チャンスではないと思う
私はそれを意志だと思う
―太宰治―
夜空が綺麗だった。
師走の冷寒はよりいっそう増して、張り詰めた空気に俺の吐息が溶けては消える。俺はまるで氷のように冷たいベンチに腰を下ろして、脱力していた。しかしこの寒さで休まるはずもなく、反対に疲労感だけは溜まっていく。頭だけは冴えていて、今すべき自分の仕事を至極客観的に捉えることだけはできた。
クリスマスイベントの発生から、俺たちの問題は極めて加速度的に増した。
例えば、雪ノ下雪乃の欲求。
あるいは、由比ヶ浜結衣の気づかい。
追従的に、一色いろはに対する責任。
そして、鶴見留美を含む過去の清算。
考えてみれば自分自身の責任なのだ。相手の思考の忖度さえしても行動はおこさない。他者は他者でしかなくて、自分は自分でしかない。畢竟、相手を慮って、知った気になって行動するようなことは絶対にしない。ある意味で、それが信条でさえあった。けれど、表面上でそうしたつもりでも、事実本質は違った。
例えば、鶴見留美。
俺は彼女の惨めさを排除することを第一に、行動を起こした。その結末として鶴見留美は周囲から孤立している。彼女は甘んじて受け入れているように振る舞うが、それがまた俺に正しさを問うのだ。自身の行動に伴う責任さえも究極に当たり前のごとく俺の胸中に踏み込んでくるのだ。
例えば、一色いろは。
彼女を嵌めたやつらに仕返しをするだとか、葉山のことだとか、彼女が生徒会長になるべきメリットを挙げ連ね、依頼を逆説的に解決した。けれど実際、これは俺のためでしかなくて、言うならばお為ごかしだったのだ。
俺がしてきたことは、依頼の、逃れることのない仕事の解決のようで、その実自分や少しの周囲の人間のためだけだったのではないか。そんな後悔の念が押し寄せて、まるで誰かにアピールでもするかのように俺は大きなため息を漏らした。
「あれ? 比企谷くん?」
不意に名前を呼ばれて、俺は大仰に振り返る。公園の入口はベンチのすぐ真後ろにあって、必然的に向かい合う形になってしまった。
立っていたのは、クラスメイトかも怪しいが、どこかで見たことのある少女だった。パーカーとウインドブレーカーのパンツで、ジョギングでもしていたかのようなラフな格好だった。しかし特に息の切れた様子がなければ、汗をかいたようでもない。
「あーえーっと……」
言葉に詰まる。平素から他人と話すハードルが高い俺にとっては、会ったかどうかさえ定かでない人間とコミュニケーションを取るのは些か難しいのだ。というか至難の業……。
しかし、こんな子のことを忘れるだろうか。
綺麗で風に靡くショートヘア。意志の強さがそのまま宿ったような大きな瞳に、薄い桃色の唇。
客観的に見て、人目を惹くくらい美人なのだ。
「あれ覚えてない?」
「お、おう……、まあ、悪い」
手を縦にして詫びると、彼女は俺の非礼を気に止めることなく、微笑みを浮かべる。
「一応同じクラスなんだけどなあ……」
微笑みではなくて、苦笑いだったらしい。
俺もつられて苦笑いしてから、あたたかーいマッ缶を放って、一応名前も知らぬ彼女を気遣っておく。いや、正確には覚えていないんだけれど。
「偶然、さっき間違えて買っちまったんだ」
まるで言い訳みたいに、ワンクッション挟んでから飲むように促した。今の気温は十度を切っているのだ。意図せずとも風邪をひいてしまう。
「ありがとう……」
彼女は一瞬惚けてから、笑みを浮かべる。久々に見る純粋な笑みに、俺もつい笑顔を浮かべてしまった。もっとも彼女ほど綺麗なものではないし、何なら気持ち悪いまであるが。
「ところで本題に戻るが、名前は?」
「んー……甘っ……」
彼女はマッ缶をひと口だけ呷ってから、俺の質問に答える。
「私の名前……? なんだと思う?」
「は?」
「はいだめーっ!」
「何が」
「一回で答えなかったから」
「お、おう……」
俺は当惑して、それきり黙った。
彼女はしばらく俺の答えを待ってから、タイムアップと言わんばかりに、リストウォッチを見てから手を交差させて、バツマークを作った。
「はいだめーっ!」
「二回目だな……」
呆れて、口から漏らす。その反応が気に入らなかったようで、彼女は少し頬を膨らませた。
「私は、私の名前は、晩翠柚奈」
彼女――晩翠柚奈は存外あっさりと自分の名前を口にした。もっとひっぱると思っていた俺は呆気に取られて、少し反応が遅れてしまった。さらに、嫌な言葉が口から漏れる。
「ゆずっち……」
あ、やべ、と閉口するも時すでに遅し。由比ヶ浜の話を聞く――聞かされているだけだが――ことが多いから、無意識的に一致してしまった。いつもなら何度も類推を重ね、満足のいくまでトレースを繰り返すのに。疲れているようだ。
「あ! どーもゆずっちでーす!」
「……可愛い」
「へ?」
「ああ……いや、何でもない!」
動揺を隠しきることもせず、俺はひたすら取り繕った。そも俺の中で可愛いのは小町と戸塚だけなのだ。あの二人以外に興味を、関心を向けることは失礼に違いない! 天使最高!
ちらっと晩翠を見る。彼女はちょうど街灯の下にいて頬を赤く染めて、少し俯いていた。その姿がどこか儚げで、対照的な気がするのに、雪ノ下を思い浮かべてしまった。
とにかく、相手が名乗った以上こちらも自己紹介をするのが常。俺はやる時はやる奴なのだ。
「日本は千葉。生まれも千葉。比企谷八幡です。ニックネームはヒキガエル、ヒキタニ、引立て谷、ヒッキーと色々呼ばれてきましたが、最近はヒキタニが主流かなと存じます」
ふっ、と言い切って目線を彷徨わせると、不意に目が合った。まるで悲しそうなものを見るような……。やめてっ! これ以上黒歴史を増えさせないで!
「つーかもう八時半か」
話を逸らすために、殊更に時計を見る。
「あ、うん、そうだね」
彼女はさっきの話には触れずに、スマホをポケットから取り出して時間を確認する。
「えーっと……晩翠は何してたんだ?」
「さーんぽ!」
「お、おう……」
やったらやられる覚悟をする。しかし彼女は俺に同じ質問を返すことはなく、俺は内心ほっとした。それにしても、そろそろ帰らなくてはいけない。小町ちゃんからの怒涛の愛のメールが鳴り止まないのだ。バナーには『いつになったらソース買ってきてくれるのさ!』なんて表示されていた。これもお兄ちゃんへの愛だと思えば、小町はまだまだ兄離れできていないようだ。
「そろそろ帰った方がよくないか」
「あーうん、まあそうだね」
ぽしょりと、「今結構楽しいんだけどなー」なんて足してくる。あざとすぎて全俺が泣いた。
「じゃあ送ってくわ」
「え、なんで?!」
そんな驚くほど嫌ってことなんですか、そうですか。死のうかね……。
「あ、いやそうじゃなくてさー。不意だったからね。ほら、わかるでしょ」
「まあ分かんないことはない」
白々しいくらい適当に返事をしてから、自転車に向かう。こうなればきっと荷台に彼女を乗せるのが最も早いのだ。
自転車を公園の入口まで持って行って、彼女を乗せる。彼女の持ち物を籠に入れようとしたが大きさ的に入らず、そのまま持ってもらうことにした。やがて間もなく俺たちは公園を出発した。
「ナビ頼むわ」
「うん、そこ左折」
道と建物との境界線さえ定かでない道を、晩翠の指示通りにスイスイ進む。彼女が指示するたびに、細く、しなやかで長い指が視界に入り、同時にふわりと甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
なんか……なんかさあ……!
「なんかカップルみたいだね」
「それ言わないようにしてたやつ」
「君って普段からまったく喋らないのかと思ってたよ」
「まあな。妹と戸塚以外には必要最低限……というか必要最低限さえ会話を交わさない」
「戸塚くん? 可愛いよねえ……」
「ああまったくだ。まずおよそ男子とは思えない綺麗な微笑みで俺の一日は始まり……」
俺が戸塚について語り始めようとしたところ、晩翠の指示で左折して間もなく、彼女の家に着いた。それで彼女の家の近さを知った。閑静な住宅街にあって、二階建ての普通の一軒家。玄関の名札には大文字で『BANSUI』と書かれていた。それを見てから彼女の指示が事実であったことを確認した。
「ありがと、比企谷くん」
言いながら、彼女はひょいっと自転車から降りる。パンパンと服を叩いてから佇まいを直すと、ぐいっと至近距離で俺を見つめる。
「本当にありがとね、比企谷くん」
「……おう」
面映ゆさも相俟って、ぶっきらぼうに返事をしてしまった。しかし彼女は気にすることもなく、両手を後ろに組んで微笑む。
「じゃ、また明日」
「おう」
まあ、明日話すことはないんだろうけど……。なんて思いながら、それは口にしなかった。
俺らしくもなく感傷的な気分になっていたせいで、彼女に無関心に当たることができなかった。
あまつさえ、話し相手になってほしいと思っていたのだ。すぐに人に頼ろうとする。すぐに人に丸投げしようとする。昔から俺の悪い癖だ。
解決しなければいけないのは俺だというのに。
公園で突然出会って、なし崩し的にマッ缶をあげることになって、家まで送ることになって。
まさに人間万事塞翁が馬。
不思議な女の子だ。
会話を、ともすれば、会話とも取れない言葉を酌み交わしただけで、少し楽になった。
俺は一段と高くなった星空を見上げてから、自転車に跨った。そして今来た道を引き返して、反対にある自宅へ帰った。
あ、マッ缶の評価、聞き忘れた。
純粋な八オリです。
高海美奈も考えたけれど、違う作品にしたくて(笑)
高海美奈は、静かに二人の後輩は決意する。のキャラです(宣伝)
一応完結してますよ(笑)
評価、感想お待ちしております! モチベーションとペースとやる気に繋がるのでよろしくお願いします!