『偽典』とある魔神の主神の槍《グングニル》   作:かり~む

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行間 『戦争代理人』の昔日

 牢屋と呼ぶにも憚れる場所だった。

 

 息を吸えば、糞尿とカビの匂いが鼻孔を満たした。内に囚われた者の脱走を阻む鉄格子は腐って赤黒く変色している。窓は一つもなく、今が昼か夜かも分からない。視線を上へ上げれば、濁った水滴がぴちょん、ぴちょんと天井から規則的なリズムで落ちてきた。それらが溜まってできた水溜まりを赤髪は遷ろな目で眺めていた。

 

赤髪(アカガミ)。飯だぜ』

 

 ふいに牢屋の隙間から一欠けらのパンが放りこまれた。

 それを赤髪は緩慢とした動作で掴む。食料がどうでもいいわけではなく、手を動かすという単純な作業すら苦痛になっているのだ。ここ数日まともな食事をしていなかった。必死の思いで指先を動かして、パンを口に運ぶ。

 

 固い。顎の筋肉を使ってかみ切る。このパン一欠けらを食べるのに使うエネルギーとこの小さな不味い小麦の塊を咀嚼して得られるエネルギーはどちらが多いのだろうと、赤髪はぼんやりとした頭で考えた。

 

 唾液はもう殆ど出ないため、パンは固形のまま喉を通り、赤髪はけほけほと激しく咽た。鉄格子の向こう側で、髭面の男がニヤニヤ笑いで自分を見ていた。自分はもはやこの男の自虐心を満たすために生かされているのだ。その事実と男の優越感に満ちた視線は気に入らないが、反旗の意志を言葉に変える気力もない。

 

 ああ、自分はここで死ぬのか。

 赤髪はその事実を理解した。

 理解はできたが納得はできなかった。

 

 当たり前だ。赤髪がまだ10歳の少年であることを差し引いても、こんな暗い地下室で孤独に死んでいくことを納得できる人間なんていないだろう。

 

 

 なんでも自分は崇高な目的の為に死ぬらしい。

 世界に豊穣を齎し、栄華を約束する『女神』。

 その誕生の為に『自分たち』は使い潰されるらしい。

 

 要は実験台だ。

 

 『女神』に施される魔術は過去に類を見ない程、特異な性質を持つらしく安全性も当然保障できない。そんなものをいきなり本命の女神に使う訳もいかず、『女神』を崇拝し、その暗部を担う事を己に課した狂信者たちによって赤髪は攫われた。

 

 赤髪の身体には狂信者の手によって、『全体論』の魔術のプロト版が搭載された。狂信者たちは赤髪の身体を観察することによって、効果や危険性を確認した。最初は大勢いた赤髪と同じ境遇の子供たちも、半数は最初の施術によって死に、残りの半数は魔術の行使の副作用で死んでいった。

 

 だが、彼らの死は無駄ではなかったらしく、遂に『教団』が待ち望んだ『女神』はその身に『全体論』の魔術を宿したらしい。なんともめでたい話だ。子供たちの中で唯一生き残った赤髪にとっては、全く興味のない話だったが。

 

 赤髪はずるずると壁に持たれかかり、最後には湿った床に倒れた。

 病気や怪我といった外的要因ではなく、単純な栄養不足。

 赤髪の役目は既に終わり、こうして誰に知られることなく、地下の牢屋で死ぬ。それが『教団』が定めた赤髪の運命だった。

 

 

 目を開けるのも億劫に感じて、ついには赤髪は瞼を閉じた。もう開けなくなることは理解していた。

 視界の先には黒々とした極彩色の世界が広がっていた。飲み込まれるような漆黒は怖くはあった。が、その世界の向こう側に、死んだ家族が待っている気がした。

 

 少年の精神と身体は、どうしようもなく限界だった。

 生命の終わりが近づいていた。

 

 やがて、赤髪の耳に錆びた金属が擦れ合う音が聞こえた。

 次いで自分をニヤニヤ笑いで見つめていた男の慌てふためく声。

 

 

『ごめんなさい。私のせいで、君をこんな目にあわせてしまって』

 

 幼い少女の声だった。

 その歌うような心地の良い調べに釣られて、赤髪はゆっくりと瞼を開いた。

 倒れた自分を見下ろす天使がそこにいた。

 

 薄暗い地下牢の中でも尚輝く、金の髪。瞳は雲一つない大空のように澄んでいた。

 この世界の不条理を集めたような牢屋には、あまりにも場違いだった。

 

 赤髪は渇いた舌を動かして尋ねる。

 子供とは思えないしわがれて掠れた声だった。

 

『アン、タは?』

『シヴ。君をこんな目に合わせた奴らの親玉です。君たちに施された『全体論魔術』。その完成品をその身に宿した罪深い『女神』です。……ごめんなさい。私は知らなかった。私の為にこんなにも多くの子供たちの血が流れていたなんて。……許してくれとは言いません。でも、どうか償いはさせて下さい』

 

 そこで赤髪の記憶は一度途切れた。

 

 

 

 

 目を覚ますと、赤髪(アカガミ)は『女神』の侍従となっていた。

 

 理解できないことは山ほどあったが、それらを淡々と赤髪は受け入れた。

 そんな彼の主はよく質問を赤髪に投げかけた。それは、無口な赤髪との会話の糸口を何とか掴もうというシヴの苦肉の策でもあるだろう。

 

 だが、何よりも彼女自身が同年代の子供との交流に慣れておらず、どうしても手探りでの会話になりがちだったのだ。大切な『女神』であるシヴは生まれてこの方『教団』の外の景色を知らなかった。

 

 

『君に願いはありますか?』

『強くなりたい。誰よりも。そうすれば、きっと奪われることもなかったから』

『……申し訳ありません。私がもっと早く気づいていれば』

 

 

『聞きましたよ、赤髪。どうやらとてもすごい魔術を身に着けたらしいですね』

『別に。世界を少しずらして、相手の感覚を狂わせてるだけだ。アンタが完成させようとしてる魔術にはとても及ばない。俺のクソみたいな『全体論魔術』じゃ、アレが限界だよ』

 

 

『君に好きなものはありますか?』

『この前、街で食べたハンバーガーだな。アレは美味かった』

『ハンバーガー!いいですね!私は食べたことがありません!今度買ってきてください。期間限定の奴だと嬉しいです!』

 

 

『赤髪なんて、君は随分変わった名前ですね』

『アンタらがそう勝手に呼んでるだけだ。俺にはちゃんと■■■■って名前がある』

『…すいません』

『…アンタはよく謝るな』

 

 

『…アンタはどうしてこんな『教団』の『女神』なんてやってるんだ?ここの奴らなんて皆、アンタを利用して甘い蜜を吸おうっていうクソどもばかりじゃないか』

『…そうですね。私には他に行く所がありませんので。それに私が頑張れば、多くの人が幸せになるのでしょう?それはきっと尊いことです』

 

 

 赤髪こと■■■■がシヴから助けられた1年後、『教団』は壊滅した。

 

 いくつもの魔術結社が手を組んだ大人数の連合の前には『教団』なんぞ、砂上の楼閣にも等しかった。怒りと義憤の炎に燃える魔術師たちによって、『教団』メンバーの殆どは殺害され、その本拠地は彼らがくべた炎に包まれた。それは魔術師たちの心に燃える復讐の炎のようだった。

 

 『全体論』で物理的に世界を動かす『女神』を生み出し、己を害する存在の全てから『自分たち』を守るという、『教団』の哀れな妄執はついぞ形になることがなかった。

 

 

 炎に燃えて灰となった『教団』から赤髪はシヴを連れて逃げ出した。

 シヴは『教団』に祭り上げられただけの無知な少女だった。

 

 彼女は知らなかったのだ。

 己が赤髪を助けて以降も、『教団』は変わらず第二第三の『女神』を求めて、子供たちを攫い続けていたの事を。その子供たちの大半が魔術結社に関わりのある輝かしい未来を渇望された魔術師の卵だった事も。『教団』の目指す豊穣の世界が、あくまで彼らにとっての理想郷でしかなかった事も。

 

 シヴに罪はなかった。

 『教団』に赤ん坊の頃に攫われて、『女神』として育てられた哀れな存在だった。

 だが、『教団』に子供を、仲間を害された魔術師たちにとってはシヴは邪悪な魔女でしかなかった。

 

 赤髪はシヴを連れて逃げて逃げて、逃げ続けた。

 魔術師たちはそんな彼らを執拗に追い続ける。

 

 

 逃避行の最中で、赤髪はシヴの力を借りて、一つの魔術を完成させた。

 

 文字通りの力の譲渡。赤髪の未完成だった魔術は完成を迎え、彼は遂に『全能』の力を得た。それを示すように、彼の真っ赤だった頭髪は豊穣を表す小麦の穂のような美しい金色に変わった。

 

 

 彼は無敵だった。

 世界を繰り、彼は敵をなぎ倒す。夜空に輝く星に確かに彼は手をかけたのだった。

 

 楽しかった。

 強くなることが。

 

 興奮した。

 己の強さに。

 

 

 追っ手の魔術師をすべて倒し、遂に彼は自由の身となった。

 

 

 ーーーーその代償はシヴの死だった。

 

 『全能神』の力は赤髪を守っても、シヴは守らなかった。

 戦闘中の流れ弾にシヴは当たり、彼女はその命を散らせた。

 力の大部分を赤髪に譲渡したシヴには、己を守る術はなかった。

 

 

 誰かを助けたくて、力を求めたのか。

 力があるから誰かを助ける気になったのか。

 

 もはやそれは、分からない。

 すべては全部ぐちゃぐちゃで、答えなんか出る気はしない。

 

 だが、確かなことが一つある。

 赤髪は結局力を求めた。

 

 敵を殴り打ち倒す。

 これ以上ないくらい、分かりやすいシンプルな力を彼は欲した。

 

 

 

 傷だらけのシヴの遺体を抱えて、少年は慟哭する。対照的に赤髪の身体には傷一つついていない。『全能神』の力はそれを許さない。これが己の求めた強さだったのか。違うと思った。こんなものが夜空に輝く星であっていい筈がない。

 

 

 数年後、戦場をさ迷う『戦争代理人』の噂が魔術師たちの間で流れるようになる。

 彼が求めるのは金銀でも地位でもない。欲する報酬は、戦いで得られる『経験値』。己の考える『経験値』にさえ合致すれば、どんな不利な戦場でも臆さず赴く。そんな彼の心境は、誰にも分からない。

 

 きっと、自分自身にだって分かっちゃいないのだろう。

 それでも、進まずにはいられなかった。手を伸ばさずにはいられなかった。

 

 

『なあ、シヴ。俺に名前を付けてくれないか』

『名前?君は■■■■という素敵な名前があるでしょう?』

『そいつは教団に攫われたときに、死んだ。昔の自分と今の俺が同じ人間だとは、思えない』

『…………』

『だから、アンタにつけて欲しいんだ。俺の新しい名前を。アンタを守れるような、そんな名前を。……駄目か?』

 

『いえ、分かりました。…そういう事なら私で良ければ。……そうですね。

ーーーー君の名前はトール。かつて世界を統べた北欧の雷神。それが君の名前です』

 

『…トール。良い名前だな』

『トールは神話においてオーディンをも超える最強の神として君臨していました。……君が誰よりも、世界のだれよりも強くなれますように。夜空に輝く星を掴めるように。私はその日が来るのを願っています』

 

 歴史には残らない不明の『女神』と過ごした少年。

 少年の残骸はとうに崩れ落ちて、『女神』の願いだけがそこに残った。

 

 

 

 とある『戦争代理人』の、その昔日。

 

 




ちょっと、今回の話は後に消すかもしれません。
もしくは場所をちょっと移動させるかも……。


【シヴ】
 『教団』に祭り上げられた『女神』。神話上では美しい金の髪を持つ女神とされトールの妻といわれている。何の神様だったのかは資料が乏しいため定かではないが、一説には豊穣を司っていたとか。

 ミクロな結果を起こすためにマクロな世界をゆがめる『全体論』。その魔術を操る素養を持った少女。『教団』は彼女を使い、あらゆる不幸が自分たちを避けるような世界を目論んでいた。トールの『全能神』の力が日常的な防御として働くイメージ。完成すれば、世界のあらゆる人間は『教団』のメンバーを害することはできない、筈だった。

 トールが操る『全能神』の力は、彼が『教団』に植え付けられた『全体論魔術』のプロトタイプと彼女のそれが合わさった結果生まれたもの。


 という妄想。

 トールには聖人や魔神、神の右席のような特別な体質、才能がないらしいですが、正直彼のふるう『全能神』の力の方が自分には特別に見えました。そこから妄想を膨らませた結果、彼の力の半分以上は彼以外の人間を源としていたんですよー、ってことに。
 

 

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