別れがあまりに甘い悲しみだから、朝になるまでおやすみを言いつづけていたい。
―ウィリアム・シェイクスピア―
『ロミオとジュリエット』
「見ているだけでもイライラするわね……」
会議が終わってベンチに腰をかけると、雪ノ下が額に手を当ててため息を漏らす。その姿勢がやけに似合っていて少し笑みを浮かべてしまった。
雪ノ下は俺の気持ち悪い笑みなど気にせず、果たして由比ヶ浜は困ったような表情だった。トレードマークみたいに自信なさげに笑ってからぽつりと少しだけ口を開いた。
「あはは……あれはすごかったね……」
「だいたい初めて見るニューフェイスって何なんですかね。バカなんですか」
遅れてやってきた一色がジュースの缶を片手にぷんすか怒る。なにを言ってもあざとく聞こえるのはなんででしょうね……。まるであいつとは正反対――って今日あいつは? よく考えたら晩翠がいない。気づかなかった……。
俺は何気なく周りを見渡して、やっと気づいたような振りをした。ついでにあからさまにも「ん?」と声を漏らして、注目を集めた。三人とも不思議そうな表情で俺を見つめる。
「今日、晩翠いないのか?」
ごほんごほんとわかりやすく声を整えてから誰に向けてとも決めず、問うた。すると、由比ヶ浜が、ほへ? みたいな表情で一瞬呆気に取られたようだった。しかし、それはすぐに戻り、いつもとはまた違う、まるで申し訳なさも混ざっているかのように、あるいは悪びれるように彼女は苦笑いを浮かべた。
「あー、ゆきのんには言ったんだけど……」
そう言って視線をそっと逸らす。あー、これ俺だけ忘れられていたやつですね……。けれど今更気にすることじゃない。慣れているし、何より相手は由比ヶ浜だ。つまるところ、由比ヶ浜なのだから仕方ない、で大方話は通る。
「って私も言われてないです!」
さっきまで壁によりかかって座っていたくせに自分が省かれていたことについて一切の余裕を与えず、自己を主張する。それに、憧れる、というか二人だけ省かれたりした時の結束感は異常。
「ほら、俺ら嫌われてるから」
「は? 先輩なんかと一緒にしないでください」
ぎっと彼女は俺を睨めつける。しかし俺はそれをゆっくり視線を逸らしたり、躱してから晩翠が今日いなかった理由を問うた。
すると、代弁とばかりに雪ノ下が口を開く。
「今日は彼女風邪みたいなの」
はは、と乾いた笑みが漏れる。あいつが、あの晩翠柚奈が、風邪……? まさか、そんな。
「おい……昔からバカは……」
「ヒッキー失礼すぎ」
由比ヶ浜に窘められて、それきり閉口した。しかし由比ヶ浜と一色にかかれば沈黙など生まれるはずもなく、五分もしたころには、話は解散へと流れていった。俺と雪ノ下もそれに同意して、雪ノ下はベンチから立ち上がり、俺は厚手のコートを羽織り直した。
「じゃあ、また明日」
学校帰りの重たい鞄を肩にかけながら言って、同時に歩き始めた。返事なんて聞く気はなかったが、皆それぞれ挨拶をしてくれる。
「ばいばい、また明日ね、ヒッキー」
「さよならです、先輩」
「あなたが明日まで生きているのなら、また明日会えるかもしれないわね、さようなら」
「はいはいさよなら……てか一人やけに攻撃的なやついるよね? やめてくんない?」
わざわざ振り返って言えば、皆ケラケラと楽しそうに笑う。若干一名上品な笑い方だったが。
結局、俺が欲しかったものなんて、今でさえも曖昧模糊で、明白な答えは未だに得られない。
けれど、こういう何気ない挨拶が、皮肉が、戸惑いがきっと、今だけでも欲しかった安らぎなのだと柄にもなく、そんなことを思った。
× × ×
翌日のこと。今日も晩翠は休んだようだった。そも昨日の時点では気づかなかったのだが、改めて思えば、確かに昨日、晩翠はいなかった。
黒板の欠席の欄に貼られた一枚のネームプレートに意識を持っていかれながら一日の授業を終えると、由比ヶ浜が近づいてきた。彼女はどこか不安そうな表情で内容は簡単に察することが出来た。果たして由比ヶ浜は彼女の名前を口にする。
「今日も休みみたいだね、ゆずっち」
「ああ、そうだな」
ぶっきらぼうに返事をしながら席を立つ。コートを取りに行こうとすると、彼女もついてくる。
「それで、今日お見舞いに行くから」
「ああ、そうだな。……は?」
「やっぱり聞いてない!」
由比ヶ浜は頬をぷくーっと膨らませて、大仰にその不満を体で表現する。俺が先を促すように、どんよりした目を合わせると彼女は中途半端になってしまった話の続きを始めた。
「もう、いろはちゃんの許可は取ったから、二人で行くよ!」
言いながら由比ヶ浜はスマホをちょいと操作して地図を見せてくる。どうやら画面中央のバツ印は晩翠柚奈の自宅らしい。けれど、既に知っていると言えるはずもなく、一応知らないふりだけはしておく。
「あいつ、こんなところに住んでるのか」
「そうみたいだねー……」
と、そこで大事なことを思い出した。あまりに自然に聞き流していた。
「ていうかなんで二人なの」
「ホントは私一人で行くつもりだったんだけど……。ゆきのんが……」
またゆきのんかあ……。大方、戦力外通告? いや、違う! ゆきのんはそんな事しないからっ!
『比企谷くんに、人間との関わりを持たせてほしいの……、ってお願いされたから……』
由比ヶ浜は雪ノ下の声真似をしながら、至極申し訳なさそうに俺に伝える。一つだけ言いたいことがある。その申し訳そうにしているのが最も人を傷つけることだと自覚を持ってください。
「まあ、じゃあ行くか……」
押してダメなら諦めろ、が俺の座右の銘なのはご存知の通りだ。どうぜ何言っても無駄……。
諦めて鞄を持って教室を出る。少し先で待っていると彼女も慌てて教室を出てきた。それから俺に追いついて、一言だけ呟いた。
「なんで置いてくし……」
心境によって受け取る言葉の重さは違うのだと改めて考え直すことになってしまった。
× × ×
『ごめんヒッキー』
『いや俺もう晩翠家なんですけど』
今日は大寒波が千葉を襲うらしい。そんな日なのに俺は外で待たされて、電話をしていた。
学校を出て十分ほど、何気ない会話を広げて、由比ヶ浜のコミュニケーション能力の高さに感嘆していると、由比ヶ浜は忘れ物をしたことに気づいたようで鞄の中を漁っていた。
なんか忘れたのか? と問うと彼女は携帯を忘れてしまったらしかった。しかし晩翠家に行くには名目上、由比ヶ浜の携帯に保存されている地図が必要だった。それゆえ仕方なく、彼女は学校に戻ることを決めた。
俺は自転車を持っていたので、当然貸そうかと提案したが却下された。こんな風が強い日にスカートで自転車は乗れないらしい。まったく当然である。というか寒すぎてスカートじゃなくても、できるだけ乗りたくない。
由比ヶ浜は学校に着いたら画像を送るから、とだけ言って走っていってしまった。
そして、今に至る。
こういう時に限って嫌なことは起こる。そういう俺の予感は往々にして当たるのだ。案の定、晩翠家の戸はゆっくり開いた。
「あれ? 比企谷くん」
「どうも……」
「いやあ不審者かと思ったよ……」
そう言う彼女は明らかに風邪、という格好だった。頭に貼られた冷えピタのようなものと、上下ともにもこもこしたスウェット。その上からパーカーを羽織って、サンダルを履いていた。
「家に誰もいないのか?」
「うん」
「とりあえず、家入ってくれ。悪化したら俺のせいになる」
「当然、比企谷くん入るよね?」
「……入りません」
「じゃあ私も入りません」
「なんでだよ……」
俺が晩翠の行動に当惑していると、スマホの通知音が鳴った。反射的にポケットから取り出すと発信元は由比ヶ浜だった。ロックを解除して通知内容を見た俺は固まってしまった。
『ごめん、今日用事あったの忘れてた!』
由比ヶ浜らしくもなく絵文字さえ使われていないことが緊急性を窺わせる。すると、晩翠が横から覗き見ていたことに気がついた。
「結衣ちゃんと来る気だったんだね」
「ああ」
おかげで由比ヶ浜が来るまで延ばそうと思った作戦も水の泡。……絶対許さないからな……。
「それでどうする?」
熱っぽさが抜けてなくて、今の寒さとは対照的に全身を赤らめている晩翠が俺に尋ねてくる。
ドアノブを握ったままふらふらしているのが見えているし、吐く息が荒いことにも気づいた。
どうするって、選択肢一つしかない……。
「はいはい、わかったよ。ご両親が帰ってくる前には帰るからな」
「うん、ありがと」
人肌寂しかったのかもしれない。少し目が潤んでいた。風邪でメンタルが弱くなっているのか、それとも症状が辛いのか定かではない。けれど、一刻も早く部屋に連れていった方が良いことだけは明白で、俺はお邪魔させてもらうことにした。
「……襲わないでね?」
「誰が襲うか」
蒸気が上がりそうなくらい真っ赤な頬と、あざとい上目遣いに不意に鼓動が早くなったことは、まあ口にする必要は無いだろう。
最近、何気なく書いてても普通に3500文字を超える。
僕の目標は評価を赤にすることです!
……なんて言ったら下げられたりして(笑)
次回は晩翠柚奈のお見舞い回。
男女二人きりで何かが起こらないはずもなく?
いつも誤字脱字、お気に入り登録、感想評価等ありがとうございます!
これからも読んでいただけると嬉しいです。