リヒト自身、今の状況に内心混乱していた。
巨大な熊のような生物に襲われて谷底へ真っ逆さまかと思えば、雪に埋もれて。そして、何とか這い上がれば探し人が目の前に居た。
(どんな確率だ、ホント)
リヒトは、動けないモネを背負いシュガーの居るらしい方向へと脚を進める。背中から伝わる人肌は驚く程冷たい。このままでは、数分と持たないかもしれない、そう思った。
「モネさん。取り敢えず俺の上着を羽織ってください。俺はまだここに来たばかりで余裕がある。今は貴方の方が重症だ」
防寒着をモネに着させる。これで、多少なりとも良くなる筈だ。しかし、状況は悪いことに変わりない。おそらく、モネがシュガーを離れてそこそこに時間は経っているのだろう。歩いてもシュガーの姿が見当たらない。
そんな時、分かれ道が目の前に広がっていた。右か左か、リヒトが迷っていると、モネが背中越しに左側をつついてくる。
(左、か……)
しかし、モネがこの様子では妹の方は相当危険な容態の筈だ。このペースでは恐らく間に合わない。最悪、既に死んでいる、なんて可能性もあり得る。
「すいません、少し急ぎます。揺れるのでしっかり捕まっててください」
リヒトの言葉に、モネは弱々しくも腕に力を込める。
脚を深く踏み込み、前へと駆けだした。雪が脚を絡めとるが、ここは平面の道。坂道の中を熊と競争した後では、比べ物にならない程に楽だ。
そうして、走ること数分。雪が降る中で、人影が見えてきた。小さい身体が雪を被っている。
「見つけたっ……!」
急いでシュガーの元へ行くと、真っ青なシュガーがそこには居た。脈を測るが、非常に心許ない。
(どうする、このままじゃ俺も含めて共倒れだ。二人を抱えるには俺の手が足りないッ)
そんな時だった。モネが背中から降り出し、自分の上着をシュガーに着させたのだ。
「この、子だけでも。おね、がい……!!」
覚悟決めた悲痛の表情と、妹を想う慈愛の混ざった声音に。リヒトが唇を噛み締めた。なんだ、この状況は、と。意味も分からず、意味も分からない世界に放り出されたと思ったら、人の命を見捨てろ、だと?
「ふざけるなよ……!!」
何に対してか、それは分からない。しかし、この怒りは何かに向けなければ気が済まなかった。神様だろうと悪魔だろうと、この怒りを消せやしない。ならば、せめて。こんな状況を作り上げた何某の策謀を、打ち砕いてみせようじゃないか。
リヒトは、上に着ていた残りの服を脱ぎ去り、上半身を雪景色に晒す。そしてモネの目を見て、リヒトは噛み締めるように言うのだ。
「二人とも、絶対に助けます」
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着ていた服でシュガーを縛り、モネを片手で支える。
結果的に、片手と脚のみでこの谷を登ることになるが、そんなことは構わない。今、この時の行動で、二人の命が決まる。そう理解しているからこそ、爪が剥がれようと、息がキレようと、筋肉がぶち切れようと登り続ける。
「ハァ……ハァ……!」
既に、限界は超えている。リヒトの身体はかなり鍛えられている。しかし、それでも人一人の力など高が知れている。
(見えてる、もう天辺は見えてるんだ!!)
血が、重力に従い腕を伝う。汗が頬を撫で、酸素が肺から抜けてゆく。筋肉の悲鳴が直に聞こえてくる中、それでも腕を上げる。
(絶えさせないッ。こんなとこで、この命は絶えさせないッ!!)
モネとシュガー。この二人と何ら接点がある訳ではない。むしろ、赤の他人と言って違いない関係だ。なれば何故、そんな二人に命を懸けるのか。
そこに意味なんて無かった。目の前で自分より幼い命が息絶えようとしている。それを見過ごせと、見殺しにして一人余裕で綽々と生還しろと。
誰がそんなことをできるものか。理不尽もここまでくれば、笑えて来るものだ。神様も悪魔も、とことん底意地が悪いらしい。
リヒトは、ただ一つ、この世界に来る前の記憶を掘り起こしていた。
「貴方は死んだ」
唐突に告げられたその言葉を理解できる人間はごく少数の筈だ。不明瞭な姿とやけに明確な声。それだけが、謎の存在を成していた。
「貴方は死に、そして別の世界で息を吹き返す。そこで、貴方は罪に抗う」
罪、という言葉にリヒトは首を傾げるのみだ。一体、自分が何をしたのだろう。前の世界、というものがあるらしいが、そんな記憶は脳内に存在しない。思い出そうとも、白紙の記憶が露となるだけだ。
ただ、謎の存在の声は何故か胸に沁み込む。訳も分からないまま、ただ顔が下を向いた。
「往く前に一つ」
一つ間を入れ、口を開いた。その声音だけは、先ほどまでの明示的なものではなく、ぼやけていた。
「貴方は生まれるべきではなかった」
(今も、あの時の言葉は分からないままだ)
こんなに悩ませる過去の所業を、俺はしたのか? 疑問に思う心も押しとどめて、一重に願う。
(それでも、この二人は生まれてきて良かった存在の筈なんだ。俺は違うのかもしれないけど、それでもこの二人は助けたい。自己満足だろうが構わない。ただ、今ある命の灯を見ぬフリはできない)
ようやく、天辺に手を掛けた。
着いた、そう思う。身体の力を掻き集め、ようやく登り切る。息も絶え絶え、上半身を凍傷が痛ましく侵食している。
取り敢えず、シュガーとモネを降ろし、一息つく。村へ降りるとしても、今の体力では道中で倒れてしまう。ならば、少し休んでから行った方が、結果的には生存率は上がる筈。そう考えたその時だった。
『ガァグググググ』
件の熊が居た。顔を上げ、少し先を見れば、白い毛並みの大柄な巨熊がこちらを睨んでいる。反射的に立ち上がろうとするが、脚も酷使されており、すぐには立てそうもない。
「くそ、クッソガァアアアアアアア!!!!!」
悔しい、ただそれだけの気持ちを以て叫んだ。なんという不運だ、理不尽だ。あの熊が、あれから、ずっとこの崖の周辺を彷徨っていて、ピンポイントでリヒト達が登ってくる場所に居た。
――あり得ない。
目を伏せ、そして今にも死んでしまいそうなモネとシュガーが目に入る。
そういえば、と。あの謎の存在と相対した時も下を向いていたことを思い出す。
情けない。あそこで下を向かずにいれば、あの謎の存在から何か分かったかもしれない。俺が受けた最後の言葉の意図をなにかしら掴めていたかもしれない。
ならば、今するべきことは――!
「男なら……ッ!!!」
熊が唸りを上げて駆けてくる。重々しい雪を撒き散らす音が威圧感を与えるが、リヒトは顔を下げない。
「最後まで意地ィ……!!!」
振り被った熊手がリヒトに襲い掛かる。それでも、真っ直ぐ熊を見据え続ける。
「貫いてみろやァアアアアアアアアアアアアアア!!!」
――ドクン。
瞬間、空間が鼓動した。リヒトを中心に大気は震え、生物という全てを圧迫する重圧が伝播した。
圧倒的な圧が世界を揺るがし、熊はその気迫に気圧される。世界は新たなる覇を持つ存在に震撼し、その発現を確かに認識した。
不自然な存在の発露に、急に現れた覇を持つ者に、世界は危機感を持つ。このままでは、バランスが崩れてしまう、と。
歯車が狂い、これから起こる筈の
今、このリヒトという人物が二人の少女を助けたこの状況を見て、判断を下した。
人命を救ったというのに皮肉なもので、世界がリヒトを恐れて出した判断は――
――抹消、だった。