殲滅の時   作:黒夢

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一三話 佳境

 

 

 不思議だ――と。

 刹那は凍て付いた意識の片隅で、厳かに響く胸中の呟きを聞いた。

 眼前に広がる世界はモノクロのように色褪せていて、何ら価値を見い出せない。街灯に燈る電灯も。爆風に煽られて空を泳ぐ木の葉も。眼前で唾棄すべき狂笑を貼り付ける狂人も。果ては己自身すら、刹那の瞳に色彩を以って映す事は無かった。

 唯一つ。色付いているのは、幾千幾万と剣閃を重ねた夕凪のみ。

 

(本当に――不思議だ)

 

 浅く握る夕凪からは、熱い鼓動が確かに伝わってくる。ドクンドクンと早鐘のように脈動する様は、まるで己の心臓が刀に移ったかのような錯覚を刹那に与えた。不快ではない。そもそも今の刹那にとって、感慨など抱く余地も無ければ必要も無かった。

 ただ一心に秘めるは、文字通りの必殺のみ。

 敵の首と胴を刹那にして別つ、感情を排した殺法だ。

 

(これなら――殺れる)

 

 一瞬の停滞も無く、作業のように使命を果たせる。

 刹那は何とも無しに確信すると、そんな己を省みて薄く自嘲した。

 こうも容易く人を殺す覚悟が出来た己が酷く滑稽で、醜悪なモノに思えて。

 

「けど――」

 

 躊躇いを振り払うかのように短く呟き、刹那は大好きで、大切な友人達が褒めてくれた純白の羽を広げた。もう直ぐ煙は晴れる。それまでに、凄惨な闘争に幕を引こうと刹那は決意していた。

 アンデルセンも闘争の終焉を感じ取ったのか、今までの攻勢から一転して待ちの構えに転換している。けれど、その瞳はあくまでも歪な輝きを宿し続け、爛々と刹那に語り掛けていた。

 

 来いよ。化け物。

 

 声無き嘲りが刹那を誘う。

 ギチギチと胸中で鳴り響くナニかの囀りは、刀に移った心臓の代わりか。

 意識が遠のく。桜咲刹那という個性が消え失せていく。

 なれば、其処に佇むのは一本の刀――人斬り包丁に相違無い。

 

「斬る」

 

 口内で転がした呟きに従い刹那は動いた。

 速くも無く、遅くも無い。まるで地を滑るかのような翼を用いた滑らかな挙動。振り上げた夕凪と白翼が大気を浅く切り裂く様は、雲から地に到る雫の軌跡のように澄んでいた。

 

「っ!?」

 

 迫り来る望んだ脅威を前に、アンデルセンは――あえて一歩、後退した。

 愚直な進撃を繰り返してきた神の刃にとって、本来なら在り得てはならない選択。

 刹那の殺意に気圧された――訳では断じてない。ただ此処で後退しなければ、眼前の異端を殺せなくなる。アンデルセンは度重なる闘争で培った本能に拠り、それを察知していたのだ。

 翻る銀閃は、虚空に垂らした銀糸の如き軌跡を空間に刻む。

 裂かれた世界。其処から滲み出るようにして血飛沫が噴出した。

 右肩から左胸までを一閃されたアンデルセンだが、辛うじて致命傷には至っていない。後退した一歩の距離が明暗を分けた。仮に迎撃に出ていたとしたら、良くて相打ち、悪ければ一方的に両断されていただろう。アンデルセンは脳髄が激痛を感知するよりも早く、即座に両手の銃剣を振り上げた。否。振り抜いたと形容すべきか。

 下段から刹那の矮躯を目掛けて強襲する銃剣は、常人を置いてけぼりにした恐るべきアンデルセンの臂力によって音速を疾うに超えている。

 しかし――刹那は、それを真正面から受け止めた。

 鋼鉄が軋む耳障りな音響は、直後に発生した衝撃波によって塵のように霧散した。

 力に勝るアンデルセンに対して、刹那は気を全身に巡らせると共に白翼を力強く羽ばたかせ、拮抗状態を作り上げる。

 戦局は互いの命を対価にした鍔迫り合いに縺れ込んだ。

 愚策。圧倒的に勝る機動力を殺しての現状は、その一言で刹那を罵れた。

 吸血鬼とさえ正面切って殴り合えるアンデルセンの出鱈目な筋力と真正面から力比べを演じるなど、正気の沙汰ではない。普段の刹那なら真っ先に切り捨てる選択肢だ。

 だが、生憎と今の刹那は正気ではない。

 正気で人は、殺せない。

 故に刹那は鼻先に迫る死の恐怖にも何ら感慨を這わせることも無く、無常に『人殺し』という作業を続行する。

 迅速に。迅速に。迅速に。さあ殺そう。

 バチッと。夕凪から一筋の紫電が弾けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――この世に地獄が在るのなら、其処は正にソレだった。

 

 オドロオドロしい闇の河川は緩やかに急速に大地を腐らせ大気を犯す。

 神話に綴られる魔女の釜とて、こうまで醜悪では無いだろう。際限無く溢れ出る闇は熟成した血のように薫り立ち、浮かび上がる無数の瞳は忙しく周囲を視姦している。魚類に代わって闇を蠢く百足と蜘蛛は、ひたすらに共食いを繰り返していた。

 ジュクジュクジュクジュク世界は壊れ、グチャグチャグチャグチャ咀嚼音が木霊する。

 地獄の闇に佇む魔王は、己の世界を睥睨すると、悦楽の吐息と共に宣言した。

 

「世界は斯くも緩やかに。私の領土を広げていく」

 

 領土。哀れな伯爵の、一人ぼっちの吸血鬼の空白を埋める安息の地。

 その為だけに犯し尽くされた大地は、生命の胎動の一切を停止させられていた。

 伯爵の抱く闇は、やがて広場を踏み越えて麻帆良の街にまで至るだろう。

 安楽の夢を見る生徒達を飲み込んで、吸血鬼の悦楽を満たす為だけの魂の奴隷と化してしまうだろう――此処に、彼女がいなければ。

 

「退け、汚泥が」

 

 涼やかな声音が穢れた世界を払拭する。

 華奢な御手に渦巻くは、極寒の吹雪と宵闇に近い暗闇。

 

「『闇の吹雪《ニウィス・テンペスタース・オブスクランス》』」

 

 刹那。正しく闇の吹雪が顕現した。

 街に食指を伸ばし掛けていた闇の河川を穿ち、真っ二つに引き裂いていく。吹き荒ぶ吹雪に巻き上げられた地獄の闇は、高貴な暗闇によって駆逐される。

 一直線に突き進む吹雪の先には、闇を侍らせたアーカードが悠然と佇んでいた。

 有象無象の全てを蹴散らして進撃する吹雪の暴威を欠片も恐れない。

 寧ろアーカードは大らかに両手を広げ、暴虐を心待ちにしているようにも見える。

 不意に。アーカードの口元が滑らかに動いた。

 渦巻く吹雪に掻き消され、その言葉はエヴァの下に届く事無く霧散したが、それは確かに、こう言っていた。

 

 ――ようこそ。闘争の夜へと。

 

 直後、アーカードの姿は吹雪の彼方へと消え果てる。

 標的を飲み込みながら尚も突き進む螺旋の吹雪は、やがて世界樹に激突した。

 闇に侵食され、腐り掛けた世界樹は側面から加えられた圧力にギシギシと悲鳴を上げ、幾つかの枝葉が音も無く消し飛ぶ。それでもエヴァは魔法を解かない。その程度は小事だと、むしろ更に魔力を強めた。肥大化した吹雪は世界樹に巣食う闇を根こそぎ削ぎ落とさんと圧力を増して――微かに、闇が脈動した。

 

「なに?」

 

 僅かな違和感。エヴァが眉根を顰めた瞬間、闇の残滓が津波の如く天に逆立ち、濁流となって『闇の吹雪』に襲い掛かった。それは異様な光景だった。吹雪という名の天災が闇という名の物量に押し切られ、徐々に魔法を構成する氷と闇の精霊を貪っていく。意思無き精霊の断末魔を感受しながら、エヴァは短く舌打ちした。

 

「悪食め。犬畜生とて、もう少しマシな飯を食らうぞ」

 

 これ以上は無意味と悟ったエヴァは即座に『闇の吹雪』を解呪する。

 喰らう対象を失った闇は徒党を組んでエヴァに向かうが、対するエヴァは軽やかに腕を振るうのみ。瞬間、堆い氷壁がエヴァと闇を遮った。行く手を塞がれた闇はバリボリと氷壁を噛み砕いていくが、既にエヴァの小さな口元は次の詠唱へと移っている。

 

「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック!

 来たれ氷精(ウェニアント・スピリトゥス・グラキアーレス)、

 大気に満ちよ(エクステンダントゥル・アーエーリ)。

 白夜の国の凍土と氷河を(トゥンドラーム・エト・グラキエーム・ロキー・ノクティス・アルバエ)」

 

 一音節ごとに集う氷の精霊は各々で結び付き、急激に周囲の空間を凍て付いた冷気で満たしていく。瞬動を以って一息の間に空中へ身を移したエヴァは、眼下に蔓延る醜悪な闇の瞳に視姦されながらラストワードを宣言する。

 

「こおる大地(クリュスタリザティオー・テルストリス)!!」

 

 集束した冷気は大地に宿り、氷柱となって顕現する。花弁の如く咲き乱れた大小無数の凍て付く氷柱は闇の尽くを食い破り、凍土の中へと閉じ込めた。しかし――

 

「ふん……やはり物理的な魔法は効果が薄い、か」

 

 軽蔑する大地には依然として闇が好き勝手に蠢いている。氷柱の直撃を受けて霧散したハズの巨大な百足や蜘蛛達は、無数に分裂を繰り返して、小虫となりながら活動を再開していた。

 

「圧倒的な再生能力――だけでは片付けられんな。なるほど。ようやく貴様という存在を理解したよ」

 

 エヴァは肩越しに背後を見やる。

 其処には『闇の吹雪』に呑まれた筈のアーカードが、何食わぬ顔で闇を足場に佇んでいた。

 その異常な事実をエヴァは露ほども気にせず、滑らかに小さな口を動かす。

 

「貴様は死なない訳じゃない。その逆だ。貴様は、死に続けているだけなのだろう?」

「……………………」

 

 アーカードは答えない。

 愉快そうに歪められた真紅の瞳だけが、エヴァに続きを促していた。

 

「思えば、貴様は私の知る吸血鬼の定義から外れ過ぎていた。身体能力は圧倒的な魔力による水増し。特殊能力は種族としての特性を魔法で補ったもの。再生能力は呪いに近い。それが私の知る吸血鬼だ。だが、貴様は違う。魔力に拠らない純粋な身体能力。私ですら持ち得ない特殊能力。そして出鱈目としか言い様の無い不死性。そうだ。貴様はまるで――物語の中から抜け出してきた、絵に描いたような吸血鬼じゃないか」

 

 空中に舞い上がる氷の残滓を背景にエヴァは朗々と語る。

 可笑しそうに。哀れそうに。眼前の吸血鬼を見据えながら。

 

「魔法によって真祖と化したものではない。眷属から昇華したモノでもない。ならば答えは一つ」

 

 解答は単純。真実は奇抜。

 

「アーカード。貴様は――自然発生した吸血鬼だな? 御伽噺の世界で生きる、本物の吸血鬼なのだろう?」

 

 パンっと。

 不意にアーカードは両手を打ち合わせた。

 パチパチと乾いた拍手が異常な空間に木霊する。

 嬉しそうに口元を歪ませたアーカードは、演劇を観終えた観客のようにエヴァを賞賛した。

 

「素晴らしい。行き着いたか。たった一つの答えに」

「ふん。まだ私の話は終わっていないのだがな?」

「それはそれは失礼した。だが、其処まで行き着いたオマエだ。私の中身にも気付いているのだろう?」

 

 試すようなアーカードの物言いにエヴァは切れ長の瞳を細める。

 

「――旧い文献で読んだことがある。当時はクダラナイ絵空事と気にも留めなかったが、実物を前にしては信じるしかあるまい」

 

 一言一言を述べる度にエヴァの纏う覇気が、より剣呑なモノへと変質していく。

 押し殺した声音は、否応にも昂る内心を鎮めているからだろうか。

 

「曰く、血液とは魂の通貨。啜った他者を取り込み自己を保存する生命の果汁」

 

 吸血鬼とは血を啜る鬼。

 その事実に変わりは無く、それ故のバンパイアだ。

 仮に人間の尺度で観た場合、エヴァとアーカードに大した差異などありはしない。

 けれど、両者を構成する根本。本質。在り方。

 それは清々しい程に真逆であり、憎々しいぐらいに反り合わない。

 

「他者の血を啜れば啜るほど。他者を取り込めば取り込むほど。貴様は新たな貴様を構築し、その数だけ何度でも生き返る。さながら魂の貯蔵――これほど相応しい言葉はあるまい」

 

 酷薄な表情で語られたエヴァの言葉をアーカードは微笑を以って肯定した。

 蠢く闇は、その悉くがアーカードであり、彼であり、彼女であり、貴方であり、誰かである。その事実は酷く酷く――エヴァの琴線に触れていた。

 

「――ああ、そうか。何故、こうも貴様が気に入らないのか分かったよ」

 

 今更ながらエヴァは胸中に疼く靄が晴れていくのを感じた。

 気付いてしまえば単純なことだった。とてもとても単純なことだった。

 

「私は、貴様が大嫌いなんだ」

 

 鷹揚に紡がれた堂々たる宣言は、氷塊に乗せて送られた。

 数十、数百、数千。

 前触れも無く広場を埋め尽くした氷の弾丸は、無様な隙を惜しげも無く晒すアーカードを瞬時に挽肉へと変える。それで終わりではない。肉片一つ。塵一つすら残す気が無いのだろう。エヴァは執拗に追撃を加え続ける。

 

「人間に縋っているなどと、よくも私に言えたものだ。人間に依存しなければ自己を構築できもしない惰弱な化物が、よくも私を虚仮に出来たものだ」

 

 だが、それでもアーカードは滅びない。

 チーズのように穴だらけな骸のまま、弾幕の渦中へ嬉々として飛び込んだ。

 

「私は『独り』で生きてきた。たった『独り』で正義を振り翳す世界と戦ってきた」

 

 飛び交う氷弾を意に介さず、愚直な前進を続けるアーカード。

 体躯から溢れ出る汚泥の如き闇は穿たれた隙間を補い、ギチギチと空虚な歯軋りを繰り返した。

 

「周囲から投げ掛けられる糾弾を、怨嗟を、嘆願を。

 聞き過ごし、踏み潰し、振り払いながら、たった独りで生き抜いてきた」

 

 エヴァは指揮棒を振るうかのように腕を振り下ろす。

 頭上に形成された巨大な氷塊は、氷神の鉄槌の如き威容を以ってアーカードの矮躯へと迫った。

 

「だが、貴様は違う。貴様は『一人』だ。私のように『独り』じゃない。貴様は真実本当に『一人』ぼっちなんだよ、アーカード」

 

 吸血鬼としての腕力のみで強引に頭上の氷塊を砕いたアーカードの体躯は、既に負傷箇所の修復を終えていた。その姿をエヴァは、ほんの僅かな憐れみを込めて見据えている。

 数十。数百。数千。あるいは数万の魂を内包したアーカードは決して独りではない。常に誰かが傍にいて、常に誰かの鼓動を感じている。

 だからこそ。だからこそ、アーカードは一人でしかいられない。

 彼等は領民であり、配下であり、アーカードそのものだ。

 一人。孤独になれない一人ぼっち。

 

「――然り。だからこそ、私はお前に惹かれているのだろうよ」

 

 一瞬。ほんの一瞬だけ、アーカードの表情から狂気が抜け落ち、羨望と慈愛に溢れた微笑をエヴァに向ける。それは己の一人ぼっちを誰よりも知るが故に、孤独でいられるエヴァを羨んでいるようにも見えた。

 

「――ハッ」

 

 それをエヴァは鼻で笑い飛ばす。

 見当違いの勘違いを嘲笑する。

 

「弱虫が。だから貴様は吸血鬼では在れても誇りある悪には為れないんだよ」

 

 独りと一人。

 限りなく近く限りなく遠い地獄を歩んできた両者の終幕は、もう間も無く訪れる。

 

 


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