殲滅の時   作:黒夢

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九話 吸血鬼

 

 瀬流彦との交信を終えた学園長は、凝り固まった肩を軽く叩き、深々と息を吐いた。

 次いで休む間も無く、机上の麻帆良お手製高性能通信端末から他の魔法先生に連絡を取る。

 

「そちらはどうなっておりますかな?」

『こちらガンドルフィーニです。西地区に敵増援の姿は確認できません』

『葛葉です。東地区にも敵影はありません』

『南地区のシャークティですが、こちらも問題ないですね』

『北の神多羅木。いつも通り静かなものです』

『麻帆良調査統括の明石ですが、現在のところ麻帆良内部に異常はありません』

 

 魔法先生の中でも指折りの実力者達は学園内外の見回り結果を順次報告する。

 その内容に学園長はそれと分からない程度にホッと胸を撫で下ろした。

 

「わかりました。では、先生方は引き続き警戒を厳にお願いしますぞ。何か異変があれば直ぐに知らせ、決して個人の判断で動かぬように」

 

 必要ないとは思いながらも学園長は念の為に釘を刺す。

 魔法先生は総じて正義感が強く、万が一という事も考えられるからだ。

 

「ふう……」

 

 何はともあれ、増援と潜入員が無いのなら目下最大の憂いの種は消えた事になる。無論、最終的な結論を下すには追加の調査も必要であるが、それとて麻帆良の魔法先生が全力で取り組めば短時間で済むだろう。後手に回った状況は、徐々に好転しつつあった。けれど、学園長の瞳に安堵の色は見られない。皺だらけの目元に隠れた眼光は、未だに鋭く虚空を睨んでいた。

 

「……この麻帆良を相手に後続がいないとはのう。随分と、舐められたものじゃ」

 

 胸中に燻っていた憶測が確信に変わる。

 思わず、学園長は普段の孝行爺の仮面を脱ぎ捨て、不快げに吐き捨てた。

 

「ふん。自らの切り札に絶対の自信を持っとるわけか」

 

 ヴァチカンの『聖堂騎士』アンデルセン。

 ヘルシングの『不死の王』アーカード。

 学園長は今の今まで彼等は先遣隊に過ぎず、本陣は別にいると考えていた。如何に彼等が優れた手腕を誇ろうと、単身でこの麻帆良に攻め入るはずがないと。常識で考えて、そう判断していた。

 けれど、違う。ここに至って学園長は己の間違いを悟った。

 アーカードとアンデルセン。彼等は真実本当に殲滅者なのだ。個人とか集団とか組織とか、そんな窮屈な括りなど一切合財無視した、純粋なまでの絶対戦力。ヴァチカンやヘルシングにとっては彼等を派遣した以上、目標の殲滅は当たり前。それ以外の何かをわざわざ用意する必要なんてないのだ。徒労に終わるだけの準備など、そもそも無意味なのだから。

 そんな化物の一翼を、自ら懐に招き入れてしまった。学園長の罪悪感は膨らむばかりである。

 

「不甲斐ない老いぼれの後始末を若者に託すとは……何とも情けない話じゃのう」

 

 肩を落とす学園長は、おもむろに机上に散らばる書類の一枚を手に取った。

 それは三日前、教会から送られてきた神父派遣要請の報告書。この報告書が届いてから僅か三時間後、アンデルセンは偽名を携えて麻帆良の地を踏んだ。もし、この段階でアンデルセンの正体を暴けていればと思わずにはいられない。しかし、いつまでも悔いているわけにはいかなかった。過ちは行動を以って雪ぐしかないのだから。

 

「さて、次は……」

 

 学園長は募る心労を気にも留めずに各方面へ指示を飛ばそうと老脳を廻らせる。

 その時だ。机上の通信端末の光点がピカピカと点滅し出したのは。すぐさま学園長は端末に手を伸ばし、回線を開く。

 

「だれ……」

『学園長! 大変です!!』

「……何事じゃ?」

 

 問い掛ける学園長の言葉を遮り、荒げた声を出すのは魔法先生の一人である弐集院光だ。何事にもマイペースな弐集院が、ここまで感情を顕にするのは珍しい。その唯ならぬ様子に学園長も気を引き締める。しかし、次に弐集院が発した言葉は学園長をして予測不可能なものであった。

 

『そ、それが、学園のシステムが何者かのハッキングを受けています!!』

 

 思いも寄らぬ報告に学園長は目を剥く。

 

「なんじゃと!? ヴァチカン……いや、ヘルシングか!?」

『わかりません! ただ、ハッキングの発信元は学園内です! 現在は詳しい位置情報の確認に尽力していますが、絶対的に人手が足りず、防戦一方です。このままだと相手を特定するよりも早くシステムの中枢を掌握されかねません!』

「なんと……」

 

 学園の警備に動員可能な人手をギリギリまで回したツケが、最悪の形で巡ってきた。旧世界最高峰の電子防衛障壁を誇る麻帆良のシステムが狙われるとは予想の埒外、まさに意識の空白を突いた必殺の一撃だ。

 

(相手は麻帆良の現状を知る者か!)

 

 歯噛みするが、今はとにかく時間が惜しい。学園長はすぐさま指示を飛ばす。

 

「……何人かの魔法先生をサポートに回して、ワシも此処から電子精霊の制御を手伝おう。すまんが、それで何とか凌いでくれんか?」

『わかりました。やれるだけのことはやってみます!』

 

 勇んで告げて、弐集院は通信を切った。

 次から次へと巻き起こる不測の事態。学園長は眩暈を堪えるかのように額に手を当てる。

 

「これは、マズイのう」

 

 このタイミングで自身の行動が封じられた。その事実は学園長の秘策、エヴァを救済する一手を阻害されたも同然である。かといって、ハッキングを放置すれば麻帆良のパイプラインが敵の手に落ちる。麻帆良を預かる者として、絶対に看過できないシナリオだ。

 エヴァへの支援と、麻帆良の安全。優先順位は、決まっている。

 

「すまん、エヴァ」

 

 苦渋に満ち満ちた学園長の呻きが、室内に広がる。学園長は胸中に堆く積もる心労に胃を痛めながら、電子精霊の端末にアクセスするのだった。

 

 

 

 

 

 銃声が、静寂を喰い荒らした。

 撒き散らされた残響は闇夜に幾重にも反響して、鳴り止むことを知らない。

 遥か悠久の時を馳せ、日々の営みを優しく、寛大に、慎ましく見守る世界樹。その膝元に満ちる音は本来、子供達の無邪気な笑い声でなければならない。けれど今この時。広場を席巻する音は平常と掛け離れている。

 人喰い鮫より醜悪に。人喰い虎より獰猛に。より容易く。より確実に。瞬きの間に命を奪い去る銃は、吼える声を収めようともしない。一度、二度、三度――断続的に繰り返えされる銃声。落雷にも似た轟音は、必要以上に弾幕のスコールを降らせ続ける。

 不意に。狂犬の叫びが、銃声に重なった。

 

「あはははははっ!! どうした!? いったいどうしたエヴァンジェリン!? ずいぶんと消極的じゃあないか! 私を殺すのだろう!? いつまで逃げ回る!? いつまで私を焦らす!? 私はいつまでオアズケを喰らわねばならない!?」

 

 右手に黒光りする自動拳銃『ジャッカル』を。

 左手に銀色の光沢を放つ『454カスール』を。

 常人が持つべき規格を逸した二挺拳銃を携えながらアーカードは咆哮する。

 攻め立てる弾幕の向こう。射線から逃れる為に絶えず動き続ける小さな黒衣は不愉快そうに「フン」と鼻を鳴らした。

 

「まったく、煩い駄犬だ。メシすら待てずに喚くとは……余程、飼い主の躾がなっていないようだな。いや、こんな狂犬を進んで飼う物好きだ。それに飼い犬は飼い主に似るというし――ああ、そうか。飼い主も、貴様のようなゴミなのか」

「ほう! ゴミというか、我が主を! 威勢は買うが、聞き捨てならんな!!」

「ハッ! 図星を突かれて怒ったか? 駄犬といえど、忠誠心は立派だな!!」

 

 侮蔑と嘲笑を織り交ぜた挑発と同時に、エヴァは苛烈な弾幕から離脱する。直後、一瞬前までいた地面に三つの弾痕が刻まれ、弾け飛んだ。そのまま転がり込むようにして世界樹の影に隠れたエヴァは、内心で悪態を喚きたてる。

 

(チッ! 予想はしていたが、大した威力の銃だ。しかも、恐らく全ての銃弾が法儀礼済み。今の私の魔法障壁では、防ぎ切れそうにないか)

 

 エヴァの記憶に残る場景でもアーカードは銃を所持していたが、あの時とは根本的に威力のケタが違う。特に、黒い銃は製作者の神経を疑う他なかった。あんなもの、どこかの狂人が冗談で作ったとしか思えない。兎にも角にも、銃弾が四肢に掠ろうものなら根元から吹き飛び、腹に当たれば五臓六腑を丸ごと持っていかれかねない。正に鬼に金棒。最悪すぎて反吐が出る。

 

(人間の武器など振り回しおって……吸血鬼なら吸血鬼らしく、己の牙と爪で戦わんか! せめて魔法のような神秘に頼ってこその化け物だろうに)

 

 さり気無く自身を正当化しつつ、エヴァは状況の打開を模索する。

 いざ勇んで挑んだのは良いが、やはり彼我の戦力差は目を覆いたくなるほど絶望的であった。両者を隔てる圧倒的な身体能力の差は、この際どうでもいい。エヴァは最初から肉弾戦の選択肢を除外している。如何に百年の研鑽を積んだ合気道の技があるとはいえ、吸血鬼の怪力を御する確信などエヴァには無い。精々が攻撃を往なすのが限界だろうと早々に見切りを付けていた。かといって魔法使いの本領たる遠距離戦は封印による魔力不足で決め手に欠ける。

 故に勝負を懸けるべきは中距離戦。近からず遠からずの距離を維持しながらの戦闘がエヴァにとって唯一の勝機であったが、その思惑はアーカードの手に収まる二挺拳銃によって早くも御破算の様相を見せ始めていた。下手な魔法よりも威力が高く、かつ連射性に優れた火器の存在はエヴァの行動を完全に押さえ込んでいる。アーカードは吸血鬼としての本領を発揮するまでも無く、人間の利器によって戦局を支配していた。

 

(とにかく、あの銃があるうちは勝負にならん。不愉快極まりないが、このまま逃げ続けて弾切れを待つのが妥当か)

 

 エヴァは憤る胸中を制して冷静に判断を下すと、懐から魔法薬の入った試験管を片手に二本ずつ取り出す。何はともあれ、やられっ放しというのはエヴァの性分に合わない。無駄弾を撃たせるにしても積極的攻勢の結果でなければ納得できないのだ。

 世界樹の蔭に隠れながら、エヴァは気配と銃弾の射線のみでアーカードの立ち位置を確認する。弾幕が途切れた合間を狙い、右手の試験管を手首のスナップを利かせて投げつけ、すぐさま呪文を唱えた。

 

「『氷楯《レフレクシオー》』!」

 

 大気を凍らせ出現した氷の楯はエヴァの姿を覆い隠す。

 それに紛れてエヴァは世界樹の影から飛び出した。このままアーカードに突撃して『武装解除』の魔法を唱えるのも選択肢としては有力だが、そもそも吸血鬼の本領は怪力だ。下手に距離を詰めて、その猛威の圏内に身を晒さすのは危険すぎる。

 だからこそエヴァは撹乱を選択したのだが――浅慮を嘲笑うかのように、幾つもの銃弾が氷の楯を突き破った。

 

「クッ!?」

 

 エヴァは咄嗟に身を縮めるが、風に踊る金砂の髪の一束が銃弾に掠り飛散した。そこに――砕ける氷塊を強引に押し退けて、白銀の銃口が姿を現す。連射の熱で焼け焦げた火薬の臭いのするソレは、正確にエヴァの額を狙っていた。

 ゾクリと。エヴァは全身の産毛が総毛立つのを自覚した。

 理性で判断するよりも早く、経験と生に縋り付く本能が反応する。

 

「『氷爆《ニウィース・カースス》』!!」

 

 咄嗟に唱えた呪文が形を成すのと、引き金が絞られるのは殆ど同時であった。

 銃声と、氷の砕ける音が二重に木霊する。

 

「が、ぐっ!」

 

 呻き声を上げながら、エヴァの躰が吹き飛んだ。

 超至近距離での魔法発動の余波を利用して何とか銃弾は躱せたが、その代償は大きい。本来、投げつけて用いるはずの魔法薬を手中で使用したのだ。魔法の起点となった左腕は砕けた氷によって無数の裂傷が刻まれ、青白い凍傷まで起こしている。痛々しい、ではなく。無残と言うべき惨状であった。

 

「――今のを躱すか。さすがだ。そうでなくてはいかん」

 

 脳髄を焼かれるような激痛の中で、苦悶に美貌を歪めるエヴァ。そこに耳障りな声が届く。冷やされた大気が白く染まり、砕けた氷がキラキラと漂う一帯。その向こうに佇むアーカードは、真紅の赤を強調するかのように歩み寄っていた。緩やかな足取りでエヴァへと近づくアーカードは、楽しげに独白する。

 

「今の貴様は生に縋り付く人間そのものだ。意地汚く、薄汚く、ドロに塗れて汚泥を啜り、それでも生き残ろうともがき、足掻く。死が遠のく化物では持ち得ない生への飽くなき執着。だが――」

「っぐぅ!!」

 

 ゴリッと。おもむろにアーカードはジャッカルの銃口をエヴァの額に押し当てた。

 焼け付く銃口は焼き撥のようにエヴァの額を焦がし、肉の焼ける臭いがツンと鼻孔を刺す。

 

「それだけでは私に勝てない。純粋な人間であるならば、それだけでも私と渡り合えるだろう。だが、貴様は何だ? 貴様は何者だ? 忘れるなよエヴァンジェリン。貴様は否定しようのない完成されたバケモノだ。生に縋り付く。それはいい。それは貴様の人間としての本能だ。だが、バケモノとしての本能はどうした? どこに置き忘れた? それが無ければ天秤は片側に傾き、ただの人間のようなものに成り果てて――この場で終わる」

「っ!!」

 

 痛みすら忘れてエヴァは息を呑んだ。

 この位置。距離。体勢。エヴァを構成する全ての経験が躱せないと結論付けた。アーカードが撃たないなんて御伽噺のような選択肢は存在しない。それは、狂気に犯された紅い瞳が如実に物語っている。キィと。引き金を引き絞る音がヤケにはっきりとエヴァの耳に届いた。

 躱せない。躱せない。躱せない。絶対に躱せない。躱せないから――撃たせない。

 

「……?」

 

 不意に。アーカードの貌が喜悦から不可解そうなものへと変貌する。何故だか、ジャッカルの引き金を引き絞る指がピクリとも動かなかった。怪訝そうなアーカードの眼前に、四つの試験管が舞い踊る。

 

「『氷楯《レフレクシオー》』!!」

 

 轟く声は、覇気に満ちていた。四つ分もの魔法薬によって生み出された氷の楯は、鋭利な矛となってアーカードの右肩に深く食い込み、一息の間に両断する。切り分かれた肩口からはドス黒い鮮血が噴水のように噴き出した。

 繋がりを失った右手はジャッカルを握り込んだまま虚空に投げ出され、あらぬ方向へと飛んでいく。しかし、如何なる不思議か。腕は空中で不自然にルートを変更すると、まるで引き寄せられるかのようにエヴァの右手に納まった。

 エヴァは邪魔な右腕を即座に引き剥がすと、ジャッカルを両手で構えて、お返しとばかりにアーカードの胸に押し当てる。一瞬にして、立場は逆転していた。

 

「見た目通りクソ重いな。支えるだけで精一杯だ」

 

 そう吐き捨てるエヴァの両腕は小刻みに震えて、無理に動かした左腕からは鮮血が滴り落ちる。ジャッカルの重量は一六キロ。とてもじゃないが、今のエヴァでは持ち続けるなど不可能だ。

 クッと。アーカードは片腕を失ったにも関わらず、痛む素振りすら見せずに笑う。

 

「糸、か。死神に感化でもされたか?」

「ふん。生憎と私の方が先駆者だよ。かれこれ百年、研鑽を積んでいる」

 

 タネは簡単だ。アーカードが引き金を引こうとしたあの瞬間。

 エヴァは持ち前の糸を用いてアーカードの指の動きを封じたのだ。

 

「今の私では貴様の指一本を封じるので精一杯だが……さて。以前は試せなかったが、貴様は心臓を吹き飛ばされても生きていられるのかな?」

 

 薄い冷笑を幼い容貌に刻み、エヴァは一切の躊躇無く引き金を引いた。

 響き渡る凶悪な銃声と共にエヴァの矮躯が強烈な反動によって後方に吹き飛ぶ。

 ジャッカルは弾丸を吐き出した時点でエヴァの手元から離れ、今度こそ彼方に飛んでいった。何とか受身を取り体勢を持ち直したエヴァであったが、ガクンと体躯が崩れ、片膝をつく。

 

「チッ……ここまで、とはな。危うく、腕が千切れ飛ぶところだ」

 

 ダランと下げた両腕は、銃撃の反動によって完全に肩の関節が外れていた。下手をすれば、皹が入っているかもしれない。激痛が脳髄を焼く。けれども眼光だけはそのままに、油断なく眼前を見据えている。そこには、胸に大穴を空けたアーカードが身動ぎもせずに佇んでいた。

 胸元から溢れ出る鮮血は滝のようで、足元に血の池を創っている。

 完璧な致命傷。白木の杭の代わりに対化物拳銃の大口径、しかも特性の水銀弾頭を撃ち込まれたのだ。如何に不死身の吸血鬼であろうと、これで滅びぬはずがない。

 そう、滅びぬ、はず、が――――

 

「なるほど。身を以て味わうのは初めてだが、大した威力だ。たったの一発で、私の心臓はグチャグチャだ。私以外の吸血鬼なら、当たり前のように滅びて塵に変えるだろう。流石だウォルター。お前は相変わらず良い仕事をする」

 

 アーカードは、変わらず其処にいた。塵にも還らず、痛む素振りすら見せず、風通しが良くなった胸をそのままにアーカードは一歩、エヴァの方へと踏み出した。

 流れ出た鮮血がビデオの巻き戻しのようにアーカードの肉体へと回帰する。ほんの数秒。それでアーカードは肉体を、ついでとばかりに衣服をも再生させた。カッと。甲高い足音がエヴァの眼前で止まる。エヴァは動けない。いくら気力があろうと、壊れかけた躰は動いてくれなかった。

 

「ハッ……」

 

 掠れたような。呆れたような。そんな微笑を零す。

 エヴァは改めて、万感の思いを込めて。

 

「化け物が……っ!」

 

 この奇天烈な理不尽を、心底から罵倒した。

 

「その通りだ、同胞よ」

 

 アーカードは笑みを深め、誇るように肯定する。

 ゆっくりと。アーカードは緩慢に、エヴァへと腕を伸ばす。ただの子供ですら逃げられる動作に今のエヴァは抗えない。細長い指がエヴァの細首に絡まり、丹念に優しく撫で上げた。

 

「さあ、エヴァンジェリン。『闇の福音』よ。人間の心を宿す化け物よ。貴様はこの状況をどうする?」

「…………」

 

 エヴァは、答えない。

 アーカードは、構わず続ける。

 

「まだ終わった訳ではないだろう? お前はこの程度で狗に成り果てるほど弱くはないだろう?」

「…………」

 

 エヴァは、答えない。

 アーカードは、構わず続ける。

 

「細い首だ。小さな躰だ。だが、それは我々にとって何の意味もなさない」

 

 グニャリと。アーカードの躰が、輪郭が、不規則に歪む。

 大きくなって、小さくなって、太くなって、細くなって、最後には一つの形に落ち着いた。

 そこには黒い長髪の少女がいた。凛々しくも不適な笑みを刻み、厚手の白服が艶めかしい黒髪を際立てる。少女――吸血鬼アーカードは、エヴァと同じ目線で言い聞かせる。

 

「この通り、私には姿形など、この私には意味など無い。私は私であり、私以外には成りえないのだから。それは貴様も同じはずだぞ?」

「…………」

 

 エヴァは、それでも答えない。

 アーカードは、それでも構わずに続ける。

 

「何故、力を封じられたのかは訊かない。何故、人間に溶け込んでいるのかも私は訊かない。私はただ、私の鳴らした闘争の鉄火に応えたエヴァンジェリンという名の殺され、朽ち果てる者に。殺し、朽ち果てさせる者との闘争の契約を遂行しているだけに過ぎないのだから。それとも、エヴァンジェリン。貴様は、貴様自身で、私を殺す事を諦めてしまったの?」

「――――――――おい」

 

 エヴァは、長い長い沈黙を破る。

 その眼光は色褪せる事無く、ただ煩わしそうにアーカードを睨んでいた。

 

「少し、黙っていてくれないか? 煩くて、貴様を殺す方法が思い浮かばないじゃあないか」

 

 ボロボロな躰。白磁のように綺麗だった両腕は裂傷と凍傷で見る影もなく、肩の関節はは外れて動かない。肉体自体も疲労して、マトモに動かすことすら困難だろう。

 だというのに、それでも。

 それでもエヴァの瞳には意志の光が燈っている。

 力強く。決して折れず。不屈の自尊心が絶対の敗北を跳ね除ける。

 それは、まるで。アーカードを殺した、百年前の男達のようで――

 

「く…はっ」

 

 喜悦が、漏れる。過去の場景と現在の場景がリンクする。

 我慢が、できない。胸中で。脳髄で。心中で。爆発する喜びに歯止めが利かない。

 

「あはははははははあはははあはっはははははははははははっ!!」

 

 気がつけば、アーカードはエヴァの首を掴み上げていた。

 

「う、ぐっ!」

 

 苦しげに呻くエヴァは地に足を付けられず、微かに悶えるだけ。

 それでもエヴァは、決してアーカードを睨むことを止めようとはしない。殺そうとする意志を、折って捨てようとはしない。愚直なまでに真っ直ぐ、絶体絶命な今この瞬間ですら、アーカードを殺すチャンスを虎視眈々と狙っていた。

 理想的だ。アーカードにとって、その眼光は正に理想的であった。

 だからこそ――らしくもなく、残念だと思った。喜悦が、スーと引いていく。

 

「……終わりだ、エヴァンジェリン。私が此処で、殺して終わりだ。闘争の契約を遂行して、それで終わり」

 

 淡々とアーカードは終焉を告げる。答えは聞いた。既に生かしておく理由もない。

 つまりは、そういうこと。

 

「愛しき好敵手。愛すべき怨敵よ。選ばせてあげよう。私の血肉となって、共に悠久の時を生きるか、この場で塵芥と化すか」

「……貴様の一部と化すなど、冗談ではない。まして、塵になる気もない」

「そうか」

 

 アーカードは無表情で454カスールを手放して、手刀をエヴァの胸元に向ける。

 せめて最後は素晴らしき同胞に敬意を表し、自らの肉体を以って幕を下ろそうと。

 

「さらばだ、エヴァンジェリン。いずれ地獄で。いずれ会おう」

 

 そう呪いの祝詞を告げて、アーカードは貫手を繰り出す。

 それをエヴァは、ただ見下ろすだけ。まるで時間が引き延ばされているかのような感覚の中でエヴァは貫手を見送る。諦めてはいない。けれど、抵抗しようにも肝心の躰が動いてくれなかった。

 

(チッ……ナギに文句を言うまで、死ぬつもりは無かったのだがな)

 

 ズブリと。アーカードの手先から二の腕が、腹に埋もれる感触が伝わる。締め上げられた喉を這い上がって、口から血塊が零れた。霞む逝く意識の中で、虚ろな瞳は光を求めて街灯を見やる。

 淡く輝く街灯。その光景を最後に、エヴァの視界から光が――消えた。

 

 


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