愛の価値についてあなたが本当に信じることができたなら、誰かの心の安らぎとして“2番手”に甘んじている必要なんてない。
―チャールズ・J・オーランド―
「三十八度か……」
晩翠から体温計を受け取って、読み上げる。体温計には少し温もりが残っていて、図らずも意識してしまう。
俺は雑念を振り払うように体温計を振って、ケースに戻してから立ち上がった。
「飲み物は……、ないな」
ぐるりと室内を見回してみると空のペットボトルがゴミ箱にあるだけで、あとはぽつりと市販の薬が机上に置かれているだけだった。
「さっき飲んじゃった……」
苦しそうに半身だけ起き上がって、焦点の合わない目を俺に向けてくる。それからまた力なくベッドに倒れ込んでしまった。
「あんまり、無理するなよ」
「うん……」
必死に振り絞ったような言葉だけ聞こえて、それきり沈黙が降りた。どうやら晩翠は眠ってしまったらしかった。俺は飲み物と他に風邪に効くものを買いに行こうと思っていたのだが、ともあれ寝てしまったからには仕方ないので、書置きだけ残しておこう。そう思って自分の鞄からノートとシャープペンシルを取り出した。
「これでいいか」
呟いたその声は誰が反応するでもなく、壁に反射して自分に戻ってきた。そのことに一抹の寂しさを覚えながらも、紙を晩翠のベッドのすぐそばにあるサイドテーブルに置いた。
それから取り敢えず戻ってくる気はあるという意思表示として鞄を置いて、足早に踵を返し、自転車に飛び乗った。
……財布、部屋に忘れた。
× × ×
風邪というのは不思議なもので、夜が増せば増すほど元気になってくる。きっと晩翠も例には漏れないはずだ、と期待と不安が混ざった心持ちでドラッグストアを回り買い物を終えた。
午後六時を回るころには、時期相応に辺りはいっそう寒々し、自転車に乗っていて風に晒され続けた手は悴んで赤くなってしまった。
初めて、――正確には教室で会っているわけだが――晩翠と会った公園を通り抜けて、以前受けた晩翠の指示通りに住宅街を走った。
一軒だけ明かりの灯されていない家を見て、それが晩翠家だと確認しながら、同時に御両親は未だ帰らないのだと少し心配してしまった。
一応、インターホンは鳴らす。
鍵は晩翠の鞄についていたものを拝借(窃盗ではない)したので持っているが、常識として。
鳴らしてから一分ほど待ってみたが、まったく反応はなく、物音さえもしなかった。俺は通報される前に、躊躇する暇もなく鍵を回す。カチッという音を聞いてから、遠慮気味にゆっくり戸を開いて、「おじゃまします」と形ばかりの挨拶をしてから晩翠家にお邪魔させていただきました。
二階に駆け上がる。
そして、彼女の部屋の戸をゆっくり開く。
「ふわあ、比企谷くん?」
どうやら晩翠は、俺の足音のせいで起きてしまったらしい。少し罪悪感を覚えながらも買ってきたものを袋から出してサイドテーブルに並べる。先にそのテーブルに置かれていた置き手紙は位置を変えられておらず、読んでいないようだったのでくしゃりと丸めてポケットに入れた。
「飲み物と、あとは冷えピタ……他にはのど飴、念のための薬……マッ缶は俺のだ」
「これっ、え……? 比企谷くんが?」
彼女は目を見開いて、俺の目を真っ直ぐ見つめる。しかしその目は未だ虚ろでどうやら夜に向かって体調が良くなる訳では無いらしい。
「まあな、明日はちゃんと病院行けよ」
「あ……ありがとう」
「まずはなんか口に入れた方が良いだろ、お粥は……作れない……うどんでいいか?」
「ご飯まで、つくってくれるの?」
たまに、ごほごほ咳き込みながら今にも泣きそうな表情で尋ねてくる。
赤くなった目は遠目でも分かるくらいに潤んでいて、時々晩翠は袖で拭った。風邪ひいてる時ってなんか涙出るんだよね……。
「まあ、せっかくうどん買ったし」
「……食べたい」
「ん。じゃあつくってくるから」
こんな時まで一人じゃ寂しいだろ――。こんな忖度に忖度を重ねたような言葉が、気づけば俺の口を勝手に離れていた。
恥ずかしくて、俺はさっさと麺の入った袋を掴んで部屋をあとにした。
× × ×
「おいしい……」
半身だけ起き上がらせて、サイドテーブルをベッドの上に置いて擬似的に病院のベッドを作りあげる。テーブルの足を晩翠の腰の間に挟んで晩翠が食べやすいように調整した。
「まあ小学生レベルの家事だけどな」
「そうだね、これくらい私もできる」
「それがやってもらったやつの態度か……」
「ごめんごめん、だいたい冗談」
「まあ君なんでもできそうですよね」
皮肉をこめて言って二人で小さく笑みを零す。
晩翠は食べ終わると、ご馳走様でしたと手を合わせてからちょいちょいと俺を手招きする。
「テーブル下ろしてくれる?」
「おう」
食器を落とさないように気を付けながら、テーブルを床に下ろし、元の位置に戻す。食器を片付けようとお盆にのせるとまたしても晩翠がちょいちょいと俺を手招きしてくる。
「なんですか……」
大仰にため息をつきながら、何とも言えぬ表情で俺を呼ぶ晩翠に一歩踏み出す。
その瞬間に足元にあった自分のカバンにつまづいてしまった。その勢いは余ることなく、どこかに掴まろうとした手は行き先を失って蛍光灯の紐を引いてしまった。そのまま、俺は晩翠のベッドに流れ込んだ。
ベッドに座ったままのはずの、彼女の温もりを確かに感じた。
「悪い! すぐどけるから!」
言いながら体を捻って立ち上がろうとするが、しかしそれは首元にかけられた力のせいでかなうことはなかった。晩翠が俺の首を抱き抱える形になってしまっていた。
「……おい」
晩翠の行動の意味が分からなかった。けれど彼女は風邪をひいている。その事実が彼女の行動を定義づけする上で、俺に最も影響することだけは確かだった。
「緊張してる?」
「しないわけないだろ」
こんな状況でも、いつもの憎たらしい口くらいは聞くことができた。真っ暗で視界が奪われた分聴覚や嗅覚が過敏になって、晩翠の匂いで思考が犯されていくのを実感した。
「私は、してるよ」
その声が、やけに耳に刺さった。まるで囁くようで、けれども病人の声とは到底思えなかった。
「そうか、分かったから離して――」
「いつも、お父さんもお母さんも遅くて一人なの。だから、今日くらいは――」
嗚咽とともに途切れた言葉に、続くであろうその言葉の先に彼女の本音が垣間見えた気がした。
晩翠柚奈は天然のようで、実際違う。あるいは、策士である。そんなのが俺の晩翠柚奈に対する評価だった。
何か、言い返そう。どう返事をしよう。
考えているうちに、俺の上半身は完全に晩翠に抱かれ、ふわりとした布団の中へ引き込まれた。
「今日だけだぞ」
まるで諦観したように、言い換えてみれば、諦めたという体で確かに俺はそう呟いた。
× × ×
あれから少し経って、晩翠は眠ってしまった。電気をつけるのも悪いと思ってスマホで時間を確認すれば、短針は八時を回っていた。
それを確認したのと同時に、一階から玄関の戸が閉まる音と「ただいま」という女性の声が聞こえた。間延びして届いたその声は、明らかに晩翠と似ていて、彼女の母親だと容易に予想できた。
何より問題は、二階に登ってくる足音が聞こえることであります。
やっやっべー。っべー。っべーよマジ。
そして、ゆっくり戸は開いた。
まず、謝罪。
前回は調子に乗って評価を赤にしたいとか、下げられたりしてとか言ってすみませんでした。まさか下がり続けるとは……。(笑)
ホント、調子乗ってました……って言うと思ったか! 言います。
まあ、よくあることなので実際そんなに気にしてませんけれど、モチベーションとは繋がりますよね(笑)
さて、今回はゆずっちのお見舞い回でした。日にち分けてゆっくり書いたので読みづらいところがあっても多少目を瞑っていただけると幸いです(笑)
これからもよろしくお願いします!