殲滅の時   作:黒夢

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一一話 不死の血族

 

 

 闇が生まれた。

 水面に堕ちた滴のように、暗闇に出でた波紋は極小の波として広がっていく。

 緩やかに。緩やかに。緩やかに。そして艶やかに。

 溢れ出る闇の濁流は外へ零れる前に内へと凝縮され、空のタンクを満たしていく。

 

 世界が、震える。

 大気が、慄く。

 

 一秒一秒が薄く引き伸ばされ、風音が音信《おとずれ》を醸し出す。

 ただの風音が重低音のそれへと変わり、まるで福音を打ち鳴らしているかのよう。

 不意に風が止んだ。不自然なほどピタリと凪になる。

 福音も、今は、もう聞こえてこない。

 今、この場に鳴り響くのは――禍音が奏でる戦慄のみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――異変は顕著に訪れた。

 その時、黒髪の少女を模ったアーカードは指先に絡まる生暖かい鮮血をクチャクチャと弄んでいた。幼い外見に似合わぬ艶笑で白磁の頬を仄かに上気させながら、法悦に浸っている。ツンと鼻腔を擽る甘美な血の臭いに牙が疼いた。ポタポタと滴り落ちる鮮血がひどく勿体無くて、今すぐにでも齧り付いて思うが侭に喉を潤したい。けれど、それはダメだ。寸での処でアーカードは自身を戒める。愛しく恋しい好敵手の要求をアーカードは護らなければならない。

 エヴァンジェリンは血液の譲渡を、魂の通貨の共有を頑なに拒んでいた。

 なればこそ、アーカードは欲求を胸に秘めたまま、エヴァが事切れるのを静かに待っている。

 気丈な輝きに満ち溢れていたエヴァの蒼い瞳は光を失い、まるで人形のガラス玉のようだ。余命は、後数秒といったところだろうか。それで悪しき吸血鬼にして大魔法使いの伝説は終わる。終幕を迎える。たった一匹の化け物に看取られ、後はただ塵へと返るのみ。

 

 ――そのはず、だった、のに。

 

 フッと。何の前触れも無く街灯から明かりが消えた。

 否。それだけではなく、世界樹の傍らから見渡せる麻帆良の街から光が一様に引いていく。取り残されたかのようにポツンポツンと疎らに燈る光源は、アーカードは知る由も無いが、病院など一部の非常施設だけだ。本当に最低限、麻帆良を維持する為に必要な設備のみを残して、この街は完全に沈黙した。

 急な趣に興味をそそられたのか、アーカードはキョロキョロと視線を巡らす。

 深淵の眼《まなこ》には場の変質に対する懐疑の色は窺えない。ただ、嬉々として好奇の闇に染まっていた。可憐な少女の外見相応の仕草で辺りを探るアーカード。

 己の好奇心に夢中になるあまり、アーカードは迂闊にも眼を逸らした。逸らしてしまった。

 

 この場に在る、もう一体の同胞から。

 

 不意に。アーカードの腕に細い指が絡まった。

 爪に塗られた赤黒いマニキュアが、乾いた血のような光沢を以て存在を強調している。

 

「――――」

 

 まるで月に惹かれる水面のように。アーカードの瞳から、喜悦がスゥと引いた。能面のような無表情で自らの腕を、指の先を仰ぎ見る。鮮血に染まり、臓腑に埋もれる腕。細首に絡められ、締め上げる指。その更に先にある幼き美貌の瞳は――しっかりと、輝きを持って見開かれていた。

 鬼の如く縦に割れ、黒白が反転した眼球と視線が絡み合う。

 

「――いつまで、人の躰に風穴を開けているつもりだ?」

 

 ゴキャッと。肉が弾け、骨が粉砕される嫌な音が広場に満ちた。

 その音源は、二人の中間。エヴァの鮮血に濡れるアーカードの腕から。いや、それは最早、腕ですらない。細指に容易く握り潰され、圧壊されたソレはただの腕だった肉塊に過ぎなかった。

 エヴァの姿が無数の蝙蝠へと変わり、闇に紛れる様にして形を無くしていく。

 幾重にも残響する羽音は、次第にアーカードの後方で集り出した。

 

「…………」

 

 最早、言葉は要らず。拉げた腕をそのままにアーカードは振り返る。

 はたして其処には――憮然と腕を組む、エヴァの姿。腹部に開いていた風穴は綺麗に塞がり、今は名残として衣服に丸い穴を残しているのみ。その姿を見据えて、アーカードは懐かしむように瞳を細めた。

 

「懐かしいな、その姿は。見せ掛けだけでなく、中身も昔に戻ったようね」

「どうやら、そのようだ。大方、どこぞの誰かがいらぬ打算でも働かせたのだろうよ」

 

 そう吐き捨てるエヴァは見るからに不機嫌そのものであった。

 封印の枷から解放された爽快感よりも、その背後に在る思惑に苛立ちを募らせる。

 

(じじい……ではないな。増援を警戒すべき状況でわざわざ学園結界を解くなど、あのじじいに限ってはありえん。例え学園周辺の安全を確認できたとしても、万が一の可能性を除外するほど迂闊じゃない。だとすれば――)

 

 エヴァの脳裏を掠めるのは、一人のクラスメイト。

 どこか怪しい雰囲気を携える麻帆良一の天才。名を超鈴音。

 

(奴の差し金か。動くのは学園祭辺りと踏んでいたのだが……よほど、この人でなし共が気に入らないらしいな。尤も、奴のことだ。ここまで大胆に動く以上、魔法使いは元より、この人で無し共に対する警戒も施しているのだろう)

 

 どこから現状を予見していたのかは定かでないが、少なくともエヴァの封印を解くのは予定の範疇であると見て間違いない。エヴァがその後に取る行動もまた、超にとっての予定として組み込まれているのだろう。思わず、エヴァは口元を歪めた。

 

「喰えない奴だ。まさか、この私を道化《ピエロ》に仕立てあげるとはな」

 

 後で盛大に礼をしてやろうと心に決めて、エヴァはあえて超のシナリオに乗った。

 どちらにしろ、殺る事に変わりはないのだから。

 

「さて、予想外もいいところだが、こうして嘗ての魔力を取り戻した。期せずして、さっきまでの小競り合いは前哨戦となったわけだ」

「ふふ、では早速、本番を始めるの? 私はいつでも構わないぞ?」

「私も構わん。が、その前に――いい加減、その温い姿を止めろ」

 

 エヴァから溢れる桁違いの殺意がアーカードの身を焼き尽くす。

 それが心地好過ぎて、アーカードは興奮に躰が熱くなってきた。

 

「おや? さっきも言ったと思うけど、コレも私でアレも私だ。どんな姿になろうとも、私が私であることに変わりはない。それとも、この私では殺り難い? 女子供は殺さないというポリシーを持っていると聞いたが、それを私に適用するのはいただけないね」

「ハッ! 誰が貴様なんぞに遠慮などするものか。私が言っているのは見た目の話ではない。貴様の中身の話をしている」

「ほう?」

「生憎と、束縛の術には縁があるのでな。貴様を雁字搦めに縛り付けている術式には当に気づいていたさ。さっきまでは私も魔力を封じられていた状態で、条件は五分だった。だが、こうなった以上、貴様も全力で掛かって来い。何より、力の出し惜しみは私への侮辱以外の何物でもないぞ」

「ふむ。相も変わらず誇り高い。必要であれば用いるさ。望むのならば、それだけのものを私に見せるのだな」

 

 肩を竦めて嘲るアーカードはエヴァの要求を一蹴する。

 エヴァは改めて不快げに眉を寄せて、おもむろに不敵な哄笑を口元に刻んだ。

 

「随分とでかい口を叩くものだ。貴様とて、まさか忘れたわけではないだろう?」

 

 キィンと。氷を軽く叩いた様な澄んだ音がエヴァの右手を中心に音色を響かせる。

 エクスキューショーナー・ソード。気体を無理矢理に相転移させることによって、極大の破壊を齎す『死刑を執り行う剣』だ。息を吸うかのように自然な動作で発現させた剣だが、その難易度は極めて高い。エヴァほどの術者でなければ扱う事すら出来やしない。

 これだけを見ても、如何にエヴァが魔法使いとして桁外れの実力を有しているのかが推し量れた。エヴァが感触を確かめるかのように極低温の刃を虚空へ軽く振るう度に、軌跡には魔力の残滓が雪のように零れ落ちる。残滓が地に落ちて消える最中。

 

「――三十年前、私に手も足も出ずにバラバラに引き裂かれ、氷漬けにされたのを」

 

 エヴァは隠そうともしない嘲笑を口元に貼り付けて、アーカードの拉げた腕を斬り飛ばした。

 

「っ!?」

 

 接近の予兆すら掴むことのできなかったアーカードは、極低温の刃が肩口を蒸発させる激痛でようやく何が起こったのかを理解した。けれど。その間にも魔剣は三度翻り、瞬く間に残る四肢を破断する。

 

「…………っ!!」

 

 呻き声を上げる暇すらない。文字通り芋虫にされたアーカードは脚という支えを失って地面に堕ちる。その寸前で、長く艶やかな黒髪を乱暴に掴まれた。

 

「これで分かっただろう? 今の貴様では、今の私の相手にならん」

 

 未だ大気を侵食する極低温の剣を現出させたまま、エヴァは無表情で告げる。

 

「三十年前は私も僅かに遊びを挟んでいた。久々の同属との会合に興じてな。まあ、貴様の言葉で心が揺さ振られたのは認めてやる。実際に糸使いの男を仕留められなかったのは私の失態だ。けどな……今の私には、遊び心も迷いも無い」

 

 冷血な眼差しは、何の感慨も抱かずに無様なアーカードを見据えている。

 

「確かに貴様の再生能力は私から見ても次元が違う。マトモに戦えば苦戦は必至だろうな。だが、それだけだ。パワー、スピード、技巧。再生能力以外の全ての面で、私は貴様を遥かに上回っている。冷静に戦えば、私の敗北など万に一つとてありえん」

 

 だから。

 

「さっさと本気を出せ。でなければ――首だけにして、永久の凍土に幽閉するぞ?」

 

 不意にエヴァはアーカードの黒髪を離す。重力に従って堕ち行くアーカードの体躯は、横合いから加えられた情け容赦の無いエヴァの蹴撃によってサッカーボールのように弾け飛んだ。

 

「……ッ!?」

 

 苦悶と喜悦を織り交ぜた悲鳴を引き連れて、アーカードの体躯は空を翔る。

 そうしてアーカードは、常人では一筋の閃光としか移らぬであろう猛烈な勢いで世界樹に激突した。

 

「ふん……」

 

 結果に興味を示さず、つまらなそうに鼻を鳴らしたエヴァは――不意に声を聞いた。

 

 

「――拘束制御術式。第三号、第二号、第一号、開放」

 

 

 闇の祝詞が響く。

 甲高い少女の声で。逞しい青年の声で。しわがれる老人の声で。

 世界に出てはいけないナニかが、意気揚々と謳っている。

 ゾクリと。エヴァは這い寄る悪寒に、年相応の少女のように身を震わせた。

 際限無く吹き出る瘴気に犯され喉が渇く。眼が、溢れ出かける闇に釘付けになる。

 祝詞は、続く。

 

「状況A。『クロムウェル』発動による承認認識。

 目標、敵の完全沈黙までの間、能力使用限定解除開始」

 

 そして、ソレは膿まれた。

 闇の濁流が世界樹を覆う。生命の象徴とも言うべき偉大なる樹木を、醜悪な闇色で染め上げていく。樹木の表面は腐り落ち、青々しい葉々は色を失くして項垂れる。ザワザワと風に揺らされる枝々の掠れが、悲鳴のように広場を満たした。

 

「――――」

 

 声も無く、エヴァは夜空よりも暗い深淵の闇を見上げていた。

 恐怖が、胸を蝕む。畏怖が、躰を諌める。そして幾許かの畏敬が、胸を熱く焦がした。

 立ち上る闇を観よ。あれこそが闇の眷属。夜に生きるモノ。陽に背を向けるモノ。悪食となりて全てを喰らい尽くす暴虐の死徒。完全で、完璧で、完成された――本当の、ヴァンパイア。

 

「これが――人間を止めた、本当の吸血鬼、だと……?」

 

 掠れ声で呟くエヴァの胸中には、既に鼻持ちならない同属に対する嘲りは消えていた。むしろ、吸血鬼としての自らの矮小さをはっきりと見咎められているかのようで、ひどい虚無感が胸を過ぎる。

 闇に『眼《マナコ》』が現れた。

 幾十、幾百、幾千、幾万――数を増し続け、その全てが虚像のようにエヴァを射抜く。

 闇が、口のように震えた。

 

「では、大魔法使いよ。教育してやろう。本当の吸血鬼の闘争というものを」

 

 闇の頂点に人型が現れ、拘束着に包まれた男性のアーカードを形作る。

 その手に握られるのは、こんな暴虐そのものだというのに、黒と銀の二挺拳銃。

 エヴァは震えていた。どうしようも無いぐらい震えていた。

 ブルブルブルブルと産まれたての小鹿のように震えていた。

 

 ――――武者震いを、していた。

 

「……上等だ。私を誰だと思っている! 我は『闇の福音』! エヴァンジェリン!! 闇の福音を奏でる者! たかだか汚らしい闇の一つや二つ、造作も無く懐柔してくれるわ!!」

 

 咆哮は爆発的な魔力を呼び、闇から溢れ出る瘴気が魔風によって吹き飛ばされる。

 矮小と侮る無かれ。その身は伝説。究極と呼ばれし闇の大魔法使い。確かに吸血鬼という在り方であれば『不死の王』に劣っていよう。しかし、その身は吸血鬼であると同時に魔法使い。

 理を以って呪を紡ぐ者。闇を従え、闇を支配する王者。それこそが、童姿の魔王。

 

「懐柔だと? この私を? お前が!? お前に出来るのか? 我が主と同じ高みにまで登れるのか? どうなんだ、エヴァンジェリン!?」

「はっ! 貴様のような駄犬の世話は慣れているのでな! 精々調教してやるさ!!」

 

 牙を打ち鳴らし、吼える二匹は闇を犇めかせながら魔力を躍らせる。

 不死王と魔王。人間からそう形容される吸血鬼達は自らブレーキを壊して、停止する事を早々に放棄した。もう、生半可な介入では止まらない。どちらか一方が斃れるまで、血肉が舞い、嘲笑に塗れる殺陣は終わらない。

 

「エぇぇぇヴァああぁぁぁンジェリいいぃぃぃぃンっっっっ!!!!」

「アああぁぁぁぁぁカああぁぁぁぁぁドおおぉぉぉっっっっ!!!!」

 

 二人は獰猛に喉を震わせ、頬を歪め、口先を吊り上げ――互いの名を鮮烈に叫び合いながら、最後の殺し合いに挑んだ。

 

 

 

 

 

 世界樹の傍らで行われる激闘は、時を置かずして学園長にも知れる事となった。

 

「この魔力は……学園結界が解けた事で、エヴァンジェリンの束縛が解かれたか」

 

 浅く溜め息を吐きつつ、学園長は事後処理の予定を早速組み立て始める。

 本来ならば、図書館島に住まう大司書に助力を請うつもりであった。如何に万全の状態でないとはいえ、その身は英雄。化物を討ち倒すには、申し分の無い人物である。その為に魔力の譲渡を行う為の魔法陣を用意していたというのに、あのハッキング騒ぎのせいで御破算になってしまった。

 

「偶然、ではないのう。明らかに確信犯じゃな。となると……あの娘か」

 

 学園長の脳裏に浮かび上がるのは、魔法関係者に危険人物としてマークされている超鈴音。その秘めたる目的を知らない学園長であるが、エヴァの封印を知った上で今回のような行動に出る人物は、能力的にも彼女以外に心当たりはなかった。電子戦に優れた魔法先生達が今もハッキングの出処を探っているが、恐らく尻尾は掴ませないだろう。そう学園長は嫌な確信を覚える。

 

「ともあれ、これで決着じゃな」

 

 過程に些かの不満を残す結果となったが、こうなった以上、既に勝敗は決したと見て間違いないと学園長は判断する。如何に『不死の王」と言えども、伝説に謳われる悪の大魔法使いに及ぶとは到底思えなかった。だが、次いで膨れ上がる悍ましい魔力に学園長は眉を顰め、眼光を鋭くする。

 

「なんじゃ……エヴァンジェリンのものではない。とすると、HELLSING機関の……」

 

 長い時を生きてきた学園長でさえ、ここまで禍々しい魔力など感じたことはなかった。

 改めて、学園長が麻帆良に現れた者の規格外さを噛み締めていると、再び通信端末が鳴っているのに気づいた。慌てて回線を繋ぐ。

 

『学園長!』

 

 聞こえてきた声は弐集院のものだった。

 

「今度は何じゃ。わしはもう何が起きても驚かんぞ」

『そ、それが……』

 

 弐集院は僅かに言いよどみ、一度大きくツバを飲み込むと、一息に言い放つ。

 

『イスカリオテ機関長エンリコ・マクスウェル、それからヘルシング機関局長インテグラ・ヘルシングから連絡が! 早急に学園長と話をしたいと、通話での会談を打診してきています!!』

 

 その言葉が齎した衝撃の程は、机上に崩れ落ちる学園長を見れば一目瞭然であった。

 

 


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