殲滅の時   作:黒夢

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五話 宿命

 

 

 突如として響いた声は、闇夜にしっとりと浸透した。

 その声音だけで広場に満ちていた緊張を懐柔し、調教し、服従させ、瞬く間に己の支配下へと置く。その有り様は、舞台上で観客を魅了する演者のようでさえあった。

 声の出所はアンデルセンの背後。エヴァ達から見て左手側の屋根の上だ。

 闇夜に冴える紅き人影は、月光をバックに悠然と佇んでいる。暗がりの隙間から微かに覗く口元は、堪えられぬ喜色に歪められていた。けれど何より特徴的なのは、闇でさえ掻き消し切れぬ紅い瞳。爛々と輝くソレは地を這う下々の全てを見下している。否。その場にいるただ二人だけを見下ろしていた。

 

「この、声は……!?」

 

 思わず漏れ出た声は、エヴァ自身が驚くほどに擦れていた。

 覚えている。この声を。忘れられない。絶対に。

 衝動に駆られ、敵対する狂信者が眼前にいるにも構わず、エヴァは見上げた。

 裏切られて欲しいという幾許かの希望を秘めて、その屋根の上に立つ紅い人影を。

 

 そして――現実を前に身を硬くした。

 

 暗がりに隠れ、ぼんやりと見える顔立ち。

 口が裂けて広がり、切っ先が露出する犬歯。

 真紅の双眼に燈る無限の狂気。

 

 疑う余地は無かった。

 否定する隙も無かった。

 

 それは真祖の吸血鬼『闇の福音』と同様に、最強と称される同属。

 それは首を刎ねようと絶対零度の氷に閉じ込めようと幾度と無く蘇る不滅の同属。

 それは英国王立国境騎士団、通称HELLSING機関に飼われる吸血鬼殺しの同属。

 出会いたくない部類に含まれる、嫌悪すべき同属であった。

 

 ニタァと。アンデルセンは、心成しかエヴァとの会合を果たした時よりも嬉しげに口先を歪に裂いて、ソレの方へと向き直る。そこにエヴァに対する警戒は無かった。アンデルセンは、まるで旧知の友人へ話し掛けるかのように告げる。

 

「今日は遅れて来ないのだな? ベイドリックの時のように遅れては来ないのだな?」

「当然だ。あの時とは食事の質がまるで違う。食い気の無い三流ランチ程度ならいくらでも譲ってやるが、極上のディナーを譲ってやる気は無いよ。そしてお前はデザートだ。メインデッシュを喰らってからたっぷりと相手をしてやる。だからそこで石のようにじっとしていろ――神父アンデルセン!!」

「立ちっぱなしの奴が吼えるな。座れる席はただ一つ。どうしても食事にありつきたいんなら俺を椅子から蹴落としてみろよ。ええ!? 吸血鬼アーカード!!」

 

 今宵の乱入者達はお互いを見据え、獰猛に喉を震わせながら神聖の狂喜と魔性の狂喜を激突させる。辺りは瞬く間に、一切の正常を欠く異界と化した。

 

 

 

 

 

 辺りに満ち満ちる狂気。

 狂気、狂気、狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気。

 常軌を逸する狂人達の瘴気は、容易く人の心を犯していく。その侵食は、如何に優秀であろうと所詮は一〇歳の子供に過ぎないネギに抗い切れるものではなかった。

 

「い、いったい何なんですか……何なんですかっ!? この人達は!?」

 

 ワケのわからない者達によるワケのわからない恐怖に切迫させてネギは叫ぶ。

 そうする事でしか恐怖を払拭できないから。そうしなければ心が折れてしまいそうだから。

 ネギは自衛の為に、混乱と困惑と混雑を混ぜ合わせた悲鳴を上げた。それを叱責する者は誰もいない。誰も彼もが自分の事で精一杯であるが故に、ネギを気遣う余裕は無かった。常日頃からネギの舎弟を公言するカモも、この時ばかりは己の思考を優先させた。

 あの紅い男の名に、何か引っ掛かるものがあったから。

 

『アーカード……それに吸血鬼だって? 確か、エヴァの姉貴をまほネットで調べてた時にそんな名前が出てきたような気が……』

 

 辿るのは麻帆良で最も古い記憶の一つ。

 ネギの為に調べ上げたエヴァンジェリンの情報。その際に見掛けた一つの名前。記憶の海に沈んだソレを何とか掬い上げようとカモは小さな頭脳をフル回転させ、必死に潜水を続けていく。もっと深く。もっと深く。もっと深く。もっと――。

 

『あっ!?』

 

 砂に塗れた記憶の海底。ソレはようやく網に掛かった。

 

『お、思い出したっ! アーカード!! イギリス最強の吸血鬼っ!!』

「え? イギリスって……?」

 

 唐突なカモの大声にネギは驚き、次いで紡がれた自らの母国の名に再度驚愕した。

 カモは若干興奮した様子で力強く語り始める。

 

『間違いねースよ! 詳しい情報は流石に覚えてねーけど、現存する危険な吸血鬼の筆頭として名前が挙がっていた奴だ!! 何でも化物専門の殲滅機関、あの刹那の姐さんが入っていたみてーなのに所属してるらしいっスよ!!』

 

「……っ!?」

 

 殲滅機関。聞くからに怪しげな雰囲気が漂う言葉にネギは瞠目した。何より、エヴァが出会い頭にアンデルセンへと吐き付けた中に、同様の言葉があった事を思い出したのだ。ならば。あの狂気そのモノもエヴァを狙って現れたというのか。

 

「クソッ……!」

 

 ネギの心配を他所に、エヴァは人知れず悪態を吐いていた。

 流石のエヴァも往年の宿敵が同時に現れた事態には動揺しているのか、常日頃の余裕が褪せている。

 

「次から次へと……そもそも結界に反応しないとはどういう事だ!? 貴様ら、一体どうやって麻帆良の地へ侵入した!?」

 

 麻帆良学園には土地全体を覆うようにして侵入者感知の結界が張られている。その精度は、オコジョ妖精一匹の侵入すら漏れなく把握する程だ。魔力を極限まで封じられているエヴァは麻帆良学園の警備員として結界とリンクしている。仮にアンデルセンとアーカードが侵入すれば、その時点でエヴァには分かるハズだった。

 だからこそエヴァは、今にも勝手に殺し合いを始めそうな二匹の獣に怒声を以って詰問した。

 すると二人は視線だけをエヴァに向けて、実に気楽そうに言い放つ。

 

「んー? なんだ? 知らないのか? 私は、表から、堂々と入ってきたぞ」

「私は扉を叩かずに扉を潜り抜けさせてもらった。この地を囲む結界は優秀だが、優秀すぎる。地を這い回る虫けらの一匹までをも選別するようでは、害意の無い蟲けらが入ってきても紛れてしまって気づけない」

 

 飄々とした態度で二人はそれだけ答えると、再び互いへと視線を戻した。

 眼中に無い。簡潔に述べるなら、正にそんな状態だった。本来の標的を置き去りにして行われる視線の攻防にエヴァはビキリと米神をひくつかせる。プライドが人一倍高いエヴァにとって、蔑ろにされる現状は憤懣遣る方無いものであった。

 けれど。それを爆発させる軽挙な真似はしない。此方に注意を払わないのは好都合だ。エヴァは沸騰しかける思考に飛び切り冷え切った氷水を浴びせると、虫の囀りのような小声で後方に控える茶々丸へと指示を送る。

 

(茶々丸。私が合図を送るまでは何があっても動くな。送ったら私とぼーやを抱えてこの場を離脱しろ。流石に、今の状態でアイツら二人を相手にするのは厳し過ぎる)

(了解しました。しかし、マスターとネギ先生を抱えて逃走する場合、私の性能では途中で追い付かれる可能性があります)

(安心しろ。どうせ連中同士で殺り合ってすぐには追って来れん。それに――さっきからこっちへ合図を送っている奴もいるしな)

 

 チラッと。エヴァは右側の建物の影を一瞥する。

 その一瞬。ほんの少しだけアンデルセンとアーカードから意識を逸らした一瞬。

 

「余所見とはずいぶんと余裕じゃないか、同胞よ。私がナンデあるかを忘れたか?」

 

 蝙蝠の羽ばたき音と聞きたくも無い声が、エヴァの傍らから響いた。

 

「なにっ!?」

 

 驚愕も一瞬。咄嗟にエヴァは魔法薬を抛ろうと躰を動かすが、絶望的に遅い。

 伸ばされた腕はエヴァの華奢な手首を掴み上げ、軽々と小さな躰を宙に浮かした。

 

「くっ……貴様!!」

「師匠!?」

 

 考えるよりも先にネギは動いていた。立ち尽くす茶々丸を追い越して、ただ無心にエヴァを捕らえる吸血鬼に拳を打ち付ける。渾身の拳はアーカードの脇腹を精確に捉え、深く埋まる手応えが手先から届いた。ネギにとっては快心と呼べる一撃。常人ならば血反吐を撒き散らしてのた打ち回る程の威力だ。もっとも、この吸血鬼が相手では、些かの効果すら得られない。ゆっくりと、アーカードは真紅の瞳をネギに向ける。

 

「あ……」

 

 殺される。ただ見られただけで、ネギはそう思った。

 それでも無様だけは晒さないようネギは震えそうになる躰を意地で抑え付け、有りっ丈の勇気を込めてアーカードを見返す。そのネギの気丈な姿に何を思ったのか、アーカードは何処か愉快そうに表情を歪めた。

 

「良い眼をしているな、人間《ヒューマン》」

「え?」

 

 思いも寄らない賞賛にネギは呆けた声を漏らすが、アーカードは気にせず続ける。

 

「お前のその眼は絶望を知るほどに強く輝き、苦悩を味わうほどに熟成するそれだ。今はまだまだ輝きも弱く未成熟だが、時が来れば私とも闘争の美酒に酔える。そう確信させるだけの輝きが、お前の眼にはある」

「僕の……眼?」

「ああ、そうだとも。きっとお前は」

 

 ドッと。アーカードが言葉を紡ぎ終える前に嫌な音が響いた。

 ネギの視界にはアーカードの額があって――其処から一本の銃剣が生えている。

 

「……っ!?」

 

 言葉にならない悲鳴を上げてネギはその場に尻餅をついた。

 ホラー映画でも十分に怖いシーンがリアルで起こったのだ。

 失禁もせず、気を失わなかったネギの精神力は相当と言える。

 だが、もっと恐ろしいのは。

 

「横槍とは、相変わらず我慢の利かない神父だな。食い意地ばかり張っている」

 

 それを何でも無いかのように済ませてしまう、この化け物。

 

「ほざけ。この俺を素通りして行くなどという暴挙を行いながら何を言うか!?」

 

 アンデルセンは猛り狂いながら進撃を開始する。アーカードもまた、冗談のように巨大な漆黒の対化物戦闘用13mm拳銃『ジャッカル』を懐から抜き放ち、迎撃の意思を顕にした。完全に敵意を向けるべき相手を見定めた狂人達。

 それこそが。エヴァの狙っていた、またと無い好機。

 

「いまだ! ぼーや!!」

 

 アーカードに捕らわれたままのエヴァは大声でネギへと叫んだ。

 

「「!?」」

 

 虚を突かれたアーカードとアンデルセンはヒュッと即座にネギを見やる。

 

「え?」

 

 けれど。当のネギは、キョトンとした顔で呆けているだけ。

 二人の注意がネギへと一心に向けられた正にその瞬間。

 ザンッ! と。何かが断ち切られる、流麗な斬撃音が虚空の闇を震わせた。

 音の出所を探れば、エヴァを捕らえるアーカードの腕が肩口からバッサリと斬り離されている。

 

「……っ!?」

 

 アーカードは痛む素振りさえ見せず、寧ろ嬉しそうにそれを成し遂げた者を探す。

 それは存外簡単に見つかった。ちょうどネギが尻餅をついていた足元。

 目を白黒させるネギを小脇に抱え、長い野太刀を携える黒髪の少女が其処にいた。

 

「茶々丸!!」

「はい、マスター」

 

 エヴァは、それだけになったアーカードの腕を虚空に投げ捨てると、バックステップで己の従者の下まで退避して合図を送る。沈黙を守っていた従者はその合図と同時に主を抱え、全速力で離脱し始めた。アーカードの腕を切り落とした少女もネギを抱えて即座に続く。常軌を逸した速度で駆ける鋼鉄の少女と野太刀の少女の姿は、三秒と掛からずに薄暗い夜道に溶け込んだ。

 残された一人と一匹の狂人達は少女達が走り去った先を見つめている。此処に至り、彼等の浮かべる表情は明確に隔たれた。アンデルセンは隠し切れぬ落胆に。アーカードは抑え切れぬ喜色に。

 

「……つまらん。アクビが出るほどにつまらん狩りだ。俺は、あんなウサギを狩るためにこんな国へ出向いたわけじゃあない。真正の化物を狩るために、この国へ出向いたのだ」

 

 イスカリオテ機関長マクスウェルから今回の仕事を任された時などは、期待に胸を膨らませたものだ。数百年に亘りヴァチカンの追撃を躱してきた『闇の福音』をこの手で殲滅する。異端廃絶を絶対とするアンデルセンにとって、それは高揚するに足る目的であった。だからこそ、三日間にも及ぶ屈辱の待機命令にも従った。

 けれど、蓋を開けてみればどうだ。まったく以って取るに足らぬ小物ではないか。

 まるで巷で絶賛されていた映画が物凄くつまらなかった時のような心境である。

 アンデルセンの激情を交えた不満の言葉に、けれどアーカードは短く笑った。

 

「確かに、どういうわけか奴の力は極端に抑えこめられているらしい。なるほど。この街を覆う結界は本来そのためのものか。今の奴はそこらの魔法使いと同レベル程度だろう。だが……」

 

 鋭い犬歯が愉悦に震え、カチカチと音を立てる。

 アーカードはとてもとても嬉しそうに、声を潜めて笑い続けていた。

 

「確かに化物としてはどうしようも無いぐらいに弱くなったが、人間としては十分に強くなった。私には過去の奴よりも、今の奴が強敵に映る。それこそ――貴様にも見劣りしない極上の敵にな」

「……ふん」

 

 アンデルセンは化物の戯言を鼻で笑い飛ばす。

 まるで、あんな矮小な存在と同格に扱われたのが不満であるかのように。その荒々しい嫌気を心地良さげに受け入れながら、アーカードはようやく本題に入った。

 

「それで? 取り残された貴様と私はこの後どう動く? 人間と化物が。狂信者と吸血鬼が。イスカリオテとヘルシングが。こうして相対しているぞ。この事実を踏まえて、貴様は一体どうするのだ?」

 

 それは明らかな誘いであった。この身の準備は当に出来ていると言外に告げている。

 闘争という美酒を注ぐためのグラスをアンデルセンに傾けながら、アーカードはいきり立ちそうな自身を制止させる。果たして相手がグラスを合わせるのをアーカードは今か今かと心待ちしていた。

 

「――――」

 

 だが、しかし。アーカードの期待とは裏腹にアンデルセンは無言のまま、グラス代わりの銃剣をいとも容易く懐に納めてしまった。

 

「興が覚めた。貴様の処刑は後に回す」

 

 そう吐き捨てるとアンデルセンは仇敵に一瞥すらせず、本当に広場から歩き去ってしまった。取り残されたアーカードは微かに身を震わせている。それは折角の誘いを無下に断ったアンデルセンへの怒りの為か。

 否。断じて否。

 アーカードは、単純に。ただただ単純に、抑えきれぬ愉悦に震えているのだ。

 ついには堪え切れず、声を張り上げて笑い出す。

 

「クッ、ククッ、クハハハハ! ハハハハハハハハハハッ!! そうか! やはりお前もか!? お前も、結局はエヴァンジェリンに惹かれているか! この私と同じように、どうしようもないぐらい惹かれているというのか!?」

 

 でなければ、あの殺戮神父がこの身を捨て置くはずがない。

 知ってか知らずか、アンデルセンは確実にエヴァを優先させている。本当にどうしようもないぐらい吸血鬼を体現しているアーカードよりも、あんな人間を残す中途半端な吸血鬼を。

 真紅のコートを翻し、溢れる喜悦を耐えながらアーカードは世界樹へと続く階段を上る。孤高の王者のような風格と、万民を見下す暴君のような威厳を以って。玉座に見立てた世界樹に軽く手を触れながら、アーカードは夜風に乗せるように紡ぐ。

 

「人間のような吸血鬼。貴様の答えは出たのかな?」

 

 楽しそうに。嬉しそうに。期待に胸を膨らませて。

 アーカードは世界樹に背を預ける――その場で、開幕のベルが鳴るのを待ち続けるために。

 

 


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