不幸。幸運の対義語であり、恵まれない環境にあることを指す言葉である。
俺は刹那的に、そんな言葉を思い浮かべていた。今までの人生で揶揄するように吐き捨ててきたこの言葉の重さが、こんな非常時になって漸く理解できたなど、自分が情けなくなってくる。
とにもかくにも、俺という奴は、「本当の不幸」を知らなかったわけだ。今までずっと、そんなものとは無縁な人生をおくっていたからだ。
ーーしかし、今。俺は「不幸」としか名状できない展開に遭遇している。
誰か。ああ、誰でもいい。俺を、俺たちを救ってくれ。
切に、悲嘆に歪む表情を携え、俺は胸中でそう叫んだ。
ことの始まりは、今までの狩り場では稼ぎが悪くなってきているので、レベリングに使うダンジョンを変えようという話が挙がったところだった。
それはメンバー全員が感じていたことで、俺もそれは感じていた。
そして、そんな中、シーフであるハルカゼが言った。「いいダンジョンがあるってNPCから聞いたから行かないか」と。
それに黒猫団メンバーは同意した。キリトは少しキレの悪そうな表情で、ケイタは一切の邪念がないというような爽やかな表情で、サチは少し引け腰で、俺は何の疑いも持たず、テツオとシデンも同様だった。
俺たちは30分ほどで、森の奥にあるというそのダンジョンに辿り着き、数時間にわたってレベリングをしていた。
その時のレベリングは充実していた。今までにないくらいだった。だからこそ、時折キリトの顔にちらつく翳りが、妙にひっかかった。
そして、その瞬間はやってきた。
その数分には、いくつかの不幸が立て続けに起きた。先ず、ハルカゼがマップソナーのスキルを使い、壁の奥に空洞が存在していることを発見したこと。次いで、ケイタが丁度、壁も砕ける重攻撃スキルを覚えてしまったこと。そして、その、壁の向こうへ行こう、という提案に、皆が乗ってしまったことだった。
ケイタは皆の期待に応えるべく、壁を叩き割り、そしてーー
その中に、ギルド全員が侵入した瞬間、床が抜けて下へと落ちてしまったこと。
床が抜けた先には、開けた空間があった。そこは広場というより、地下にある牢獄のようで、それを暗示するかのように、俺たちの前には鉄格子が配置されていた。
その向こうには、大量のモンスター。見たこともないような
「転移、『オロガイ』!」
ふと、誰かが叫ぶのが聞こえた。それはどうやらテツオのようだった。俺たちが拠点にしている『オロガイ』の名を宣言し、帰ろうというのだ。
しかし、いつまで経っても彼がオロガイに転移される気配はない。聞いたことがある。ダンジョンには、「結晶無効空間」なる、一切の結晶が発動できなくなるマップが存在しているのだ、と。
彼の行動は賢明だった。しかし、今は場が悪かったのだ。却って、皆に絶望を与える手助けをしてしまったのだから。
「ハルカゼ、マップソナーは...」
呆然自失、といった調子でランサーのシデンが聞いた。その問いに、彼はしばし言うことを躊躇っていたようだが、やがて呟き声ほどの小さい声で、「ダメだ」と簡潔に言い放った。
「どうして、こんなことに...」
懸命に壁を叩いていたケイタも、その発言を受けては行動する気をなくしたようだった。片手棍を取り落とし、地面にへたりこんでしまう。
目の前にあるのは、鉄格子。これの先に出口があることくらい誰にだって推察できる。しかし、あの格子を越えた先に存在するモンスターに、俺たちが敵わないことくらい、このゲームを長くやりこんだプレイヤーなら誰だって理解できる。
「あの鉄格子の向こうさえ抜ければ、晴れてゲームクリア...か」
この状況には、さしものキリトも堪えたようだ。声が弱々しい。しかし、口調はいつものように飄々としている。
「無理だよキリト、出来っこないーー」
それにはサチが答えた。彼女はいつになく弱気だ。いや、あの10層での夜から、ずっと彼女は迷っているのだ。ずっと弱気だったのだーー。
ふと。自分でも気付かないうちに、俺は剣を抜いていた。ダンジョンは松明で照らされており、剣は、その松明の火の光を反射して煌めいている。
そして、軋るように、あるいは、覚悟を決めた特攻隊の兵士のように、俺はケイタに、ギルドメンバー全員に宣言した。
「俺が活路を拓く」
「な、何言ってるの、クロ...」
「そ、そうだ。あの部屋を抜けるってのか。そんなの無謀だ、何人死者が出るかーー」
その言葉は予想できていたものだった。俺はそれに対し、落ち着き払った声色で応える。
「だから俺一人で行く。奴等を全員鏖殺して、活路を拓いてやる」
「ダメだ、クロ。ギルドマスターとして、誰一人死なせるわけにはいかない。君の提唱している行為は自殺以外の何でもない」
その言葉に対するケイタの反応もまた落ち着き払っていた。
「そうだ。行為自体は自殺としか形容のしようがない」
だが。俺はずっと言えなかった言葉を紡ごうと息を吸い込みーー
「ーーでも、俺は違う。俺はもう、死んでいるから...」
しかし、俺の喉から排出された言葉はどこか抽象的で要領を得ないものだった。ここで金輪際すべてを仔細に話しきるほどの精神力、伝達力を今の俺は持ち合わせていなかったのだ。
「ごめん、皆」
俺は全てをうやむやにしたまま駆け出した。俺の敏捷力は、そもそものレベルが高いキリトは除くとして、ギルドの中で一番高い。シーフのハルカゼですら、俺の速度には追い付けないのだ。
だから、特に苦もなく鉄格子まで辿り着いた俺は、背後で叫ぶ皆を尻目に、鉄格子に触れた。この類いのギミックは何回か見ている。触れることで、解錠をすることのできるものだ。
次の瞬間、鉄格子が上がり、丁度人一人分の穴が空いた。俺は一切の躊躇なくそこに入ると、鉄格子が降りたのを背を向けたまま確認すると、抜き身の剣を体の正中線に構えて、ソードスキルを発動させた。単発軽攻撃、『ロード・アウェイ』だ。
刹那。一番俺に近い位置に居た蜂型モンスターに、そのソードスキルの迅速な刺突が突き刺さり、そいつのHPバーが五割近くまで割り込んだ瞬間。
その瞬間から、俺と、そのモンスターとの戦争は始まった。