闇を見ろ。その奥に光る真紅の双眼を。
耳で聞け。絶望を引き摺る足音を。
鼻で嗅げ。錆びた鉄のように鼻腔を刺す血の臭いを。
舌で味わえ。口に入り込む血風が乾く味を。
肌で感じろ。身を震わせる圧倒的なまでの威圧感を。
直感で気づけ。それと相対した時点で、全ての未来は闇に包まれる事を。
――『不死の王《ノスフェラトゥ》』アーカードが、狂気を引き連れ遣って来る。
階上の地上代行者と階下の吸血鬼が互いを見下ろし、見上げた瞬間。其処は異界に変貌した。場景なんて生易しいモノではない。世界を取り巻く空気そのものが、だ。これまでの世界を犯し、嬲り、蹂躙し尽して新たな世界を再構築する。産声を上げる世界の名は、暴虐。
一切の甘えを許さぬ、怒気と殺意と狂気と不条理を無茶苦茶に融け合わせたかのような、最悪の領域。草花に隠れる蟲や木々で眠る野鳥も本能でこの場に居座り続ける愚行を察したのだろう。我先にと羽を、翼を以って逃げ出し始めた。それは何ら後ろめたくも無い、生命として至極当然の判断。しかし、自然から別離し、外敵が消えた人間の本能は彼等に比べてあまりに鈍過ぎる。故に。この変異に気づけたのは人間以外、半妖の少年と妖精の類だけであった。
(なんや……吸い込む空気が粗い。口ん中が乾く。はっ。ただの睨み合いでこれかい)
小太郎は未だ嘗て味わった事の無い強烈なプレッシャーに肌をざわつかせ、人知れず戦慄していた。自然、階上に佇む大男を睨む眼光が鋭くなる。
(真祖の警戒の仕方は普通やない。状況はよぉわからんけど、とりあえず……)
(お、俺っちの毛並みが逆立ちやがる! そ、それに俺っちの聞き間違いか!? いま、エヴァの姉貴、アイツのことをイスカリオテ機関って呼んでいやがった!! もし、もし本当にアイツがそうなら……)
それぞれ胸に浮かべる考えは異なりながらも、小太郎とカモは同時に思う。
あの男は――
((アイツはヤバイ!!))
――危険すぎると。
「……ねーちゃんら、今から俺の言うことよーく聞くんや」
小太郎は悟られない程度の動きで躰を若干沈め、前頭姿勢を取った。それはさながら獣が獲物に飛び掛る寸前にも似ていて、何とも言えない緊張感が小太郎の小さな体躯から滲み出ている。
「え? なんやー、小太郎君」
「どうしたのよ? アンタまで急に改まっちゃって」
現状の危うさにまったく気づいていない木乃香。そして場の空気の異様な変質には何となく気づいているが、イマイチ状況を掴みきれていない明日菜は不可解そうに小太郎を見やる。だが、小太郎には悠長に説明している時間も無ければ余裕も無かった。
「俺が動いたら、全速でここを離れるんや。全速やで。振り返るのも無しや」
「はあ? ちょっと、あんたいきなり何言って……」
唐突な物言いに明日菜は思わず聞き返すが、それを遮ってカモが告げる。
『いや、ここはそいつの言うとおりにした方が良いぜ、姐さん。できれば兄貴も拾ってさっさと離れた方が良い』
眼前のネギは唖然と、茶々丸はどう対応したものかと思い悩むようにエヴァと男を交互に見ている。茶々丸はどうだか知らないが、少なくともネギが状況の不味さに気づいているとは思えない。
「あんたまで……エヴァちゃんもそうだけど、いったいどうしちゃったのよ?」
「悪いけど、話しとる暇は無いんや。あのおっさんがこっちに注意を向ける前に……」
――出鼻を挫く!!
瞬間、小太郎は動いた。低く。低く。低く。地を這うように二足歩行の獣が駆ける。
獣染みた、ではない。正しく獣そのものの敏捷性で階段を平地の如く駆け抜けていった。階段の半ばまで差し掛かると男も小太郎に気づいたのか、軽く一瞥をくれるが、構えを取る気配は無い。
侮っているのか。はたまた他の思惑でもあるのか。どちらにせよ、小太郎のすることに変わりはなかった。動いてから三秒と掛からずに大男との距離が一〇メートルを切る。下からではよく見えなかった顔立ちもここまで近づけば鮮明に映った。
大男の貌を見て、小太郎が第一に抱いた感想は――恐怖だ。
嘲笑うかのように微笑む醜悪な表情の中にあって、なお際立つその瞳。妖しい光りを燈す瞳の先には小太郎の姿など映っていない。それは愚直なまでに、正確に、小太郎という存在に内包された獣のみを射抜いていた。
(……ッ! 怯むなっ!!)
たじろぎかける己を叱責することで奮い立たせ、駆ける足に気を込める。
そして次の一歩。大男の五メートル手前での踏み込みで、それを一気に解放する。
ドンッ! と。爆発にも似た轟音をその場に残して小太郎の姿が掻き消えた。
「!?」
悠然と構えていた大男も唐突な小太郎の消失には眼を見開き、喜悦から驚愕へと表情を一転させる。瞬動術《クイック・ムーブ》。それが小太郎の用いた技の名だ。気、あるいは魔力を足裏に集中させ、一息に解き放つ事で瞬間移動さながらの速力を生み出す高速移動術。未熟な小太郎では精々三~七メートル程度の距離しか移動できないが、既にその圏内には捉えていた。
刹那の間に大男の背後へと回り込んだ小太郎は両の手の狭間に気を練り上げる。夜空よりも尚暗い漆黒の気は膨張、収束して一つの技の域にまで昇華されていく。大男も数瞬遅れて小太郎の居所に気づくが――あまりにも、遅い。
我流・犬上流 狼牙双掌打。
大男の背中に打ち付けられた掌底は、漆黒の気と相俟って強大な破壊力を生み出した。
それこそ、常人ならば上半身と下半身が永遠にオサラバしても何らおかしくはない威力だ。男はそこまで悲惨な結果にこそならなかったが、海老反りに体を曲げたままピクリとも動かなかった。
(よっしゃ! 完っ璧に極まったわ!!)
小太郎は掌から腕、肩へと伝わる確かな手応えに獣さながらの獰猛な笑みを浮かべた。しかし、それも階下から聞こえてきた複数の声によって掻き消える。
「こ、コラーーーーっ!! あ、あんた人様になんてことしてんのよーーーーっ!?」
「こ、コタローくん!? いきなりなんで!? そ、その人は大丈夫なの!?」
「ウチが治療を……!」
明日菜、ネギ、木乃香の三人は大慌てで階段を上って来ようとする。
見れば、唯一小太郎に賛同していたカモは、明日菜に握り締められて、身動きが取れなくなっていた。その光景を見据えて小太郎は歯噛みする。次いで有らん限りの声量を以って三人へと声を張り上げた。
「アホ! なんでまだおるんやっ!? こいつはまだ――!」
言い切る前に、鋭い怒声が飛んだ。
「馬鹿者っ! 避けろ!!」
「え? ……ッ!?」
その声がエヴァのものであると理解するよりも早く、生に縋り付く本能が小太郎を動かした。ほんの一瞬の後、その場から後方へ飛び退く小太郎の視界に一筋の閃光が走る。それが何であり、どんな物であったのか。小太郎はすぐに知る事になった――文字通り、その身を以って。
「ぐっ!? がああああああああぁーーーーっ!!」
小太郎は右手で左腕を押さえ、苦痛に貌を歪めながら絶叫する。
左腕の半ば。ちょうど二の腕の部分。そこには小太郎の小さな腕の肉と骨を突き破り、深々と根元まで差し込まれた白銀の細剣があった。月光を浴びて白光りする刀身が、徐々に紅く染まっていく。ツゥと剣先を伝わる鮮血が、ポタポタと滴り落ちて、地面を紅く染め上げた。駆け寄ろうとしていた三人の足も、思わぬ展開に凍りつく。
「なっ!?」
「コタローくん!?」
「え?」
『やべぇ!』
あまりにも現実味の無い光景に木乃香は唖然とした面持ちで立ち尽くす。けれどネギと明日菜は違った。すぐに現状を受け入れると先程よりも疾く小太郎の下へ疾走する。ネギ達と小太郎、双方を見てエヴァは苛々しげに舌打ちを毀す。
「チッ! 茶々丸!!」
「っ!!」
主の意向を受け、術者たる茶々丸は即座に動いた。無論、エヴァも動く。
茶々丸は小太郎の下へ。エヴァはネギ達の下へ。エヴァは走りながら懐に手に入れると、何らかの液体が入った数本の試験管を取り出した。それを躊躇無くネギ達の前方に向かって思い切り投げつける。
「『氷爆《ニウィース・カースス》』!!」
ガシャンッと。空中で衝突して割れた試験管は周辺に魔法薬を撒き散らす。それは魔力を封じられたエヴァの呪文を形にする媒体だ。短い呪文の後、現れたのは大量の氷。生み出された氷と凍気は爆風を伴ってネギと明日菜を元来た方へ押し戻した。
「きゃ!?」
「くっ!? 師匠!? なんで……!?」
突然の横槍にネギは若干の苛立ちを込めてエヴァに噛み付くが、返って来たのは激しい叱責であった。
「状況を考えろっ! あの犬っころよりも下のぼーや達がノコノコ出て行ったところで、足手纏いを増やすだけだ!!」
「……ッ!!」
情け容赦の無い痛烈な物言いにネギは歯噛みするが、エヴァの言っている事は苛立ちが募るくらいに正論である。確かにネギは麻帆良に来る前に比べて格段に強くなった。しかし、それでも総合的な戦闘能力では一日の長のある小太郎に譲らざるを得ない。もっとも、理解するのと湧き上がる感情は別物だ。明日菜は声を荒げ、エヴァに言い放つ。
「でも、それじゃあアイツがっ!!」
「アホが。何のために茶々丸を向かわせたと思っている」
エヴァがそう吐き捨てた直後、ネギ達とエヴァの間に何かが降り立つ。
小太郎を胸に抱いた茶々丸だ。見向きもせずにエヴァは訊く。
「損傷は?」
「左腕稼働部に損壊。腹部にも斬撃を受けましたが、中枢には達していませんので通常戦闘に支障はありません」
機械的に報告する茶々丸の左腕には大きな裂傷が刻まれ、腹部には装甲が欠けるほどの亀裂が走っていた。もしも機械の身でなければ、どちらも間違いなく致命傷となりえる。その姿をネギと明日菜は自身に重ね合わせ、今更ながらエヴァの言葉の意味を真に理解した。
「その犬はどうだ?」
「非常に危険な状態です。早急に必要な処置を施す必要があります」
茶々丸の表情は心成しか険しく見えた。それが小太郎の容態を如実に物語っている。
ネギ達も茶々丸に抱かれた小太郎の下へと駆け寄るが、傷口から止め処無く溢れ出る鮮血を確認すると一様に蒼褪めた。しかし、エヴァだけは小太郎の容態など気にも留めず、その左腕に突き刺さった細身の剣を無表情に観察している。
「……ふん」
ほんの五秒ほどの思案を経て、エヴァもまた茶々丸の方へ歩み寄る。そして情け無い声を上げるネギ達を強引に掻き分けると、小太郎の左腕に刺さる剣の柄を指先でソっと撫でた。
「師匠?」
「エヴァちゃん?」
「どうするんや?」
三人はエヴァを一様に見据えて訊くが、真祖の吸血鬼は答えない。
ただ、一方的に告げる。
「神楽坂明日菜、近衛木乃香。お前らは眼を閉じていろ」
「「え?」」
『あんた、まさか……』
唐突な忠告に二人は呆けた声を漏らすが、唯一その真意を察したカモは信じられないと言いたげにエヴァを凝視する。エヴァは優しく触れる程度だった剣の柄をしっかり掴み直すと、無表情のまま小太郎の耳元で囁く。
「聞こえているな、犬――歯を食い縛れ」
瞬間。エヴァは一気に剣を引き抜いた。
「……ッ!? ぐぅ、がぁ!!」
小太郎の呻き声が広場に木霊する。左腕からは噴水の如く血飛沫が舞い散り、エヴァの頬を微かに汚した。気にせずエヴァは普段から茶々丸に持たされている純白のハンカチを取り出すと、小太郎の肩先をきつく縛って止血する。
「近衛木乃香。お前のアーティフィクトで治癒してやれ」
「あ……う、うん、わかった!」
放心状態にあった木乃香はエヴァの声で気を取り直すと、慌ててスカートのポケットからパクティオーカードを取り出した。
「来れ《アデアット》!」
短い呪文を唱えると、光と共に木乃香の服装が日本の伝統舞踊のそれに変わる。
両の手には、一対の簡素な白色扇が広げられていた。
これこそが近衛木乃香の持つアーティフィクト。
『コチノヒオウギ《フラーベルム・エウリー》』
『ハエノスエヒロ《フラーベルム・アウストラーレ》』
能力は、三分以内ならばどんな傷をも治す治癒能力。
肉を破り、骨をも砕いた貫通傷すら、この装具の前では掠り傷に等しい。間も無く小太郎の傷は完治した。しかし、どうやら剣を引き抜かれた際の激痛で意識を失っているらしく、起きる気配はない。小太郎の治癒の完了を見て取ると、すかさずエヴァは次の指示を飛ばす。
「おい、ぼーや。神楽坂明日菜に身体能力強化だ。一〇分でいい。強化後、神楽坂明日菜はこの犬と近衛木乃香を連れてこの場を離れ、近辺の魔法先生か魔法生徒に合流しろ。そうすれば、とりあえずの安全は確保できる」
「待ってよ! 私、まだ全然わかってないのよ!? せめて説明して! あいつは何なの!?」
「……殺し屋だよ。カトリック教徒以外の全てを殺しつくす狂気の権化。そして――私が大嫌いな奴等。お前も今のを見てわかったと思うが、奴は今までお前が戦ってきた相手とはまるで違う。殺しても良い程度じゃなく、殺すためにこそ、向かってくるぞ」
「っ!?」
「わかったらさっさと行け。お前らのような足手纏いを抱えながら戦えるほど、奴は甘い相手じゃないんだ。ぼーやの事なら心配するな。私の名に懸けて、殺させてやるつもりは微塵も無い」
エヴァはそう締め括ると明日菜から視線を外して、最後に小太郎を見やった。
「本来なら、お前の行動は無謀以下の蛮行だ。あのまま死んでいようが一片の憐れみすらもってやれん」
他の三人の安全を考慮しての行動だったのだろが、実力が未知数の相手の懐に飛び込むなど自殺行為も甚だしい。その点については、エヴァもはっきりと糾弾した。
「だが……」
しかし、エヴァは続ける。口先を吊り上げ、愉快そうに笑いながら。
「今回ばかりは褒めてやる。お陰で、闘う前にヤツの正体の目星がついた」
そう言って小太郎の血に濡れた細剣を手先で弄びながら、縦に割れた正しく吸血鬼の眼光で階上の天辺。いつの間にか両の手に同様の凶器を携え、静かに見下す狂気の信者を射抜く。
「今時、こんな古臭い銃剣《バヨネット》を用いる狂信者など私は一人しか知らん。もっとも、それも風の噂で聞いた程度だがな」
その名はヴァチカンの誇る鬼札《ジョーカー》。
聞けば化物は震え、相対すれば希望を捨てる。それは逃れ得ぬ絶対死の体現者。
「まったく、こんな極東の島国に貴様を派遣してくるなど、ヴァチカンはいったい何を考えているのだろうな? なぁ――アレクサンド・アンデルセン神父?」
そして。エヴァは遂にその名を呼んだ。
全盛期の頃には終ぞ出会うことの無かった、最狂の名を。
「……クッ、くくく……クはははははははははははははははははははは!!!!」
名を呼ばれた大男――アンデルセンは大声を張り上げて腹の底から嘲笑う。
何を当たり前のことを言っているのだと馬鹿にするかのように、大口を上げて笑い続ける。
「くくくっ、何を考えているのかだと? よりにもよって我々に! イスカリオテにそれを問うとは! 一五年にも亘る怠惰な安寧は貴様から我々という存在を削ぎ落としたか? 貴様から失わせたか!? ならば答えよう!! 我々は! ヴァチカンは!! イスカリオテは!!! ――化け物を駆逐する事を考えているのだ」
両手に強く握り締めた審判の象徴たる銃剣を神への祈りの為に十字へ交差させ。
『聖堂騎士《パラディン》』
『天使の塵《エンジェル・ダスト》』
『銃剣《バヨネット》』
『首斬判事』
『殺し屋』
数多の異名を持つヴァチカンの裏。
イスカリオテ機関の『切り札』たるアンデルセン神父は絶望を以って答えた。
その堂々たる姿にもエヴァは何ら感慨を見せず、弄んでいた銃剣を抛り捨てる。
「……行け、神楽坂明日菜。さっさと二人を連れて行け。相手は最悪だ。凶悪さ、容赦の無さ、殺害過量《オーバーキル》という点では全盛期の私すら超越するバケモノだ。もし戦いが始まれば、生憎と安全に送り出してやれる自信は無い」
「!? ……わかったわ」
明日菜としては、この場に残りたかった。けれど、非戦闘員である木乃香と気絶している小太郎をそのままにしておけないのも理解している。何より、いつどんな時でも自信満々なエヴァが弱気とも取れる言動をしていることが、これ以上の追求を明日菜にさせなかった。
「ネギ、お願い」
「は、はい! 『杖よ《メア・ウィルガ》』!」
ネギは広場の端に立て掛けて置いた杖を引き寄せ、掴むと同時に詠唱を紡ぐ。
「『契約執行《シス・メア・パルス》』神楽坂明日菜!」
この魔法により、ただでさえ常人離れした身体能力を誇る明日菜は並の吸血鬼にさえ匹敵する怪力を得る。明日菜は木乃香を右腕に抱き、茶々丸に受け渡された小太郎を左腕で慎重に支えながら背負った。
「付近の魔法関係者と接触した後はそいつの指示に従え。間違っても、此処には戻ってくるなよ。お前達が、少しでも私を信用しているならな」
「……わかった。気ぃつけてな!」
「無理すんじゃないわよ! 絶対だからね!!」
最後にそう言い残すと、明日菜は階段とは真逆の方向へ全速力で駆け出した。
追撃を懸念してエヴァ達は身構えるが、当のアンデルセンは走り去る明日菜を一瞥しただけで直ぐに視線をエヴァへと戻す。まるでエヴァ以外は眼中に無いと、言外に語っているかのようであった。
「……茶番は終わったか? 幼稚園の先生は大変だな。下手なお遊戯に付き合わされる」
「そうでもないさ。何千年と進歩しない赤ん坊の相手をするよりは遥かにマシだよ」
他愛の無い戯言を口にしながらアンデルセンは階段を下り始める。
浮かべる表情はこれから切り刻むエヴァの断末魔を想像してか、狂気一色に塗り固められ、見る者全てに根源的な恐怖を与える。ネギもその例外ではなく、思わず躰が震え、無意識の内に脚が一歩、後ろへと下がった。
怖い。怖い! 怖い!!
その視線が己に向けられているわけではないと分かっていても、恐怖に精神が圧迫される。
かつてネギは幼少の頃、悪魔に殺されかけた。
かつてネギはエヴァに死ぬまで血液を吸われかけた。
かつてネギは白い少年やヘルマンに石にされかけた。
だが、そのいずれもが明確な殺意を持っていたわけではない。
悪魔は呼び出した何者かの意思に従って行動しただけ。
エヴァは己にかけられた呪いを解くためにネギの血を必要としただけ。
白い少年やヘルマンはそもそも殺意すら無かった。
こうまで完璧に命だけを狙う敵と出会ったのはネギにとって初めての経験だ。
何より、未熟と言えど相応の実力を誇るネギには分かっていた。先の小太郎への攻撃。アレは、エヴァが叱責の声を上げていなければ間違いなく、小太郎の心臓を突き破っていた。茶々丸への攻撃にしてもそうだ。人間ならば、確実に死んでいる。
(もしかしたら、僕は……)
――ここで死んじゃうかもしれない。
ある種、究極の諦めが脳裏を掠め、ネギは絶望に心を挫け掛けた。
『しっかりしろ! 兄貴!!』
けれど。不意に足元から響いた友達の声に、ハッと気を取り直す。
「え、あ、か、カモ君!? どうしてここに!? アスナさん達と一緒に行ったんじゃ!?」
『へっ! 兄貴が逃げねーのに舎弟の俺っちが逃げるわけにはいかねーよ!!』
そう漢気溢れる科白を述べてカモはネギの肩まで駆け上がる。
「カモ君……」
肩に掛かる馴染み深い微かな重みは、ネギの胸中を占めていた恐怖を一気に払拭した。
グッと力強く杖を握り直す。外面も。内面も。ようやく臨戦態勢に移行させた。
『兄貴。今から俺っちの言うことをよーく聞いてくれ。見たところ、あの野郎は完全に近距離タイプだ。しかもスピードよりもパワーで押す類のな。ああいう奴は近づかせちまうと厄介だが、中距離や遠距離でバンバン魔法を打ちまくれば問題ねぇ。いっそうのこと「雷の暴風」で吹き飛ばしちまえ!』
「で、でもそんなの使ったら世界樹も巻き込んじゃうよ!?」
広範囲攻撃魔法に分類される『雷の暴風』は、ネギの使える魔法の中でも屈指の威力を誇る必殺の一撃だ。もしアンデルセンへ向けて放てば、射線上にある世界樹までをも損壊させかけない。だが、そんなネギの杞憂をエヴァは鼻で笑い飛ばす。
「ふん。冗談を言うな。アレは仮にも神木だぞ? ぼーや如きの魔法でどうにかなるほど柔じゃないさ」
『それなら話がはえーっ! 兄貴が牽制してそっちで仕留める! これっきゃねーぜ!!』
「……確かに、それも一つの手だな。だが、私はぼーやに手出しさせる気など元からない」
あっさりと。何でもないことのようにエヴァの口から思いがけない言葉が飛び出した。
「え?」
すっかりやる気になっていただけにネギの目が点になる。
『ど、どーいうことだよ!? それじゃあ兄貴を残した意味がねーじゃねーか!?』
「意味ならあるさ。師匠の戦いを弟子に見届けさせる。見るのも修行の一環だ。特に――狂った奴への対処法は、今後ぼーやの役に立つだろう」
言いながら、エヴァは死地へと進み出た。
「行くぞ、茶々丸。生憎と、無理をするなとは言ってやれん」
エヴァの両手の指には魔法薬の入った小瓶や試験管が挟まれ。
「了解しました。無理をして目標を鎮圧します」
その後ろに控える茶々丸は損傷した左腕の駆動チェックをしている。
「神罰の時は来た。AMEN!」
階段を下り終えたアンデルセンは両の手を胸元まで持ち上げ、白銀煌く刃をエヴァに向けた。
一触即発。ネギとカモは、その場に満ちるプレッシャーに身動ぎすらできなかった。そして自ずと悟った。そもそも援護などできるはずが無いのだと。戦いの中心にいないにも関わらず、動く事すら儘ならない体たらくでは、同じ舞台に立てるはずも無かったと。
この舞台に上がる事ができるのは、選ばれた者のみ。アンデルセンのような狂気を宿し、エヴァのような誇りを宿し、茶々丸のような無垢を体現する存在でなければならない。
――ああ、なーんだ。
「無粋だな。その料理は私の方が三〇年も前に予約している。横取りするなよ、アンデルセン!」
――コレは、全てを満たしているじゃあないか。