人界暦三七二年七月《ルーリッド村》
《人界》の最北端、のどかな村の一角にある麦畑を柔らかい風が撫でる。青空から照り付けるソルスの光は麦畑を光らせ、村の一部を金色に染める。
そんな何の変哲もない穏やかな場所に悠然と佇む黒い巨木。地中に根を張り、地中に存在する《テラリアの恵み》を吸い込んでいる影響で大樹の周辺に木が生える事は無い。成長に成長を重ねて異様と形容できる大樹の周りには影ができ、ソルスから照り付ける光でさえ遮る。
村にとって悪影響でしかないその巨木はその在り方から悪魔の樹、または最大硬度の木として《ギガスシダー》と名付けられた。
だが、寂しげに佇む孤高の大樹の真下に、態々集まる人間がいた。
「いいか、キリト、ユージオ……一度だけぞ……一度だけ」
「俺は準備できているぞ……後はお前だけだ、ユージオ」
「ねぇねぇ……こんな事やめない? 普通に振ろうよ普通に。聞いてる感じ何だか凄いアレだったんだけど。初っ端から逃げ出したいんだけど」
わかってないな、と呟きながらやれやれといった様子で黒髪と長髪の少年はブロンド頭の少年を見やる。対してブロンド頭の少年はそんな二人を酷く呆れた様子で見やる。この場で大人なのは彼だけのようだ。
「いいか、ユージオ。今からやる事は
「うん。その心は?」
「カッコいいから」
「凄いよハカリ……普通そんな堂々と言う事出来ないから……」
ハカリと呼ばれた少年が言った事は割と重要な話なのだが如何せん、バカにされるネタが増えただけに終わった。ハカリも大概アホであった。
「俺はそれで構わない! というかどうでも良い! さあ、やっちゃってくれ、ハカリ!」
「何ぬかしやがるこいつ」
「ノリノリだねキリトは」
目を輝かせてサムズアップを浮かべるキリトにユージオは感服する他ない。
まあ、いつもならもっと何かを言っている所だが、今回ばかりはユージオも黙っておく事にしている。
何せハカリ達一行が勤しむ《
この《天職》というもの──文字通り天から与えられた仕事で、これを完遂する事が《人界》に住まう人間のルール。だがその作業は何処もかしこも途方に暮れるものばかり。例えば果樹園を弄繰り回すのが《天職》だった者はどうだ。果実の収穫を終える事と想像できるが一年周期で訪れるそれには際限が無い。
その点──ハカリ達は幸運と言える。彼らの目的は
けれど一概にそんな事も言えない。《ギガスシダー》は何よりも硬い事こそが《天職》の期間を長引かせる要因になっている。《竜骨の斧》と呼ばれる道具で、何千何万と、斧を振り続けて既に
それに終わりの手段が見え始めたのだ。まず村中の人間に偉業として称えられ、《天職》を終えたハカリ達は新たな《天職》に就く権利が与えられる。一生モノの《天職》に勤しむ人間からしてみれば良い事尽くしだろう。
そして、先程までおちゃらけた表情をしていたハカリの顔が──一気に真剣なものになる。
「よし、行くぞお前達。俺達の
「ああ」
「──うん」
今から自分らがやろうとしている事、見ようとしている事がどんな事か、それを完全に理解した三人は必要以上に気を引き締めた。
斧の担い手であるハカリはそれをさも『型』の一部のように、静かに息を吐く。
「──村を脅かす巨神の大杉よ」
「ねぇどうしようキリト。早速帰りたくなって来た。見てるこっちが恥ずかしくなってきた」
「面白いからこのままで」
これ終わったら覚えてろよ、と口には出さずにハカリは集中する。
ただ一点。午前中の仕事で何度も斧で刻み込み、横に伸びた『切り込み』を見つめる。それが塞がれれば、この作戦は失敗に終わる。《ギガスシダー》の木の切り込みは同じ場所に何度も切りつけなければ《天命》は一程度しか削れず、その上表面の樹皮の修復が早い。
まさにチャンスは一度きりなのだ。切り込みを入れるのも一苦労であるこんな樹から生まれる最大にして最高の好機の。
呼吸が止まる。
落ち着きすぎた呼吸は次第に思考は澄み渡らせ、周囲の音声を拾う聴覚でさえ、今はあの切り込み一つに集中している。
──今から『切る』のはあの木じゃない。
手に持った斧に片手用の直剣を幻視する。いつしか見た騎士が持った剣。それをより鮮明に、自分の憧れを形にしていく。
ここまでくれば後はイメージの補完が完了するまでに邪魔が入るか否か。阻むものが無ければ成功するのは時間の問題である。
想像を現実へ。イメージを徐々に加速させる。
──今から『斬る』のは他ならない人間の深層意識に蔓延る
目の前には最硬の魔樹。三百年もの年月を経てもなお、その身を傷一つなく佇み続ける巨神。それは並大抵の『モノ』では『切って』も傷をつける事はその気が遠くなるような年月が証明してくれている。
──なら、『斧』ではなく、『剣』で『斬れば』いい。
《斧》──否、剣から青色の光が放出される。右脚を引いた半身の姿勢から放たれるのは彼にとっても未知の動き。それはとても齢十一という幼さで再現できるものでは無く、達者のソレだ。
「──倒れろぉっ! 我が剣術の前にぃ‼」
肉体を超えた剣閃が強めの語気に応える様に剣が唸る。幹に刻まれた切り込みに青光の一閃が奔り、大気を切り裂きながら切っ先は幹の切り口へと向かう。
瞬間、樹から発せられるとは到底想像がつかない甲高い音を剣から大気に轟き、火花の代わりに青い光が散る。
決まった。
技が工程が完璧に完了した瞬間、それを確信する。あの幹の芯に確実に届いた感覚。感じ慣れたものではあるが、今回は今まで以上に
因みにこの光景の傍らでは既にハカリのその拗らせ具合に後ろのキリトはぶはっと吹き出し、ユージオは複雑そうに歪む表情を隠す様に両手で顔を覆っていた。
「──上……出来」
確かな手応えと共にそう呟いた瞬間、握っていた手から剣──
「ハカリ⁉ 大丈夫⁉」
「あ~、大丈夫だ。コレ多分緊張から来てる奴だし」
先程とは打って変わって心底心配そうなユージオにハカリは軽く笑って返す。
まあ、ハカリの言い分は正しい。ぶっちゃけあの『斧を剣に変えた術』のフィードバックはそれ程重大なものでは無い。言ってしまえばハカリの『気のせい』。要は『錯覚』だ。
本人としては、寧ろそうでなければ困るといった具合だ。これから使用する予定であるあの摩訶不思議な現象を使用する度にこんな状態になってしまえばこの延々と続く作業は全く捗らない。
「ホラ、とっとと確認しようぜハカリ」
「あいよ」
相変わらずバッサリしてるなぁ、とキリトの切り替えの早さにハカリは内心呟きつつ、キリトから差し出された手を掴み取りながら立ち上がる。
「《天命》を覗くなんてやめようよ──などという無粋な事は言うなよ? ユージオ」
「流石の僕でも空気は読むよ……ってハカリに言われたくないんだけど」
「はーいそんな事は知らーん‼ そーら! キーメーて―けーよー‼」
「キーメーてーくーぜー‼」
「そういう所だよ……後キリト。悪ノリしない方が良いよ。アホがうつる」
初対面の頃から全く変わらない難聴具合のハカリとそれに悪ノリするキリトにユージオが頭を痛めつつ、二人の《天命》を覗く動作を確認したのでそちらに向かった。
黒の巨木《ギガスシダー》に向けて左手の中指と人差し指を伸ばして空中に二つの曲線を描き、幹の切り口を叩いた。
この世界の動物、植物、物体の全てに存在する《天命》を覗く為に創世神《ステイシア》からの恵みの一つ、《窓》を開く。
瞬間、薄い紫色の四角形の窓が空中に展開される。
この《窓》に表示される《天命》、万物に表示される命の残数を
これと同じように《ギガスシダー》の《天命》を削る作業こそがハカリら《樵》達の仕事なのだ。これらのシステムが他の《天職》と違い、《樵》という仕事が限りあるものだという事の証明となる。
いうならば──《天命》の存在する《天職》、と言った所だろう。
「「「……」」」
《樵》の子ども三人は窓に表示される《天命》の数値を固唾を飲みながら凝視する。
ハカリが偉業と称した切り込み、それを傍らで見ていた野郎二人は理解している。これが偉業に値するものだと。
ハカリの口走ったセリフの所為で色々と台無しにはなっていたものの、キリト、ユージオ達はあの現象を間近で見ていたのだ。自分らの知らない剣技、あの《神聖術》のような
斧を変形させた術の全てを。
《衛士》の《天職》でも無いのに剣技を発動出来た事や神聖術の才能が特出しているわけでもない彼がそれに似たナニカを発動した事などの未発見の出来事にたいする疑問は未だ潰えない。
だが、それは
「えーと先月が確か……23万……5590だったけか?」
「お、先月の事なんてよく覚えていたな。アホが治ったか?」
「ハカリは黙ってて。えーと今の数値は? ……23万5101……」
一瞬、静寂が訪れたのはほんの一瞬であった。今何と言った、と。
「ハカリ、計算だ」
「アホのままみたいだなキリト。答えは491───え───…………⁇」
再び、重いような軽いような、微妙な空気を漂わせた静寂。数値にしてみれば、ほんの僅かな変化だ。
だが──
「や、や、」
「お……」
「………!!!」
坊主三人が各自独特な反応を示す。だがどれの肩も震えており、無言のユージオでさえも目に見えて分かる程震えていた。
そして──
「「「や、やったああああああああああっ!!!!!」」」
感極まった少年たちは今の感情の昂ぶりを絶叫と共に放出した。
莫大な数値からしてみれば微量すぎる『491』という数字。僅かで、大きな変化が見れる事は無い。
だが、少年たちの心を揺さぶるには十分すぎる事態だった。
「凄い! 凄いよ! 僕ら、今凄い現場目撃したんだよキリト!」
「ああ! 今のだけで半年分の仕事軽く超えたぞ‼」
「やべぇ! 今なら俺キリトを双子池に全裸で泳がす事が出来そう!」
キリト、ユージオ、ハカリの三人が阿鼻叫喚してる中、明らかに理不尽な罰ゲームにつき合わされかけている者がいる事を除いて、三人の中では歓喜で満杯だった。
最初は乗り気ではなかった筈のユージオでこの喜び具合であり、基本落ち着きが皆無なハカリは今まで以上に落ち着きを無くしていた。キリトも同様だ。
その後、何度も計算したり、《窓》を開けたりして間違いが無いか確認したりして、
ひとしきり喜んだ後、訪れたのは静寂だった。
「「「……」」」
顔は見合わせず、三人は仰向けに倒れ、一様にその七月の空を見つめていた。
嫌な静寂ではない。現に三人の顔は感情のほとぼりの最高潮を超えてもなお、満ち足りており、あの光景を思い出すだけで口角が上がってしまっていた。
今の光景はまるで村で見た物語の英雄の少年期のようで、その当事者が自分らとなれば、その興奮は簡単に冷ませるようなものでは無い。
幸い今日の分の仕事は既に先程の出来事で終わってしまっている。否、言い換えれば八か月分の休みを設けられたのだ。だから今だけでもこの悦に浸っていたいと、三人は思ったのだ。
「……言っておくが、俺らがやるのはこれより
その沈黙を珍しく真面目な口調でハカリが破った。
お前そんな風に喋れるのかよ、と二人が思う中、その答えは──
「当たり前だろ? 俺らが目指すのはもっと凄い事だ。この樹を完全に倒した暁には──」
「村長に新しい《天職》を与えて貰って……ザッカリアの学院の修剣士になる、でしょ?」
既に前を向いていた。自分らはこれで終わらないと。だからここで立ち止まってはいられないと。
その答えを聞いてハカリはまた満足そうに顔を綻ばせた。そして我ながら良い友達を持った、と誰にも気づかれないように内心誇っていた。
気付けば既にソルスは正午を迎えようと西へと浮上している。三週目の七月を迎えるこの時期のソルスの光は正直言ってハカリ達子どもには耐え難い。
冷静になったハカリの頭が汗で滲む体を布で拭き取ろうと幹へと向かった所で──
「「「ん?」」」
そこで、何かを忘れている事に気が付いた。
何か、とても重要な事を見落としているような。具体的には今日の昼食の件で──
「こらぁー! またサボってる!」
「逃げるぞ!」
「おう!」
「うん!」
その怒号が聞こえた時、ハカリ達《樵》一行は全速力で逃げだした。
プロローグ終わったんで以後は三人称になります。
とはいっても三人称で書くのぶっちゃけ初めて。
何? お前三人称舐めてる? 切腹なっていう人は遠慮なく感想の方へ。作者亀宅は土下座しながら学習させていただきます。
追記
心意って強い意思力で事象を上書きするっていう解釈であってる?