見える。
目も霞むし、視線は操られているかのようにあちこちを巡るだけで見たい方向が見れる訳ではない。
まるで知らない誰かの記憶を追体験しているかのような感じだ。
また、彼しかまだ視線の内に入っていないのに何となく隣にはなのはもいるんだろうと確信している。
そんな全然理解できない状況に混乱するより早くこれが夢なんだと気付く。
私を守るように立ち塞がるミソギと黒い塊。
朧気で輪郭は愚か、大きささえもわからない黒い塊。
それがこちらに悪意を向けている。
それを受けてか気だるげでいつもヘラヘラとした笑顔を浮かべていた球磨川は別人のように真剣な表情を浮かべている。
そんな姿に「あぁ、やっぱり夢なんだと納得してしまう。
それほどいつもの様子からはかけ離れていた。
『よ⬛、⬛』『⬛し⬛⬛だ⬛』『⬛陥⬛◼』
ノイズ混じりの声が響く。
益々視界は悪くなり、今まで見えていたミソギも殆ど輪郭しかわからない。
声もぶつ切りにされているようにように聞こえ、誰が言っているのかすらわからない。
『………初⬛◼し⬛人◼⬛⬛』『そ◼な⬛◼マ⬛◼い?⬛るで⬛◼⬛⬛みた⬛⬛ぜ』
黒い塊が揺れる。
動揺しているみたいにゆらゆらと。
『◼⬛◼よ』『⬛◼◼◼こ⬛な⬛◼◼に⬛るだ⬛◼⬛⬛にも⬛わ⬛かった⬛⬛』『⬛の⬛』『⬛⬛⬛と◼◼ら』『彼女達◼◼⬛たい◼⬛思ってる』『⬛◼⬛⬛⬛⬛で⬛⬛てる⬛う⬛ぜ』
ミソギの手にあるマイナス螺子が細長く伸びる。
それだけはこの壊れて、ひび割れているかのような世界ではっきりと見えた。
それはミソギの過負荷の象徴。
彼のマイナスの全て。
それが見ているだけの私にも伝わってくる。
『⬛◼⬛⬛……』
ゆらゆらと揺れていた闇が急速に傾いていく。
『⬛⬛◼の⬛◼⬛りの⬛⬛◼⬛』
「な……⬛◼⬛…」
闇がぐにゃりぐにゃり苦しそうに蠢く。
「⬛⬛が⬛⬛◼◼ぜ、◼⬛⬛禊」
「⬛⬛か……」
「⬛⬛◼人⬛◼⬛⬛⬛じゃ◼いけ⬛⬛◼て⬛る」「僕は⬛◼⬛だ⬛⬛◼けな⬛◼⬛けら⬛⬛い⬛だ」
「…………」
「二⬛⬛もまだ⬛べ⬛◼⬛◼⬛らは◼◼⬛⬛⬛◼◼いけな⬛⬛◼◼⬛◼⬛⬛」
「何を言って――」
自分の喉から声が出る。
意識的にか無意識にかはわからないけれど飛び出た言葉に自分が一番驚く。
「◼⬛⬛◼せ⬛⬛◼⬛け、⬛◼⬛言って⬛⬛⬛」
「わかった」
後ろでなのはの声がした。
全然ノイズのかかっていないいつもの凛とした声だ。
「⬛◼れ」
「頑張る」
最後の言葉は聞きなれたなのはの声だったのに涙声だった。
その言葉で夢は急速に暗くなっていく。
あぁ夢から覚めるんだなぁと実感する。
何かを思い出さなければいけないような気がした。
「おーきーてー!おーきーてー!」
そんな声でフェイトは起こされる。
寝間着が汗でぐっしょりと濡れていて気持ち悪い。
頭がぼうっとして酷く痛む。
「ねぇ大丈夫?調子悪いの?」
そこまで言われてようやく今が土曜の朝でここがミッドチルダであることを認識する。
「うん……もう大丈夫。ちょっと悪い夢を見ただけだから」
何とかそれだけを返すと益々表情を曇らせるヴィヴィオ。
「本当に?」
「本当だって、ありがとね」
「うう~ん、フェイトママがそう言うなら良いけど……」
可愛く唇を尖らせるヴィヴィオを見てそのふわふわな金髪を撫でる。
久しぶりにミソギを思い出したからか何となく人恋しくなっている自分に苦笑してしまう。
それを見て自分が笑われていると思ったのかヴィヴィオが頬を膨らませて離れる。
「もうっ、なのはママがご飯作ってるから早く来てね」
「わかったよ。シャワー浴びたらすぐ行くね」
その言葉を最後にヴィヴィオが部屋を出て行く。
一人になるといつものダブルベッドがやけに大きく見えた。
ヴィヴィオが休日でも関係なく、ジムへ向かったところで私も久しぶりにティアナとスバルと会いに行く。
「そうそう、それで通り魔が出るんですって」
「通り魔?」
「ええ、ヴィヴィオに教えるかは別にしてフェイトさん達には伝えておいた方が良いと思いまして」
「ヴィヴィオに?」
「ええ。何でも古代ベルカの覇王を名乗って通り魔紛いの行動をとっている女性がいるとか」
「えっ、覇王って男性でしょ?何で女性が?スバル達は何で覇王なんてものを名乗っているのか知ってる?」
「すみません。それは知らないです。そもそもこの事件被害届が出されていないので管理局としては介入できないんですよ」
「何でそんなことがあったのに出さないの?一件や二件じゃないんでしょ?」
「何でも格闘技経験者だけを狙っているらしくて……」
「わかった。ヴィヴィオの周りにも不審者がいないか注意して見ておくよ」
「あ、不審者と言えばもうひとつ」
「もうひとつ?」
「ちょっとスバル――」
「これはまだ噂話の域を出ないんですが何か最近クラナガンの住宅街の辺りに不審者が出るとか」
「どんな人なの?」
「何でも実害はまだ出ている訳ではないらしいんですけど、凄く怪しい人らしいです。黒のパーカーにジーンズ、童顔、黒髪の男性で容姿は平凡なんですが、何が楽しいのかずっとヘラヘラ笑っていて気持ち悪いそうです。しかも手に巨大な螺子を持っているとかで巡回中に話し掛けた同期の子が怖がってましたよ」
「ふぅん、ん?」
螺子?
巨大な螺子?
ヘラヘラ笑い?
それは連鎖的に繋がり、私の中にある少年を思い起こさせる。
「何か言い様のない気持ち悪さみたいなのがあるらしいです。別に何か事件を起こしているわけではないんでしょうけど――」
「待って」
声が上擦ってしまう。
興奮しているのかと冷静な自分が呆れていた。
「えっ?」
キョトンとした顔でこちらを伺うスバル。
「螺子って言った?」
「は、はい」
その返事に色々な思いが駆け巡り、何とか落ち着かせるのに少し時間を有した。
何故彼が、魔導師でもない彼がミッドチルダにいるのか。
ただの似てるだけの他人かもしれない。
論理的に考えればミソギである可能性は限りなく低いだろう。
私もミソギが相手じゃなければあり得ないと断じていただろう。
管理世界にいる?
結界にはほぼ毎回巻き込まれていたではないか。
他人のそら似?
巨大な螺子を持つのなんて彼だけだろう。
「ごめん、用事ができた。その不審者に会ったら私かなのはに連絡して。絶対に話し掛けたり、闘ったら駄目だよ」
伝票を手に取り挨拶を済ませる。
「そんなに危険な奴なんですか?私達じゃ勝てないんですか?」
「う~ん、危険だってのは間違ってないんだけど…………球磨川は勝っても駄目なんだよ」
「勝っても駄目?勝てないじゃなくてですか?」
「球磨川君に勝つことは難しいことじゃないんだよ。彼は強くないし。でも駄目なんだよ。関わること自体がどんなことになってもおかしくないの!!」
「ま、まあフェイトさんがそう言うのなら……」
「お願いね。私はなのはに連絡してから探し始めるけど絶対に見つけても関わらないでね」
「えっ、はい。わかりました……」
「ごめんね」
店を出た私は知らず知らずの内に走り出していた。
「貴方では足りない」
碧銀の髪を持つ美女は今しがた打ちのめした大柄な男の傍で拳を下ろす。
そして男性を見下ろしながら尚も言葉を続ける。
「才能もあるのでしょう。努力もしたのでしょう。でも足りない」
沸き上がるのは守れなかった先祖の哀しみ。
力が足りなかったせいで止められなかった死臭漂う戦場の記憶。
今の時代に生きる者が本来持つ筈のないものだ。
「弱さは罪です。弱ければ何も守れない」
噛み締めるように続けた独白はクラナガンの闇に染み込むだけで本来なら消える筈だった。
だから数メートルも離れていない距離からいきなり声をかけられて心底彼女は驚いていた。
『なるほど』『久しぶりに友達の顔でも見ようかと思って来たミッドチルダだけれど随分面白い所だね』『弱さは罪?』『弱ければ守れない?』『いいぜ』『教えてあげるよ』『本当の罪深さ』『マイナスの極致をね』
たまたま彼が通りかかり、それを聞き届けたのは全くの偶然だったのだ。
彼は他人の喧嘩を仲裁する程倫理や人徳を重視する生き方はしていないし、喧嘩を見掛けた時も監理局に連絡するつもりもなかった。
だからこれもただ彼女の台詞にどうしようもなく苛ついて喧嘩を吹っ掛けただけなのだ。
「貴方は一体………」
声を掛けられる前は勿論掛けられた後も全く気配を感じない。
死んでいるかのように目の前で動く彼には気配というものが存在していなかった。
『ただの旅行客だよ』
球磨川禊はそう言うと彼の心の象徴とも言える螺子を取り出す。
禍々しい、鈍い輝きを放つ巨大な螺子。
その鉄塊を両手に持ち嗤う。
彼は全然強そうには見えない。
どころか弱そうでさえある。
格闘技経験者ではないだろうし、構えている螺子も独学のようだ。
パンチひとつで倒れてしまいそうな矮軀はあまりにも闘うような人物には見えなかったし、魔法を使うこともできないだろうと確信できた。
なのに先祖の記憶が、本能があらゆる危険信号が彼との戦闘をやめるように訴えてくる。
闘ったら勝てると分析しているのに打ち負かした姿が欠片も想像できない。
それを理性で押し潰し彼女は拳を握る。
元より好敵手を捜してこんなことをしているのだ。
わざわざ変身魔法を使い、管理局に目をつけられるかもしれないのにこんなことをしているのだ。
危険だというだけでやめられる訳がない。
「カイザーアーツ正統、ハイディ・E・S・イングヴァルト。覇王を名乗らせて頂きます」
『元マイナス十三組所属』『混沌よりも這い寄る過負荷』『球磨川禊』『世界で最も弱い人間だ』
球磨川が螺子を振るう。
球磨川が螺子を投げる。
球磨川が螺子を突きつける。
球磨川が螺子を蹴りつける。
そのすべてが防がれる。
振るった螺子は砕かれ、投げた螺子は投げ返され、突きつけた螺子は弾かれる、蹴りつけた螺子は避けられる。
それでもハイディはまだ一度も球磨川に攻撃を当てられていなかった。
一撃でもまともに入れることができれば防御の上からでも叩き潰せるのにそれができないように立ち回る。
強いのではなく巧い。
徹底的に相手の強みを潰し、自分の土俵に引き込む闘い方。
球磨川の牽制とフェイントがじわじわとハイディの集中力を削る。
『ところで』『僕に圧勝できない君の罪はどれぐらいなんだい?』
「くっ」
この癇に障る表情も声も冷静な思考を崩す。
目を背けたくなるくらいのマイナスはハイディの心を犯し、精神を蝕む。
「っ」
球磨川が螺子を投げ、後ろに下がったのを見て業を煮やしたのか被弾覚悟で強引に前に出る。
球磨川のいた場所から道路のコンクリを突き破り螺子が四、五本生えてくるがそれを砕きながら突き進む。
螺子が皮膚をかすり、流血が螺子を赤く染める。
投げられた螺子を急所に当たるものだけを除いて更に進む。
左肩に螺子が刺さり激痛が襲うが、それを無視して球磨川の腹に拳を叩き込む。
「覇王断空拳」
絶好の機会に叩き込まれた拳が余すところなく衝撃を伝えようとしたところで球磨川を遮るように宙に螺子が表れる。
しかしそれを無視して殴る。
螺子がハイディの拳をズタズタに引き裂き、手から大量の血が滴る。
殴った螺子が砕け破片となって落ちていく。
そうまでして殴っても球磨川には浅い。
螺子が邪魔で直に殴れなかったからかまだ戦闘不能ではない。
「があぁあぁああ」
絶叫を挙げ、今まさに落ちようとしていた螺子の破片を掴み、球磨川の脇腹目掛けて思いっきり突き刺す。
「ぐぅ」
『がふっ』
渾身の力で突き刺され、黒いパーカーを血で濡らす。
口の端からは血を流し、球磨川がバランスを崩して倒れ込む。
「勝っ、勝った……」
拳を引き裂かれ、肩に螺子が刺さり、バリアジャケットも所々破れている状態でハイディはよろよろと球磨川に近付く。
止めを刺そうという気持ちもないわけではないが何故か彼が自分に何かを教えてくれるような気がしたのだ。
「…球磨川、さん……………何故あ…なた…は……」
そして近付いたが故に見てしまう。
球磨川がぐにゃりとマイナスを放ちながら立ち上がるのを。
「あっ……あっ…なんで、そんな…」
球磨川は立ち上がれる状態ではない。
それこそ出血多量で死んでもおかしくないくらいに血を流している。
ボタボタと妙に重い音で地面に血溜まりができている。
『さぁ』『続けようぜ覇王様』
「嘘…なんで……」
思わず意識が遠のき、目を逸らしたくなる。
『君がやったことだぜ』『君が言うところの僕の弱さが招いた罪ってやつなのかな』
「ひっ」
悲鳴が溢れる。
人が死に向かう様が目の前にあった。
クラウスの記憶で散々見たものとは違う、自分が殺してしまうかもしれない姿。
彼の記憶などこの醜悪なる光景の前では霞んで見えた。
初めて自分が見た戦場だった。
血に濡れても腕を足を失っても続く、自分か相手が死ぬまで続く人類最悪の行為。
「ひゃっ、やめて、来ないで――」
『逃げるなんてそんな弱さ許さないぞ』『弱いのは罪だ』『殺し合おう君の強さを見せてみろ』
「そこまで!!」
凛とした声が辺りに響く。
純白のロングスカートに栗色のサイドテール。
高町なのはは十四年の時を越えて友達に再会した。
「久しぶりだね。球磨川君」