──午後──
少し集中しきれない頭で、渦中の人である九重先生の授業を聴く。
「せんせー、なんか面白い話してー」
「ええっ!?」
数学の授業に飽きたのか、唐突に前列に座る生徒が九重先生に向かって無茶振りをした。
それを受けた先生は、動揺を見せつつも、そうだなぁと考え込む。
「あ、そうだ。こういうのはどうかな?」
人差し指を立て、彼女は口を開いた。
「みんなは海に行ったことがあるかな? 水平線って見たことある?」
首を傾げる人が数人。恐らく水平線という単語にピンときてないのかもしれない。
自分も海に行ったことはないので、その単語を知識として知っているだけだ。
「地球は球体だから、いくら海みたいに遮蔽物がない状態でも、遥か遠くにある大陸とかを見ることはできないの。その肉眼で視認できなくなる境目のことを水平線って言うんだけど、私たちの目から見た水平線って、いったい自分からどれくらい離れているか計算する方法って分かるかな?」
「えー、結局数学の話じゃん。海の話かと思った~」
「まあそこは授業だから……どうかな、皆?」
水平線までの距離、か。どうやって求めるのだろうか。
……周囲の動向を伺うものの、誰も手を上げない。
「うーん、少し難しかった? 一応とある数字さえ分かれば、中学生の頃に習った公式を使って解けるんだけど……あ、じゃあそれが何かを考えてもらおうかな。……うーん岸波君!」
「!? はい」
名前を呼ばれる。いまいち集中できていないことを見抜かれていたのかもしれない。
彼女はまっすぐこちらを見詰め、にっこりと笑った。
「それじゃあ今から3つ選択肢を言うね。どれが分かれば水平線までの距離が求められるか考えてみて?」
選択系か。一から考えるよりは簡単だし、最悪当てずっぽうでも可能性はある。
さて、その選択肢とは。
「自分が海岸に居るとして、海面から一番深い海底までの距離、自分の足元から地球の中心までの距離、現在地から見えていない対岸までの距離。さて、どれでしょう?」
──Select──
海面から一番深い海底までの距離。
自分の足元から地球の中心までの距離。
>現在地から見えていない対岸までの距離
──────
対岸までの距離、か?
それが分かれば比とかを使って考え出せそうな気もするけれど。
「うーん、残念! 正解は、自分の足元から地球の中心までの距離だね」
……違ったらしい。
「まず地球を円として考えられるかどうかが、この問題で一番大事なんだ。円として意識すると、自分の足元から地球の中心までっていうのが、地球の半径って言い換えられることに気付けると思う。当然おなじ円周上にあるから、地球の中心から足元までの距離と、中心から水平線地点までの距離は同じになるよね。あとはもう1つ、自分の目線から水平線まで直線を引くと、この直線が円の接線になる、ということは何が言えるかな?」
「……円の中心から接線へ伸ばした線は、直角になる」
「その通り! あとは中心から足元に伸びている線を伸ばせば、目線とぶつかって直角三角形ができて、三平方の定理が使えるようになるんだ。あとはみんなの目線の高さを含めれば、2辺の長さが分かるようになって、最後の1辺である目線から水平線までの距離も算出できるようになるんだよ」
なるほどな。
身長によって、見える距離が変わるのか。
「……トワせんせー、高身長のカレシ作ると大変だね」
「水平線までの距離が変わって困ることは多分ないかな」
それはそうだ。
「多分、みんなも高校入試の時にたくさん三平方の定理と相似の図面を解いたと思うけれど、こうして色々な距離とか大きさを測る時に使えるんだ。っていう話なんだけど、どうかな? 面白い?」
「結局数学の話じゃんつまんなーい。高身長のカレシとの価値観の食い違いの話してー」
「ありません」
どうやら最初に面白い話を求めた生徒は、本格的に数学から逃れたかったようだ。
とはいえ先生も授業中にそんな脇道に逸れすぎる訳にもいかないのだろう。話しかけてきた生徒に、それから授業を脱線させたとして全員に謝り、授業を再開した。
──放課後──
────>杜宮総合病院【病室】。
「そう、九重先生が」
放課後になって面会に訪れると、柊と璃音は起きていた。
取り敢えず、苦しそうな様子や、何かに耐えているような感じはしないので安心。
医者の診断結果も、そう回復まで時間は掛からないだろうとのこと。そればかりは、事前に回復スキルを使って傷を治していたのが大きかったようだ。
「それで、どうするの? 岸波君」
「先生の出方次第、といったところだな。一応幾つか落としどころは見つけたつもりで、交渉役を今派遣している」
「交渉役? って、ああ、時坂クンか。ここに居ないってことは空ちゃんも?」
「ああ。念のため2人で行ってもらった」
本当は全員でお見舞いに行く予定だったけれど、九重先生に対する対応は早い方が良い。交渉に当たる人選は自分的には妥当だと思う。付き合いの長い洸に全体的な舵取りを任せ、優等生かつ個人的な付き合いもある空にフォローに入ってもらう。
「まあ、妥当な判断ね。時坂君1人だと、九重先生の要求を丸のみしてしまうかもしれないし」
「いや、そこまでは思っていないけれど」
「正直僕も柊センパイに同意。幼少期からの付き合いなら、だいぶ弱みも握られてるだろうし」
「あー、ありそう。時坂クン、善意からの提案とかには弱そうだよね」
「その点、不利な流れを熱意で押し切れる郁島が居るのは、やりやすくなるんじゃねえか?」
祐樹と璃音、志緒さんが柊の意見に反論しないあたり、みんなの洸に対する認識が伺える。
まあ自分や美月も丸呑みとは言わないにせよ、押し切られることはあると考えた。だからこそ空を同行させている、という面は確かにある。
とはいえ洸本人にも伝えたけれど、これは決して彼を信用していないわけではない。
洸という人間を自分が評するのであれば、筋を通せる人間だ。加えて人の為に動ける優しさを兼ね備えており、意固地にならず柔軟な人間でもある。
という長所を見た時、璃音が言った通り、善意から来る忠言や提案を彼は重く受け止めてしまう可能性がある。それを下手に断ろうとして、責任感や重荷を背負わせるのも避けたい。
空に同行してもらったのは、決して1人に決断の責任を負わせないという自分たちの意思表示であり、先に述べた通りにいざという時の舵取り役を任せたかったという面もある。
まあ九重先生自身の出方が読めていない、というのもあるけれど。
「……ん?」
ポケットの中でサイフォンが振動した。
桜の反応、ではないだろう。彼女は今回、何かを言える立場にはないので黙って聞いていますと事前に報告されていた。
彼女自身には、巻き込んだ人間として自責の念があるのかもしれない。
そんなことはないと言っても譲らないので、仕方なく自分たちもその言い分を尊重し、彼女に発言を求めないことに決めた。
故にこの振動は、何らかの受信。タイミング的に、内容はここに居ない彼らの話し合いについての報告だろう。
全体へのチャットが飛んでいるのか、みんなも次々とサイフォンを開いていく。
自分もメッセージの内容を確認してみることにした。
『C案になった』
洸からの送られてきた、簡潔な一文。
交渉に臨む前に考えていた3案のうちの1つで、結論が出たらしい。
洸にとっては、思う所のある結論なのだろう。それは装飾のない短い文からも察することができる。最初に説明した時も難色を示していたし。
まあそこら辺は後で本人と話すとして。
「C案って?」
璃音が説明を求めてくる。
ここに来るまでに祐樹と志緒さんには話しているけれど、当然この2人にも説明しないと。
「A案が、九重先生に“見て見ぬふりをしてもらう”という考え」
「なるほど。まあ、こちらとしてはそれが有り難いわね。異界に関わることは本来、最低人数であって欲しいし」
「まあ柊や北都の立場的にも、俺たち的にもそれが理想だな。だが、教師って立場でそんなの、見過ごせるワケがねえ。オレ的には正直通らなくて良かったとも思ってる」
「あたしも正直ちょっと安心した、カモ。ホントはダメなんだろうけど、トワ先生なら生徒を見捨てないと思ってたから」
……それは、ちょっと違うな。
「一応言っておくけれど、見て見ぬふりをするっていうのは見捨てたことにはならないから。積極的に異界に関わろうとしないでもらう、って言い方の方が良いか」
「ま、僕の姉さんみたいに、遠巻きに見守ってもらうっていう表現が一番妥当じゃない? 事情だけ理解してもらって、また何かあった時には的確に対応してもらうっていう程度で」
「? 四宮の姉貴がどうかしたのか?」
「ん? ああ、そういえば3年のセンパイたちは知らないのか。まあ後で話すよ。今は柊センパイと久我山センパイへの説明が先でしょ」
そういえば祐樹のお姉さん──葵さんには、そういう対応で居てもらっているのか。
自分たちに助けられた形になった彼女は渋々ではあったけれど祐騎や自分たちの活動を認め、見守ることを選んでくれた。
それは単に、祐騎が前を向いてくれたことに対する感謝だとか、邪魔をしたくないという気持ちもあったのだろうけれど。
……見守る。そうだ。見守ってもらうという表現は、良いと思う。流石祐騎。
「それでB案は?」
「もうしません作戦」
「は?」
「危ないことはしません、と九重先生に約束して、裏でコソコソと動き続ける作戦ですね」
「……ちなみにこれ、誰の提案?」
「私です」
「……」
聞いたわりに璃音は無言だった。ですよね、という表情はしていたけれど。
まあこれに関しては良心の呵責に悩まされるという欠点に目を瞑るだけで済む。……正直、積極的には取りたくない判断。
「まあこの案に関しては、九重先生が、“絶対そんな危険なこと認めないからね”と主張してきた時に限る感じだな」
「あー……そういうコト。確かにそう言われたら逃げ場ないか」
「わたしやミツキさんからすれば、まだ望ましい選択肢ではあるわね。尤も、異界に関わろうとしないでいてくれるなら、どんな結果でも万々歳なのだけれど」
「そうはいかなかったみたいですけどね」
美月は残念そうに首を振った。
柊も、そうだと思ったと溜め息を零す。
どうやら薄々察していたらしい。
「それで、C案の内容は?」
「裏方として支えてもらう、という感じの案だな」
「? 見守ってもらうのと何が違うの?」
「教師として、私たちの味方になってもらいます。動きやすいようにサポートしてもらう、ということですね」
より直接的に関わってもらうことになる案。当然、危険から遠ざけたい洸は難色を示した。
とはいえこれは半分、折衷案のようなものでもある。九重先生のような優しい大人にとって教え子のみに戦わせるのは心苦しいだろう、という見方から、ならいっそ全面的に支援してもらおうという悪知恵。
発案者は言うまでもなく美月だ。
「具体的には私たち同好会を、“九重先生を顧問とした部活動”に昇格させる形ですかね。今までは同好会として誰の認可もないまま自分たちの責任で行動してましたが、今後は部活動として、学校の承認を得ている体で動けるようになるでしょう」
「あの、それだと何が変わるんですか?」
「調査の際に堂々と名乗れますし、今後は遠回しに聞いていく必要もありません。『杜宮高校の者です。部活動の一環としてこの件を調査しているのですが、知っていることを教えて頂けますか?』という直接的な質問をしても怪しまれなくなるということです」
「でもそれって責任を学校に押し付けるってことですよね?」
そこまで言うと、璃音は自分の方を向いた。
「……キミは、それで良いの?」
「良い訳がない」
それは、自分の立てた誓いにも反してしまう。
正直、仲間として責任を分け合うという考え方で、自分を誤魔化していることも事実だ。
本来、異界化は一般人から見てただの不可思議現象。台風や地震による天災が起きたことに責任が生じないのと同じで、責任の取り様がない。だから“誰か”が失踪したことや、助けられなかったことに対して、九重先生には何の責任もいかないはずだ。だから核心的には、助けられなかった場合の責任は自分たちが取ることになる。
しかし今後、異界関連で“自分たち”に怪我や何か問題が起きた場合は、部活動中に怪我をする生徒が居た場合と同じく、“部活動中の怪我”として顧問である九重先生にも責任がいってしまう。
特に今回のような病院に運ばれる事態は重い。監督不行き届き、ということに成り兼ねない。
「だけれど、だからこそ自分たちはこれで、“無事で帰る”ということを嫌でも強く意識しなくてはいけなくなったわけだ」
「……そんなの」
「リオン」
そこで口を挟んだのは、意外にも柊だった。
「一旦私の立場は置いておくとして、リオンの言いたいことも分かっているつもりよ。けれどもそこで岸波君やミツキ先輩を責めるのは違うんじゃないかしら。九重先生が自身で仲間になると判断して、責任を負うと言ってきているのでしょう?」
「それは……そうだね。ゴメン」
「璃音が謝ることじゃない。自分たちだって、先生を巻き込むことに両手を挙げて賛成なんてしていないんだから」
全員が黙る。
九重先生の意志を尊重している、といえば、聞こえが良かった。良くなってしまった。
自分たちは九重先生を関わらせたくはなく、九重先生は生徒の危機を見逃したくはない。
だから九重先生には直接的に危険が及ばない裏方に居てもらい、九重先生は自分たちが最悪の状況に陥らないようにフォローする。
両者にとって得があり、思う所もある。丁度いい落としどころ。詰まる所やはり、折衷案なのだ。
「……ミツキさん、トワ先生には、すべて話すんですよね?」
「ええ、後日私とアスカさんと先生で話し合いの場を設け、説明することは約束します。流れによってはまだ否決される可能性もありますが、九重先生がきちんと条件を聞いた上で納得するというなら、ここが落としどころになるでしょう」
「……なら、あたしはそれで大丈夫です」
「良いんだな?」
どこか沈んだ顔持ちの璃音が心配で、つい声を掛ける。
声を掛けてから、否定されたらどうしようと思った。
その思いが浮かんだことが、何かを裏切っている証明なような気がして、苦しい。
「マネージャーみたいな裏方が増えるってことだもんね。……うん、戦わない仲間だと思うことにする」
「……」
「みんなが納得できる結論だというなら、私もそれで良いわ。記憶消去が効かない時点で、完全に遠ざけるというのは不可能だもの。実際拠点と後ろ盾のあるなしは重要だから、確実な損ということもないことだし」
「一応説明しておくと他にもメリットはあります。あの空き教室を正式に部室として登録出来るので、長期休暇も遠慮なく学校に来れますし、後は単純に部費が出ます」
美月の話を聞く。
聞いた言葉が流れていきそうになり、しっかりしろと自分に言い聞かせた。
自分が傷付くのだけは、絶対に違うのである。
「そういえば夏休みはセンパイの部屋だったね、集合場所。まあ悪くなかったけど」
「いつも岸波の部屋ってのも悪いからな。その点は良かったんじゃねえか」
「自分は別に構わなかったけれど」
「まあ集合場所にならなくてもセンパイの家には行くけどね。またやるでしょ、ゲームとか打ち上げとか」
「そうだな。歓迎するよ」
思いつく限り、自然な笑顔を浮かべていたはずだ。
誰も、こちらを気にするような素振りを見せていない。
取り敢えず、誤魔化せたと思って良いだろう。
後は、上手いこと話題が変わってくれれば。
「……あっ、打ち上げと言えばさ! 今回どうする!? 夏休みどこも遊び行かなかったし、ミツキさんの歓迎会も兼ねてどっか行かない?」
「久我山センパイ……僕は遠出したくないからセンパイの家が良いんだけど」
「四宮、お前はもう少し外に出ろ」
「ええー」
上手いこと話題が切り替わってくれた。
明るい話題に少しほっとする。
「そういうことでしたら、皆さん次の3連休とかどうですか?」
「次って言うと、10月の?」
「ええ、予定が合いそうなら、小旅行でもどうでしょう」
全員が予定を確認する素振りを見せた。
自分は特に予定がない。
悲しくはなかった。うん。
「自分は大丈夫だ」
「私も」
「僕も」
「俺も大丈夫だ」
「……」
璃音が一瞬、悩むような素振りを見せる。
予定があったのだろうか。
「予定があるなら無理して合わせなくても大丈夫だぞ」
「……大丈夫。行けるよ」
「本当に大丈夫ですか?」
「はい、用事はありましたけれど、絶対に行かなければいけないというものでもないので」
「リオンさんがそう言うのでしたら……取り敢えず、この場に居る皆さんは行けるということで。まだ時坂くんとソラちゃん、九重先生の確認がまだですから、何か不都合等思い出したら連絡してください。3人とも大丈夫そうなら、本格的に予定を組みましょう。念のためしばらくはそこの予定を空けておいてください」
全員が頷く。
打ち上げか……そうだな。区切りとして大事だろう。美月や桜、九重先生という新しい仲間も増えていることだし。
その後も打ち上げの話を筆頭に他愛無い雑談を続け、暫く時間が経った頃、看護婦さんが来たタイミングで解散した。