ほら。耳を澄ませば聞こえてくる。
カッ、カッ、カッ、カッ、と規則正しい足音を響かせて歩み寄ってくる。
我らが神を信じ、救いを求める者には救済を。
我らが神を信じず、救いを求める者には絶望を。
唯一絶対の神の代理人にして神罰の地上代行者。
地上に巣食う化け物を滅ぼし尽くす人間が。
――――アレクサンド・アンデルセンが、神罰を背負ってやってくる。
麻帆良学園都市中央に位置する世界樹前広場。
麻帆良のシンボルでもある雄大な世界樹のお膝元は、麻帆良に住まう学生にとって憩いの場の一つであった。昼時や放課後ともなれば大勢の生徒で賑わいを見せて、友人と談笑する者、独り安らぐ者などがチラホラと見受けられる。中には有り余る若さを原動力に世界樹登りを敢行する果敢な双子の女子生徒もいたが、付き添いの長身の少女によってやんわりと窘められていた。
そんな広場も陽が沈み、夜が更け込むに連れて人気は疎らになっていく。双子と長身の少女も、街灯が燈る頃には帰路に着いていた。時計の針が午後十時を回れば、辺りには誰もいなくなる。後に残るのは、ざわざわと犇めく仄暗い闇と、見守る対象を欠いた世界樹だけ。
今日も今日とて静寂と共に終わりを告げる――はずだった。
「はぁッ!!」
不意に。連々と連なる階段の最下。
赤茶色のレンガで地面を舗装された広場から裂帛の咆哮が響く。次いで鋭い風切り音が轟き、大気の膜が唸る拳によって引き裂かれた。切り裂かれた大気は周囲の風を引き寄せ、瞬時に傷を癒そうとするが、それよりも早く、なお疾い拳が同様の箇所を抉り取る。
ドォンと。硬質な何かが激しくぶつかり合う鈍い音が、広場に大きく木霊した。
それを起こした当人達は気にも留めず、四肢を、体躯の全てを駆使して、間断無く眼前の相手に挑み掛かる。
「……以前よりは増しになったか」
ポツリと。傍から激闘を見守る、ゴスロリファッション風の衣服を身に纏った異国の美少女――エヴァンジェリンはつまらなそうに、そんな評価を下した。現在、エヴァの眼前では従者である絡繰茶々丸と弟子であるネギが修行という名の真剣勝負に勤しんでいる。かつて弟子にしてくれと頼み込んできた時と比べれば、ネギは格段に強くなった。
エヴァの戦闘理論は元より、教え子である古菲から学ぶ中国拳法も中々に様になっている。以前は疎かであった防御もキチンと形が定まり、幾分か手加減されているとはいえ、茶々丸相手にネギは接近戦で良い勝負を繰り広げていた。もっとも。良い勝負ぐらいで満足するエヴァではないが。
「なんだぁ、今の腑抜けた攻撃は!? もっと相手の懐へ飛び込め! 小さな躰を最大限に活用しろ! それから攻撃と防御は連動して行え! 人間の武術とは元々そういう風に出来ている。それを劣化させてどうするのだ! 馬鹿者!!」
「は、はい! 師匠《マスター》!!」
戦いの狭間の指示も余さず吸収して、ネギは次の動作を更に洗練させていく。
実際に、ネギの成長は常軌を逸する速度であった。英雄として誉れ高い父親譲りの才能は魔法のみならず、武術にまで及んでいる。加えて父とは違い、母から受け継いだ頭脳のお陰で頭の出来も最高水準。この少年を前にすれば、常人は世の不公平と不条理を嘆くしかない。
そんなネギ、エヴァ、茶々丸の修行風景を遠巻きに眺める者達がいた。神楽坂明日菜、近衛木乃香、犬上小太郎、そしてカモの三人と一匹である。容赦の無い叱責をガンガン飛ばすエヴァに、明日菜は思わず苦笑した。
「相変わらず、エヴァちゃんは厳しいわねー」
「そうでもないで? アドバイスも的確やし、何だかんだで良い師匠やわ」
「ウチには速すぎてようわからんなー」
『オレッちも正直わかんねー』
極東一の魔力を宿しているとはいえ、基本的に木乃香は一般人の域を出ていない。木乃香の肩に乗るオコジョ妖精のカモにしても戦術眼は中々のものだが、それが戦闘能力に直結するわけではないので、二人の戦闘を追い切れないのは当然であった。
現在、この広場にはエヴァが簡易な結界を張っているため、一般人は近づけないようになっている。この後、所用で遅れてくる刹那と合流しだい、時空間を弄くってあるエヴァの別荘に移動する予定だ。
「おーい! ネギー! アッチに行ったら俺とも戦ろーなーっ!!」
「あ、うん!」
仕切り直しとばかりに距離を離して茶々丸と相対していたネギは、不意に聞こえてきた小太郎の呼び掛けに殆ど反射的に答える。その隙を、虎視眈々と攻め入る機会を窺っていた茶々丸は見逃さなかった。
「失礼します」
「っ!? しまっ」
たと。言い切る暇すら茶々丸は与えなかった。瞬く間に距離を詰めた茶々丸はネギの腕を軽く掴むと軸足を払い、合気の要領で横軸に放り投げる。グルンと。ネギの視界が上下反転した。
投げられた勢いで風車のように半回転させられたのだ。頭を地面に足先を夜空に。逆さになった躰は碌に自由が利かず、思い通りの動きが出来ない。そこに茶々丸の長い足が撓り、猛烈な勢いでネギの顔面を狙った。
「くっ!」
咄嗟にネギは両腕を十字にクロスさせて受け止めるが、所詮は苦し紛れの悪足掻きに過ぎない。急所への直撃こそ避けたものの勢いまでは殺し切れず、成す術も無く吹き飛ばされ、街灯の土台へ勢い良く激突した。
「が、は……っ!」
如何に身体能力向上の魔法を掛けていようと、硬い土台に亀裂が走る程の衝撃だ。
打ち付けられた躰は強制的に肺から酸素を排出させ、軽い眩暈を起こさせる。
だが、茶々丸の攻撃は止まらない。修行を始める前にエヴァから与えられた命令は容赦無用。
それを忠実に守り、茶々丸は地に片膝をついたネギへと即座に追撃を敢行した。
「!?」
しかし、ネギとて半端な修行をしていない。ネギは断続的な痛みを訴える躰を歳に見合わぬ精神力で黙らせる。そうして逃げる訳でもなく、ただ腰を僅かに浮かして強引に一歩を踏み込んだ。
「……ッ!」
絶妙のタイミングで巧く胸元に潜り込まれ、茶々丸は思わず瞠目する。
追撃の機を崩された。それを悟った茶々丸が咄嗟に拳を引き絞るのと、ネギが拳を振り上げるのは殆ど同時だった。
「はぁ!!」
「……っ!!」
ネギも。茶々丸も。互いに退かず、打ち下ろす拳と振り上げる拳が激突する。
甲高い、大太鼓でも叩いたかのような轟音が大気をビリビリと震わせた。ついでにエヴァの怒声も大気を激しく震わせる。
「コォラぁぁっ!! 戦闘の最中に相手から意識を逸らすヤツがあるかぁぁっ!! そこの犬っころ!! お前も余計な口出しをするな!! 犬鍋にして食うぞっ!!」
「うっ……!」
万人が眼を見張るほどの繊細な外見に反して、その身から瀑布の如く噴出する殺意と怒気は掛け値無しの本物だ。カモも「ありゃー本気だぜ」と己に向けられた過去の脅しを思い出してか、その小さな体躯をガクガクと震わせていた。今にも火を噴きそうなエヴァを見かねてか、明日菜はやんわりと口を挟む。
「まあまあ、エヴァちゃん。そんなに怒らなくてもいいじゃん。なんだかんだでネギもしっかり持ち直してるし」
「ふん! それはただの結果論に過ぎん。今、坊やは過程において致命的なミスを犯した。もしも今が強敵との戦闘中、それも、そこの犬っころとのチーム戦ならば確実に二人とも死んでいたぞ」
「それは、まあそうかもしれないけど……」
戦闘のプロフェッショナルであるエヴァに死ぬとまで言われては、素人の明日菜は引き下がるしかない。けれど、何か釈然としないものを感じてエヴァを注視する。傍らの木乃香も何か思うところがあるのか、頬に指を当てて何やら考え込んでいた。
「うーん……なぁ、エヴァちゃん」
のほほんと木乃香はエヴァに声を掛けた。
「ん? なんだ?」
先程の事もあってか、エヴァは若干不機嫌そうに木乃香へ鋭い目線をやった。
しかし、木乃香は気にする事も無く、思ったことをそのまま質問する。
「この前から少しおかしいけど、なんかあったん?」
ピクリと。エヴァの眉根が微かに動いた。
それに気づかず明日菜も続く。
「そうそう。なんだか様子が変だし、いつにも増して言葉に棘があるし、私もちょっと気になってたのよね」
「…………」
確かにエヴァは、先日は十数年振りにあの忌々しい同属のことを思い出していた。そのせいか最近、普段よりも気が昂っていた事は認めよう。だが、まさかよりにもよって、この二人に勘付かれるほど外面に出ていたとはエヴァも終ぞ思わなかった。
「……別に大したことじゃないさ。お前達には関係の無いことだよ」
若干の沈黙の後、エヴァはそう言った。
話して楽しい訳でもなく、むしろ一刻も早く忘れてすっきりしたい類のものなのだ。
エヴァからしてみれば態々蒸し返す意味も無ければ必要もない。普段は強引な明日菜も、言葉の端に追及するなという強い意志が込められているのに気づくと、若干の不満を残しながらも素直に引き下がった。
(やれやれ……)
その不満が気遣いからだと思うと、エヴァとしては苦笑するしかない。
六〇〇年もの時を生き、裏の世界では知らぬ者はいないと自負するエヴァにとって、明日菜のような反応は新鮮というか、むず痒いものがあった。
エヴァの躰は幾人幾十幾百もの血に汚れている。それは永遠に変わらない事実。
それこそ、こうしてエヴァが稽古をつけてやっているネギが、いつか正義のために殺しに来ることがあるかもしれない。それは、ありえない異常な未来ではなく、あるかもしれない正常な未来。そう。エヴァにとっては、今この時こそが異常なのだ。こうして女子中学生に紛れ、宿敵となるかもしれない少年に稽古をつけ、馬鹿みたいな話をする今こそが。
けれど。この異常を楽しいと感じている自分がいることをエヴァは密かに自覚していた。
いつまでも続いて欲しいなどとは思わない。誇りある悪として、そんな事は夢想しない。
だが、せめてこの関係が『終わり』を迎えるその時まで。後少しの間だけならば、こういう生活も悪くは無いと思い始めていた。それは『闇の福音』としてのものではなく『エヴァンジェリン』としてのもの――だから。エヴァは気づけなかった。
たとえ学園長の計らいで情報が伝わっていなくとも、本来のエヴァであれば気づけたはずだ。
闘争から遠ざかる十五年もの月日は、エヴァにあったその感覚を確実に削ぎ落としていた。
「――かつては『闇の福音』とまで呼ばれていた化け物が、ずいぶんとまあ可愛らしい子猫になったようじゃあないか。いつから、貴様は幼稚園の先生になったのだ?」
ゾクリと。その声が何処からか響いた瞬間。エヴァは爪先から頭の天辺まで、余す事無く満遍なく、身体中を無数の蟲が這い回るかのような悪寒を覚えた。なんだ、とは思わなかった。思う暇も無いし、思う必要も無い。
この、殺意は。
存在の一片すら許さず。
存在の理由すら許さず。
存在の根拠すら許さない純粋な否定の殺意は、正にアレだ。
そう。アレが来たのだ。アレが来てしまったのだ。
かつての仇敵。かつての殲滅集団。かつての狂信者達。
吸血鬼にとっての最大最凶最悪の神の亡者どもが、現れたのだ。
エヴァは身を翻し、心を翻し、全てを戻す。
かつての自分を取り戻す。アレはエヴァンジェリンでは斃せない。だから、この身は真なる『闇の福音《ダーク・エヴァンジェル》』へと回帰しなければならないのだ。
「――最後に殺り合ったのはサウザンド・マスターと出会う前。思えば、二十年振りだったか? 貴様らと再び、こうして出会うのは」
鋭く研ぎ澄まされた金色の双眼。
其れだけで敵対者を突き刺すナイフの如き眼光の先には、老齢の大柄な男がいた。
連々と連なる階段の天辺を陣取る大男は、足元まである大きなロングコートを身に纏い、月光を浴びるメガネが異質な輝きを見せている。けれど、真に眼を見張るべきは首に掛けられた十字架。自らを神へと献上する印。
間違いない。間違いない。間違いない。
奴は。奴は! 奴こそは!!
「――ローマカトリック、ヴァチカン法王庁特務第13課」
エヴァは詠う様に。貶す様に。侮辱する様に。
「――異端殲滅機関イスカリオテ。狂信者の巣窟め」
過去幾度と無く殺し合った、ユダの手先を嘲笑う。