ベルは鳴った。無邪気に。喧しく。清々しく。
麻帆良の地に鳴り響くベルは今宵の役者が出揃った事を告げていた。
舞台の俳優は自らの役割を演じる為に決められた立ち位置へと歩みを進める。
それは、彼女とて例外ではない。
「…………」
独り。夜の麻帆良学園をエヴァは歩いていた。
その小さな体躯を覆うのは、闇夜に於いて尚も際立つ漆黒の衣。何時かのネギとの決戦で羽織っていたのと同じものだ。不意に妙な感慨がエヴァの胸を過ぎった。あの時は本気でネギの身なんてどうでもいいと思っていたのに、気がついたら師弟関係にまでなっている。
それだけじゃない。エヴァを取り巻く環境にも大きな変化が起きた。
例年通りつまらないはずの学園生活が、ヤケに騒がしく様変わりしてしまった。
(それも全て、ぼーやに関わってからか)
人知れず、エヴァは満更でも無さそうな微笑を浮かべる。
父親に似てか、ネギには人を惹きつけるカリスマ性がある。もっとも、そのせいで女性関係のトラブルとは生涯を通して縁深そうだが、不思議と浮かぶのは凄惨なものでない。どちらかというとコメディのようなドタバタ騒ぎだ。
(まあ、苦難の道にあるのは間違いないか)
クツクツと嗤うエヴァの表情は小悪魔というより悪魔そのもので、それをネタにからかい続けようという魂胆がはっきりと窺い知れた。けれど。不意に、その笑みに影が差す。
「――生涯、か」
エヴァは普段の彼女を知る者なら驚くぐらいか細く、力無く呟いた。
エヴァンジェリンの生涯は、既に終わっている。終わっているのだ。
あの日。望まずに吸血鬼にされたその日に。
この身は死人だ。吸血鬼という名の肉ある亡霊。
現世に縋り付き、生者の血を啜り、日陰を歩く者。
『貴様は、なんのために生きているのか』
脳裏に嘗て投げ掛けられた吸血鬼の言葉が、エヴァの胸中に過ぎる。
あの時の答えを、エヴァは覆すつもりなんて微塵もない。
けれど――本当にそれが正しいのか。何故だか、確証を持てなかった。
「…………」
臭いが、強くなってきた。
鼻を突くヘドロのように醜悪な臭い。
過去に幾度も幾度も嗅ぎ続けたそれは――闘争の、臭い。
「――チッ」
不愉快そうに、エヴァは舌を打つ。
このまま進んで辿り着く場所にいるソイツは、予想以上の化け物らしい。
辺りに充満――いや、ここまでくれば侵食か。漂う空気は血の滑りのようにネバついていて、一種の異界と化している。この先にいるソイツは何の魔力も、気も介さず、ただの存在感だけで世界を変質させていた。
「…………」
怖くないと言えば、嘘になるだろう。
事実、今のエヴァは封印によって、常人と何ら変わらない。無意識のうちに震えるエヴァの指先は、人の根底に根付いた化け物への恐れ故か。それでも歩みを止めないのは、自分の信念の為。誇れる自分であり続ける為。虚偽と虚勢で包み込んだプライド。それを、これからも守り抜くためにも。今この時だけは、エヴァは決して逃げるわけにはいかなかった。
「…………」
幾つ目かの角を曲がると、開けた広場に出た。ついさっきまでいた世界樹前の広場だ。そこには誰もいない。夜中、というのもあるのだろうが、辺り一体を覆う狂気が人を含めた動物を遠ざけている。この場に人気はまったくなかった。なにせ、この場にいるのは化物だけだ。
だからこそ。世界樹の木の下に悠然と佇むソレも、もちろん人ではなかった。
「答えは用意したか、エヴァンジェリン」
眼下のエヴァに親愛の情すら込めて、誰よりも吸血鬼らしい吸血鬼であるアーカードは優しく語り掛ける。
「独りか。それもいい。あの小僧なら十分に私を楽しませてくれただろうが、熟成させた方がより美味しく飲み干せる。それに元々、こんな極東の島国に出向いたのは貴様のためだ。愛しい愛しい同胞よ」
カッと、アーカードは歩を進めた。
眼下に佇むエヴァは無言で、無表情で、無反応だ。
それを狂おしいぐらいの凶笑で迎えて、アーカードは対化物、対アンデルセン拳銃であるジャッカルを懐から引き抜く。小さなエヴァの躰など一撃で粉々に吹き飛ばす化け物のための拳銃は、果たして化け物《エヴァンジェリン》に銃口を向けた。
「約束だ。約束どおりに私は訊くぞ。三〇年前の約束どおりに、私は貴様に詰問するぞ。エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。貴様の生きる目的とはいったい何だ。私は闘争に生きている。他者を斃し、殺し、蹂躙し、血液を啜り、魂を私の脳裏に刻み付けて生きている。何故なら私はそうあるべきだからだ。そうある事が当たり前だからだ」
幾百幾千あるいは幾万の命すら一身に抱え込んだ哀れな吸血鬼は、常に纏っていた一切の狂気を消して、涼しげに言葉を紡ぐ。ただ一心に、自己の全てを広げるかのように。
「貴様の存在理由はなんだ――貴様は、なんのために生きている」
それは既に質問ですらなかった。
アーカードにとって、これはただの確認事項。
先延ばしにしていた回答を聞いているだけに過ぎない。
「……ふ」
その姿を、突き付けられた銃口を見据えて、何故かエヴァは穏やかな笑みを零した。
ネギ達には強がって見せたが、やはり対峙する吸血鬼はどうしようもないぐらい強大。そもそも全盛期の時ですら斃し切れなかった相手だ。出鱈目というカテゴリーではサウザンドマスターすら凌ぐ最悪にして最狂。
「……ふはは」
だというのに、エヴァは笑っている。
胸中を占めていた恐怖が一気に薄らいでいく。それが吹っ切れた為なのか、それとも単に開き直っているだけなのかはエヴァ自身ですら判別できなかった。ただ一つだけ確かなのは、アーカードの答えを酷くバカバカしく思えた事だけ。
闘争に生きている?
他者を斃し、殺し、蹂躙し、血液を啜り、魂を脳裏に刻み付けて生きている?
それが――当たり前だと?
「ふははははははっ!!」
ついにエヴァは耐え切れず、大声で笑った。嗤ってやった。
くだらない。実にクダラナかった。あまりにも吸血鬼らしくて、逆にエヴァは拍子抜けしてしまう。そんなどうしようもないぐらいクダラナイ事を自慢げに語るアーカードが、可笑しくて可笑しくて仕方がなかった。
「あははははっ! ふふっ、吸血鬼しか知らない吸血鬼が。なんだ。貴様の方がよっぽどつまらないじゃあないか」
エヴァは胸を張って一歩を踏み込む。最早こんな吸血鬼など恐れるに値しなかった。
エヴァにとってはこんなちっとも変わり映えのない吸血鬼などよりも、日々移り変わる日常の方がよっぽど恐ろしい。ああ、気づいてみれば簡単だった。
「何のために生きているのかだと? 何を今更。私は三〇年前に、あの満月の夜に確りと答えたはずだぞ。私は生きたいから生きているのだ。それ以外に、答えなどありえん!」
力強く、はっきりと。エヴァは真紅の吸血鬼に向かって咆哮する。
胸中で思う。そうだ。自分は死ねない。今の自分はあの時とは違うと。無念も、遣り残した事も出来てしまった。それを叶えずして、どうして死ぬ事が出来るだろうか。
「私がお前に殺されるんじゃない。お前が私に殺されるんだ!!」
全力を出す事ができず、『魔法使いの術者』もいない。
それでもエヴァの瞳は壮絶な輝きと共に物語る。
最強の吸血鬼を――この脆弱な身を以って打倒すると。
「――素晴らしい」
その無謀な宣言を前にアーカードは怒るわけでもなく、むしろ心より歓迎するかのように口元を喜悦に歪めた。そして、アーカードもまた、優しげに返す。
「人間でも、吸血鬼でも、あの婦警のような半端者でもない。完成され、洗練され、私すら認めるバケモノの貴様が、人間の心で私を斃すというか!? ははっ、何ともソソる申し入れだな!!」
「フン! 論点を移し変えるな。この私が。貴様を。殺す。たったそれだけの事だろう?」
「くくっ、そうだな! ああ、その通りだともエヴァンジェリン! ならば始めよう! 貴様の望む! 私の望む! 心踊り肉踊る! 楽しい楽しい闘争を!!」
「ああ、存分に楽しめ! 貴様にとっては最後の殺し合いだ。せいぜい無念を残さぬことだな!」
獰猛な笑みを浮べ合う二匹の鬼の闘争は――銃火を以って、開幕した。
短いので、もう一話を十二時に予約投稿しておきます。