殲滅の時   作:黒夢

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一話 闘争開幕

 

 時刻は零時。闇夜が最も色濃く香り、月光が最も良く見栄える魔性の刻限。

 窓際に立つ大柄な男は、窓越しに淡く輝く月を見上げて「ほう」と短く感嘆の吐息を漏らした。

 男の風貌は、およそ二十代後半であろうか。宵闇のような黒髪はざっくばらんに切り揃えられ、丸いサングラスの奥に見え隠れする瞳は禍々しい紅彩を帯びている。鮮血で染色したかのように色鮮やかな真紅のコートは、何処か血生臭い男にマッチしていた。

 クツクツと。喉を競り上がる愉悦を紛らわすかのように男は傍らのグラスを手に取った。紅いソレを、貴族のような優雅さで喉に流し込む。

 

「いい夜だ。こんな夜は、いい気分で血を飲める」

 

 舌の上で広がる濃厚な甘味は深淵のように奥深い。

 喉を通り過ぎる際に鼻腔を擽る香りは、夜風のように芳ばしかった。

 紅い液体は男にとって生命の通貨であり糧だ。

 とても愛しそうに最後の一滴まで飲み干すと、法悦に浸りながら虚空へ嘯く。

 

「ああ――本当に。本当に、いい夜だ」

 

 見上げる月は、完全な形で其処にある。

 いつものように矮小な星々を隷属させて、自らを引き立てる傀儡にしながら。

 真ん丸の満月は、雲一つ無い夜空を我が物顔で席巻していた。

 

「お前は、私すら見下す。私をも、下に置く。実に面白く、憎らしいヤツだ」

 

 男は、徐に月へ手を伸ばした。

 決して届かないと知りながらも、郷愁の念のようなものがそうさせる。

 空を泳ぐ手は月を捕まえようと躍起になるが、指の隙間から零れ落ちるばかりで一向に捕まってくれない。

 

「…………ふッ」

 

 暫らくすると、男は手を引っ込めて嗤った。らしくもない不毛な行動を嘲るように。

 

「今日の月は、いつにも増して私を惑わす。やはり、似ているからか? あの夜に」

 

 静かで重苦しい声色は確かな喜悦を夜の闇に溶け込ませ、ひっそりと消えていった。

 男は高揚する心根を自覚して、だからこそ幾分か残念そうに肩を竦める。

 

「これ程までに私は貴様に思いを馳せているというのに、そんな貴様はいったいどこで何をしている? いったいどこで、意地汚く人間に縋り付いているのだろうな」

 

 丸いサングラスの奥。爛々と輝く真紅の瞳は、此処にはいない誰かを捉えて、嘲る様に笑っていた。その時だ。不意に、歴史ある木製のドアが、ギィッと軋みを上げて開かれる。

 

「此処にいたか、アーカード。ずいぶんと捜し歩いたぞ」

「ウォルターか」

 

 真紅の男――アーカードは振り返りもせずに訪問者の名を呼んだ。

 執事服を隙無く着こなす初老の男――ウォルターはやれやれと軽く首を振ってみせる。

 

「インテグラ様がお呼びだ。君を捜すのに手間取ったからな。急いでくれ」

「ほう? 今日は喜ばしいことに仕事が無いのではなかったのか?」

「休みさ、君は。小物の起こす騒動など、イチイチ君が対処するに値しない」

 

 意味深いウォルターの物言いに、アーカードはニンマリと口先を歪ませる。

 

「なるほど。どうりで婦警と傭兵の姿が見えんと思っていたが、そういうことか。小物は小物同士で。闘争に生きるモノは闘争に生きるモノ同士でと。つまりはそういうことなのだな『死神《ウォルター》』」

 

 振り返ると共にアーカードはパンッと軽快に手を叩く。

 まるで1+1の答えが分かった幼稚園児のように、分かりきった答えに満足して。

 

「ああ、そうだ。そうだとも。それも格別な獲物だ。特に私と、君にとってはな」

 

 紳士の顔付きからゴミ処理係のソレへと。ウォルターは皺くちゃの頬を持ち上げ、活力に満ち満ちた瞳でアーカードを一瞥する。それだけで、アーカードは理解した。

 

「っ!? まさか!!」

「そのまさかだ。ヤツが遂に見つかったらしい。急げよ、私とて待ちきれないのだ」

 

 念を入れてそう言い残すとウォルターは優美に扉を閉める。

 閉められた部屋――其処には既に、アーカードの姿は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロンドン郊外。

 都市の喧騒からは無縁の平地に、一軒の豪邸が物静かに居を構えていた。貴族の城館を思わせる壮麗な造りは、観る者を感嘆させる歴史と品格を秘めている。数十に連なる窓の殆どは暗闇に覆われ、光点が燈る箇所は隣り合わせの一帯のみ。そうして光が燈る一帯。其処は改装を施しさえすれば盛大なパーティーを開ける程に広大な一室であった。天井と床は黒と白のチェックの柄で塗装され、さながら巨大なチェス盤のようだ。

 そんな美しくも気味が悪い黒白の世界には、三人の人影があった。

 アーカードとウォルター、そして木造の事務机と椅子を陣取る妙齢な女性だ。

 腰まで靡く金砂の髪は窓から差し込む月光に好く冴え、整った顔立ちは貴族の令嬢の如き気品を宿している。しかし、メガネの奥に隠された瞳は他者を隷属させるかのように鮮烈で、可憐な姫君には程遠い。むしろ、尋常ならざる気配を撒き散らす男二人を臆さず見据えるその姿は、女傑という形容が相応しかった。

 

 カチ。コチ。カチ。コチ。カチ。コチ。カチ。コチ――――

 

 静寂が満ちる室内に、時計の秒針の音がヤケに大きく反響する。

 静寂の最中。口火を切ったのはアーカードだった。

 

「――ヤツを見つけたというのは本当か? マイ・マスター」

 

 ゆっくりと、それでいて抑え切れない狂喜に貌を綻ばせながらアーカードは自身を従える唯一の存在に尋ねた。その問い掛けの意味さえも極上のワインのように飲み干しながら、口の端に鋭い犬牙を覗かせ、嘗てのソレを脳裏に思い描く。そんな頼もしい親愛なる下僕を前にして、女は思わず喜悦に喉を鳴らした。

 

「クッ……貴様は、貴様のマスターの言葉が信じられないとでもいうつもりか? そうなのか? 吸血鬼《バンパイア》」

「そうではない。そうではないさ。我が主が見つけたと言っているのだ。ならばそれは絶対の真実だろう。私が聞きたいのは、そんなわかりきった当たり前のことではない。ヤツがいったいどこにいるのか。私は、そう聞いているのだよ」

 

 吸血鬼――人々の空想の中でのみ登場する不死の化物。

 その名で呼ばれたバケモノは、言葉遊びのようにそう返した。

 子供が玩具を強請るように、バケモノは抑え切れない興奮を言葉で誤魔化しているのだ。

 それでも、欲しいという欲求は抑え切れない。抑え切れるわけが無かった。

 

「インテグラ様……あまり、焦らさないでくださいませ。アーカードも、私も。ヤツには浅からぬ縁がございます。この老いた脳にすら、ヤツの姿は今なお色濃く焼き付いているのです」

 

 それはウォルターとて同じことだ。否。ひょっとしたら、この紳士然とした老人の方が欲求は大きいのかもしれない。インテグラと呼ばれた女はウォルターのオネダリを受けて満足そうに微笑むと、見るからに高級そうな葉巻を口に銜える。

 

「ウォルター」

 

 短く、名を呼ぶ。それだけで十年来の従者は澱み無く動いた。その意を汲み取ると懐より年代物のライターを取り出して、瑞々しい唇に銜えられた葉巻の先端に火をつける。広い室内。その一角に紫煙が舞った。インテグラは二、三度浅く吸うと、まだ大分残った葉巻を灰皿に押し付ける。そうしてグリグリと必要に葉巻を押し潰しながら、ようやく重い口を開いた。

 

「日本だ」

 

 ただ一言。インテグラはそう言った。

 けれど、ウォルターとアーカードにはそれだけで十分に過ぎた。

 

「なるほど。宗教に無縁のあの地なら、奴が隠れるには打って付けですな」

「しかし、妙でもある。あの国は宗教にまるで興味がない。だからこそ、我々は既にあの国をしらみつぶしに探したはずだぞ。それなのになぜ今更になって、ヤツがあの国にいるとわかった?」

 

 国家としては珍しく、宗教の浸透に縁遠いあの国は、中立地帯のような場所柄として有名だ。そのためか、宗教の弾圧を恐れる化け物や異端者が集りやすい。彼等にしても、あの国での捜索は十年以上前から行っている。けれど。捜索から十数年。今までヤツの足跡すら見つけられなかったというのに、今頃になって何故、発見できたのだろうか。そう彼等は疑問を抱いた。

 

「日本の古都、京都でヤツの姿を目撃したという情報があった。そこから広範囲に情報網を広げた結果……」

 

 そこまで言って、何故かインテグラは言いよどむ。

 

「結果、なんだ?」

 

 先を促すアーカードにインテグラは胡乱な一瞥をくれると、半ばヤケクソ気味に続けた。

 

「……ヤツは、日本における魔法使いどもの巣である麻帆良学園に……『生徒』として、在籍している事がわかった」

「…………」

「…………」

 

 何とも言えない沈黙が場を満たした。

 インテグラの背など、微妙に煤けている様にも見える。

 もっとも、積年の怨敵が暢気に青春を謳歌しているとなれば、無理も無いかもしれないが。

 

「……それは、また。灯台下暗しですな」

 

 数秒の沈黙の後、僅かに気を持ち直したウォルターは、乾いた笑みのまま日本の諺を冗談交じりに口にした。確かに麻帆良学園は日本に於ける魔法使いの本拠地、関東魔法協会の拠点として有名であり、化生を受け入れる余地は少なからずある。だが、まさか長年捜し求めていた宿敵がそんな所に、そんな立場でいると誰が予想できるだろうか。

 そもそも人一倍プライドの高いアレが、何故そんな屈辱的としか言いようのない立場に甘んじているのか理解できない。微妙な場の空気を嫌ったのだろう。インテグラは頭を振って気分を入れ替えると、元の厳格な雰囲気を再び繕うために指を組み、神妙な顔付きに戻った。

 

「……すでにヴァチカンも動いている。ヤツ相手だ。恐らく、出てくるのは……」

「アンデルセンか。ならば、私が出るしかないな」

 

 言いながら、アーカードは嗤う。

 メインデッシュだけでも極上の味わいがあるというのにデザートまでついてくるのだ。この化け物にとって、それは処女の血を一息に吸い尽くす時にも勝る喜びであろう。反対にウォルターは珍しく肩を落として落胆を露にした。

 

「残念ですな。ヤツとは、是非に決着をつけたかった」

「そういうな、ウォルター。お前にまで抜けられては、誰が私を護るのだ? 生憎と、私が身を任せられる者は多くない」

「ふふ……光栄至極でございます。インテグラ様」

 

 そうしたやり取りを経て、夜の闇は更けていく。

 最後に一言。主従の他愛の無い遣り取りを残して。

 

「標的は『闇の福音《ダーク・エヴァンジェル》』

 エヴァンジェリン・アタナシア・キティ・マクダウェル。

 命令《オーダー》はわかっているな? 我が下僕」

「見敵必殺《サーチ・アンド・デストロイ》。認識した。我が主」

 

 

 

 

 

 

 ――それは、ある満月の夜に起こった昔の話。

 否。悠久を渡る化物にとっては昔という程でも無いだろう。何せ、たかだか三十年前の話だ。

 ある日、突如として真祖の吸血鬼――エヴァに襲い掛かってきた真紅を纏う同属狩りの吸血鬼とゴミ処理係を名乗る妙齢の男。殺し殺される日常が当たり前のように繰り返されてきたエヴァの中でさえ、その日の一幕は鮮明に色付いている。

 吸血鬼は遊ぶようにエヴァと殺し合いを演じながら、唐突に訳の分からない事を尋ねた。

 

『エヴァンジェリン……最強を名乗る同属よ。貴様は何のために生きている? 貴様はすでに何の目的も無く、すでに何の拠り所も無い。時間の波に流されるだけの存在だ。ただ生きて、ただ殺して、ただ流れる。貴様は実につまらない、ただそれだけを為すためだけの存在に成り下がってしまっている。私にはわからない。貴様は何のために、見限ったはずのこの世界に縋っているのだ?』

 

 戯言を、と。普段のエヴァなら、そう切り捨てていただろう。けれど、満月の夜はエヴァの気を昂らせ、気紛れに答えさせる。自慢の爪で同属の左肩から右脇腹を斜めに引き裂き、湧き出る鮮血に微笑みを深め、腹の底から力を入れて。

 

「生きたいから生きているのだ!!」と。

 

 一瞬の迷いも無く、誇りすら持ってエヴァは答えた。それは何の脚色も無い真実の叫び。

 何処の世界に勝手に吸血鬼にされて、勝手に追い回されて、勝手に殺されるなどという運命を許容できる者がいるというのか。少なくとも、エヴァンジェリンという人間だったモノはそんな結末を認めない。認めてなるものか。意地でも生き抜いてやる。

 そのために力をつけた。そのために――『闇の福音《本当のバケモノ》』となった。

 だが、吸血鬼は言う。あまりにも滅茶苦茶で、真祖よりも特異で、取り分け異質な化物は体躯より吹き出る己の鮮血すら気にも留めずに『つまらない』と。そうして、エヴァに背を向けた。

 

『本当につまらない。それは人間こそが言うべきものだ。私たちのような化け物のための言葉ではない。よくわかった。貴様は世界に縋っているのではない。人間に縋っているのだ。そんなつまらない貴様など、今は殺すに値しない。貴様と私は必ずもう一度出会うだろう。その時に、もう一度だけ聞いてやる。貴様は何のために生きているのか、と』

 

 一方的に言い残して、吸血鬼は去っていった。

 エヴァは呆気に取られたが、それは妙齢の男も同じだったらしい。その後の戦闘は特筆すべき点もなく、痛み分けに終わってしまった。妙齢の男とて、強敵であったのは間違いない。けれど、ある程度の犠牲を前提にすれば、エヴァにとって斃せない相手ではなかった。判断が鈍ったのは、あの吸血鬼が去り際に残した戯言のせいだろうと、言葉にこそしないがエヴァも自覚している。

 故に。あの時から、時折エヴァは考えるのだ。人間としての思考ではなく、吸血鬼としての思考でもなく、エヴァンジェリンという少女の思考で。自分は――いったい何のために生き続けているのだろう、と。

 

「……くだらない。私の答えは、あの時から変わっていない」

「え? 何か言いましたか、師匠《マスター》?」

 

 不意に。子ども特有の高い声が、すぐ近くから聞こえてきた。

 思考に没頭していたエヴァは、その声で自らの弟子――ネギ・スプリングフィールドの修行に付き合っていたことを思い出す。

 

「……なんでもないよ」

 

 そう。なんでもない。こんな感慨など、ただ今日が満月だったから思い出しただけだ。現に、この学園で生徒をやらされてから今日まで一度も思い出した事は無かった。明日になれば、またいつも通りのクダラナイ日常に戻れる。そうエヴァは己に言い聞かせた。

 しかし――エヴァは嫌な胸騒ぎを覚えていた。茶々丸との組み手に精を出すネギを遠目に眺めながら、何とも為しにエヴァは夜空の満月を見上げる。

 

 ――淡く光り輝く真ん丸の月は、血に濡れているかのように紅く見えた。

 

 これは、真紅の吸血鬼が戯れに月へと手を伸ばした、数日後の話である。


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