「覚悟は良い?」
尋常ではない存在感を放つ扉の前で、柊が最終確認をする。
この扉を開いたら最後、郁島さんを説得するまで帰ってこれない。
準備は、覚悟は、本当に大丈夫だろうか。
──Select──
>大丈夫だ。
良くない。
──────
問いかけに、もちろんだ、と頷く。
続いて時坂、璃音が頷きを返し、それらを見届けた柊も一度、首を縦に振った。
自分らを威圧するような大きな扉に手を掛ける。
「……行こう」
深層へと至る、道を開いた──
────>ソラの異界【有閑の回廊・最深部】。
扉を開けた時、内に居たのは2人の瓜二つな少女。
ボーイッシュな短髪に、ジャージ姿。黒髪黒目の、運動部の期待の新星にしては細い身体。
なにもかもが同じ。このどちらかが、郁島 空のシャドウらしい。
「せ、先輩方……どうしてここに!?」
『こんにちは、お久しぶりです、先輩方』
反応から察するに、驚いた様子でこちらを見たのが現実の郁島さんで、礼儀正しく挨拶をしてきたのがシャドウなのだろう。
『その、お怪我はありませんか?』
「あ、ああ。大丈夫だ」
『そうですか、よかったです!』
……て、丁寧だ。
シャドウは抑圧された本性だと聞く。
つまり彼女は、伝え聞く品行方正ぶりを本心で行っているということ。もし演技が含まれていたなら、その振る舞いをシャドウが行っているはずだ。
……そして、そんないい子をここまで追い詰めた“何か”。それを探るべく、まずは会話を試みよう。
──Select──
>郁島さんに何をした?
望みは何だ?
──────
まずは、入って来てから気になっていたこと。
郁島さんが、何かに打ちひしがれたように項垂れていた理由を尋ねる。
『えっと、特にはなにも』
だが、彼女は答えない。
参った、礼儀正しさと話しやすさは別か。
「ソラ、何を言われたんだ?」
時坂が疑問の対象を変える。シャドウでなくても、特に時坂が聞くことで、本人も答えやすくなるだろう。
問われた郁島さんは、少しの逡巡の後、口を開こうとする──その時だった。
「えっと、それが──」
『頼るの?』
「──ッ」
シャドウのカットインが、吐き出されかけた理由をせき止める。
たった一声。それを聞いて、郁島さんは思い留まってしまった。
見方によっては牽制されたようにも捉えられる。
だとしたら、これも悩みの一要素、と見るべきだろう。
……誰かに頼ることを躊躇う理由、か。
何にせよ、このままではもう何も聞けそうもない。次の話題に移ろう。
──Select──
>望みは何だ?
──────
『わたしの望みですか?』
「ああ。何か、やりたいことがあるんじゃないのか?」
『えっと、お料理がもっと上手になりたいですし、この近くの色々な場所も見に行ってみたいかなって。あと他にやりたいことと言えば……あ、定期試験で上位が取るとか? とにかく色々なことがしてみたいです!』
随分取り留めのない夢だ。いや、夢というよりは、自分に近い目標か。今やりたいことをひたすら羅列したようにも聴こえる。
しかし、これが特別悪いこととは思えな──
「……っ」
──郁島さんが、唇を噛み締めて、蹲っている。
もう聞きたくないと頭を振って否定し、耳を塞いで情報の拒絶していた。
どうしてそんな反応をしているのか。
いま、シャドウはそんなに悪いことを言っていないはず。
「やっぱり、そういうカンジかあ」
聞きたいことを聞くと、璃音がそっと零した。
自然と彼女へ全員の視線が集まる。
「郁島さん──あ、シャドウの方ね? 今やりたいことを言うのはイイんだけど、なんでその中に、空手が入ってないのか、聞いても良いかな?」
『え?』
シャドウは、少し驚いたように目を見開く。
だが、それは聞かれたことに対する驚きではない。何故そんなことを聞くのか、といった疑問の反応だった。
『そんなの、久我山先輩が仰った通りです。“今やるべきことではない”からじゃないですか』
「違う!」
『違わないよ』
空手が今やるべきことではない、とはどういうことだろう。
彼女は空手部で、将来を期待されている身だ。寧ろ、ずっと最優先で続けるべきでは?
「わたしは空手が好きで! 空手をする為に東亰に来たから!」
『でも、空手はいつでも出来るけど、東亰で遊ぶのはここに来ている今しかできないし、そもそも女子高校生で居られるのも今だけ。もっといろいろなことに手を出さないと』
「そ、そうじゃなくて!」
『そうなんだよ。だって、お父さんも言ってたでしょ。見分を広めろって。つまり多くのものに触れてこいってことだよね?』
「ちがっ……それは、あくまで空手を第一に考えてのことで……」
言い合いは、止まらない。
しかし、その勢いには大きな差がある。
やはりシャドウの言うことは郁島さんの抱える本心なのだろう。向けられる一言一言に本人は表情を歪め、しかし一般的に正しく聴こえる反論をする。だがその反論も徐々に力を失っていく。
胸の中に押し込めた気持ち。それを言葉にして、誘導される。段々自分の持つ理論や価値観が崩れていくのも仕方なさそうだ。
なら、その倫理を支えるのは他者の仕事というものだろう。
「ハイハイ自分喧嘩はそこまで。郁島さん──あ、今度はどっちが答えてくれても良いんだけど、もう1つ聞いていいかな?」
「は、はい。何ですか」
「そんなに辛かった? 周りの声に応えるのって」
『「ッ!」』
その問いかけに、2人の郁島 空が動揺した。
「璃音、どういうこと」
「纏めて言うとね、多分、郁島さんの行動の根本的な理由は、周囲から向けられるハードルの高さだったんだと思う」
「ハードル?」
「“郁島さんならこれくらい出来るだろう”。“天才だからこのくらいは当然”。そんな声が無遠慮に投げかけられてく。ただの女子高生が背負うには、重すぎると思わない?」
「……そいつは」
何かに気付いた時坂が、その後に続く言葉を無くす。
もしその理由が本当なら、時坂にも原因の一端がある。ということだ。
『さすが、久我山先輩。分かっちゃうものですか?』
「まあ、あたしもアイドルとして、似たような経験はあるから」
「で、でも、そういってもらえるのがつらいなんてことはなくて! 寧ろわたしなんかがそう呼ばれて良いのかって申し訳ないくらいで……」
「うんうん、そっか。わかるわかる」
同意し、理解を示す。
璃音の経験は郁島さんの本音を引き出すのに上手く活かされているみたいだ。
「なるほど、“逃避”だったのね」
ぼそりと柊が呟いた。
逃避。その言葉は何を指しているのだろう。
「なんか分かったのか、柊」
「ええ。……時坂君、例えばずっと練習ばかりやっていた野球部員が、野球である失敗を重ねた時、どういう反応をすると思う?」
「あ? そりゃあ、次失敗しねえように練習するんじゃねえのか?」
「そう、それが理想ね。なら、それが出来ない人は?」
「できない人……」
それはつまり、練習と……野球と向き合うことをやめることに直結する。
「野球から、離れる」
「そう。もっと詳しく言えば、野球に向いていた集中力が霧散し、“今まで気にもしてなかったことに集中し始める”。例えば勉強が苦手だった生徒は勉強をし始め、例えば昔サッカーをしてた生徒はサッカーを練習し始め──」
「ちょ、ちょっと待てよ、その例えがソラを指しているモンだとして、ソラの何が上手くいってなかったってんだ!? 空手は順調だっただろ!!」
「──例えば、“人間関係が上手くいってなかった生徒”は?」
「…………ぁ」
「……人間関係をうまく構築する為の努力を始める」
「ええ、それも、本業だった空手をそっちのけで、ね」
「っ」
本当に簡単に言ってしまえば、成果が出ないから別のことをやろう、といった気持ちに近いらしい。
その衝動を理性は“そんなことをしていないで練習しないと”と押し留めていた。
いや、押し留めきれていなかったのか。料理に専念するような話を聞いたのも、母親との話に興味を持ったのも、すべてはその衝動を殺しきれなかったからに過ぎない。
そうして生まれた心の摩擦が、郁島さんのシャドウを生み出し、異界を発生させたのだろう。
「んで……なんで言ってくれなかったんだよ、ソラ! 言ってくれれば、オレは……!」
「時坂……」
「時坂君……」
短い爪でも皮膚を割いてしまいそうな程に、強く手を握りしめる時坂。
敬愛する先輩にそんな表情をさせたことに、顔を一層曇らせる郁島さん。
……だが確かに、話に聞く2人の仲なら、気まずくなっても素直に相談するかとも思ったが。
「そ、それは……」
『……そう、言えない。言えないよねわたし。特に、大好きなコウ先輩には』
……隠そうとした、理由があるのか?
それも、時坂には特に言えない?
シャドウである郁島さんにも、時坂を慕っている様子はある。
いったい、どうして。
『だってコウ先輩、昔、“わたしの所為で武道を辞めたんですよね”?』
「「「 ッ!? 」」」
「な、んで……」
「……まさか記憶がっ」
記憶……書き換えたはずの、異界の記憶か!
確かに説得の一環として、彼女の前で似た主旨の話をしていたかもしれない。
だがそれも当時の記憶があればの話。相沢さんの異界を攻略後、彼女に対して記憶の消去を行ったはずだ。
なら何故、彼女はそれを覚えている?
「異界に再び関わることで、誤認させていた事実が正常に戻った? いえ、そうとしか考えられない」
「えっ! じゃあ郁島さんは、あの時のこと全部覚えてるって言うの!?」
「詳しい割合までは分からないけれど、恐らく大部分を思い出しているはず……!」
だとしたら、相沢さんが彼女へと向けていた屈折した想いも、時坂が昔彼女に抱いた憧憬に似た何かも、すべてが伝わっているということか。
……だとしたら、拙い。
あの時は説得のためだから、と、色々なことを話している!
「そうだ……コウ先輩も、チアキ先輩も、わたしの所為で……」
「そ、ソラ……」
「コウ先輩、わたしと出会ったから、武道から目を逸らすことになったって……チアキ先輩も、わたしの存在が、重荷になって……!」
「ちがっ」
「何が違うって言うんですかぁっ!!」
見ているものが、違う。
彼女の関与が関係ないとは言わない。
だがそれもあくまで一部。ただのきっかけに過ぎない。彼らがそうしたのは1つの理由からでは決してないのだ。他にも色々なものが絡み合った。
強いて言うなら、そう、間が悪かっただけのこと。
なのに彼女は、自分が居なければ起こらなかったことだとし、すべてを自分の責として捉えている。
本来、彼女に罪はないのだ。ただそこに居ただけ。そこを訪れただけに等しい。それに一体なんの罪があるというのだろう。
確かに結果として、
それが罪だとしたらまるで、努力することそのものが悪だということになってしまう。
そんな訳ない。絶対にない。あってたまるか。
努力して、夢を叶えることが、間違いなわけないのだ。
「でも、そう思い込むのも無理ないわね。尊敬している人たちの人生を、自分が歪めてしまった可能性。考えるだけで恐ろしいわ」
「ウン……特に、自分に自信が持てない時なんかじゃ尚更だろうね」
「ええ、だからまずは、話を聞いてもらえる状態に持って行かないと」
そうして柊は、自分の方へと向き直る。
「出番よ、岸波君。今の時坂君じゃ何を言っても伝えきれない。的確に、あの“思い込み”を打ち抜いて!」
話をする為に、まずはすべてを吐き出させるべきだと、柊は言う。
そうだ、説得なら時坂も交えて行うべき。しかし今の彼では、郁島さんに言葉を届かせることができない。
なら自分の──自分たちの仕事は、彼がすべてを意のままに伝えられる場を整えることだ。
郁島さんのシャドウが抱いていた、頼ることに対する忌避感。
これを璃音は、“ハードル”だと称した。
ハードルを跳ぶ行為に恐怖を覚えること。それ自体に時間は関係ない。
必要なのは、一度の恐れ。たった一瞬の気付きだ。
期待に応えれば、また上乗せされる恐怖。
越えられなければ失望されるであろう恐怖。
例え乗り越え続けても、勝手に神聖視される恐怖。
彼女はハードルを前にして、知ってしまった3種の恐怖と毎回戦っている。
郁島さんのシャドウが持つ、『今やるべきことは他にある』という認識。
それを柊は、“逃避”だと断じた。
以前の彼女には確固たる芯があり、それがあったからこそ、どんなにつらい練習にも耐えられてきた。
しかし、根幹を揺らす出来事を経た彼女に、固まった土台は存在しない。
己の芯が揺らぎ、自らの行いが正しいと思えなくなった彼女は、まるで自身のしている努力が間違っているように思い込み、努力そのものを遠ざける。
追っていたものから、逃げる。
故に、逃避。
何から追い、何から逃げているのか。
それらは極めて明白だった。
彼女が抱いた、諦念。
そこに皹を入れることで、心の摩擦に苦しんでいる郁島さんを、その彼女を救いたいと願う時坂を、手伝いたい。
一言で言えば。
彼女が諦めたものとは。
諦めるべきでないものとは。
──Select──
>君は、未来を考えることを、諦めただけだ。
──────