すたれた職業で世界最高   作:茂塁玄格

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大変、大変お待たせしました。よろしくお願いします。


月は愛の灯に徹するを求む 第一夜

~~~~~

~~~~~

 

 今夜もアタシは夢をみる。

 

 何度も何度も同じ夢をみる。

 

 優しい優しい男の子が、痛い痛いと泣く夢を。

 

 イヤよ、イヤ。もうイヤなのに夢をみる。

 

 優しい優しい女の子が、なんでなんでと泣く夢を。

 

 悲しみは優しい人にこそ伝わって、深い愛情が裏返ればそれは激しい憎悪に変わる。

 

 たくさんの悲劇が積み重なっていくのを、アタシはただ見守る事しか許されない。

 

 雨で湿った森の中へ駆けていく小さな男の子の背中が遠ざかっていく。

 

 ダメよ、ダメ。行っちゃダメ!

 

 なのに、声は届かない。

 

 だって、これは夢だもの。

 

 あぁ、こんな“力”に何の意味があるのだろう。

 何の為に宿った“力“なのだろう。

 夢なんかみたくないと、眠らないで過ごそうと悩んだ頃もあった。

 

 でも、それでも、アタシだって夢をみる。

 

 稀にある“奇跡”の訪れを祈って、今夜もアタシは夢をみる。

 

 霧雨に濡れた木々を駆け抜けて、男の子が足を滑らせた。

 

 小さな背中が崖の下へと吸い込まれていく。

 

 あぁ、また、同じ夢…………。

 

――うおっ、何だ今のっ!? 流れ星ってレベルじゃねぇぞ。火球? すっげぇ……―― 

 

 …………? 

 

 いつだって夢の切り替わりはあまりにも唐突で。

 

 脈絡なく聞こえてきた声は楽し気で。

  

 ふと夢を見渡せば、魔力の感じない灯りに満ちる街並みと、見知らぬ星空が広がっていた。

 

 瞬く星々を横切る眩い流星が、知らない夜空に一筋の尾を残して消えていく。

 

 初めて見る不思議な流れ星は、悲しみと悔しさが滲んだ涙みたい。

 

 ぼやけていく夢に、柔らかで、伸びやかな声が心地良く残響する。

 

――えーっと……、おはようございます?――

 

 かすれていく夢の中、広い背中が遠ざかっていく。

 

 なんだか無性に寂しくなって、思わず手を伸ばしてしまう。

 

 待ってよ、待って! ……ここはアタシの夢の中、アタシの声が届くはずはない。

 

 届くわけない、はずなのに。

 

――急ぎましょう、■■様。どっちが近道か占って頂いても?―― 

 

 ……あら? あらー? あらららー?

 

 これは、これは、もしかしてー?

 

 期待してもいいのかしらー……、アタシも夢をみて、いいのかしらー……。

 

 ゆったり、ゆったり、微睡(まどろ)みの中。

 

 あぁ、こんな気分は久しぶり。

 

 あぁ、この夢がきっと正夢でありますように……。

 

~~~~~

~~~~~

 

 カクッと首を揺らしたのをきっかけに、倬はハッと目を覚ます。

 

 湿った土と焚火の匂いに混じって、砂糖を焦がしたような香りが鼻腔をくすぐった。ひんやりとした風に頬を撫でられて、ゆっくりと意識が覚醒していく。

 

 いま鼓膜を震わせているのが葉擦れや虫の鳴く声だと理解し、自分が野営中に転寝(うたたね)をしてしまったのに気付いて身の回りを確認する。

 

 のろのろと視線を動かせば、マグレーデを出発する前に皆で作ったマシュマロを焚火で炙っているヨークと目が合った。

 

「んおっ……。スイマセン、自分どれくらい寝ちゃってました?」

 

 見張り番をさせてしまったかと慌てて聞くが、対するヨークはポカンとした表情を浮かべて首を傾げる。「何言ってんだコイツ?」とでも言いたげだ。

 

「どれくらいってお前……。こう……、“カクン”ぐらいじゃねぇか?」

「あれ?? いや、“船を漕ぐ”って程度の感じじゃなかったんですが……」

「いいえ、アナタさまー。ゆっきー、ごいっしょしてましたけど、“パッ”っておわっちゃってみられませんでした」

「こんな事は初めてです。ワタクシ、残念……」

 

 “氷の妖精”ゆっきーと雪姫様は大抵倬の“中”で休んでいるので、契約した精霊の中でも特に倬の意識に敏感なのだが、その二人でも先程の夢は短くて共有が難しかったようだ。

 

 ただ倬の実感としてはかなり深く眠っていた気がして、内容こそ思い出せないがとても物悲しい夢を見ていた気がする。

 

 まだ薄ぼんやりとしたままの頭を振って、眠りに落ちる直前までの記憶を遡る。

 

 マグレーデでの“ゴーコン”を終えてから丸一日かけ、小鬼(ゴブリン)の“巣”を幾つか潰しながら東へ移動した倬達は、銀色のスライムが最も多く目撃されている山へ分け入り、手ごろな場所で食事を済ませたのだ。

 

(んで適当な枝を軽く洗って、マシュマロを刺した……)

 

 今も倬の手にはマシュマロを指した枝が握られていて、落とした様子もない。枝には葉っぱのチューリップハットを被る“森の妖精”もりくんがそわそわしながらしがみ付いている。

 

「たか、たか、“ましまろ”ならもりくんが焼いてやるぞ。まかせろ、なっ!」 

「あ、ならお願いしようかな。よろしく、もりくん」

「よっし、まかされたぞ!」

 

 もりくんが操る(つる)にしゅるしゅると枝が巻き取られ、焚火を燃やす“炎の妖精”かーくんの元へ向かっていく。枝先のマシュマロが熱を受け、甘さと苦味の入り混じった香りを立ち昇らせる。真っ白だったマシュマロが(たちま)ち茶色に染まっていく様は、どれだけ魔法のようなファンタジーを経験しようとも心を躍らせてくれた。 

 

 甘い香りに、焚火の灯りと暖かさ、賑やかな話し声に包まれて、なんだかほっとしてしまう。

 

 それが却って、異世界トータスへと召喚される前に見た、この場所とはまるで正反対の色も熱も感じない世界に立ち尽くす不思議な夢を思い出させた。ただ泣き続けていた長髪の男の子の姿は、精霊様の姿によく似ている気がして。

 

(夢……、夢か……)

 

 漠然と二つの夢を比べる倬の頭の上で、シャラランと涼やかな音が奏でられる。“音の精霊”音々様が倬の思考があてどなく走り出したのを読み取って、一度落ちつかせようしてくれたのだ。

 

『倬様がここに来る前に見た夢かぁ……。不思議な場所みたいだよね?』

 

 これにもりくんのフォローをしていた森司様も右隣にやってきて、自身の記憶と照らし合わせ、小さくかぶりを振った。

 

『僕にも精霊のようにしか見えないが、やはり見覚えはないな』

『地球由来の精霊様だったりするんでしょうか?』

『どーだろなっ! もりくんにはもりくんと同じに見えるけど……。それよりたか! “ましまろ”焼けたぞ! もりくんの自信作だっ!』

『友よ、かーくんの事も褒めてやってくれ』 

 

 ヨークと喋っているかーくんだが、焼き上がったマシュマロの感想を気にしてか、チラチラとこちらの様子を伺っていた。

 

『あはは、まぁ考えて分かる事じゃなさそうですもんね。ありがとうございます、もりくん、かーくん、火炎様も』 

 

 これまで召喚前に見た夢について具体的に相談した事はなかった。あったとしても雑談の中で少し訊ねてみただけ。夢の中で涙を拭って遥か高みへと消えていった()()()を、精霊達は“()()()()()()()()”であるとの見解を示してくれているのだが、対面してみないとハッキリとした事は言えないらしい。

 

 今にして思えば、倬がトータスにおける精霊や妖精の存在を抵抗なく受け入れられたのは、かつて見たその夢のお陰なのかもしれない。

 

 そんな風に“夢”について考えていると、周りの空気が揺らいだのを感じる。“空の妖精”くぅちゃんが何やら考え込むように“ん~……”と唸っているのが原因だ。

 

『“ゆめ”……、“お月さま”の力とも似てる~?』 

『そうね~、“月の精霊”ちゃんは占いも得意だったものね~』

『………………夢で占うやつ、だな。“星占い”とか他のもやってた、けど』

 

 空姫様と宵闇様は“月の精霊様”が持つ力は地上に残った精霊の中でも特に複雑なのだという。その複雑さは魔法属性における“光”と“闇”その両方の特性を保持している事に由来し、複雑さ故に“月の精霊”本人ですら自身の力を完全には把握していない。

 

 こういった事情もあってか“月の精霊様”は契約者選びに慎重だったのだとか。

 

『………………“夢”の事も、“護光”の事も、会ったら、相談してみよう、な?』

『そうですね。まずはお会いしないと』

 

 “月の精霊様”探しに向けて決意を新たにした所で、ヨークのわざとらしい咳払いが聞こえてきた。異世界からの召喚が絡んだ話題だったので、ヨークには先程の“念話”の内容を伝えていなかったのだ。

 

 内緒話自体に文句を付けないでいてくれるのは、倬にとってはありがたい。

 

「――えっほん、えっほん。……終ったか?」

 

 手元に地図を広げ、顎髭を撫でる仕草は本当に様になっていて、倬は思わず苦笑いを浮かべそうになる。苦笑いの原因は、髭にくっついたマシュマロにもあった。

 

「すいません、お待たせしました。明日の打ち合わせですよね」

「ああ。スライムにどう挑むつもりなのか確認しとかねぇと」

 

 「別に心配はしちゃいねぇがよ」と精霊一人ひとりに視線を移しながら付け足して、ヨークは先を促してくる。

 

 倬もまた、いい機会だと座り直してベテランの金ランク冒険者であるヨークと向かい合う。

 

「ヨークさん、反対なら正直に言ってください。その時は諦めますので」

「……なんだ、もう怖ぇんだけど」

「銀色のスライム、可能なら捕まえてみたいんですが」

 

 この台詞にヨークがしばし固まる。たっぷり三十秒ほど倬の言葉を反芻して、大きく頷いてから再起動。

 

「…………は? …………ああ、いや、“封印依頼”だからな、“捕まえる”で合ってるか」

「そうではなく。――こういう事です」

 

 腰に巻き付けた目に優しくないピンク色の“宝箱”から取り出したのは、ブロック状に押し固められた謎の物体。これはメルジーネ大迷宮で遭遇した魔物までもが恐れる怪物であり、現代において“悪食(あくじき)”、古のトータスでは“うわばみ”と呼ばれたモノの一部である。

 

 メルジーネの大迷宮攻略の際、“うわばみ”について調べる為に切り取った細胞を空間魔法で閉じ込め、いつの日か自分の変成魔法で“うわばみ”を従えられないか実験する目的で回収していたのである。

 

「うぇっ、倬ノ助、てめぇ、今のいままで()()()()()持ち歩いてたってかッ?!」

「はい」

「はい、じゃねぇ!」

 

 慌ててその場から飛び退くヨーク。冒険者として当然の反応だ。

 

 そんな中、倬の思考を読み取った“大地の妖精”つっちーが手のひらサイズの板を掲げて現れた。

 

「つっちー! “でぃす、いず、ぷれーと”!」

 

 ぷるぷると全身を震わせるつっちー達の頭をさわさわしてから、倬はステータスプレートを受け取り、起動させる。

 

「“ステータス・オープン”。次の大迷宮に挑む準備の一環なんです」

 

 “魔物の使役”、これは今まさに人間族の平穏を脅かしている元凶だ。それを真剣に言った倬に、ヨークの口元がひくひくと引き攣っている。

 

 プレートを差し出してきた意味をヨークは理解している。この板の中に、スライムを捕まえ得る根拠が書いてあるのだと。

 

「ん゛ん゛~、ステータス見んの怖ぇぇ」

 

 精霊との契約者であり、大迷宮の挑戦者である倬のステータスを直接見たら、今まで通りでいられるか、さしものヨークでも自信がなかった。しかし、剣の稽古相手に雇わないかと提案したのは自分。今後の為に倬のステータスは知っておきたい。

 

(つーか、ステータス知った上で今後の付き合いも考えろって事か……? くそ……)

「ええい、ままよ!」

 

 ひったくるようにステータス・プレートを掴み取り、浮かび上がる記述に眼を滑らせていく。文字列を追って滑っていく視線、無表情を怪訝な表情に変え、プレートをゴシゴシ擦ったり、焚火で炙ったり、地面に叩きつけたりもしてみる。

 

 あんまりなリアクションだが、倬も精霊達も流れるような一連の八つ当たりを止められなかった。

 

 この夜、ヨーク・M・S・サルニッケは久しぶりに思い知った。人のプライドを傷つけるのに、悪意の有無など関係ないという事を。

 

 ステータは平均でも千を超え、“魔力・魔耐”は文字通りの桁違い。追加技能を含めれば数えるのも気が滅入る程の技能数に目がチカチカしてしまう。どこに文句を付けていいか分からなかったヨークがどうにか文句を付けたのは、最も数えやすい数字についてだけ。

 

「これでレベル“1”ってお前、ふざけてんのか!!」

 

 

~~~

 

 

 明くる日の朝、霧雨に包まれた森は薄暗く、湿った岩や地面に飛び出た木の根のせいで足場も悪い。

 

「――実際、未だにレベル“1”ってのは納得出来てないところあるんですよね。自分、ちゃんと修行してたつもりではあるので」

「精霊様との契約は“限界を引き上げる”って話だったが、つまりよ、倬ノ助はそっからまだレベル上がるってんだろ?」

「それが、契約してからこっちレベル上がった事って一度も無いので、表示がおかしい可能性もあるんですよね……。プレートの仕様を解析出来たらもうちょっと詳しく分かるんでしょうけど、現状だと雰囲気を掴むので精一杯です」

 

 そんな環境でも倬とヨークは軽快に飛び跳ね、雑談しつつ“霧の精霊”霧司様の導きで冒険者ギルドから指定された目的地へと向かっていた。

 

『……あの、デカい壺の事、だよな』 

 

 進行方向の土が剥き出しなった開けた場所に半径二メートル、縦で三メートルはあろうかという魔石で細やかに装飾を施された巨大な壺がデンっと鎮座しているのが見えてきた。これは別の冒険者達によって設置されたバチュラムやスライムを封じ込める為の特別なアーティファクトだ。これに“銀色のスライム”を誘い入れ、封印することが今回の依頼内容となっている。

 

「お、見えてきましたね。ありがとうございます、霧司様」

「やれやれ、小屋つぶされちまってんじゃねぇか。ちったぁ屋根の下で休めるかと思ったのによ」 

 

 周囲には板や柱など木材が散乱していた。壺が持つ魔物を誘う機能を起動させる為には膨大な魔力を注ぐ必要があり、その魔力を注ぐ際に建てられた筈の小屋は見る影もない。

 念のため残骸を調べると食い散らかされた鳥の羽や骨が紛れ込んでおり、冒険者達が撤収した後で小鬼(ゴブリン)によって使われていたのが予想できた。

 

 山小屋や廃屋などが小鬼(ゴブリン)達に利用されるのは特段珍しくもない話だ。だが、捨て置かれた武器や閉鎖された坑道などを始めとして、人工物を何でも活用する小鬼(ゴブリン)達は人が利用していないと明らかな建造物を積極的に壊すことはしない。壺だけ残して小屋だけ破壊されている状況は、普通では考えにくいのだ。

 

「待てよ……、こりゃ妙だな」

 

 呟きながら足元の木片を蹴とばすヨーク。建材に使われていた湿気に強い木がぐずぐずになって()()()()。その下にだけ青々とした分厚い苔が茂っていた。

 

 “木片に隠れていた地面だけに苔が生えていた”事実に、ヨークが警戒を強め、右腰に下げた剣の柄に手を掛ける。

 

 倬もまた周辺を警戒してくれている精霊達との繋がりに意識を集中し、杖を握り直す。

 

 今のところ技能“気配感知”で感じ取れるのは、必死で息をひそめ、こちらを遠巻きに伺っている魔物達の気配だけ。殆どが小鬼(ゴブリン)のようだが、襲い掛かって来るような雰囲気ではない。

 

 音々様が聞き取った小鬼(ゴブリン)達の息遣いは荒く、鼓動は早鐘を打つかのように忙しない。倬やヨークよりも余程、小鬼(ゴブリン)の方が緊張している。

 

 誰よりも早く、魔物達の視線が壺に集中していると気付いたのは“光の精霊”光后様だった。 

 

「のぅ、ヨーク、この壺はどんな効果で魔物を封じるのか、わらわに教えてくれるか」

「……渡された資料によれば、壺に塗られた釉薬に溶かし込まれてる魔石に魔力を吸収させると考えられるとか、なんとか」

「ほーぅ。それはそれは、なるほど、だからこの壺(コイツ)には魔力が満ち満ちているのだな」

 

 得心がいったと頷く光后様。その頷きと調子を合わせるかのように、壺がガタガタと震え始める。

 

――ぎゃぅ、ぎゃあっ!――

 

 周辺の小鬼(ゴブリン)達が騒ぎ出す。

 

 倬は確かに目撃した。壺の中から抜け出そうとする銀色の()()を。

 

「倬!」

「__“拒境”っ」

 

 光后様の呼びかけに、間髪入れず壺を空間魔法“拒境”で包み込む。空間魔法による強固な結界だ。アーティファクトの効果で封じられなかった魔物だとしても、そう簡単に突破される事は無い筈。

 

 ――という考えは、甘かったと言わざるを得ない。

 

 まず、壺がどす黒く変色していった。

 

 次に、その壺を包む“膜”が澱んだ紫色に浸食され始めた。壺の中に潜んでいる魔物は、あろうことか不可視の結界である空間魔法の“空間”に干渉しているのだ。

  

 冷や汗を浮かべる倬を横目に、ヨークが後退(あとずさ)る。

 

「おいおいおい……、倬ノ助、大丈夫なんだろうな?」

「これは、とんでもないです。影響力だけなら“うわばみ”以上かも……」

 

 錫杖を地面に突き刺す様にして、結界の維持とその変化に意識を集中する倬。

 

(これはなんだ……、”うわばみ”が魔力を()()()()()()のとも違う……、結界の魔力を丸ごと別物に変化させてる感じ……?)

 

 魔力を追加し、結界を強化すればするほどに封印のアーティファクトである壺があちこちから崩れ、穴が開いていった。壺が崩壊し、いよいよ水銀の如き滑らかなスライムの姿が露わになる。

 

 瞬間、視線に貫かれたかのような錯覚に陥った。

 

 何物も映り込ませない銀色のスライムには、眼に該当するような器官は見受けられない。もはや生物であるとの認識すら難しい容貌だが、そのスライム状の物体は確かに意志を持つ生命体なのだ。それも、強烈な存在感と魔力を誇る魔物なのである。

 

 結界の中で濁った赤紫の煙と緑混じりの泥を噴き出し始めるスライムの姿に、“大地の妖精”つっちー達が震え始める。木の後ろから覗き見るつっちー達は、怯えを隠せないまま口々に騒ぎ出した。

 

「つっちー!! “ふらぁいとぅんどぅ”!」 

「つっちー?! あれあれ、“どろうみ”ー?!」 

「つっちー!? “ぱはっぷす”! “ぱはっぷす”!」

「うぅむ……? “どろうみ”……? 確かにあれの気配にはそわそわするのぅ……」 

 

 慌てて逃げ惑うつっちーを捕まえて回る土司様には、自らの妖精達がここまで怯えている理由に覚えがないようで、そばにいた森司様に助け舟を求める。

 

「森司、なにか覚えとらんか?」

「コイツがあの“どろうみ”だと……? いや、外見はかなり違うが……、言われてみれば気配はヤツそのものだ」

 

 問われた森司様は、僅かな逡巡の後、倬へ向けて答えを返す。

 

「倬、つっちー達のいうとおり、僕が散々手を焼かされた魔獣に力の在り方がよく似ている。ただの毒だけじゃなく、魔法をも蝕む毒を持つ魔獣――“どろうみ”だ」

 

 銀色のスライムが魔獣であると聞かされた倬の頭に、つっちー達の恐怖と森司様の戦いの記憶が呼び起こされた。

 

 古のトータスにおいて、東の海から這い出て森を猛毒によって汚染して回ったヘドロ状の魔獣、それが“どろうみ”。森の生態系を脅かした“どろうみ”は、触れたモノを生物・非生物区別なく喰らい、体内で分解・凝縮・反応させて“毒”を産み出し己の糧とした。

 

 “どろうみ”の生態で問題だったのは、排泄する“泥”に強力な魔法をも蝕む毒性を残していた事。“どろうみ”の“泥”は、精霊や妖精にまで悪影響を及ぼしかねない程に強烈なのだ。

 

 さらに古の“どろうみ”はあろうことか、“大地の妖精”たるつっちー達を意図的に襲っていたようなのだ。

 

 当時の事を思い出し、倬の背中に隠れているつっちー達がしょげている。

 

「つっちー……、“ちゅーいんぐ”、つらたんだったなー……」

「つっちー……、“ぺっ”ってされるの、まじむりなー……」

「つっちー……、“がむ”じゃないのになー……」 

「ぼやっとしか思い出せんが、どうやら動く魔石か何かだと思われとったようじゃのぅ」

「つまり、素で妖精を認識出来てたって事ですか……? いよいよ敵にしときたくないです」 

 

 既に結界内はガスが充満しており、スライムの姿を直接見る事は叶わない。空間魔法による結界すらも汚染され、魔法が倬のコントロールから離れていく。このままでは“ジリ貧”だと、慎重に結界の強化を進めながら変成魔法の準備も始める。

 

 メルジーネの大迷宮で遭遇した“うわばみ”に、倬の変成魔法は未だに抵抗されてしまう。倬はより強力な変成魔法の構築に努め、錫杖を震わせた。

 

 “悠刻の錫杖”内部で魔法陣が組み上がるまでの数秒は、山全体が静まり返っているかのようだった。精霊も、妖精も、ヨークも、小鬼を始めとする魔物達すらも、銀色スライムと対峙する“祈祷師”を固唾を飲んで見守る。

 

「よし……。__“従――ッ?!」

 

 魔法名を告げる直前、既視感(デジャヴ)に似た強烈な違和感に襲われる。具体的な映像として何かを視たのではない。ただただ、()()()()をその場から遠ざけるべきという直感だけがあった。

 

(なん――ッ?!)

 

 精霊の記憶でもない、自分の記憶でもない、“先読”といった技能に由来する予測とも違う。それを確信しながらも、不可解な直感に突き動かされた倬は、全身に雷を(ほとばし)らせ、茂みにまで後退していたヨークにぶつかるようにしてその場から離脱する。

 

「すいませんッ!」

「ごは……ッ」 

  

 ヨークのアバラが砕けるのと同時、一瞬前にヨークが立っていた場所から不気味に澱んだマーブル模様の汚泥が噴き上がった。

 

 まき散らされた汚泥は木々に降りかかり、悠然と立つ大木すらも忽ち腐らせていく。

 

(くっ、なんでヨークさんを……!)

 

 咄嗟の判断での回避が功を奏し、汚泥には触れずに済んだ。技能に“耐状態異常”を持ち、宵闇様が持つ“闇の泥”を受け入れた倬はともかく、ヨークが浴びていたらひとたまりもなかっただろう。

 

「治優様っ、ヨークさんを!」

「う、うん! 了解!」

 

 ヨークを肩に担いだまま、“癒しの精霊”たる治優様に治療をお願いし、未だ噴き上がり続ける汚泥と“どろうみ”が巣食っていた壺の両方に意識を割く。

 

 見かけ上、壺を包む“拒境”の結界は破られてはいない。だが、今対峙している“どろうみ”はどうやってか倬にも精霊達にも悟られないままヨークの足元へ攻撃を仕掛けてきたのだ。

 

「……土さん、海姫様」

「ぬぅぅ、こやつ、毒でもって結界ごと地面を抉り抜いたらしいのぅ」

「水脈の汚染は感じない。そこまで深く掘れる訳ではないようだが……」

 

 つまり、“どろうみ”は地面に接した結界ごと術者である倬に察知されぬよう汚染して喰い破り、ピンポイントでヨークに向け、汚泥を噴出させたというのである。

 

 先程の奇妙な直感が働かなかったとしたら、既にヨークは“毒”の餌食になっていたかもしれない。詳細な情報を得ないままスライムの捕獲を考えたのは軽率だったと、倬の額に冷や汗が滲む。

 

『倬、ヨークはわらわ達に』

『すいません、光后様。お願いします』

 

 治優様と光后様に任せ、ヨークをこの場から離脱させてもらう。

 

 崩れた壺から漏れる気配はそのままに、汚泥の中に同じ気配が流れ込んだのを感じとる。

  

 ねばついた泥の気泡がドパッと音を立てて破裂。

 

 弾けた気泡から飛び出してきたのは銀色の球体だった。

 

 止めどなく撃ち出される弾は紛れもなく“どろうみ”の一部で、それらが描く軌道は寸分違わずヨークの胸部へと向かっていく。

 

(……ちッ)

「__“風陣”」

 

 発動後の魔法、それも神代魔法による結界すら汚染して自身の“毒”へと変換させられてしまう以上、下手に上級以上の魔法で防ごうとすれば却って“どろうみ”を利する可能性があった。まずはヨークの周りに風の結界を展開し、最低限の魔法で軌道を逸らすだけに留める。

 

 “風陣”に対して、風姫様がピッと指を振ればその結界は激しく乱れ、凶弾からヨークを護ってくれた。

 

『倬、細かい操作はわたし達がやるわ。いいわね?』

『“雷同”の調節はオレに委ねてくれればいい』

「はい。今回は甘えさせて下さい」

 

 不可解な直感に気をとられた結果、命こそ助けられたもののヨークを負傷させたのは自分の慢心が故。そう反省した倬は“祈祷師”としての修行よりも“冒険者”としての依頼を優先すると決めて、杖を打ち鳴らす。

 

 錫杖の円環が鳴り響いても尚、“どろうみ”の()()はヨークばかりに集中している。倬が魔法を使う度、音を立てる度に“視線”は向くのだが、すぐに興味を失ってしまうのだ。

 

『そうか、あれらは眼で見ていないのだったな。宵闇』

『………………うん。わかった』

 

 光后様の一言に、聞き返すこともせず宵闇様が倬の中へと潜り、気配を完全に消し去ってしまう技能“闇纏”の効果を落とし、ヨークよりも倍程度高い魔力保有に見せかける。すると、“どろうみ”の動きが止まり、泥が慌ただしく(あぶく)を立て始めた。

 

 “どろうみ”は魔力を感知しそれを持って周囲の状況を感じ取っているのだと、宵闇様が教えてくれる。

 

 ゴボゴボと気泡を浮き上がらせる汚泥からは、その苛立ちが伝わってきた。

 

「森司様、自分は耐えられるでしょうか」

「……そのローブに感謝すると良い。僕の加護を信じろ」

「では……」

 

 小さく溜息を一つ、倬は壺に対して張り付けていた結界を解除し、変成魔法構築に全力を注ぐ。

 

 動きを止めた倬の身体に膨大な魔力のうねりを感じ取った“どろうみ”は、己の本能に突き動かされるようにして、その身を大きく膨らませていく。ここにきて、毒に包まれてきたその全容が露わになった。

 

 全高にして二メートルは超えるだろうか。水銀に似た金属的な鈍い銀色はやはり何物も映し込ませず、その全身はグミ状にぷるんと丸みを保っていて、実に造り物めいている。

 

 噴き上がっていた汚泥が逆流し始め、“どろうみ”の表面に気泡が浮き上がった。その銀色に汚泥が混ざり込んでいく。体表に浮かび上がった気泡がごばっとはじける。それを合図に、“どろうみ”は異様な毒霧を噴き出して、倬へと飛び掛かった。

 

 倬はその攻撃を甘んじて受ける。

 

――__“従醒(じゅうせい)”――

 

 全身に“どろうみ”を()()()()()唱えた変成魔法を内側から浸透させていく。“従醒(じゅうせい)”は対象の強化よりも従える事に重点を置いて構築した変成魔法だ。

    

 倬が森司様の加護を受けて泥に塗れたのは、“従醒(じゅうせい)”が効果を発揮する前に“毒”へと変質させられてしまうのを前提に、効果が出るまで魔法をかけ続ける為。単純に過ぎる発想だが、効果は確かにあった。

 

――ゴボゴボ?!?!?!?!―― 

 

 “どろうみ”の動揺を変成魔法を介して感じとる。

 

 その動揺にはどこか畏れに似た感情が入り乱れ、変成魔法による変化に抵抗を続ける“どろうみ”は暴れ狂い、倬を吐き捨てた。

 

 “耐禍のローブ”の効果で穢れを払い、倬もまた悪態を吐いてヨークの元へと走り出す。

 

()()かッ。スライムだのバチュラムだのってのはどいつもコイツもッ!」

 

 変成魔法は確かに効果を発揮した。だが、大迷宮で遭遇した“うわばみ”と同様に、完全に従えるまでには至らなかったのだ。“うわばみ”の場合は優れた変成魔法の名残によるものと感じたが、“どろうみ”はまた別。単純な変成魔法とは異なる魔力が撃ち込まれた痕跡があった。これに、あと一歩というところで変成魔法を妨害されたのだ。

 

 木にもたれかかって休んでいたヨークの元まで駆け寄って、技能“飛空”の効果を分け与える。もがく“どろうみ”から距離をとるべく中空に浮かべたヨークを引っ張って、森を駆けていく。

 

 倬に身を任せ、わき腹をさするヨークはケガの具合を確かめつつ、話しかけてきた。

 

「……よぉ、倬ノ助、だから言ったろ?」

 

 これに言い返す言葉を、倬は持ち合わせていない。スライム封印の依頼に高額の報酬が用意されているのを知りながら、スライムの危険性を天秤にかけて、この依頼を避けていたのはヨークだ。

 

「ええ。本当に反省しきりです」

「そうか」

(……ったく、素直過ぎんだよな、倬ノ助はよ。小言の一つでもいってやりたかったが)

 

 言い訳もなく真っ直ぐ反省する倬に、ヨークもまた何も言えない。最終的にこの依頼を受けたのは倬ではなく、自分なのだ。精霊と倬の実力の片鱗しか知らないままに頼り切っていた自分に腹を立てる。

 

 溜息を飲み込んで、ヨークは倬の意志を問う。

 

「どうするよ」

 

 対する倬の返事は、たった一言。

 

「封印します」

「アーティファクトも効果なかったってのにか?」

「いえ、あれは起動前でした。そもそも、封印効果の起動には呪文が必要なはず」

 

 依頼主がどこからか調達してきた封印の壺は、魔物を引き寄せる効果を発動した後、魔物が中に入ってから更に呪文を唱えて封印を完成させるアーティファクトなのだ。

 

 封印の壺本来の効果は、辿り着いた時点で発揮されていなかったのである。

 

「つってもぶっ壊されちまったかんな」

「直します。その為にも“どろうみ”をあそこから引き離さないと」

 

 封印の壺が“どろうみ”に有効なのかは未知数だ。だが、アーティファクトの強制力は侮れないと倬は知っているし、何よりも依頼内容がアーティファクトを用いた封印である以上、あの壺は直す必要がある。

 

 壺を再生魔法で修復するだけならば容易いが、“どろうみ”が少しでも触れていれば魔法の効果が阻害される可能性があった。故に、倬は今、“どろうみ”を誘うべく魔力を放出しながら逃げている。

 

 一度立ち止まり、“どろうみ”の様子を精霊に訊ねる倬の横顔を見て、ヨークは首を回して気合を入れ直す。 

 

(やる気満々じゃねぇか。仕方ねぇ……) 

「うっし。倬ノ助。神代魔法、もちっと詳しく教えろ」

「……分かりました。まず変成魔法についてですが――」 

 

 “どろうみ”攻略を模索するべく、倬は自分が使える三つの神代魔法について可能な限りかみ砕いて説明する。

 

 どの神代魔法もヨークがこれまでの人生で学んできた魔法の常識を根底から覆すもので。

 

「はぁ……、ふざけた魔法があったもんだな」

「うむ、拙者も同感でござる」

「ぼくら精霊からしても破格の魔法である事に間違いないからな」

 

 魔物を産み出し、強化し、使役する変成魔法。空間に干渉し、距離を無視した転移をも可能とする空間魔法。あらゆる損壊もなかったかのように元に戻してしまう再生魔法。よくよく神代魔法とはとんでもない力を秘めているのだ。刃様も海姫様もヨークの感想に深く頷いている。

 

「倬ノ助、直しながら空間魔法かけるってのは出来るか――」

 

 そんな神代(かみよ)の御業にも、ヨークはもう(ひる)まない。殆ど思いつきのような魔法の組み合わせを語り、可、不可を確認して、作戦を詰めていく。

 

「倬ノ助がちょっとでも苦戦するようなスライムなんざ、金ランク冒険者やら軍の精鋭やらかき集めたってどうにもならん。()()()()暇なんざねぇ。頼むぜ、“精霊祈祷師”様よ」

 

 “冒険者”の大先輩から浴びせられた激励に、倬はただ一言で答える。

 

「承りました!」

 

 

 

 ヨークの指示に従ってやってきたのは、壺があった場所から山二つほど超えた先の切り立った崖の下。岩盤が剥き出しになったこの場所で、倬は“どろうみ”を迎え撃つ。

 

 まずは、その下準備だ。

 

「いやがったぞ、倬ノ助。ロック・ロックだ」

   

 ヨークの指し示す先に、巨大な岩石の如き外見の魔物が崖下の石を貪っていた。ロック・ロックとは大峡谷付近の岩場に広く分布するゴーレムと近い種別の魔物である。その身体は触れたり喰らったりした鉱物によって構成されて、その防御力は地上の魔物の中でもトップクラス。

 

 落石の原因になるだけでなく、ロック・ロック自体が崖から落下してくる事もあり、一級の討伐対象としてギルドから指定されている魔物でもある。

 

 そんなロック・ロックを見つけた倬は、ノータイムで変成魔法をかけ、同時にその能力を強化、強力な毒耐性も与えていく。

 

 つぶらな瞳に、ぼてっとしたタラコ唇が特徴のロック・ロックは、倬の言葉にゴトゴトと相槌を返し、短く野太い爬虫類のような腕をばたつかせてやる気を漲らせる。従えてみると実に愛嬌のある魔物なので、ちゃんと名前もつけてあげた。

 

「……よし。つっちー、ロックンの事、お願いします」

「つっちー! まかせろー!」

「つっちー! もうまけないなー!」

 

 空間魔法“界穿”で壺のあった座標へとロックンを転移させる。既に“どろうみ”がそこにいないのは確認済みだ。

 

 “界穿”の(ゲート)を通っていくロックンを見送って、ヨークが倬の背中をバシッと叩いた。精霊や妖精が当たり前に出たり消えたりするのを目の当たりにしてきたせいか、本人も思いの外すんなり空間魔法の存在を受け入れて、安堵しているのかもしれない。

 

「いやぁ、空間魔法マジ便利。一家に一台、倬ノ助だな」

「すっかり観戦気分なんだもんなぁ……」

「ちゃんと仕事はすっから安心しろって。一言呟くだけの超重要なお仕事をよ」

「ヨークさんの事は音々におっまかせー」

 

 これだけ言い残し、ヨークはえっちらおっちら崖を昇って身を隠しにいってしまう。今回のお供は音々様だ。

 

 崖下に今は倬一人。山中に潜む精霊の皆から、“どろうみ”の動向が逐一送られてくる。

 

『霜様~、“どろうみ”ちゃん、そろそろよ~』

『主殿、他の魔物は拙者たちが追い払っておく故、ご安心を』

 

 倬の魔力を追って木々をなぎ倒しながら直進してくる“どろうみ”の姿を捉える。まだ二百メートルは離れているだろうか。道中飲み込んだらしい小鬼(ゴブリン)の骨をプッと吐き出したのが見える。今一度、ゆっくり深呼吸。

 

――うち、うちおぼゆ……。とこ、とこ懐かしげなり……――

 

 一度かけた変成魔法の影響か、倬の意識に“どろうみ”の意識が伝わってきた。

 

(懐かしい……?)

 

 何を懐かしんでいるのかは分からない。混沌とした感情に戸惑っているのは“どろうみ”も同じようだった。そんな淡い感情は瞬く間に敵意に塗りつぶされ、銀色の身体が激しく波を打つ。 

 

 紫に澱んだパチンコ玉のようなスライムの一部が、高速で撃ち出される。

 

「我、この身と繋がる大地が擁く、連なる細き六角(むつかど)を、此処に招かんと、祈る者なり“節理”――」

  

 地面から突き出る細い石柱で、汚れた銀の弾丸を一つひとつ丁寧に防ぐ。一発一発の威力はそれほど強力ではない。この攻撃の目的は濃縮された“毒”をまき散らす事にあった。土系魔法“節理”は忽ち汚染され、強度を失っていく。

 

「我、この身を表す光をもって、不浄なるを洗い、清めたらんと、祈る者なり“清爛(せいらん)”、“穢れは今、温かに照らされん”、“燦然たる光、尚新たかにせんや”――」

 

 跳ねる様に回避しながら、光系魔法“清爛”で毒の浄化を試みる。微量の汚泥でも五回を超える追加詠唱を要した。これは、爪の先程度の毒を浄化するのに上級魔法に匹敵する魔力を用いなければ浄化しきれない事を意味する。

 

 “どろうみ”の“毒”が強力な物であるのはもう知っている事だ。重要なのは、“どろうみ”の操作から離れた“毒”であれば、光系魔法で浄化が可能だと検証出来た事。無意識に倬の頬が緩む。

 

 この頬の緩みをどう感じ取ったのだろうか、“どろうみ”はその全身を怒りに震わせ、自らを砲弾がわりに()()()()()

 

 汚泥をまき散らし、その身を削った弾丸をも乱射しながら飛んでくる“どろうみ”。

 

 その身から細長く伸ばした銀の触手を鞭のように振るう様は、正しく一心不乱。

 

 飛び上がった“どろうみ”の直上に、つっちーと従えたばかりのロックンが“精霊転移”によって帰ってくる。

 

「「「つっちー! “あいる、びぃ、ばあっく!”」」」

「ガチガチッ、ごががッ!」

 

 ご機嫌でタラコ唇を打ち鳴らし、ロックンは身体に取り込んだ壺の欠片だけを“どろうみ”目掛けて降り落とす。そう、ロックンとつっちーには壺の回収をお願いしていたのである。

 

「__“界穿”、……__“廻戻(かいれい)”」

 

 ロックンを界穿で“どろうみ”の攻撃範囲から遠ざけ、倬が封印の壺だった欠片に向かって唱えたのは、再生魔法“廻戻”。

 再生魔法は本来、欠損した部位すら復元する強力な神代魔法である。そんな再生魔法の中にあって、この“廻戻”はその欠損を埋める効果を極限まで弱め、再生速度も極端に遅くなるように調整したものだ。

 

 再生速度の遅延はヨークが思い描いた通り、降り注ぐ破片を中空に漂わせた。

 

「__“繋隙(けいげき)”」

 

 続いて唱えたのは、空間魔法“繋隙(けいげき)

 

 “繋隙(けいげき)”は、手だけを離れた場所に転移させるといった、いわゆる部分転移を可能にする魔法を改変したもの。指定した対象を空間魔法によって破壊することなく分割するなんて使い方も可能だ。

 

 これを逆手にとれば、再生中の欠片同士を空間魔法を介して触れ合わせ、見かけ上、破片を空中に漂わせたままにアーティファクトとしての機能を回復させられるのだ。

 

 ここまでが、ヨークのアイデア。崖の上、突き出した岩場に胡坐をかいたヨークが呪文を叫ぶ。

 

――“()に、ここに、末永く……、塞蔡(そくさい)”――

 

 その叫びは音々様の力を借りて、間違いなく封印の壺に響いた。封印のアーティファクトが鳴動し、本来の効果を発揮する。アーティファクトによって勢いよく魔力を吸い上げられる“どろうみ”は、その毒を噴き出して必死の抵抗を続ける。

 

 しかし、どんなに噴き上げても“毒”が壺に触れる事は無い。その為に、“どろうみ”が直接壺に触れることが出来ないように、この状況を築き上げたのだから。

 

 神の御業に形を与えられたもの、それがアーティファクトであると現代トータスでは伝えられている。神の御業に例えられるほどに強力な効果を示すからアーティファクトと呼ばれるのだ。そんな封印から簡単に抜け出せるものではない。

 

 とは言えど、封印の壺に自ら潜んでいた“どろうみ”が大人しく封印されるとも思ってはいない。だからこそ、光系魔法による浄化を試したのだ。

 

(毒を糧にしてるってなら、その毒を……)

 

 倬の肩に降りてきたのは、“癒しの精霊”たる治優様で。掲げる“悠刻の錫杖”に祈りを捧げて、“どろうみ”にぴっと指を差す。

 

「えっへへー、治優がたぁ様をお手伝いします! ばっちぃあなたは――」

「きれいさっぱり、浄化してやる! __“清爛”、__“降清”ッ」

 

 “どろうみ”の体内に、“癒しの精霊”治優様によって強化された治癒魔法が浸透していく。

 

 浄化を終えるまでの間、“どろうみ”は夥しい量の泥を吐き出し続けた。

 

 そこから二時間はかかっただろうか。ようやく泥を吐き終えた“どろうみ”の身体には心なしか光沢が出ていた。

 

 ギルドからの依頼はあくまで封印。壺を改めて元の姿に戻し、封印を完成させる。

 

 封印の壺から拳大の魔石が一つ転がり落ちた。中に閉じ込めた魔物から十分な魔力を吸い取った際に外れる仕組みで、この魔石が封印の証になるのだ。

 

「やれやれ、終わりましたね……」

「コイツをアスボス村の支部にとどけりゃいいんだよな。捕まえられなくて残念だったな?」

「まぁ、従えたら心強かったでしょうけども。今回は諦めます。……しかし、どうしましょうか、壺。元の場所に戻したほうがいいですか――ね、うぇ?!」

 

 撤収の相談を始めた最中の事だ。倬の服の中に、ひやっとした液状の何かが入り込んできた。

 

 ヨークの眼は倬の首元に見えた銀色の物体を捉え、驚愕のままに叫ぶ。

 

「おいおいおい……、嘘だろ!」

「ひゃんッ……!」

 

 ぬるんと倬の首まで這い上がってきたそれの冷たさに、変な声が出る。それは、倬の肩でプルンと丸まって動きを止めた。

 

 艶やかな銀色でありながら、何物もを映し返さないそれは、随分と小さくなったものの間違いなく“どろうみ”だ。

 

「こぽ、こぽ、こぽぽっ」

――磨きしヒト……、いと懐かしう……、なんと、ひさしきや……――

「こぽこぽ……、こぽ」

――小鬼共の穢れ払いきれず……、自失せり――

「こぽ、こぽぽっぱんっ」

――あな、口惜しや――

 

 あろうことか、いとも容易く封印から抜け出た“どろうみ”は、それが当たり前かの如く、倬へと語りかけてきた。拙くも、詠唱に用いられるような古語で思考するらしい“どろうみ”からは、敵意も害意も感じない。

 

 “どろうみ”が古い言葉遣いのまま語った内容によれば、この魔獣は倬と同じ()()()()を持つ人間との戦いを経て自我を得て以降、その性質が変容してしまったのだという。

 

 その人間の頼みを受け、今日まで魔物の血や糞尿で汚染された土壌を改善して回っていたらしいのである。

 

 しかし、小鬼(ゴブリン)の数が増えはじめた頃から自分が産み出す“毒”の消化が追いつかなくなり、魔力過剰と自家中毒が重なってしまう。この近辺に清浄な魔力を感じ取ってやってきたまでは良かったものの、自我を失いつつあった“どろうみ”は本能に従い過剰な魔力を捨てる目的で壺へと潜り込んだという事だった。

 

「そーかそーか、ひかりちゃんにはなんか分かるぞー」

「でもよぉ、よくあの壺から出られたよな? かーくんはそれがびっくりだぜ」

「こぽ、ぼこぼこ、こぽこぽぼこん」

――わが身の要らぬところ、捨てしのみなれば――

 

 どうやら身体の大半を壺の中に自切して出てきたらしい。適当に食べたり、魔力さえ回復すればすぐに元の大きさに戻れるんだとか。

 

 “光の妖精”ひかりちゃんや他の精霊達も魔力が適度に消費される気分の良さを知っているので、“どろうみ”に共感して頷いている。先程まで必死で戦っていた魔物の言を当たり前に受け入れるあたりは、精霊の懐の深さなんだろうか。

 

 音々様に通訳してもらって話を聞いていたヨークはと言えば、“どろうみ”を警戒して、逃げの構えを崩さない。

 

「いやいや、それがホントだとして、どうすんだコイツ?」

「いや……、ここに置いてく訳にもいかないですし……」

「こぽ、こぽこぽこぽ」

――此度こそ、お供させて頂きたく――

 

 思い描いていた流れとは大分違うが、大人しくなった“どろうみ”は倬によく懐いている。魔法に直接干渉出来るその性質は、大迷宮攻略には間違いなく役立つだろう。断る理由も他人に見られたら面倒な事くらいだ。“どろうみ”と名づけられた頃のヘドロ状の姿とは似てもに似つかない外見に、倬は別の名前を付ける事にする。

 

「まぁ、パッと見た感じから……、メタルス、ってのは?」

「コポコポコポッ、ブクブクブクブク……ッ!」

「うわうわうわ、飛び散ってる、飛び散ってるから」

 

 “どろうみ”あらためメタルスは、興奮すると全身から(あぶく)を立たせてしまうらしい。コポコポに対して“言語理解”が働いていないので、言葉にならない程に喜んでいるらしかった。一先ず安心だ。

 

「倬、ロックンの事も忘れてやるな。儂はコイツも気に入ったぞ?」

「ガチガチ、ゴリゴリ……!」

「そうだった。いや、ほんと良くやってくれました」

 

 土司様とつっちー達を背中に乗せるロックンは自分の存在をアピールするように、岩石の身体をゴリゴリとこすり合わせて音を鳴らす。つぶらな瞳の上――多分おでこ――を撫でてやれば、機嫌よさげに体を震わせた。

 

「つってもどうすんだよ、コイツ。流石にデカすぎんだろ」

「ん~、手を貸してもらうまでは二人とも“お山”で留守番かな……」 

   

 魔物を二種類仲間にしたものの、流石に何匹も連れて歩くわけにはいかない。二匹の扱いを悩んでいた倬が何気なく空を見上げた時だ。

 

 再び奇妙な既視感(デジャヴ)に襲われた。

 

 突然、表情を曇らせたを倬を見て、ロックンが心配そうに喉を鳴らす。メタルスも何かを感じ取ったのか、倬の肩から飛び降りる。

 

「ゴゴゴ……?」

「ぽこっ、ぱちんっ?」

――如何(いかが)なされもうした――

 

 何かしらの光景が頭に浮かんできた訳ではない。だが、この既視感に何も対応せず、ただ見過ごす選択は出来なかった。

 

「く……っ! 雷皇様!」

「なんだか分からないが、オレにまかせてくれ」

  

 ヨークを庇った際のような急加速を控え、倬は“嫌な予感”に頼って崖上目指して飛び上がる。“雷の精霊”である雷皇様に“雷同”の調節を委ね、既視感の元を辿る。

 

 視線の先、崖の上で子供が足を滑らせる瞬間を確かに捉えた。

 

(突っ込むんじゃなくて……)

 

 空中で子供が落ちてくる先に待ち構え、ぽすっと柔らかくキャッチ。

 

「ふぅ……、えっと、怪我はない?」

 

 その子供は男の子だった。倬よりもいくらか幼い。学年でいくと小学校低学年くらいだろうか。

 

 ローブ姿の男に助けられた事よりも、足を滑らせてしまった事実に怯えて瞳を白黒させているように見えた。恐怖に泣き出すかもしれないと心配した倬だったが、男の子が泣きべそをかきながら叫んだのは、自分ではない他の誰かを心配してだった。

 

「し、シスカちゃんを! シスカちゃんが……! お願いします! シスカちゃんを助けて下さい!」

 

 切羽詰まった様子でローブにしがみ付く男の子の頼みに、倬は頷いて答える。 

 

 また、妙な既視感に襲われていたのだ。この男の子が心配している“シスカちゃん”が危険な状況にいるのだという確信があった。

 

 男の子を抱えたまま、“悠刻の錫杖”の先に魔力刃を呼び出し、そのまま全力で投げ飛ばす。

 

 崖に沿って伸びる小道から、少女の金切り声が響いたのを聞く。

 

 勘に従って操作する錫杖を追いかければ、今まさに女の子が小鬼(ゴブリン)の群れに囲まれようする光景が飛び込んできた。

 

 先に投げ飛ばした錫杖は寸分違わず小鬼(ゴブリン)の上位個体である(ぶち)を突き飛ばし、女の子の頭上で小鬼(ゴブリン)達を威嚇する。

 

(なるべく手短に、だけど惨いとこは見せないように……っ)

「__“爆嵐壁”」

 

 女の子を中心に円筒形に展開させた暴風の結界が、触れた小鬼(ゴブリン)達を崖下へと落としていく。

 

 逃げ出そうとする小鬼(ゴブリン)も念のため崖下へ蹴飛ばして、周囲の気配を探る。

 

 周囲に魔物の気配がな事を確認して、そっと男の子を降す。

 

「シスカちゃん! 痛いところは? ケガはない?」

 

 小鬼(ゴブリン)に襲われたショックが大きかったせいだろうか。女の子――シスカはへたり込んだまま男の子の呼びかけに答えない。心配になった倬が近付き、魔法で擦り傷を癒すと、シスカに手首を掴まれた。余程怖かったのだろうか、その小さな手に手を重ねて声をかける。

 

「大丈夫。もう心配ない――」

「あっ、あのっ! お名前っ、お名前は!」

 

 パッと倬を見上げてきたシスカの顔はなんだか火照っている。

 

「……はっ! ごめんなさい! わたし、シスカと申します! シスカ・ミュナモッドです! お名前を伺っても?」

「お、おぉ……、えっとね……」

 

 勢いに押されて名乗ると、シスカは倬の右手を両手で包むように握り、歌うように喋り出した。

 

「たか様と仰るのですね! ああ! これは“運命の出会い”なのですわ!」

「……はい?」

「わたし、その……、ついさっき“おまじない”をしてきたばかりなんです! “運命の人に出会えますように”って! だからきっと、たか様が運命の人に間違いないんです!」

「うん? いや、ちょっと落ち着こうか」

 

 倬にまとわりついて離れようとしないシスカ。あれだけ心配していた男の子についてはまるで眼中に入っていないようで、とても気まずい。

 

 無視されたのにショックを受けて、茫然と見ているだけだった男の子がシスカの肩を掴んで倬から引き離そうとする。だが、男の子が唸りを上げようともシスカはビクともしない。 

 

「うーんっ! そのっ、ね? シスカちゃん! お兄さん――しもなかさん、困ってるから!」

「つーん」

「え、“つーん”ってなに……?」

「ビーノは黙ってて。わたし、今忙しいから」

「なんだよぉ、心配したのにぃ……」

 

 酷い扱いを受けているのに男の子――ビーノは直接怒る事はせず、泣きそうになりながら倬の背中に回り込み、しょぼくれる。

 

「今の魔法! 風魔法ですよね! なんて魔法だったんですか!」

 

 妙な状況に困惑していると、崖をよじ登ってきたヨークと眼が合った。その肩にはメタルスがプルプル震えている。

 

「よっこらせっと。…………あー、倬ノ助、こりゃなんだ? 修羅場か?」

「こぼり、こぽりぼこ?」

――(つがい)、見つけたりや――

「んなわけあるかい……」  

 

 

 

 やたらと積極的なシスカを面白がったヨークが二人から事情を詳しく聞き出すと、シスカは“滝壺”へおまじないをした帰り道、小鬼(ゴブリン)に襲われたのだと言った。ビーノの方は村のどこを探してもシスカを見つけられず、一人で山に入っていったんじゃないかと心配して追いかけてきたそうだ。

 

「うそっ、崖から落ちたっ!? 信じらんない、怪我してないでしょうね? あなたこれからお兄ちゃんになるんでしょ、おばさまに心配かけるような事しちゃダメじゃない!!」

「うぅぅ……、なんだよぉ、そもそもシスカちゃんが悪いんじゃんかぁ……」

 

 ビーノが倬と出会った経緯を知ったシスカは、怪我がないか確かめるべく、あちこちペタペタ触りながら、お説教モードになっていた。

 

 自分の行いを棚に上げて叱ってくるシスカに、ビーノと言えばか細い声でぶつぶつと不満を漏らすだけ。

 

「なぁに? ぼそぼそ言ってないでハッキリ言い返したらどうなのっ! 男の子でしょ!」

「…………ぐすっ、僕、悪くないもん」

 

 シスカもビーノも同い年の十歳。二人は幼馴染らしいのだが、ずいぶんと力関係がハッキリしている。口が達者なせいなのもあって、終始シスカがビーノを圧倒しているが、怪我してないか聞いているあたり、憎からずに思ってはいるようだ。

 

 とは言え、この調子で捲し立てられてはビーノがあまりにも気の毒だ。倬はシスカに滝壺について質問することで、空気を変えようと試みる。

 

「滝壺って……、“恋願いの滝壺”で合ってるかな?」

「たか様はご存知なんですか! 村の人以外で滝壺の事知ってる人、初めてみました! たか様、凄い!」

 

 ゴーコンでアスボス村の“おまじない”について聞いていただけなので、別に凄い事はないのだが、シスカはずっとこの調子だ。

 

 “どろうみ”との戦い中で迎え撃つポイントを探して移動した結果、“月の精霊様”探しでも訪れるつもりだった“恋願いの滝壺”があるアスボス村の近くまで辿り着いていたらしい。実際、精霊の気配を強く感じる。近くにいるのは間違いないだろう。

 

「あのあの! たか様は魔法師さんなんですよね! 杖をふわふわさせたりってどうやってるんですか! わたし、驚いちゃって!」

「えっとね、あれは杖が珍しいものなだけで……」

 

 それにしても、ここまで積極的な態度を見せてくる女の子は初めてだ。たじたじになる倬の横では、風姫様が不機嫌そうに唇をとがらせている。いつもなら「モテモテじゃないの」等とからかってくる場面だが、何故かシスカの事は気に入らないらしい。

 

『まったく、小憎たらしいガキんちょねぇ。あたしが躾てやろうかしら?』

『まぁまぁ風姫。気持ちは分からんでもないが、この年頃の割に魔力は高めだ。どうしてもというのなら、見極めてやることも(やぶさ)かではないんじゃないか。ぼくが試してやろう』

『ふふふ、海姫様ったら、どうして弓を引いていらっしゃるのですか?』

 

 理由こそ分からないが、シスカを気に入らないのは海姫様も同じようだ。

 

 二人に対して雪姫様はいたって冷静――かと思いきや、子供達に見つからないように倬の懐へ潜り込んできたメタルスをゆっきーと協力して凍らせて“宝箱“に押し込んでいる。

 

 ご機嫌ナナメな精霊様を横目に、ヨークはといえば倬を褒めるシスカに乗っかっていた。

 

「はははは、そうだろうそうだろう。何を隠そうこの祈祷師様は各地の伝説・伝承を収集し、調査して歩いている凄いお方なんだぞぉ」

「旅の祈祷師様! なんだか素敵!!」

 

 ヨークの言っている事の意味は良く分かっていないようだが、とにかく凄いとシスカがはしゃぐ。

 

『ちょっとヨークさん、なんのつもりです?』

 

 音々様に念話を伝えて貰うが「任せとけ」とばかりにウインクをしてみせるだけ。調査を名目に“月の精霊様“探しに集中させてくれるつもりのようだ。

 

「こっち、こっちです!」

「ちょっと、シスカちゃん! もっとゆっくり歩こ!?」

 

 ぴょんぴょん飛び跳ねて進んでいくシスカをビーノはふらふらしながら追いかける。

 

 そんなビーノの足元を支えてくれているのは土司様だ。足元に突き出し始めた岩を興味深そうにしげしげ眺めている。

 

『ほほぅ、“響零岩”とな。珍しいのぅ』

『この辺り殆どの岩に“零石”が混じってるようでござるな』

 

 転びそうになるシスカをさり気なく引っぱって庇ってくれる刃様にとっても、この場所の岩が示す組成は珍しいようだ。

 

 土司様と刃様が興味を示した黒々とした岩は先に進むごとに多く見かけるようになり、少し歩くと、そんな岩ばかりが露出した道に出た。そこから先は金属製の杭が点々と打ち込まれ、ロープを渡しているだけの簡素な手摺だけが頼りになる。雨が続いていたせいか、岩肌は湿っていつ滑ってもおかしくない。

 

 途中、階段状にらせんを描く岩場を下っていくと、いよいよ白糸のように細い滝が見えてくる。

 

 幼馴染二人に案内してもらい辿り着いた滝壺は、神秘的としか形容しようがない場所だった。

 

 倬達が立っている岩場よりもずっと高い位置から流れ落ちる滝。その高低差からは想像できない程に、滝壺の周囲は静けさに包まれている。

 

 水飛沫に濡れた黒い岩を割って生える木々に囲まれ、滝の落ちる音すらやや鈍く響いている様に聞こえて、うっすらと魔力が漂っているのを感じた。

 

 微小の気孔を持つ不思議な黒色の鉱石である“零石”と、それを主とした岩である“響零岩”。この“響零岩”そこが、滝壺の周囲に魔力が漂っている原因。この岩は音を吸収し、響きにくくさせる防音材に似た性質を持ち、更には魔力も蓄積できるとされる貴重な物だ。

 

 この“零石”が魔力を蓄積する仕組みは魔石とは異なり、魔力や魔素が内部の気孔に残留するという物理的なもの。少しでも風が吹き付ければ自然と魔力と魔素が抜けていく故に、魔石のように利用するのは難しい。そんな“響零岩”の性質が、滝壺周辺に魔力や魔素を漂わせていた。

 

『なるほどのぅ、この岩が“月の”気配を朧げにしとったようだの』 

『霜様、ここまで近付けば流石に分かるわよね~』

『ここが“寝床”なのは間違いないみたいですが……』

『こちらを伺ってはいるが、姿は僕らにも隠したままみたいだな』

 

 森司様も探ってくれているが、まだ警戒しているのだろうか。

 

 精霊の気配を探り始めた倬をフォローするべく、子供達の相手はヨークがしてくれている。

 

「ほぉ~、綺麗なとこだなぁ」

「でしょでしょ!」

「どうやって“おまじない”すんだ?」

「えっと、黒くて平べったい石を探して……」

 

 “おまじない”の内容は、足元に転がっている“響零岩”の欠片にお願い事を書いて、滝壺に投げ込むというモノ。実際には恋にまつわる願い事限定ではないらしく、安全祈願、安産祈願、商売繁盛などについて書かれた石も滝壺の中に沈んでいる。

 

「えっと、お兄さん、これ……」

「おぉ、ありがとうビーノ君」

「むぅ……ビーノの癖に生意気……。そうだ、たか様! たか様! これ、この“蝋ペン”を使って下さい!」

「あぁ、うん。ありがとう、二人とも。」

 

 油性のクレヨンに似た画材である白の“蝋ペン”をシスカから借りて、石に願い事を書く。内容は“月の精霊様”宛てのお願い事を、遠回しに。

 

“逢えますように”

 

 魔力を込めて、“念話”で挨拶をしながら石を投げ入れる。

 

 滝壺に重なる波紋が静まるまでの間を置いて、ちょっと照れくさそうな“声”が倬の頭に響いた。

 

――ふふふー、そんなに真面目にお願いされちゃうと、照れちゃうわねー――

『………………どうして、隠れてる?』

 

 少し心配しながら、宵闇様が訊ねる。

 

 これに、“声”の主は心配させてしまったとちょっと申し訳なさげに、だけど冗談めかして答えた。 

 

――やぁーん、精霊にだって身だしなみがいるのよー? アタシ、“女の子”だものー――

 

 白糸のような細い滝の後ろから、そそとした上品な所作で“月の精霊様”は姿を現す。

 

 まず目を惹かれたのは、腰よりも下に伸びる長く赤みを帯びた金色の髪。真ん中分けで、露わになったつるりとしたおでこが健康的だ。他の精霊様と比べて濃い肌色は魔人族と似ていて、髪色とのコントラストは妖艶さを感じるほどに美しい。

 

 身に着ける装いは肩から背中までを大胆に露出した艶やかな深い黒のドレス。きらきらと光の粒が散りばめられ、まるで星空を纏っているかのよう。

 

 ゆっくりと瞼を開けた“月の精霊様”の瞳が、妖しく輝く。何かエモノでも見つけたかのようなそんな瞳。ふわり、その姿が視界から消える。

 

 次の瞬間、頭上で繰り広げられたのは、外見からは予想外の展開で。

 

『きゃー! “空”チャンじゃなーい! 久しぶりねー! いつ以来かしらー? “空”チャンがお引越し決めて以来よねー? もー、アタシー、ずーっと寂しかったんだからー!』 

『い~やっ、“月”ちゃん、は~な~し~て~……ッ』

 

 空姫様に抱き着いて、すりすり頬をくっつける“月の精霊様”。

 

『いやーん、イヤイヤする“空”チャンもか・わ・い・いー!』

『いい加減に~、してッ!』

 

 空姫様が腕を振れば、ボンッ! と空気の弾ける音が響く。

 

『あーれーっ』

 

 吹っ飛ばされた筈の“月の精霊様”だったが、何食わぬ顔で倬の頭にパッと転移して、地上に残った精霊達との再会に微笑みを浮かべる。空姫様の魔法に一切動じていないあたり、二人にとってはいつもの事なのだろう。

 

『んふふふー、“空”チャンってば恥ずかしがり屋さんなんだからー』

『やれやれ、お前はそうやってすぐ空姫に絡みたがるんだから……』

『だって“空”チャン初々しくて可愛いんだものー。あらー? うそうそ! “光の精霊”チャンも起きたのねー! 元気ー?』

 

 一人ひとりの精霊と挨拶を交わしていく“月の精霊様”、思っていた以上にノリが軽く、なんだかテンションが高い。

 

『“月の”、一つ聞くが』

 

 こう切り出したのは森司様だ。

 

『なぁにー?』

『“おまじない”とやらに力を貸しているのか?』

 

 かつての“大災害”を教訓に結んだ“盟約”に反していないかと確かめる為の問い。一瞬、精霊達の間に緊張が走ったのが倬に伝わってくる。

 

 問われた“月の精霊様”といえば、疑いをかけられたと怒るでも、悲しむのでもなかった。ただ平然と、あっけらかんと首を傾げるだけだ。

 

『いいえー? 直接は何もしてないわよー。ただそうねー、ここは“寝床”としてアタシの“力”を受け止めてきたから、気持ちを込めて投げたられた石で立てた音が響くと。ちょーっとだけ積極的になれるみたいねー』

 

 “寝床”に宿った“力”が精霊の意思に関係なく影響するというのは、倬の知識にはない現象だった。

 

『そんな事、起こり得るんですか……?』

『う~ん、“月の精霊”ちゃんならもしかしたらあるかもだけど~……。それだけじゃないでしょ~?』

 

 ”月の精霊様”の力は肉体を健康に保ったり、興奮状態を高揚させたり、あるいは反対に沈静させたりと幅広い影響力を示す。それがこの場所の魔力と影響しあって、“おまじない”に訪れた者達の積極性を引き出す方向に働いているようだ。ただ、“月の精霊様”を良く知る空姫様は、それだけではないと感じていた。

 

『ふふふー、“空”チャンにはバレバレねー。でもでも、ほんのちょっとよ? 頑張ってって背中を押してあげたくらい』

 

 背中をポンと押すジェスチャーをしてみせる“月の精霊様”。この仕草に不安を抱いた風姫様が渋い顔を見せた。

 

『……まさかと思うけど、ついホントに背中押したってことなかったでしょうね?』

『んー? そういえば、一度だけ声をかけた女の子がびっくりして滝壺に落ちちゃった事ならあったかもー』

『“滝壺ドボンで彼ピゲットっしょ”の原因が精霊様とは……』

 

 ゴーコンで聞いた話はそのまま事実だったようだ。それはそれとして、大地に残った精霊の“寝床”がここまで現代の人々に親しまれているケースは珍しい。

 

 この場所に“おまじない”に来ていた村の子供であるシスカとビーノを見れば、ヨークに水切りを教わって遊んでいる所だった。二人にとってここは、ちょっと来るのが大変であっても、ごく当たり前の遊び場なのだ。

 

『ふふふ。やっぱり人の子って、とっても可愛いわよねー』

『あの……、“月の精霊様”』

 

 なんとなく、契約についてどう切り出したものか悩んでしまう。

 

 子供達を見守る“月の精霊様”はとても満ち足りて見えて、倬の魔力を分ける事が契約の対価足り得る気がしない。今までは契約そのものに必死で、精霊の方から契約を受け入れてくれた事もあって、こんな風に考える機会はなかったのだ。

 

 胸に湧いた躊躇いを飲み込んで、“念話”に意識と魔力を注ぐ。

 

 契約を願うべく改めて顔を上げると、想いが魔力に乗って届くのに先んじて“月の精霊様”は倬の唇を小指でちょんと触れて、言葉を遮る。

 

 そして、いたずらっぽい微笑みと共に契約に必要な条件を告げた。

 

『アタシの“お願い”はねー、シスカチャンとビーノチャン。あの二人の“きゅーぴっと”になって欲しいってことなのよー』

 

 これまでとはまた趣向の違う精霊様の“お願い”は、まるで予想外の内容で。

 

 これは思いつく限り、倬にとって最大の苦手分野。

 

『は……、はい? えぇ……?』

 

 このお願いは長丁場になる、そんな予感に倬はただ戸惑うばかりなのだった。

 

 





はい。いかがでしたでしょうか。

今回からの各話タイトルは《愛月撤灯》、《月を愛して灯を撤す》を参考にしています。

次回分、頑張ります。

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