上条は窓の傍に立って、その向こう側を見ていた。
外の景色は暗闇に包まれていて、様子を伺うことはできない。ただ、自分たちが山を歩いていた時の積雪を思い出すと、相当振り積もっているであろう事は予想がついた。
食事を済ませた上条はアンドロたちの勧めのまま、風呂を頂いて部屋に案内された。彼が今着ている衣服はいつもの学生服に黒のコートではない。上条の身体には少し大きめのサイズの青色のパジャマだ。アンドロの寝巻を貸してもらったのだ。
「雪、明日の朝には止むらしいわ。『トネリコ』の木はこの村のはずれにある。明日起きたら、すぐに出発するわよ」
「了解」
背後からのイドゥンの声に上条は頷く。
上条たちは、カエルの人形がいくつも並べられた、ファンシーな趣味の部屋にいた。
元々はアンドロの娘さんの部屋らしい。
カエルのデザインは可愛いと気持ち悪いの境界線に両足をかけたような何ともいえないものであり、少なくとも、部屋に何体も置きたくなるような見た目ではない。女の子は皆これを可愛いと思う感性を有しているのか、それとも単にアンドロの娘さんの趣味が周りと違って独特なだけなのか、上条の判断はつかなかった。
だが、漂っている女の子の部屋特有の甘い匂いはどうしようもなく上条をそわそわさせた。女の子の部屋に本人の了承も得ず泊まるなんて、なんだかその娘さんに悪い気がして上条は初め断ったが、悲しいかな、言語の壁により上条の思いはうまく伝わらず、気づけばこの部屋に押し込まれていた。
本棚は半分くらいしか埋まっておらず、並べられている人形たちの間にも不自然な隙間が目立つ。おそらくお気に入りのコレクションは、都会の部屋に持って行ったのだろう。箪笥の上にはシールが沢山張られた写真立てがあって、そこには中学生くらいの金髪の少女とアンドロ、彼の奥さんが幸福そうに笑いあう瞬間が切り取られていた。それを見て上条は思わず微笑む。
振り返ると、そこにはカエル柄がプリントされた妙に子供っぽいデザインのパジャマを着たイドゥンがいた。風呂上がりのためか、白い首元に汗が浮かんでいる。
「これ、アンドロの娘さんの趣味だから。こんな子供っぽいデザインのやつなんか着たくなかったのに、奥さんが……」
お頬に朱に染めながらイドゥンが釘を刺す。
「分かってるよ」
上条は苦笑して、ソファに座りながら言う。
「良い人達だったな」
見ず知らずの人間に食事を振舞って、家に泊めてくれるような人間は中々いないだろう。それとも、上条は過去の記憶がないからそう思うだけで、世間ではこれが普通の行いなのだろうか。
いや、それは違うだろうな上条は思う。
記憶がなくてもそれくらいは理解できる。
上条たちが今、暖かい食事をとった後に、風呂に入り、最後はふかふかのベッドとソファの上で眠ることができるのは、アンドロたちが持っている底抜けの優しさの結果に違いなかった。
「はっ。どこが!馴れ馴れしいだけじゃない!全く、これだから田舎の人間は!」
「その割にはえらく楽しそうに見えたけどな」
「っ!……貴方の目も、馬鹿みたいに節穴ね。……楽しい、だなんて」
「イドゥン?」
「はっ。うるさい。貴方には関係ないわ。…………はあ。冗談よ。馬鹿みたいに傷ついた顔をしないでちょうだい」
イドゥンはそこで息を吐く。
そしてベッドに腰かけて、縁に並べられていたカエルのぬいぐるみを一つとってそっと胸に抱えた。
「ちょっとね。昔いた魔術結社の家族を思い出しただけよ」
それは微笑み、だったのだろうか。
口角は確かに上がっている。しかし、その眼はどうしようもなく悲し気だった。
今はもう取り戻すことのできない幸福な時代に思いを馳せて、少女は語る。
「家族?」
「ええ。血は繋がってはいなかったんだけど……皆良い人たちだった。……私と違ってね。」
そこでイドゥンは横目で上条を見た。
いつもの酷薄な笑みはそこになかった。
「貴方にも家族がいるのよね。会いに行かないの?私が言うのもなんだけど、家族には会いに行った方が良いと思うわよ。会える内には」
その言葉はいつもの彼女には無い真摯さと、一欠けらの羨望が混じっているように感じたのは、上条の気のせいだろうか。
「そうだな。いつか…会いに行かなきゃいけないんだろうな」
「記憶のない両親に会うのはやっぱり複雑?」
「……分からない」
「オティヌスに託す願いはやっぱり記憶のこと?」
「……分からないな」
「分からないことだらけじゃない、貴方。……本当にただの人なのね」
上条は肩をすくめた。
否定はしなかった。
「なぁ、聞いていいか?」
「なに?」
「イドゥンのそこまでして、叶えたい願いって何なんだ?……言いたくないなら、無理に聞かないけど」
「そう、ね。別に隠してることでもないし、いいか」
イドゥンはカエルのぬいぐるみに一度顔を軽く押し付けた。
唇に仄暗い微笑を浮かべる。
「………死人の復活よ。……馬鹿みたいにありふれてるでしょ?」
「それは……さっき言ってた?」
家族のことなのか、という上条の問いにイドゥンは頷く。
「死の原因もありふれた結社の闘争に負けただけよ。世界中にこんな悲劇は星の数ほど散らばっているでしょうね。……それでも私にとってはありふれた悲劇なんかじゃない。私は彼らをなんとしてでも生き返らせたい。何としてでも」
死者蘇生。
それは数多の魔術師が挑戦しながらも、ついぞ完璧な形では無しえていない至上の命題の一つだった。
エジプト神話のオシリス、冥府へ降りたオルフェウス、かつて人々の原罪を背負って磔となった救世主など、死からの復活、若しくは死者を黄泉から連れ出す神話・逸話は古今東西に散らばっている。それらをベースとした魔術も当然存在はしていた。
魂魄の一部を予め切り離し、物質に保存する。
肉体のスペアを用意し、今使っている器が損傷した場合、そこに避難する。
これらのように、疑似的または限定的な死者の蘇生に成功した事例は、幾つかある。しかし、それらの殆どは入念な事前準備の末に、計画的に行われたものだった。偶発的に発生した死から他者の命を救い上げる方法はいまだ確立されていない。
魔神であるオティヌスが繰る魔術の一つに『死者の軍勢』というものがある。
人体の要所に黄金を組み込むことで、腐敗から死体をを守り意のままに操る、死者の尊厳すらも無視した恐るべき魔術ではあるが、それでもやはり、あくまで死体を操っているだけだ。
『無限の可能性』が正負に揺れる不安定な魔神ではそこが限界なのだろう。
魔術の神さえも死者の完全な蘇生は不可能なのだ。ならば只人の身で、それを成し遂げる事は永劫叶わないのは明白だった。
「そのためなら、私は悪魔にだって魂を売るわ」
しかし、それが『無限の可能性』を掌握した完全なる魔神ならば、話は別だ。
少女は足掻く。
隻眼の魔神がやがて創り出すであろう、幸せに満ち満ちた黄金に輝く新世界。
その場所へたどり着くための血に染まった切符を求めて。
◆
夜が明けた。
雪はまだ空からちらちらと降ってきていたが、その勢いは昨晩のそれと比べるまでもない。天気予報によれば、昼頃になると完全に止み、そこからは打って変わって晴れ間が覗くそうだ。不安定な天気だなと、上条は顔を顰める。朝食を手早くとると、上条たちはすぐに出発することにした。
「もう行くのかい?」
「ええ。急がないと。締め切りが近いのよ。レポートを纏める時間も必要だし」
「学校の宿題も大変だねえ。デンマークの新たな観光地候補を見つけて、クラスで発表するだっけ?近頃のハイスクール生は難しい事を勉強してるもんだ。でも、デカいだけが取り柄のあの木が、観光資源になるとは思えないんだけど……」
「昔の自然を残そうっていう機運は何処の国も高まっているものよ」
「ふうん。そうなのか。……確かにアレ、相当前からあそこに生えてるらしいからなあ。爺さんの爺さんが子供頃にはもうあの大きさだったいうし…。まあ、ともかく頑張って!」
勿論、イドゥンは学校にデンマークの『新たな観光地候補』を探すだなんて宿題は出されていない。全部口から出まかせだ。アンドロは不思議がりながらも、一応は信じたようである。
「雪で転ばないように気を付けてね」
アンドロの奥さんが心配そうな顔をつくる。
雪は昨晩で10センチは積もっていた。
「世話になったわ」
「ありがとうございました」
「いいさ。子供を助けるのは、大人の役目だろう?また、困ったことがあったら何時でも来なさい」
◆
『トネリコ』はヨーロッパ全域に広く自生する落葉樹であり、成長も早いため、薪や建築材、木工品など様々な目的の為に伐採され、人々の生活を支えてきた。魔術的側面から言うと、『世界樹ユグドラシル』は巨大なトネリコの木であったという説から、北欧神話を扱う魔術師から触媒として親しまれている。
「あれか?」
「ええ、間違いないわ……!やっと、見つけた……!」
上条たちの視線の先に、巨大なドーム状の木があった。村の外れに、他の木々から離れてぽつんと生えているそれは、どこか寂しそうにも見えたが、あれが『主神の槍』の材料であると言われれば、成程と頷きたくなるような雰囲気があった。
目算ではあるが、高さは30メートル以上はあるだろう。幹は大人2人が手を回してもまだ足りない位に太い。間違いなくトネリコの中でも最大級のサイズ。
イドゥンは雪に足をとられ何度かこけそうになりながらも、そんな巨大なトネリコに駆け寄る。
上条はそんなイドゥンを追いかける。
「はあ。はあ。……良かった。……誰の形跡もない。……これで、私はオティヌスに見放されずに済む」
イドゥンは大きく安堵の息を吐く。
傍にいた上条も思わず同じようにため息を吐いた。
「……オティヌスによれば、目に見える木はあくまでおまけ。その本質は内側に隠された『苗木』にある……。それを覆うように巨大な木が自生して生えただけ……」
上条は何故オティヌスがそんな事を知っているのか、疑問には思ったが今はイドゥンの言葉に耳を傾ける。
「まず、中の苗木まで切り倒さないように、木の表面だけを削って…………は?」
イドゥンはそこで、あらゆる感情の抜けた呆けた声を出した。
視線は巨大な幹を挟んだ向こう側。上条もイドゥンの視線の先を追う。そうして、驚愕のあまり目を見開いた。。
イドゥンたちが来た方向から真逆の向き。
一本に続く足跡が、真っすぐに『トネリコ』の木に続いていた。
「馬鹿なっ!……そんな、嘘でしょ!?」
イドゥンと上条は素早く三木の向こう側に回り込む。
嘘だ。嫌だ。間違っていてくれ。そんな2人の儚い祈りは、無残にも打ち砕かれた。
そこにはどうしようもなく残酷な光景が待っていた。
木の表面がそこだけ削り取られており、内部が覗いていた。
巨大な『トネリコ』木の内側は空洞だった。
地面には何かを掘り返した後があった。
イドゥンが言っていた『苗木』は何処にも見当たらない。
「……ない」
最初は呟くように。
「……ない!ないッッ!」
それは切実な悲鳴に変わり、最後には怨嗟に溢れた怒号となった。
「くそ!やっぱり、オッレルスの奴か?!いや、しかし……」
イドゥンは顔に手を当て、ぶつぶつ呟く。
その眼は何も映していないかのように虚ろだった。
だが。
しかし。
「----良いだろう」
やがて、透き通るような空色の瞳に決意の炎が宿った。
イドゥンは自身の限界を知っている。彼女は、いや『グレムリン』のメンバーは皆人生の敗北者だ。どれほど強大な力を身に着けようともそれは変わらない。そうでなかったら、イドゥンは『グレムリン』なんぞに流れ着いていなかっただろう。
だから、切り捨てる。
大切なものを掴み取るために、あらゆる犠牲を許容して、それでも前に進み続ける。
そういった暗く淀んだ決意の炎だった。
「…誰であっても関係ない。関係ないわ…。足跡が残っている。『トネリコ』の木を持っていった奴はまだ、そこまで遠くまで行っていない。…ははっ!ははは!!やってやるわ。やってやるわよ。私を舐めるなよ。ふざけるなよ。馬鹿にしやがって!」
「……イドゥン?」
「私は『彼ら』をッッ!何としてでも、この世界に呼び戻して見せるッ!」
そして。
ガラスが割れるような音が右手から響くのを上条は知覚した。
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