上条が一人孤独に野球ボールで壁当て小一時間ほど興じると、一人の少女が近づいてきた。真っ白のダウンコートに真っ赤なセーター。首元には鈍い黄金色の円盤を幾つも繋げた珍しい形のネックレスを下げていた。その少女がシギンと周りから呼ばれていた事を上条は思い出す。
クールビューティーという言葉が正に相応しい北欧美少女シギンは、何故か片手にボクサーがパンチの練習で使うようなミットを嵌めていた。
「ヘイ、そこの少年」
パン、パンと自分の拳でミットを叩きながらシギンは言う。
「打ってきてごらんよ」
シギンはミットを構えるが、上条は首を傾げるだけだった。
「はい?」
「何をぼさっとしてるの。難しいことは考えずに、シンプルでいいんだよ。いつも通り、来なよ」
シギンは再度ミットを構える。ニカっと真っ白い歯を見せる。冷ややかな印象を与える外見に反して、人に好かれるであろう溌溂とした笑みだった。
これを殴れば良いのだろうか。上条は内心釈然とせず小首を傾げながらも、とりあえず右手でミットを思いっきり殴った。
体重の乗った右ストレート。
パァァァン!!とミットから軽快な音が鳴った。
ビリビリ、とシギンの身体が震えた。
「ひゅう!良い拳ィ!流石だね。……だけど、まだ改善の余地はある。怪我人って事を差し引いても、無駄が多い。もっともっとシンプルにできる筈」
ミットをその辺に放り投げながらシギンは口の端を釣り上げて言う。
「でも、やっぱり光るモノは持ってるね。私の『助言』を受ければきっと世界を狙えるよ。ボクシングの頂点を私と2人で掴み取ろう?」
「……いや、遠慮しとくよ」
グレムリンが目指すのは、黄金に輝く新世界であって、決して汗と涙が染みこんだライト級世界王者のベルトではなかった筈だ。シギンは落胆した風もなく、肩を竦めた。それを見てやはり冗談だったのだと、上条は判断する。
「そりゃ残念。私がつきっきりで『助言』すれば、パンチで吹っ飛んだ相手がコンクリートの壁を破壊するような……そんな人の限界を超えた拳を生み出せたのに」
「そんなパンチがある訳ないだろ。そりゃ、元から壁がボロボロになってたんだよ。土系の魔術かなんかで。アンタ、シギンで良いよな?」
「うん。私はシギン。グレムリンの『助言役』をしてる」
「『助言役』?」
「そう。私は己では何も為さないし為すつもりもない。ただ、誰かに『助言』を授けるだけ。科学や魔術に囚われずにね」
「魔術師じゃないってことか?トールやイドゥンとは違って」
「だけど、別にベルシみたく元科学サイドの住人って訳でもないよ。……何度も言うけど、私は只の『助言役』。それ以上でもそれ以外でもないからね」
どこにも染まらず、どこにも居場所がない。霞のように曖昧で、その実態を掴ませない。科学サイドに属するのか、魔術サイドに属するのか、それすらも定かでない。ある意味において、シギンという少女は『グレムリン』という組織を象徴する存在だと言っていいだろう。
そんな少女を前にして、上条は嘆息した。
「へえ。凄いんだな、シギンは」
「…………うん、どうして?」
「だって、誰かに『助言』できるって事は、その分野に相当精通してないとできないじゃないか?しかも、それを科学と魔術の両方でできるなんて、よく考えなくてもとんでもない事だと思うけど」
上条の指摘にシギンはぽかんとしたような表情をつくった。
そして。
僅かな沈黙の後、笑いだす。
大口を開けて、狂ったように。
「ふ、ふふふふふ!ふふふふ!ふはははは!流石はヒーロー!モノをよくわかっている!そうだよ。私は凄い!」
がしり、とシギンは上条の両肩を掴む。そして顔をめい一杯近づけた。唇が触れ合いそうになるほどの至近距離。
「お、おう」
「なのに!誰もそれを分かってくれないんだ!私の『助言』で成功したくせに誰も彼もが私の存在を忘れやがる!所詮は助言役だと軽んじる!おかしいね!間違ってる!ふふ、ふふふ!いやあ、親愛の情を込めて当麻ちゃんって呼んでいいかな?『助言』するけど、そっちの方がキュートで素敵な呼び名と思うよ!」
シギンは顔を上条にぐんぐんと近づけ、上条はそれかに逃れようと上体を逸らす。エビぞりとなった上条の腰から、バキバキと悲鳴が上がる。
「………お前ら、何してんだ?」
救いの主は軽薄そうな金髪の男だった。
「こっちにいたのか、シギン。ベルシが探してたぞ。ガスボンベの角度調整の最終確認として『助言』を貰いたいらしい。……ったくこのスマートな俺様を使いパシリにするなんてよ。ま、上手い具合に作業をサボれたからいいか。幻覚専門の俺が力仕事とかふざけてるよな、シギン」
前髪を弄りながら金髪の男はぼやく。
そして、上条をつま先から頭のてっぺんまでを舐めるように見つめる。
「ふうん」
最後に髪をかき上げながら小ばかにしたように鼻で笑った。
「へぇ、何度見てもあの有名な『ヒーロー』には見えないな。覇気ってもんが微塵も感じられねぇし、何よりスマートさが欠片も無い。つまらなそうな男だ」
「いきなり言ってくれるなあ」
上条は苦く笑った。
かつての上条当麻がどうだったのかは知らないが、今の自分は只の人だ。オーラもカリスマも一欠けらたりとも感じ取れないだろう。人に言われずとも、自分が一番よく分かっている。ウードガルザロキの指摘は正しい。故に上条は内心むっとはしたが、それを表に出そうとは思えなかった。
それを見て、横のシギンがため息を吐いた。
「ウードガロザロキ。その他人を見下す癖、やめた方が良い。何度も言うけど、いつか足元を掬われる。具体的には、ぴっちぴちのサーファーみたいな服を着たドレッドヘアの金髪グラサンヤンキーに負けちゃうよ?」
「……なんだそのヘンタイみたいな恰好は?つーか妙に具体的だな」
「あくまで貴方が油断しそうな敵を想定して例を挙げただけ。貴方、頭悪そうな人のことを下に見るでしょ?意識的か無意識的にかは知らないけど。あと、当麻ちゃんはスマートじゃないかもしれないけど、つまらない男じゃないよ。……当麻ちゃん、こっちの頭の中も下半身のフットワークも軽そうなホスト崩れがウードガルザロキ」
「……随分な紹介をしてくれるな、シギン。他人の功績をかすめ取るだけの盗人がよ」
「っ」
ウードガルザロキは口の端を歪め、嘲った。その一言はシギンの何か大事な部分を土足で踏み荒らし、彼女は射殺さんばかりの視線をウードガルザロキに向ける。その反応で彼は一層笑みを濃くする。嗜虐的な笑いだった。
「はっ。何か違ったか?自分では何もできないお荷物が」
「…ウードガルザロキ。貴方がそれを言うの?現実から逃げ出した貴方が」
「あん?」
「『助言』するけど、それ、根本的な解決になってないよ」
「言ったな。小娘が。ここで潰してもいいんだぞ」
ウードガルザロキの顔から笑みが消えた。
一触即発の空気。上条は焦って声をあげる。
「おい、お前ら!?」
激突は、起きなかった。
「――――ベルシが呼んでるんでしょう?」
しわがれた老人の声が響いたからだ。燕尾服を纏った老人。ロキだ。
「元気がいい事は素晴らしい事です。若者とはそうでなくては!しかし!その活力は『主神の槍』の製造の為に向けられるべきでは?間違っても仲間同士で争うために使われるべきではない筈です」
仲間同士、の部分でウードガルザロキは皮肉な笑みを浮かべる。そして軽薄な笑みを再度顔に張り付ける。
「ああ、そうだな。馬鹿らしい。小物に構う必要なんてないわな。スマートに行こう」
「……ベルシが呼んでるんだったね」
「ああ。こっちだ」
ウードガルザロキとシギンはそうして上条の前から歩き去った。上条は安堵の息を吐いた。
長らくお待たせしたのに、短くて本当に申し訳ありません…。
20巻が遂に発売され、3期のビジュアルが遂に公開されましたね!滾ってきました。