その日は何だか、朝から嫌な感じがしていました。
予感とでも言えば良いのでしょうか?
別にわたしはそう言ったものに敏感な方でも無いのですが、何となくもやもやしていたのです。
原因について考えてみましたが、特別変わった事と言えば、補給が届いたばかりで朝食が豪華だった事くらいでしょうか。
それとも朝からターニャに、司令部への出頭命令が出た事が原因でしょうか。
いえ確かに厄介事の可能性は高いですが、その程度今まで何度もありましたし、今までは何も感じる事が無かったのですからそうでは無いでしょう。
そもそも雨と泥に塗れてうずくまっていれば過ぎる一日が、最も穏やかな日であるこの地獄で、嫌な予感も無いと言えばそうですが。
大体ラインだけで言っても、一度マジで死んだかと思った事もあるのですから、もう気にしてもしょうがない気がしてきました。
結局、何が原因なのかは分からないですが忘れる事にしました。
そんな事をいつまでも気にしていられるほど、ラインと言う場所は優しくはありませんし、わたしとしてもすぐに意識を切り替えられる程度には経験を積んでいるのです。
しかしすぐに、その予感が正しかった事を思い知らされました。
アレーヌ市の陥落。
司令部から戻ったターニャの知らせる情報は、わたし達にかなりの衝撃を以って迎え入れられました。
アレーヌ市はライン後方に存在する帝国領の都市で、重要な補給経路上に位置する為、その陥落は同時に帝国の補給路の遮断を意味します。
元々は共和国領であった為、反帝国寄りの思想が蔓延していた所に共和国軍魔導師が浸透、民兵と合流した事で一気に制圧されたそうです。
わたし達にはアレーヌ市を占拠する共和国軍の排除が命令されました。
現在、帝国はアレーヌ市に避難勧告を発令しており、残存する共和国軍は全て殲滅せよとの事です。
また市街戦につき、物的破損についての許可も出ています。
帝国としては避難勧告を出しているのだから、民間人などの非戦闘要員は既に退去しており、市内に残っているのは共和国軍とそれに捕らわれた捕虜しかいないと言う事です。
ですが、それは、その……、何と言うか。
避難勧告を出した所で全ての市民が素直に避難しているとは考え難く、噂によれば多くの市民が叛徒として蜂起したとか。
しかも敵魔導師の排除後、砲撃により敵の一掃が行われるそうです。
ならばわたしは、わたし達は、一般市民に向けて……。
それは、軍人として、人として、決して許されるものでは無いでしょう。
ですがこれは命令なのです。
わたしに、他に取れる道など……。
縋り付く思いでターニャに声を掛けます。
ターニャの顔を見れば、わたしの迷いなど消えると思ったのです。
「……ターニャ」
「何だ」
「わたし達の敵は、あくまで共和国軍なのですよね……」
「当然だ」
「そう、ですよね……」
「……何だ。言いたい事があるなら、はっきりしろ」
「……いえ、わたしとて軍人です。それに……」
「…………?」
「それにわたしはターニャの盾です。ターニャが行くと言うなら、たとえ煉獄だろうと付いて行きます。……そう、決めたのです」
「……ならば、さっさと準備をしろ。あまり時間も無いぞ」
「……分かりました。……分かって、います」
心を殺せ。
命令に従え。
ターニャを守る、その為にわたしは存在するのです。
アレーヌ市の防衛に当たる共和国軍魔導師部隊の指揮官であるビアント大佐は、帝国の魔導師がアレーヌ奪還に向け動き出したとの報告を受け、自分たちの行動が無意味では無かった事に安堵すると同時に、しかしこちらに向かうその存在に暗鬱たる思いを抱かずにはいられなかった。
「ラインの悪魔だと。連中、大物を引っ張り出して来たな」
アレーヌ市奪還に帝国が投入したのは、ネームド、ラインの悪魔を擁するライン全域において確認される非常に厄介な部隊だった。
それほど強力な部隊を前線から引き剥がす事に成功したとなれば、なるほど友軍にとっては助けになるだろうが、ではそれを真正面から受け止めなければならない自分たちはどうなるのだ。
いくら市街地戦とは言え、そう長くは持たないだろう。
長距離戦闘を得意とする奴らを近付く前に撃ち落とせるなど楽観的に過ぎるし、かと言って近付かれては更に厄介だ。
元々帝国の魔導師は近接戦闘に優れるし、かの部隊とてその例外では無い。
しかもラインの悪魔率いるあの部隊には、もっと厄介な奴がいるのだ。
四枚羽の悪魔。
そう呼ばれる魔導師がいる。
何でも、四肢にそれぞれ計四本の魔導刃を展開して飛ぶ姿が、四枚の羽を広げているように見える事からそう呼ばれるらしいが、大層洒落の効いた名だ。
こいつは常にラインの悪魔の傍らに確認される魔導師だが、悪魔の隣で羽を広げるこいつも、なるほど確かに悪魔なのだろう。
もちろんその実力は折り紙付きで、こと近接戦においてこいつに勝てる奴はいるのだろうか。
たとえ複数人で囲んでも、歯牙にも掛けず突破されるらしい。
特にラインの悪魔の長距離狙撃と組み合わさると手が付けられないと聞く。
四枚羽を落とそうとすれば悪魔から狙い撃たれ、狙撃を止めようとそちらに意識を向ければ今度は容赦無く斬り裂かれると言う訳だ。
数日も耐えれば帝国の補給線は悲鳴を上げるはずなのだ。
しかしその数日を稼げるかどうかすら危うい。
まさかここまでの戦力を帝国が投入してくるとは、流石に予想外だった。
せめて帝国が様子見をしながら戦力の逐次投入でもしていてくれれば。
ビアント大佐としてはそう思わずにはいられなかった。
アレーヌ市上空で行われる、敵魔導師との市街地戦闘。
待ち構えていた分相手に地の利があるとは言え、遮蔽物の多い市街戦となれば近距離戦闘が主となります。
ならばわたしにとっては得意分野ですし、それに敵も入り組んだ地形を利用し分散していますから各個撃破していけば良く、数の不利もあまり関係ありません。
特に問題無く敵魔導師の排除を進めていると、突然無線からひどく覇気の無いヴァイス中尉の声が聞こえてきました。
「セレブリャコーフ少尉、済まないが、妙に疲れた……。強壮剤を貰えないか?」
「…………。ヴァイス中尉、被弾されていますよ!」
「何?」
「気付いて無いのですか!?止血帯を、早く!」
どうやらヴァイス中尉が被弾した様です。
彼は副長を務めるほどの実力者ですし、個人的な戦闘能力もエース・オブ・エースとなっていてもおかしくないほどです。
それに真面目な彼が油断したとも思えません。
確かに冗談などは良く口にしますが、それは部隊内の空気を配慮しての事。
彼自身は常識的かつ良識的で、人の機微に良く気が付く頼れる人物です。
わたしは、出撃前にヴァイス中尉と目が合った時の事を思い出しました。
そのときの中尉の目には、わたしにも浮かんでいたでしょう迷いが見えました。
わたしはターニャと共に在る為にその迷いすら飲み込んでここに来ましたが、ヴァイス中尉は迷いを抱えたまま来てしまったのでしょう。
しかし、わたしは彼の事を責める気にはなれません。
一つ違えば、わたしが彼と同じになっていたのかも知れないのですから。
わたしには、他の何を置いても大切なものが有った、それだけの事です。
中尉の気持ち自体は痛いほど良く分かるのです。
とにかく、ヴァイス中尉はそのまま下がる様に指示されました。
ターニャによってすぐさま指揮権が再編されます。
「次席指揮権はケーニッヒ中尉が継承しろ。アルベルト中尉、第二中隊を連れて引き続き敵魔導師を排除しろ」
「「了解」」
中隊指揮はわたしの役職からは外れますが、まあこの場合は仕方無いでしょう。
何せ部隊を直接指揮していない士官の中では、わたしが最先任となります。
大人しく第二中隊の指揮権を継承し、戦闘を継続しようとしたその時です。
なぜか急速に敵が引いていきます。
「敵魔導師が後退中。建物内に引きこもるつもりです」
「突入中止。そのまま押し込んでおけ」
敵魔導師を殲滅出来ていませんが、外に出て来なければほっとく様です。
実際、街の外にいる砲兵隊の邪魔をされなければ良いのです。
わたし達の役目は果たしたと言う事なのでしょう。
しかしそれは、砲撃まで行う事が前提の判断。
何かがおかしい気がしてなりません。
一方でターニャは淡々と手順通りにこなしていきます。
ターニャ自身もあまり気乗りしている様子ではありませんが、こう言う時に割り切れるその合理性が、少し羨ましくなります。
「敵を押し戻し次第、降伏勧告だ」
降伏勧告。
つまりは、これ以降は全て民兵と見なし、非戦闘要員は存在しなくなると言う事です。
そしてこのような勧告を行った所で実際に降伏してくるとは考え難く、逆に火に油を注ぐ事になりかねません。
案の定、捕虜の一人が民兵に撃たれ、その映像はこちらに記録されます。
最早、帝国は大義名分を手に入れてしまったのです。
もう止められませんし、止まりません。
砲撃が開始され、街は火の海へと変わります。
ラインが地獄だったとするならば、ここは一体何なのでしょう。
捕虜の救助を続けながら、そんな疑問が頭にこびりついていました。
「HQよりピクシー大隊。後退中の敵残存魔導師が殿軍を務めている。排除は可能か」
「目視した。……問題ない、可能だ」
胡乱な頭で燃えて行く街並みを眺めていると、隣でターニャが司令部と通信しているのが聞こえました。
ピクシーと言うのは作戦中に使用されるコールサインで、わたし達二○三大隊の事を指します。
わたし達は既にするべき事を終え次の命令を待っている状態でしたが、その次の命令が来た様です。
敵の魔導師の排除。
ターニャは問題無く、発見した様ですね。
そして隣のターニャが目視出来ると言う事は、当然わたしにも見えていました。
確かに敵魔導師らしき者達が見えます。
そしてその背後には、避難する市民が、いえ撤退する共和国軍が存在するのです。
司令部としては、彼らを一人として逃すつもりは無い様です。
そしてそれが意味する所を、ここにいる者全員が正しく認識していたでしょう。
何せ魔導師の観測術式は優秀です。
二○三大隊に所属する魔導師なら、あの光景が見えない者などいないでしょう。
だからグランツ少尉が青い顔で慌てて駆け寄って来た時、彼が何を言うつもりなのかすぐに分かりました。
それはわたしが必死で抑え込んだ言葉と、きっと同じでしょうから。
それならば、止めなければなりません。
彼の為に、ターニャの為に。
そして何よりわたし自身の為にも。
「大隊長殿、ご再考を……」
そう言いかけて次の瞬間、グランツ少尉は地面に叩き付けられていた。
打ち付けた顔がひどく痛むのを堪えて思わず見上げれば、アルベルト中尉が無機質な目でこちらを見下ろしていた。
振り下ろされた拳は白くなるまで握り締められ、頬は痛みと熱を訴えかける。
そこまで確認して、ようやく自分が殴られた事に気が付いた。
上官への反抗。
確かに殴られても仕方無い。
それどころか今止められていなければ、射殺されていたかも知れないほどの暴挙だ。
しかしグランツが何も言えなかったのは目の前のアルベルト中尉が、敵を見るかの如く冷たい視線をした彼女が、一瞬まるで泣いている様に見えたからだった。
いや現実の中尉の顔には何の感情も浮かんでいないどころか、殺気すら漂うほどの無表情だ。
非戦闘時と戦場で雰囲気が変わるのは遠目に知っていたが、実際に目の前にすると背筋が凍る思いがする。
大隊長殿を前にした時とは、また違った恐怖だった。
しかしそんなアルベルト中尉が一瞬でも泣いていると感じられたのは、その何も映していないような瞳にただ自分の感情を見ただけだったのかも知れない。
呆けている自分の目の前に銃が投げられる。
「手に取りなさい、少尉。義務を果たすのです。……大隊長殿、申し訳ありません。わたしに銃を貸して頂けないでしょうか」
「……相変わらず甘いな、お前は。これを使え」
「ありがとうございます。さあ少尉、構えなさい。……構え!」
号令の声に、反射的に銃を手に取る。
そこで初めて気が付いた。
自分に渡されたのが、近距離用の短機関銃である事に。
この銃の射程では、遠くにいる敵魔導師の防御に決定的な打撃を与え得ないだろう。
大隊長殿が甘いと言っていた意味をようやく理解する。
涙で歪む視界を堪え、銃を構える。
「……撃てぇ!」
号令に合わせて引き金を引く。
短い付き合いながら、穏やかで優しい人だと思っていた。
だが彼女も、間違え様も無く軍人である事を知った。
そして同時に、そんな彼女に嫌な決断を押し付けた自分の迂闊さを呪った。