香をかぎ得るのは香を焚き出した瞬間に限るごとく、酒を味わうのは酒を飲み始めた刹那にあるごとく、恋の衝動にもこういう際どい一点が、時間の上に存在しているとしか思われないのです。
―夏目漱石―
『こころ』
千葉といえばー? にゃんにゃんにゃーん! ……違うだろー!
「かわいいーっ!」
「あーそっすね……」
晩翠が猫を持ち上げて、撫で回す。それから俺にぐいっと押し付けてくる。
ここは動物園。なんでも、ふれあい館みたいな施設が充実しているらしい。俺は晩翠に連れられて園内の猫カフェに来ていた。
最近はフレンズの影響で来園人数が軒並み上がっているらしい。おかげでどこもかしこも人で溢れていた。君たちはすぐ影響されちゃうフレンズなんだね!
「大きいお友達がいっぱいいるなあ……」
「どういう意味?」
「金には余裕のあるフレンズか……」
「ん?……。まあ余裕があるのはいいよね」
よく分かってもいないくせに、賛同する。とにかく賛成する、どうやらこれがリア充の特性のようだ。猫カフェ中が「あー、かわいいー!」とか「これはミーアキャットって言うんだ――」とか知識人で溢れていた。どうして男はすぐに知識を自慢したがるのでしょうか……。
俺が男の悲しい習性に打ちひしがれていると、隣で晩翠がにっこにっこにーしながら俺の顔を覗き込んでくる。
「私、猫派だよ!」
「あっそう……」
「比企谷くんは?」
「俺は……まあ猫か? 猫飼ってるし」
そう返事をすると、彼女は猫を持ち上げて「にゃんにゃんにゃーん」なんて言いながら俺の膝の上に乗せてくる。ちょっ、ちょっと! 毛がつくからやめて! 「にゃん」が、かっ、可愛いからじゃないんだからねっ!
「しかし猫派なんて意外だな」
赤い頬を隠すように取り繕って言う。
「そう? 文化祭の時に話さなかったっけ」
「文化祭……?」
「あー! あー! いや、違う! 人違い!」
記憶になくて、問い返すと晩翠は必死になって手をぶんぶんぶん、頭もぶんぶんぶん、蜂が飛んでるのかと思うほど振る。俺みたいなクズはなかなかいないと思うわけだけれども、似てるやつがいるのか? なんて同族の存在可能性に疑問が浮かんで間もなく晩翠は毒を吐く。
「比企谷くん友達少ないし、猫派私くらいなんじゃない? 友達少ないし」
「いや二回言わなくていいから」
「共通点、だね!」
そう言って、彼女はにこぱっと笑う。確かに友達は少ない。だが猫派が周りに居ないわけじゃない。友達ではなくて、知り合い。あるいは、同志もその範囲に入るのなら、いる。尤も、同志だなんて思っているのも一方的だろうが。
それから15分ほど他愛もない話を続ける。猫の可愛さだとか、学校生活、小町や戸塚の可愛さに小町と戸塚の天使っぷり、極めつけは小町と戸塚の素晴らしさについてお話させていただいた。
「そう言えば、今日って私たちが出会って、ちょうど1週間じゃない?」
彼女はケーキを食べようとして、そのフォークをこちらに向けながら唐突に問うてくる。これは小町に叩き込まれたテーブルマナーを……、なんて考えていると彼女はやけに真剣な眼差しを見せた。おかげで視線を逸らせなくなってしまった。
その上、不意で、俺は怯んでしまう。
「そろそろ、本気でどうするの?」
「……」
言葉に詰まってしまう。
たった一週間。されど一週間。そんな短い期間で彼女は表裏一体で迫ってくるのだ。たった一瞬でふざけて答えようなんて雰囲気ではなくなってしまった。
――よく分かってもいないくせに。
しかし言葉にはならない。まるで子どもみたいな本音を飲み込んで、スマホにちらっと視線を落とした。彼女はご機嫌そうに鼻歌を歌いながらケーキを頬張っていた。……それ結構難しいよね?
「もう3時だ、他もまわろうぜ」
「……そうだね。次、行こっか!」
一度、咀嚼を終えてから、彼女は口を開く。俺はコーヒーの一杯さえ注文しなかったからか、喉がからっからだった。冷えたコップに注がれた水を手に取って、一気に飲んだ。
避けている言葉を突きつけて、けれど正確な距離感を保ち続ける。実際彼女が何を考えているのかすでに分からなくなってしまっていた。
× × ×
「次、あれ乗ろうよ!」
「って、ここ動物園だからね?」
俺の確認虚しく、彼女はコーヒーカップのアトラクションの方に駆け寄っていく。ある程度動物を見て回ると、彼女はミニ遊園地を見て回りたいと言い出したのだ。園内の端におまけ程度で遊園地的なものがあるのだろうという予想は大いに外れ、なかなかの規模だった。経営者、頭大丈夫かな? と思う程度には大きい。
晩翠はと言うと、さっさとチケットを買いに行っていた。ちょっと? そろそろ小町に持たされた数枚の諭吉さんが亡くなられるんですけど?
俺の思いなどつゆ知らず、彼女は満面の笑みを浮かべ、チケットを振り回しながら帰ってくる。何度か転びそうになりながら、100m程の距離を駆けてくる。俺も少し走って合流する。
「はあっ……はあっ……買ってきたよ!」
「まあお前が今来た道を戻るわけだけどな」
皮肉を言いながら、お金を返そうとポケットから財布を取り出す。すると彼女はちっちと舌を鳴らす。なんかムカつくなこいつ……。
「いいよ、私が乗りたいんだし」
「そういうわけにもいかないだろ」
「いいって! ほんとに私乗るだけだし」
言いながら、彼女は一枚しかないチケットを見せてくる。って最初から俺のはないのかよ……。
小さくショックを受けていると、晩翠が戻ってきた時よりチケットの枚数が少ないことに気がついた。さっきは3枚くらい持っていたはずだ。
「さっきもっと持ってなかったか?」
尋ねると、あー、なんて言って彼女は手に持っていた薄桃色の財布からチケットを取り出す。そしてそれを高くあげると、にこぱっと大仰な笑みを浮かべた。
「あとで二人でお化け屋敷行こうと思って!」
納得納得納豆食う。彼女は言うが早いか、荷物を全部、俺に預けてコーヒーカップに向かってしまった。「ポケットから飛んでいくと危ない」かららしい。……どれだけ回す気だよ。
一人を満喫するためにアイスクリームを買ってから、とりあえず、とベンチに座ると晩翠のスマホに通知が来ていることに気がついた。通知が来ると同時に画面がつくタイプようで、意図せずとも通知内容を見てしまう。
FROM:比企谷小町
ごみぃちゃんはすぐ酔うんで、確かにコーヒーカップとかやめた方がいいかもですね。
へ? 小町? なんで? とか思ってるうちに通知をタッチしてしまってアプリが起動する。どうやらパスワードをかけていないらしい。彼女の携帯をいじるクズ彼氏みたいな背徳感を覚えながら、二人の関係を探る。しかし、先にみた通知の一個前で止まってしまった。
TO:比企谷小町
比企谷くん、ジェットコースター弱いのかな?降りたらバレないようにフラフラしてる。
そこで俺は何事も無かったようにアプリを閉じた。どうやらコーヒーカップに一人で乗ったのは気づかいらしい。バレないようにしていたのに、全て見抜かれていたようだ。そのやり口がまるでどこかの誰かを見ている気分で不快だった。
――言ってくれないと分かんねえよ。
そんなことを思ってすぐ、一瞬時が止まった。
そして、俺は決意する。
× × ×
「ふわあっ、怖かったねえ」
「ああ、まあ……」
コーヒーカップから帰ってきた晩翠に連れられて閉園間際だと言うのにお化け屋敷に入った。
まあそれなりのクオリティで、出口で俺の目がさらに腐る程度には面白かった。俺は孤高の異端児の名を欲しいがままにしているわけだが、中学生のころお化け屋敷に一人で入ろうとしたが知らない人とペアを組まされてあからさまに嫌な顔をされて以来、怖くて行けなかったのだ。だから、久しぶりだった。
取り留めのないお話をしながら夜闇に包まれた宵の街を歩く。ネオンライトに照らされた街をしばらく歩くと彼女の最寄りらしい駅に着いた。彼女はため息をついたかと思えば、どこかで見たような――花火大会の帰りの由比ヶ浜結衣のような表情で、俺を見据える。
「じゃ、また明日学校で」
俺の方から話を切り出して晩翠の返事を待つ。
「あ、うん、また明日! 今日は楽しかった」
「まあ、そうだな息抜きにはなった」
「でたっ捻デレ!」
「広がりすぎだろ……」
呆れたように言ってから、危うく小町と晩翠の関係を聞き出しそうになってぐっと拳を握る。
「じゃあね、また明日」
「おう」
まるで慈悲深い女神みたいな表情で俺を見てから静かに手を振って駅に向かう。小町の言葉通り駅に入るまで後ろ姿を見届ける。すると途中で振り向いて、彼女は俺にまた手を振ってくる。俺はそれに静かに返してから、駅に止めておいた自転車を取りに行った。
見上げてみればこの時期にしては珍しく、雲一つのない綺麗な空で、満月が煌々と輝いていた。
俺はすぐに自転車に跨って、時期相応のあまりの寒空に帰りを急いだ。
お互い知っているのに、知らない振り。
知らない方が良いことってあるよねっ! 友達がいない事が実は親にバレているとか、ベッドの下を実は漁られていたとか、歯ブラシを親と共有していたとか……。
しかし、どうやらそうやって人間は成長するらしい。中二病時代のニックネームとか怖すぎ。
そして次回、彼の黒歴史が追加される?
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