巻物語   作:一葉 さゑら

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『夢を見た』なんてフレーズが小説のありふれた始まり方としてあるのだから、今も昔も夢というものは人々に『始まり』を連想させるものなのだと思う。『いやいや、予知夢や夢占いという言葉があるように、寧ろ夢が過去のものであるという意識が根付いているんだよ!』と鋭いツッコミを入れる人もいるかもしれないが、まあ、それならそれで良い。

 だって僕が言いたいのは、僕にとって『夢ほど終わりを連想させるものはなかった。ということなのだから。

 

 泣きたくなるほどに終焉で切ないほどに終演。

 

 そんな演目が夢なのだと、少数派を進んで好むことがなくなった今でも感じている。

 夢を見て始まろうが、夢が叶おうが夢に敵わなかろうが結局は夢に終わる。

 人の夢と書いて儚いと読むそうだが、僕からしたらなんとまあ見当違いもいいところだ。

 夢ほど捉えようがなくて、夢ほど囚われるものはない。

 夢は、人を捕える。

 人でなくても捕らえる。

 

 どこまでも身勝手で自由気ままで()らわれない。

 そんな人の終点。

 

 ああ、そう。告白しよう。 僕は夢を見ていた。

 

 それは確か夏のようで冬のような季節だった気がする。

 受験生だった僕は家のようで学校のような場所で寝転がっていた。だらけていたわけでもなく眠いわけでもないのに寝転がっていたのだ。正確には寝転がらされていた。

 

『あら、阿良々木くん。随分愚鈍な目覚めを披露してくれるじゃない』

 

 第一声。

 夢の中ですら、そんなセリフを吐くのが実に彼女らしいのだが、その時の僕にはそんなことに頭を使う余裕がなく、なぜ名前呼びじゃないのかなんて考えていた。

 その方がよっぽどどうでもいいというのに。

 そんなことに気付きもせず。

 

 ふわふわとした感覚。定期的に混じる第三者の視界。

 如実に夢だと教えてくれる現象が現れているにも関わらずそれが夢だと自覚できないのは夢の中だと知ってはいけないだけの理由があるのかないか……。

 

『阿良々木くん。貴方には扇ちゃんという後輩がいるそうね。……だけれどその子、私には見えないのよ』

 

 目の前にいるような背後にいるような、真下にいるような。霧のように曖昧に存在する彼女は冷淡とも取れる口調で熱烈に語る。

 淡々と、爛々と。

 彼女が話す内容はしっちゃかめっちゃかで繋がりなどあってないようなものだった。まるで思いついた言葉をそのまま吐いているような印象。

 

 思いつく。

 

 それは多分、僕が思っていた。

 僕が考えて、彼女に言わせて。

 

(口を濁す……)

 

 なんとなく頭に浮かんだ言葉、離れなくなる。

 濁す、茶色?モザイク。

 目の前にいるような気がする彼女の口元が僕の想像した通りに曖昧に歪んで霞んで濁った。

 

 そうして僕をえも言われぬ全能感が満たした。

 

 夢を見た。

 

 

 だからこそ、起きた。

 

 その日は、意外と、いい寝起きだった。

 

 

 

「す、すまん……久しぶりに帰ってきたばかりなのに迷惑かけるな……」

「ああ、うん……」

 

 久しぶりに帰ったのは僕かそれとも目の前で病床つく男か。明らかに辛そうな表情で、それでも僕を気遣う病人から目を背ける。なんかもう、色々と申し訳なさでいっぱいだ。

 

『タイミングが悪い奴よのう……』

 

 タイミングが悪いのは僕かそれとも目の前で病床につく男か。

 

 うーん。

 多分どちらも僕だろう。

 

『遠山金次』

 聞き出した彼の名前。

 昨晩、遠山はとんでもなく憔悴した様子で帰宅した。突然の登場にどうしたもんかと焦ったが、遠山は一目もくれず風呂にも入らず、着替えるだけ着替えて泥のように眠り始めてしまった。

 泥というか、トロトロに溶けていた。

 

 僕に対するあまりの無関心さにこの世界の僕と遠山の不仲を疑ってもみたけど、とくに何か言うわけでもなく彼に習うように寝た、次の朝。

 

 遠山は三十八度後半の熱を出していた。

 これじゃあトロトロじゃなくてトロ火だよ!なんて冗談が言えないくらい遠山は衰弱していた。

 話す気力もなかったというのも頷けるというものだ。

 病人が怠くて何もする気が起きないのはなんの不思議もない摂理なのだから。

 むしろ、超実践的空手の名を被ったナニカをつい先日修めてしまった彼女のように、高熱を出しても元気百倍な方が逆に心配になる。

  主に人間かどうかが。

 

 ゼエゼエと息を吐く遠山を傍目にどうしたものかと目を瞑る。

 インフルエンザのような流行り病にしては(いささ)か季節外れ過ぎるし、かといってなにかしらの予兆が長期にわたっての発症かと言われたらそうでもなさそうだ。

 なら、考えられる原因は持病からくるものなのか風邪の類かのどちらかなのだが、各々によって対応は変わるためそれとなく聞いてみることにした。

 

「ああ……アリアと白雪のケンカに巻き込まれて海に落ちた」

「……ケンカ?海……?え?」

 

 グッタリげっそりとした顔。

 焦点の合っていない目。

 

 色々言いたかったけど黙々と冷蔵庫にあった冷却シートを貼り付け氷枕を彼の頭の下に敷いた。これが初期刃牙にいそうな設定の妹だったならせいぜい体を拭くくらいで済ませるところだが、あいにく誰とも知らぬような隣人を雑に見舞うことは僕の常識が許さなかった。

 一通りの看病済ませ、リビングに避難する。

 

「……よし」

 

 そして遠山が寝室から出てくる気配がないことを確認。

 用心して用心しすぎることはない、それは去年得た教訓の一つだった。

 

「カモン忍」

 

 呼ばれることは薄々予感していたのか大したラグも生じることなく目をこすりつつも影から出て来た忍はよいしょ、と僕の膝に小さなお尻を乗っけた。

 彼女の尾骶骨(びていこつ)が僕の太もも越しに大腿骨と共鳴した(詩的表現)。

 

「……お早うお前様。儂の場合、遅いようと嘆きたい気分じゃがそれを我慢して他のことを言わせてもらうなら、起き抜け早々儂の尾骶骨に悪寒を感じることなのじゃが……」

 

 忍もぞもぞと小ぶりの桃尻を動かす。太腿に擦れるコリコリとした感触が僕を更なるステージに誘うのはそう遠くない未来なのだと確信させられた。

 くにくにというかムニュムニュというか、くむくむ。

 ふむ、ここには包丁を持つ妹も千枚通しを作る妹もいない。ならばこれはもう──行けるところまで行っちゃっていいんじゃないのか?

 かのルーズベルトも『心ゆくままに生きろ』と言っていたのだ。今の僕に非難も批判もする人はいない!

 世界は肯定している!

 

「儂が否定するわ、このバカチンが」

「バチカン?いつから忍は聖職者になったんだよ」

「吸血鬼にも聖職者にも迫害されるような冗句をいうでないわ」

「いいんだよ、どうせ非難されるのだから……」

「アンニュイな顔して分かりにくいルーズベルトネタを続けるでない、誰に伝わるんじゃ。伝わなさの度合いで言ったら、儂がナポレオンのナポリタンを食った時の反応をモノマネするようなものじゃろ」

「なにそれ見たい」

 

 勿論、ナポリタンとナポレオンは全く関係ない。

 そもそもナポレオンはナポリタンを食べたことはない。

 僕は阿呆な発言をした忍に思わずため息をついて、彼女の尾骶骨を触って改めて挨拶した。

 挨拶に始まり挨拶に終わる一日を心がける、極めて紳士的な心遣いからの行動。

 

「おはよう。忍が健康的に生きているようで嬉しいよ。あと悪いけど、しばらくは昼夜逆転の生活を頼むことになると思う……とそれよりも、今の話聞いていたよな」

「いや、触る必要あった?なあ、触る必要あった?」

「え?聞いてなかった?……しょうがないなあ、遠山の発言に出てきた『アリア』と『シラユキ』についてだよ」

「ねえねえ?なんで触ったの?」

「……だから」

「──ねえ?」

「しつけえよ!話が進まねえだろうが!」

 

 我ながら失礼を棚に上げての言葉だった。八つ当たりよりもタチの悪い、こうなってくるとただの逆ギレだ。

 その後、「──ほう?」という忍の返しから始まる舌戦の末、最終的に僕が平々に頭を下げて許しを乞い『一尾骶骨一肋骨の誓い』を立てて話は進むことに相成る。

 業の深いツーマンセルはコアラ抱っこの状態で第一真肋と尾骶骨を触り合う。

 

「「……えへへ」」

 

 お互い、マジ照れ。

 気持ちの悪い、もういっそ気色の悪い、もう一歩踏み込んで気味の悪いと言われても仕方のない絵面だった。

 こりこり。

 

「……して、それがどうしたのじゃ。そやつらがあやつの知り合い以上に何かあるというのか?」

「疑心暗鬼で過敏になり過ぎだって言われるかもしれないけど、何か引っかかるんだよな。例えば遠山は俺に向かってあたかも知り合いのように『アリア』と『シラユキ』の名を告げてきただろ?」

「それはあやつらがこの世界のお前様と──」

 

 知り合い、ではない。

 その可能性は極めて低い。

 

「それはないと思う。だってこの世界の僕の携帯に『アリア』と『シラユキ』の連絡先は無かったからな。──ということは、だ。その二人の名前は平賀さんの顧客でもく僕と個人的にメールアドレスを交換するような間柄じゃないにも関わらず、あたかも僕が知っているのが当たり前のように話されたんだ。つまりそれは『アリア』と『シラユキ』がこの学校において周知されてしかるべき有名人ということじゃないのか?」

「それがなんの問題があるのじゃ」

「いやいや、この学校で有名になるなんて余程武偵として名を馳せているか悪名高いか人として人気かの三択じゃないか。こそこそ動きたい僕等が関わるべきじゃない」

 

 それに、もう一つちょっとした懸念があるしな。

 

「……ふむ、もしお前様のその推測が正しかったとしても、お前様とそやつらに繋がりはないのじゃから問題はないはずじゃろう?」

「……遠山は『巻き込まれた』らしいから多分『アリア』と『シラユキ』はケンカをするような仲だ。しかも口ぶりからして遠山の前で、常習的に。なら、ルームメイトの僕の前でそれが行われる可能性は大だ」

「痴情のもつれか?」

「あってほしくない可能性の一つだけど、かといって否定するほど低い可能性でもない。実際のところはわからないけど、この部屋で銃やら剣やら暴力満載のケンカなんてされてみろ。僕の目の前でケンカされるくらいならいい、まず間違いなく巻き込まれるぞ」

「めんどくさいのぅ」

「同意するぜ。……だからこそ、この世界の僕もこの部屋を留守にすることが多かったんじゃないのか、なんて邪推するくらいにな」

 

『アリア』と『シラユキ』の性別が男だという意外なオチがあるかもしれないからなんとも言えないが。

 ……いや、それはないか。

 部屋に置かれた、男子寮の部屋にしては可愛すぎる食器や小物や数種類の香水。極めつきにはピンクのスーツケースなんてものが置かれていては誤解しようがない。意識すれば男子部屋らしかぬ甘い匂いが薄く漂っているしこれはもう、確定だ。

 

 しかし、『アリア』と『シラユキ』の性別がなんであれ、同室でワイワイと仲良く三人で話している状況で僕が居辛さを感じないのかと言われたら、それはない。

 世にも珍妙な笑顔でコンビニ行ってくる、と部屋を後にする場面が容易に想像できる。

 気遣いができるわけじゃなく、気後れして。

 友達を増やすのも、友達同士を見るのも。

 

 今となっては羽川の尽力によって無事、なんの抵抗もなく友達を作れる体になっているけど、かつては例によって例のごとく例に漏れず例の理由から友達作りに過剰な拒絶反応を示していたのはいうまでもないことだ。

 ここでの僕がどういう行動理由を伴ってどんな交友関係を築いていたかは完全なブラックボックス(わからない上に触りたくないという二重の意味で)だけど、それでもこうして自分の住む部屋を見る限りそれはロクでもないものだろう。最大の身内贔屓を以ってしても、断言できる。

 

 空の貯金箱、無造作に置かれた預金通帳、保険証。

 

 以上が阿良々木暦と遠山金次の部屋における阿良々木暦の私物である。

『アリア』と『シラユキ』の私物よりも少ない。

 異常、とまではいかないにしろ少なすぎる。ベコベコのカバンを背負った中学生だってまだ部屋に私物を置いてるよ。

 けど、羽川の家庭事情を知って居る身としては本当に、本当に情けない限りだが、僕にはそんな阿良々木暦の断捨離精神が理解できてしまう。

 行動理由は分からなくても、行動原理は理解できてしまう。

 

 ──要は、私物少ない俺カッコいい!だ。

 

 アホらしい、馬鹿らしい、男子寮なのに何を格好つけているのだと散々に言われてしまいそうだけどなんてことはない。それが事実であり、本心である。

 

 そもそも高校二年生の行動原理がまさか高尚な啓蒙書や啓発書にあるはずがない。好んで受け入れるのなんて大体がテレビや雑誌などメディア発信のもので、そう。基本ミーハーなのだ。我ながら情けないことだけど、そのくせ多数派なモノを少数派だと勘違いして取り入れるなんてこともザラだった。

 だけど僕には東京でカバンを持たないことで都会民アピールをするような、そんな自意識過剰かつ浅ましい行動が理解できてしまう。

 

 一度通った道であるし痛い目見た勘違いでもあるから。

 

 無為無食に過ごして遊生夢死になり、最後には走尸行肉になることを良しとする。そんな正義もへったくれもないことを人間の悲願であり人生の本質だと本気で考えていた過去の自分。

 いかに志や理念をこねくり回して自信として設定したとしても学生としてあるべき姿をなしていない時点で人として落第的なのは明白で。

 そう、努力が足りていなかった。

 圧倒的な努力が必要だった。

 

 クラスに馴染む。

 数学以外の教科も勉強する。

 先生を困らせないようにする。

 学校をサボらない。

 学校という構造を、その組織に在籍する意義理由を想像すらせずソレを起こすことが媚諂う優等生であることだと断定して反抗する。

 学生として最低限の努力を怠り最底辺だった僕。

 言い訳のように『正義の活動』に励んでいた。

 

 私物の有無と一見関係なさそうな僕の過去(実際この僕は私物がすこぶる多い)だけど、どちらの僕にも根底にあるのは同じことだし、それは簡単には逃げ出せない人間の欲望である……。

 なんかかっこよく言い過ぎた気がするから言い直すと、ワガママ、ダダ、カンシャクだ。

 全くもって食えない話。

 他人の色恋沙汰よりも食いたくない話だ。

 痛くはあるけど……。

 

 しかし、あんまり過去の自分を卑下することでまた、扇ちゃんのような第二の自分が現れてしまうことを防ぐために不承不承にフォローをいれるなら。

 それは決して今の僕の感性が正しいわけじゃないことだろうか。

 なぜなら『中二病を嫌うのが高二病で、高二病を嫌うのが大二病』なんて言われるくらいに自分の感性はぐるぐると繰り返すものだ。

 

 流行と同じく。

 それこそモードのように。

 

 高校二年生という時代があったからこそ今の僕があるのは否定しようのない事実だし、あの時代の僕だったから忍を助けることができたのもまた事実。無い無い尽くしの僕が戦場ヶ原ひたぎをはじめとする少女達に出会い、仲良くなれたのも、広義的に捉えればかつての僕のおかげとも言えるだろう。

 いや、それは流石に針小棒大か。

 

 過去のおかげで今がある。

 ──こんなありきたりな話を前にもした気がする。だからぶっちゃけてしまうと、今、僕はビクビクしながら生きている。

 今この言動は未来の自分が嫌うのではと恐れていて。

 今この思考が過去と同じになることを恐れている。

 

「いやいや、過去の恥を恥と思うほど非生産的なことはないんだよ。阿良々木くん」

 忍野なら飄々と笑うかもしれないが、未来の僕にそこまでの思考は期待できそうにない。何処かの誰かに過去の恥は恥だと講釈たれてくれること請け合いだ。

 それはもう──

 過去の僕のように。

 現在の僕のように。

 

 現在に囚われる身でありつつ未来と過去に縛られるなど滑稽極まりない。どうやら過去に過ちを繰り返した結果僕はなんとも不自由な人間になってしまったようだった。

 それを人間らしくなった、とは過ぎた一言か。

 だけどまあ、そんな感じ。

 

 やりきれない感じ。

 

 馬鹿と勘違いは死ぬまで治らないが、こういうモノをみせつけられてしまうと本当になんというか……。

 ゴールデンウィークで、羽川のことを格好良いなどと勘違いすることがなくて本当に良かった。

 ただ、ひたすらに安堵する。

 

 ……うん。

 

 私物三つから話がだいぶ飛んでしまったが『アリア』と『シラユキ』に関する推測は大体合っているはず。未だ部屋に眠る羽川の下が上下セットを賭けてもいい。嘘、やっぱ無理。代わりに月火ちゃんの無駄に多いパンツを賭ける。

 武偵高における有名人が何を意味するか分からないけど、例えば直江津高校の神原駿河に対する印象をバレーボール選手だと答えたら、奇異の視線は避けられない(忌避の視線になるかもしれない)。

 だからこそ、有名人と会うのは厄介だ。

 具体的にはまず、上記の通り、他人との会話で名前が上がること自体面倒くさい。

 加えて本人と対話をする事態に陥った時に、実際に会っての印象と噂の印象との差異を抑えた対応をしなければならないことが更に面倒くさい。

 

 その二人が例え、どんな実力者や優良枠であっても百害あって一利なしなことは明白。

 ただでさえ探偵の卵の巣窟なのだ。

 虎穴に入らずんば虎子を得ずとは言うけれど僕たちは虎子は必要としないし、虎の尾を踏んでは敵わない。というか、僕は虎の子(しのぶ)をひた隠する立場だということを念頭に置いておかなければならない。

 

「……登校まであと何分だっけ?遠山の欠席連絡とか必要だよな?それとも今日は特別日程らしいから欠席連絡不要だったりとかってあるのか?」

「登校までは後四十分あまりといったところじゃ。連絡はあやつに聞くしかないじゃろ」

「遠山か」

 

 時折寝室から聞こえてくる咳がなんとも哀愁を誘う。

 多分いいやつなんだろうけど、いいやつだからこそ僕は苦手としていたんだろうなあ。

 テーブルに置かれていた茶菓子の包装を解いては口に入れるを繰り返している忍。綺麗に並べられた正方形の菓子包が8を超えたあたりで彼女はピタッと手を止めた。

 

「……来るぞ」

「なにが?」

 

 渡された忍の苦手な味の最中を口に入れる。朝食うには甘すぎる餡がたまらなく歯の裏をくすぐる。

 なんでもない一言だけど、静かに呟かれるとなんだかとても物騒に聞こえるな。なんて僕が考えていると。

 部屋の中に来客を知らせるチャイムが鳴った。

 来る、とは来客のことだったのか。

 

 遠山の客……多分アリア、もしくはシラユキだろう。話の流れ的に。

 そんな運命を信じるロマンチスト、阿良々木暦は備え付けのインターホンに「誰でしょう?」と声を吹き込んだ。気分は舞踏会の王子様だ。

 

「……あんたこそ誰よ?」

 

 ゼロケルビンの返答。

 けれど、その声はとても愛くるしいものだ。例えるならそう、アニメだったら釘宮理恵あたりが声を当てていそうな感じ。

 美しさは正義の証!

 

「来客が住民の名前を尋ねるってどういうことだよ……。第一声で僕をなじった小学生でも名乗りだけは立派にできていたぞ」

「う、うるさいわね!あんたは部屋の住民じゃないでしょ!いい加減鍵開けないと、風穴空けるわよ!」

「もしもそれを行為に移したなら、僕は可及的速やかに然るべきところに電話をかけるからな」

「ぐっ……」

 

 可愛らしく唸りあげるアニメ声の主。おそらくその顔は可愛くないことになってるだろう。……名前を聞きたいだけなのに、この調子だと彼女を部屋に入れたら僕は殺されちゃうのではないか。

 なんというか、怒りの発端が行方不明な相手には慣れているが怒りの沸点が低い相手は初めてだからいまいち勝手が分からないな。

 勝手なのはむこうなのだけど。

 

 こちらも唸りたい気分だと考えているといつのまにか唸り声が途絶えている。と思ったらまるで地面が砕けたかのような音が響き渡り、更にしばらくして沈黙が空間を上塗りした。

 そして沈黙に浸ること十秒余。

 自分でもなにを待っているのかよく分からなくなって来た頃。

 

「……アリアよ。神崎・H・アリアよ。強襲科2年Sランクの双剣双銃(カドラ)のアリアよ!」

 

 根をあげたのか、埒があかないと踏んだのか。

 甲高い声で彼女が名乗り上げた。

 ここでのポイントは甲高くはあってもつんざくような声じゃないところ。この状態なら月火ちゃんのプラチナ怒判定によるとまだ爆発まで猶予があるらしい。どうでもよいが、当の月火ちゃんの場合、甲高いもつんざくも金切りも通り越して0の次は実行になるため判定が不能なのがなんとも不毛な話だった。

 それにしてもSランク……。

 確か一学校の一学年に一人いれば良いどころか、全国の学校に一人いるかいないかの超優秀な武偵だったっけ。

 つまり頭の良さに換えれば羽川の2ランク下くらい。

 

 ……それは凄い!

 

「神崎……H……ふむ。H(エッチ)な娘じゃな!」

「何言っちゃってんの?」

「なんですって?!やっぱあんた部屋に入ったら風穴よ!私の大切な名前を馬鹿にしてもう許さないんだから!」

 

 にゅっと現れた忍の親父ギャグ以下の一言のせいで、火に油どころかニトロに着火くらいの怒りを不当に浴びせられてしまった。どうすんだよ、これ。甲高いがつんざくになっちゃったじゃん。顔を突き合わせて10秒で印象が決まるはずが、突き合わせる前10秒から印象が地の底まで落ちちゃってんじゃん。

 誤魔化すように遠山に確認を取るといって思わずインターホンから離れた。

 

「やはり女じゃったの」

「やはり、じゃねえよ……僕に恨みでもあんのか!」

「あるに決まっとるじゃろう」

 

 それもそうだ。

 なんだかんだ仲良くしてても春休みの件は未だ和解していない。

 ……油断してれば寝首をかくと宣言されていたとはいえ、まさかのかられ方をされたな。一本取られたぜ。

 さすが、熱血にして冷血、冷血にして鉄血な吸血鬼だっただけある。

 腐っても鬼なのだ。

 やはり人とは相容れない化け物か。

 少し寂しいけど仕方のないことなのか……。

 

「ぱないくらい腹が減ったのじゃ。早くミスドに連れて行けい」

「お前さ。昨日僕に安易なキャラ付けはするなって言ってたけどさ。そろそろ自分が最も安易なキャラ付けに走っていることを自覚したほうがいいぞ。デビューしたての地下アイドルかよ」

「……カカッ」

 

 片方の口角を上げ不機嫌そうに笑うと忍は再び影に落ちていった……。

 いや、なにニヒル気取ってんだよ。

 おまえなんか熱血でも冷血でも鉄血でもねえよ。

 微温湯だよ、適温設定だよ。

 

 そんなこんなでインターホンへと戻る。

 勿論遠山に確認は取っていない。忍と遊んだだけだ。

 遠山に知らせるまでもなく彼女が『アリア』だというのならそれはもう彼の知り合いには違いないし、それにああ言ったのは、ただなんとなく覚悟を決める時間が欲しかっただけだったから。

 つまり、今の僕は覚悟完了、というわけだ。

 嫌に静かな玄関先に向かってすぐに鍵を開ける旨を伝えると共に軽く謝り、玄関へ向かう。

 不思議なことに玄関が内向きに歪んでいたが、そこに触れる勇気を持たない僕は迫真のスルーをかまして恐る恐る鍵を開けた。

 そのままドアも恐る恐る開けたいところだったが残念、外側からのモーメントに負けてしまい、高い加速度を保ったままドアは開けられてしまった。

 

「遅い!インターホンを押す前に鍵を開けなさい!」

「ならインターホンを押す前に来たことを教えてくれ」

 

 教えてくれても開けなかっただろうけど。

 突き刺すような口調が僕に向けられる。

 それは凡そ初対面の相手にかけるべきでないトゲトゲしいものだったが、彼女が武偵で有ることを考慮したら本当に突き刺されなかっただけマシというものか。

 目の前には声に違わず可愛らしい立ち姿の女子があった。

 

「……神崎・H・アリア、さん。で良いんだよな?」

「ええ。同学年っぽいし『さん』はいらないわ」

「なんで同学年だと思うんだ?この寮は学年関係なく適当に埋められているらしいが」

「勘よ」

 

 燃え上がるような赤髪のツインテール。おでこは少し額を開けるように癖のついた前髪が隠している。少し高い鼻にきめ細かい肌、ハーフやクォーターのいいとこ取りのような顔立ちだ。目は口調や印象に沿うようなツリ目、体型は150もないような低身長に違わず寸胴ボディ。

 それはもう、見事な少女だった。あえて小女と評価したいくらいだ。

 こうも可愛い少女然とした武偵ばかりと面識を持つと、武偵高がアイドル育成高校で、武偵とはアイドルを指す因果なのではないのかと勘違いしそうだ。斧乃木ちゃんあたりなら喜んで入学しそうだ。

 

 小さく可愛らしい子供のような少女。

 

 しかし、目の前の小女にそれを伝えようものなら、胸元から少し見える余りにも無意味なブラの紐が雄弁してくれているように、僕の死は免れないだろう。

 大人ぶりたい、とは違う。

 必死さを感じた。

 

「良い勘だな。ホームズにでもなれそうだ」

 

 武偵生が探偵の卵ということで、適当にジョーク混じりのおべっかでゴマをする。それは赤髪から赤、赤から緋色、緋色から『緋色の研究』とあまりにも杜撰な連想からの言葉だった。

 発言後すぐ、現実的な職業としての武偵を志す彼女達に創作物の探偵ジョークは煽りにしかならないのではと思い直した。しかしまあ、実在の探偵ジョークが言えるかと言われればそれは否定するしかないのだが。

 プライドと同時にプロ意識もたかそうな目の前の彼女のことだ。やべえ、撃たれる!と初対面にしてはこちらも中々失礼なことを考えていたのだけど、なぜか急に少女はそわそわし出す。

 

「ふ、ふうん!あんた、見る目があるじゃない!……それとも分かってて言ってるの?」

「……?」

 

 よく分からないが……これはいけるのではないだろうか。上手く行けばこの少女を懐柔できるかもしれないぞ。

 

 いつのまにか僕は『アリア』と『シラユキ』に関わらないと心に定めた目標も忘れ、野良猫をあやすような気持ちで彼女に接し始めていた。

 ホームズジョークは勝負の鍵!神崎だってこんなに殊勝になるのだ。

 そんなかすかな情報を頼りに言葉を選ぶ。

 気分はアマガミの会話モード。

 会話モードといえば、僕は一ヶ月間森島はるかへエッチな話題を振ることに生き甲斐を見出していた時期がある。結局、火憐ちゃんにゲームごと壊されてその習慣は幕を閉じたのだけど、思えば僕の年上好きはあそこから来ているのかもしれない。なんて。

 

「分かっているか?といったかね。『……凡庸な人間は自分の水準以上のものには理解をもたないが、才能ある人物はひと目で天才を見抜いてしまう』君から教えてもらったことだよ、ホームズ君」

「……ふふ。あんた面白いじゃない!台詞を空で言えるなんて、もしかしてひいおじ……相当のホームズのファンなのかしら?」

「お得意の勘で当ててみろよ、ホームズ君」

「馬鹿にしてるならぶっ殺すわよ」

「ええっ?!」

 

 ジェットコースターを彷彿させるテンションの急降下だった。

 モリアーティか?モリアーティネタだからダメなのか?

 それとも『推理』→『勘』の改変がいけなかったのだろうか。

 

 ともあれ、今ので僕の中に眠るホームズ名言集はほぼほぼ底をついたと言っても良い。

 基本的に一文が長い洋物推理小説を相当文暗記するなんて土台無理な話だ。あと覚えているのはワトソンに対する横暴なセリフくらいだし、そんなセリフを並べたところで到底ホームズのように気難しいシャーロキアンの要求を満たせるとは思えない。

 つまりはお手上げ、会話失敗だ。

 

 目の前の少女が、他人からホームズ知識を聞くことに幸福を覚えるタイプのファンでないことを祈りつつ僕は扉に手を掛け家に入るよう告げた。

 神崎は玄関で靴脱ぐ程度には日本に慣れているようで、丁寧に靴を揃えて廊下を歩く。その堂々とした立ち振る舞いはまるで自室に帰ってきたかのようだ。

 実際自室のように扱っているんだろうけど。

 

「ただいまー」

「待て、それはおかしいだろう」

 

 そこまで自室なのか?

 実質じゃなくて実際に自室なのか?

 男子寮とは名ばかりの同棲生活を遠山と神崎は営んでいたのか?!

 

「なによ」

「……手を洗ったらテーブルに座れ」

「いやよ、そんな暇はないわ。あんたも武偵なら分かるでしょ。私はキンジと任務の計画を立てなければ行けないの」

「遠山は熱を出して寝てる。看病以外での入室は禁止だ」

「なら私が看病してあげるわ!」

「原因が神崎だったとしてもか?」

「はあ?何言って……まさか」

 

 神崎は遠山が遺言のように告げた『海に落ちた』事件を思い出したのか、目にも留まらぬ速さで寝室に走り出す。この調子だと寝室に入るなり大声で遠山に絡むことは間違いない。怒ったり笑ったり焦ったりと喜怒哀楽の変化がまるで子供のようだ。

 よくよく考えたら、特にこれといって神崎の暴走を止める理由も止めてあげる利益もないわけだが、この時の僕はまたなぜか変な常識──あるいは良識や善意といった何かしら──が働いてしまいつい無意識に呼んでしまった。

 

「忍!」

 

 瞬間神崎が転んだ。ワックスで輝くフローリングへ頭を打つ音が部屋に響いた。神崎からしたら突然足が詰まったように感じただろう。足がもつれて転んで。Sランクの威厳も何もない、紛れもなくそれは醜態だった。

 事故ではない、意図的に起きた事件だった。

 タネは簡単、吸血鬼の力で忍が神崎の脛を叩いただけだ。

 

「痛った〜〜〜〜!!」

 

 痛いのは叩かれた脛か床と挨拶したおでこか。

 当然どちらも痛むらしく神崎は両手で脛とおでこを交互にさすっていた。キャラ物の絆創膏をあげたい。

 

 結果的には寝室で叫ぶかリビングで叫ぶかの違いとなってしまったがそれでも遠山が出てくる気配はない、結果オーライだ。

 恥を晒した恥ずかしさからか、大人しくなった神崎は再度僕が告げた「席に着いてくれ」の言葉に大人しく従った。

 

「私は神崎・H・アリアと名乗ったわ。今度はあなたの名前を教えなさい」

 

 神崎はどこまでも不遜に僕の名前を聞く。

 聞くというより『要求する』や『答えを見る』といった表現の方が適切であることを隠そうとしないその意思の強さは、僕に初期のひたぎを想起させた。

 ひたぎが儚さ故の強さだとしたら、神崎は自信所以の強さ。それはどちらも凝固な意志で作られたもので、けれどどちらも少し小突けば壊れてしまいそうなほど繊細な脆弱さを内包している、諸刃の剣のような強かさだった。

 勿論、彼女が十七歳だということを考慮に入れるなら、それはとても健全な心持ちであるといえる。ただ神崎は武偵だ。銃を撃ち、ナイフを突き悪を取り締まる立場にある。僕はまだ武偵について何も知らないといってもいい立場だし、神崎の武偵としてのあり方も知らない。公私は分けることは当たり前であることからも一概には言えないことも重々承知しているが、それでも疑問に思ってしまう。

 学生武偵の存在は正しいのか、と。

 奥の部屋で寝ている病人が常日頃から銃を撃っていることにとてつもない違和感を感じているし、目の前の少女から甘い香りとは別に煙たい匂いが漂ってくることに嫌悪感さえ抱く。

 争いがほとんどない甘い世界から来たから。などというベールを取り払ったとしても僕には到底その悪感情を取り除けるようには思えなかった。

 

「阿良々木暦だ。所属、ランクは事情があって言えない。追求は勘弁してくれ」

「阿良々木暦……。なるほどね、あんたが阿良々木暦だったのね」

 

 意外にも得心いった様子のアリア。

 

「僕のことを知ってたのか?」

「そりゃあ知ってるわよ。まさかこの部屋に住んでるとは思わなかったけど。……まあ、あんたその人が有名なわけじゃなくてその様子じゃ自覚がないようだけど、あんたは平賀さんの顧客の選定と管理で有名なのよ。Sランクに最も近い装備科なんて言われる希代の大天才と名高い平賀文はイタリアのベレッタ・ベレッタ並に知名度があるし、かくいう私もここに留学してから真っ先に平賀さんに銃の改良を依頼したけれど『阿良々木くんを通して欲しいのだ!』って断られちゃったわ」

 

 向こうでは深遠な美少女の彼氏かつ大天才を堕落させた男かつカリスマバスケットボールプレイヤーに執心される先輩として有名だったけど、なんだかこの世界の僕も同じような目立ち方──つまり、周りが有名人であることで逆に目立っているということ──をしているようで趣深く感じるな。

 

「それに、殆ど授業を受けずに一人で依頼ばっかをこなしている協調性皆無の武偵崩れだとも噂で聞いたわ。所属科はどこだったかしら……ていうか、同じクラスのくせにもう一月近くもあっていないってあんた、とんだ不良じゃない!家にも帰ってなかったみたいだし、もしかして秘密任務でもやっていたの?」

「……。さあ、それは僕にも分からない。それよりも『ただいま』ってどういうことだよ」

「その辺のことキンジは話してないのね……。えっと、どこから話したものかしら。生徒会長の白雪は知っているわよね?SSR所属Aランク武偵の」

「あー、うん。知ってるよ。遠山と仲のいい──」

 

 我ながら適当なことを言っているものだ。

 もはやこれはバーナム効果に近い何かを感じるな。

 

「あんなの仲がいいなんて言わないわよ!泥棒猫がキンジに依存しているだけだわ!」

「……落ち着いてくれ」

 

 突然ボルテージが上がったな。

 これは本当に忍の言っていたことが瓢箪から駒、正しいのかもしれない。

 そういえば、ここの僕は神崎と面識がなかったようだけどそれならなぜこの部屋を空けることが多かったのだろうか。……まさか遠山といることに過剰な気まずさを感じていたとは考え辛いし(というかそこまで情けない自分を想像したくない)。

 

「そ、そうね。……それで、その白雪が今とある事情で標的者(ターゲット)になっちゃってて、私とキンジが彼女の護衛任務にあたってあるのよ」

「護衛?語弊の間違いじゃなくてか。『白雪』がAランク武偵なんじゃなかったっけ?ならなんで学年トップクラスに護衛をつける必要があるんだ」

「それ以上は守秘義務があるから言えないわ。ま、そんなわけでコヨミには申し訳ないのだけれどこの家を白雪の護衛の城にしているわ」

 

 淹れたインスタントコーヒーを飲み右手で特徴的なピンクのテールをかきあげる神崎。ふしぎと所々の所作が忍に似ているように感じるのはなぜだろうか。

 言いようのない違和感を感じながらも僕は更に疑問を投げかけた。

 

「『城』だっけ?……それにしても城に最も欠かせない城の主が見えないんだけど、もしかして任務は先日に終了していて神崎は後始末に荷物を取りに来たとかなのか?」

「昨晩は色々あって白雪も私も女子寮で過ごしたのよ。そして今日はアドシアードのリハ日じゃない。今は学校まで彼女を送ってきた帰りよ」

 

 アドシアード?

 なにかのイベントか?

 

「──なるほど、大体そっちの事情は分かった」

「そう?ならよかったわ。……次は私の番ね」

 

 獲物を見つけた小虎のようにニヤリと笑う神崎。彼女の目線が彼女自身の足首──さっき忍が掴んだ場所だ──だったので、僕の背中は冷や汗でびっしょりだ。神崎の勘が優れているのはさっき分かったがまさか、もう忍までたどり着いたとか言わないだろうな。もしもバレてしまったら『実はスタンドが〜』と留学生にも伝わりそうなジョークでごまかそう、そう思った矢先、救い主のように遠山が寝室からのっそりと顔を出した。

 

「……アリア、来てたのか」

「遅いわよ、キンジ!」

 

 いつもの癖か、神崎は振り向きざまに悪態を吐く。

 ただ口調に反して彼女の顔はそれはもう、いい笑顔なんだから僕は内心両手を上げるしかない。

 食えねえな。本当に忍の言った通りじゃないか。

 突如世界の気まぐれによって独り身になった僕にはあまりにも酷な光景だ。惨い、と言ってもいい。

 振り向いた彼女は遠山の容体の芳しくなさに顔を歪める。

 

「……と、普段のあたしなら言うでしょうけど、今のキンジは依頼者と関係を持とうとした業が祟って熱にうなされているようだし勘弁してあげるわ」

「……悪い、阿良々木。科目別準備が始まったら欄豹に欠席を伝えといてくれ」

「無視!?」

 

 そう言ったきり意識が朦朧としているのか頭に手を当てて遠山は部屋に戻っていった。

 無視された神崎は唇を噛み締め手に持つカップにヒビを入れている。

 ヒビから漏れる黒い液体。

 日々の鬱憤が溜まっての行動、というよりかは、ここ最近のストレスが響いた様子。もしかしたら遠山と喧嘩でもしているのかもしれない。

 そんな神崎と重ねてしまったのは障り猫を再発した時の彼女だった。共通項が性別くらいしかないように思える位正反対2人がダブついて見えたのはきっと、その原因が同じだからだろう。

 あの羽川ですら自己完結の叶わなかったことがまだ幼さの中からない神崎に解決できるとは思えない。神崎は今、現在進行形でやりきれないどうしようもなさだけが募っているはずで、それはいつ爆発してもおかしくないのだろう。

 

 じゃあ僕が去年同様、神崎に僕が手助けを押し付けるのかと言われたら、それはないだろう。

 何遍も繰り返すようだが僕はこの世界の有名人に関わりたくない。それは僕たちが目立ちたくないという理由だけでない。

 ちょっとした懸念──つまり、誰かと関わりを持つことで僕がこの世界に縛り付けられる可能性があるからだ。それは良く言えば、僕の存在に矛盾がなくなる可能性があるということ。

 

 名前を認知され、存在を認められ、関係を持つ。

 

 これらは元の世界へ帰還するために最も避けなければならないはず。『くらやみ』が現れようが現れまいがどちらにせよ僕等にとっていい話ではないというのはなんとも言いがたい話で、やはりそう考えると早急に元の世界へ戻る手立てを見つければならないと思考がぐるぐるしてしまう話でもあった。

 忍曰く、力が溜まりやすいめぼしい場所は『八九寺』の中にあるらしいがそれは果たして……。

 

 まあ、なんにせよ。去年のように無闇矢鱈に動いて物事を解決するような状況でもない。

 それに僕のことはともかく、神崎と遠山に関してはなんだかんだ遠山があの調子ならなんとかなってしまうだろうことも何となく分かってしまう。

 だから神崎や遠山にどうこう言うつもりも、どうこうするつもりもない。

 人は勝手に助かるだけとは言えども、助けを欲していない者に手を差し出すのはただの道化である。

 驕りを奢りと勘違いしては、いけない。

 だから──。

 

「なあ、神崎。キンジって強襲科だっけ?」

「一時的に転科してるのよ」

「ふうん」

 

 ──だから僕はただ、自分がやはり強襲科所属であったことに軽い目眩を覚えながら彼女に告げるのだった。

 

「ノーベリ」

 

 神崎の手助けをするつもりはない。

 しかしその一言は、神崎が自己解決するにあたって必要な一言だった。


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