【ナオアリ】It's just a shot away(一発で始まる) 作:テモ氏
「ふっ……ざけてんじゃないわよ!」
それは私の目の前で爆発した。
二つ結びでそばかす面の、背の低い下級生。
火薬の詰まった彼女を点火させるに至った一発の弾――撃ったのは、私だ。
最悪の初対面。
これが、私とあいつの出会いだった。
<1>
『――白組2号車、聴こえる? ナオミ』
ヘッドホンから呼びかけるケイの声で、私は我に返る。危うく睡魔に負けるところだった。エンジンの振動が心地よく眠気を誘うのだ。
「……ああ。聴こえてる」
欠伸を噛み殺しながらそう返すと、私はキューポラを開けて上半身を外に出す。秋口の涼しい風が頬を柔らかく撫でていった。
現在、二軍選抜部隊との退屈極まりない紅白殲滅戦の真っ只中である。私の駆るM4A1は、一足早く高地を奪取して待機していた。
『旋回装置の具合が悪いから下がるわね。3号車もついてるけど、一応そっちからもカバーお願い』
「Aye aye。前線の指揮はいいのか?」
『ええ。あとは各小隊長に任せるわ。それとナオミ、居眠りは禁止。オーケー?』
「……Roger that」
どうやら船を漕ぎかけていたことはお見通しだったらしい。さすがの次期キャプテン、とでも言うべきだろうか。
私は眠気覚ましに伸びをして、それから周囲に目を向ける。演習場の森、街道、そして数両の残骸。いずれも、白旗を上げて停止している相手方のシャーマンだ。側面には組を表す赤い布が垂らされている。
私が来たときにはすでにこの有様だったので、先行した小隊が撃破したものだろう。こちらの戦力展開が早かったとは言え、さすがに骨がなさすぎる――二軍相手だからか、それともケイの采配のおかげか。
拍子抜けするほどのどかな光景を眺めながら、私はポケットから出したガムを口に放り込む。
そもそもこの紅白戦は、次期キャプテンに内定しているケイの実力を測るための演習でもあるのだ。試合運びによっては人事の再考もありうるため、決して油断は出来ない。苦戦すらしてはならないとも言われているくらいだ。
それは私達一軍の平隊員にとっても同じことで、ここでまずい動きをしたら来年度は二軍に落ちることになってしまう。それは逆に、相手方にとってみれば活躍によっては一軍昇格もあり得る一種のチャンスでもある。
だから今日も例によって、毎年のごとく血で血を洗う激烈な戦闘が行われるはずだった――のだが。
「……ふぁ」
今度はもろに欠伸が出る。
本当に暇だ。退屈だ。戦車に乗っているのに、誰とも戦っていない。狙うべき相手がいないのだ。勿体無い。折角のベストポジションが無駄になるじゃないか。
現在私がいる高地は、定番のホットスポットである「パンケーキ・ヒル」だ。
西側方面の主要ルートである街道を見通せ、搦手である森からの奇襲にも優位に対応できる戦略上の重要地点である。ここを制するかどうかが、こちらの戦線の勝敗を左右すると言っても過言ではない。
だからこそ、今までの練習試合でもここが戦いの中心となることは非常に多かった。
何両もの残骸が黒煙を上げる中、それでもなお車長は高地の頂上を目指さざるを得ない。
そこからついた通称こそが「パンケーキ・ヒル」である。撃破された戦車をパンケーキに見立てた名称らしいが、別に何も上手いことは言っていないと私は思う。そもそも緑色のパンケーキなんて、確実にカビてるじゃないか。それとも抹茶味なのか?
キューポラに頬杖をついて、私はとりとめない考えを遊ばせる。
当初の予定では、先行した車両とともにここで防衛戦闘を繰り広げるはずだった。
だが予想に反して、先行部隊がそのまま突破に成功。高地は前線にもならずに放置された。
不自然なほどのあっけなさである。
ケイは何らかの奇策を警戒して慎重に攻めていったが、特にサプライズもなく試合は一方的に進んでいくばかりだった。
この状況をケイは、東西の戦線が互いに抜け駆けをしようとした結果と見立てていた。足の引っ張り合いの末に取り返しのつかない事になってしまったのではないか、と。私にはよくわからない話だ。
誰がイニシアチブを取ろうが、勝てるかどうかのほうが重要だろう。撃てる場所に行って、狙って当てる。それだけのことだ。
そして、そうさせてくれるからこそ私はケイを信用している。
――ともかく。
万が一の奇襲などに備え、生命線である街道を監視できるこの場所に私は配置されていた。
加えてここは後退してくる味方の援護にも良いポジションである――今となってはほぼありえないことだが。
もはや大方の敵は街道の奥、市街地に押し込まれているようだった。無線から察するに、それなりの激戦を繰り広げているらしい。少なくともこちらよりは退屈しなさそうだ。
……せめてもう少し前線に出たい、と私は思った。2000mもあれば、そこそこの精度で援護射撃もできるだろう。
しかしそんな命令は出ていないのだから、おとなしくしている他はない。
ため息の代わりに、私は味の薄くなってきたガムをふくらませることにした。
<2>
ケイのM4A1が街道の向こうに見えたのは、それから五分もしないうちだった。
先ほど言っていた通り旋回装置が故障したようで、砲塔は進行方向と関係なく2時を向いたままである。
先行する無傷のM4は三号車だろう。ちょうど敵の残骸の横を通り過ぎようとしている。
「……?」
ここで、私は何か引っかかりを覚えた。
明確なものではない、おそらく私の目以外では気づくことの出来ない何か。
それは破壊されたM4から――正確には、その砲塔の辺りから発される微細な違和感である。
眉根を寄せて目を凝らした瞬間、私は正体に気づいた。
風で揺れる旗布、その竿が微かに傾いたのだ。
「――
叫んだ直後、白旗を突き立てたままのM4がぶるりと揺れる。エンジンに火が入った。まずい。
『What the――!?』
ほぼ同時に、一発の砲声。三号車の車長の叫びは激突音にかき消された。
至近距離の一撃が無防備な土手っ腹に命中し、勢い良く白旗が立ち上がる。
「――Shit!」
悪態とともにキューポラの中に滑り込む。向かうのは砲手席だ。
「11時方向、敵M4!」
「奇襲ですか!?」
「待ち伏せ! 死体が動きやがった!」
命令するまでもなく、砲手は車長の椅子へと位置を変える。狙撃用のフォーメーションだ。
ここからは私が砲を撃ち、砲手は
砲塔を向け、ケイのM4を視界に入れる。3号車の亡骸にちょうど隠れるように動いたようだが、敵もまた移動を始めていた。
「ケイ!」
『大丈夫、でもカバーお願い! ASAP!』
呼びかけに応えるケイは、珍しく切迫したトーンである。
私はハンドルを回して仰角を稼ぎつつ、距離を目算する。恐らく1600m。
敵は街道の脇、土手に降りて前進していた。すでに車体は殆どが隠れ、わずかに砲塔が見えるのみだ。私の射界から隠れつつ回り込もうという魂胆だろう。
その判断は全くもって正しいと言える――だが。
「……もらった」
私には、それだけ視えていれば充分だ。
敵が狙いをつけるために停車した、ほぼその瞬間。私は砲撃スイッチを踏み抜いた。
足の裏に響く撃発の感触。
轟音、振動、かすかな放物線を描いて、徹甲弾がとろりと重力に引っ張られながら飛んでいく。
刹那の後、敵の車体が揺れた。狙い通り、砲塔側面。手応えアリだ。
「
観測手の嬉しそうな声とともに、砲塔天面に旗が上がる。
撃破判定――今度の白旗は、間違いなく本物だ。
『――Thanks、助かったわ。さすがね』
「You bet」
ケイに一言で返すと、私は深く息を吐いた。
面白いサプライズだったが、おかげで見せ場を作ることができたようだ。
ケイが私をここに置いていたのはさすがの采配、とでも言えばいいだろうか。
狙ってやったとは思えないが、もしかしたらそうかも知れないと思わせるところがケイのケイたる所以だろう。
ややあって、紅白戦を進行している本部から全体無線が入電した。
『こちらHQ、チームレッドは残存車両なし、よってチームホワイトの勝利。繰り返す――』
どうやら、向こうも終わったらしい。これにて試合終了である。
と言っても、1両撃破では誇れるような結果では到底ないのだが。
まあ、隊長車が撃破されたなどという格好のつかない状況は避けることが出来たのだから良しとしよう。
「……借りるよ」
「えっ、あ……うん」
困惑する様子を無視して砲手に背中を預けると、私は深く息を吐いた。
<3>
「何それ、ありえないんだけど!?」
私はキューポラから出るなり、その喚き声を聞いた。
視線をやれば、見覚えのある下級生がなにやら抗議しているようだった。
審判役の二年生は半ば気圧されながら、どうにか宥めすかそうと頑張っている。
「あ、あり得ないも何も、ルールはルールだから……ふつう白旗を偽装したりなんてしちゃいけないでしょ……公式戦でも確か不正とみなされたはずだし……だからアリサ車の成績は撃破なし、っていうことに――」
「だから! それがおかしいって言ってるの!」
彼女は手足を振り回して、全力で怒りを表現していた。
星をあしらったヘアゴムで結んだおさげが、彼女の怒声に合わせてぴこぴこと揺れている。
「私は不正なんかしてないわよ! 不利な状況を一発逆転するために、作戦を考えて実行するっていう当然の権利を行使したまでじゃない! それが何で――」
「も、もうやめようよアリサちゃん……ここは先輩たちの言うとおりに……」
「っはァ!? 何言ってんのよアンタ、これは砲手のアンタの成績でもあるのよ!? せっかくの撃破判定なのにふいにされちゃっても良いわけ!?」
――なるほど。私は合点した。彼女は「あの」M4の車長である。
本来なら関わり合いになるようなことではないだろうが、何故だか目が離せない。小さい割によく動くから、ついつい気になってしまうのだろうか。
私は砲塔に腰掛けて、事の推移を観察することにした。
「あのね……撃破されたからまだ良かったけど、あのまままかり間違ってケイの車両を倒したりしてたら大問題だったんだよ?」
「それよ! そもそも私達を撃ったのは誰よ! あのA1……もう少しで大将首取れたって言うのに……あんな距離から当ててくるなんて、あっちのほうが何かズルしてるんじゃないの!?」
「……ふふ」
思わず笑みがこぼれた。あんなに悔しがってくれるなら、狙撃し甲斐もあるというものだ。
その、私が漏らしたかすかな笑い声に気づいたのか、アリサは私をきっと睨み上げた。
「……?」
一瞬の間を置いて、その表情は訝しむようなものに変わる。
直後、アリサは何かに気づいたように目をまん丸く見開いた。
「あんた、まさかその車両の……!」
しまった、と私は思った。これは間違いなくこちらに矛先が向く。
下手にごまかしても余計にこじれるだけだろうし、ここは認めてしまったほうがいい。
そう思った私は、ため息を吐きながら頷いた。
「そう、私が車長だよ。で、撃ったのも私」
「……は?」
アリサは釈然としない様子である。
――当たり前だ。こんな乗り方をしているのは、おそらくサンダースでも私くらいだろう。プラウダに同じような奴がいるとか聞いたことはあるが、こちらは会ったことがないからなんとも言い難い。
どう言えばいいのか迷いながらも、私は手短に説明する。
「長距離射撃はちょっと得意でね。遠い的を撃つ時は交代してもらってる」
もう下車している砲手を親指で指し示しながら言ってから、気づいた。すこし言い方が悪かったかも知れない。
だが後の祭りだ。どうやらその危惧は的中してしまったらしい。
「ふっ……ざけてんじゃないわよ!」
アリサは爆発した。
驚くほどの大声で怒鳴ってから、まっしぐらにこちらへ突っ込んでくる。
そのまま砲塔まで登ってきそうな勢いだったが、アリサは私の予想に反して車両のすぐそばで力強く立ち止まった。
その場で改めて私を睨みつけると、再びがなり立て始める。
「私の相手なんて車長の片手間で充分ってこと!? スカしてんじゃないわよ!」
そばかす面にどこか眠たげな垂れ目も相まって、黙っていれば可愛らしい雰囲気なのだろうが――顔貌に逆らうように眉を吊り上げ、これでもかと言わんばかりに声を張り上げて主張する姿はむしろ、小さなパットンとでも言ったほうがいいかもしれない。
「いや、私だって今のやり方は面倒だと思ってたところだし、できれば砲手に専念したいと――」
「そういう話じゃないわよ! なに? アンタなに? 私のことバカにしてるでしょ! ぜったいバカにしてるでしょ!」
はたから見ればケンカを売られているようにも見えるだろうが(というか、ほとんどその通りなのだが)、不思議と私は嫌な気持ちがしなかった。なんでかは分からないけど、普段なら面倒な類のやり取りがこの時だけは心地よくすら感じた。実際、よく反応するから面白かったのかもしれない。
もっとも彼女にとってみれば、そんなふうに思われるのは不愉快極まりないのだろうけど。
「アンタなんか、一対一で当たれば――」
「ヘイ! 何やってるの?」
割り込んできた快活な声は、ケイのものだ。騒ぎを聞きつけてやってきたのだろう。
今にも襲いかかってきそうだったおさげの小動物は、その姿に気づいて飛び上がった。
ついさっきまでアリサに噛みつかれていた審判役が横に立ち、事態を説明しているようだ。
「……なるほど」
ケイは腕を組んで、仰々しげに頷いた。事態を把握したらしく、こちらへ歩いてくる。
「あ、やば……」
自分がまずいことをしたという自覚はあるようで、アリサは露骨に焦っていた。
ケイはその目の前で立ち止まり、腰に手を当ててゆっくりと名前を呼んだ。
「アリサ」
「は、はい……」
さっきまでの威勢はどこへ消えたのか、アリサは縮み上がって返答する。
「確かにあの偽装はアウトよ。フェアじゃないわ。そもそも偽の白旗を上げるなんて行為、ルールブックで禁止されてるはずよ?」
「はい……」
先行した部隊の小隊長いわく、彼女たちが通った時にはすでにアリサのM4は白旗を上げていたのだという。
それを自損か何かかと早合点して報告を怠ってしまったために、あの事態が起こってしまったのだ。
小隊長は自分たちの落ち度だと言って悄然としていたが、まさか死んだふりをしているなんて誰も思いもしないだろう。そもそもルール違反なのだし。
ケイはしかし、それ以上アリサを責めようとはしなかった。
放っておいたらそのまま消えてしまいそうなアリサの肩を優しく叩くと、打って変わっていつもの笑顔を浮かべる。
「でも、諦めずに一発逆転を狙ったそのハートは素晴らしいわ。だからイーブン。これからはちゃんとルールに従って、その中であなたの才能を活かしなさい。いい?」
「! ……はい!」
感極まったような間の後、アリサは元気よく頷いた。
これで一件落着、というわけだろう。そう思って立ち上がろうとした私を、ケイが呼び止める。
「で、ナオミ」
「え、私?」
まさかこの流れで私に振られるとは思ってなかったので、間抜けな声が出てしまった。今ので丸く収まったんじゃないのか?
「ナイスショットだったわ。あの距離で小さな、それも動く目標に対して正確な射撃……さすがね。多分、あなたがいなかったらあそこで私は撃破されてたわ」
真意の見えない展開に、私は曖昧な表情をケイに向けた。ただ褒めるために呼び止めたというわけではあるまい。
予想通り、ケイは言葉を続けた。
「それで考えたんだけど……やっぱり次期副キャプテンはあなたにしか任せられないわね!」
「またその話か……だから私はまだ決めて――」
「あはは、そうだった。ソーリー、ナオミ」
なるほど、こういう流れにしたかったのか。面倒くさい単語に顔をしかめた私を、ケイは笑ってごまかした。
もっとも、なあなあで先延ばしにしているのは私のほうである。断りたいのは山々なのだが、なんとなくきっぱり言えないまま数週間経ってしまっていた。
今度こそこれで話は終わりのはず――と思ったが、ケイは去ろうとせず、代わりに人差し指を立ててみせる。
「――で、本題。このままだと二人の間に遺恨が残っちゃうでしょ? だからここは一つ……勝負でもしてみたらどう?」
「しょっ……」
「勝負、ですか……?」
「イェース。勝負よ」
絶句した私の代わりに、アリサが続いた。
大仰に頷いてみせたケイに、アリサは恐る恐る問う。
「しょ、勝負って、お互いの腕を紐でつないでナイフで決闘とかそういう……」
「ノーノー、戦車の恨みは戦車で晴らす。それがスポーツマンシップじゃない?」
「え、それってつまり……」
不敵な笑みを浮かべて、ケイはもう一度首肯した。
「ワンオンワン、一対一の戦車戦よ!」
高らかにケイが宣言すると、いつの間にか集まっていたギャラリーが湧き上がる。
どうやら事態は思った以上に面倒な方向に進んでいるらしい。一刻も早く止めないと、とてもマズいことになりそうだ。
「ケイ、ちょっと――」
「やります!」
私の声をかき消して答えたのはアリサである。ケイは即座に親指を立てて賞賛した。
「いい返事ね! でも、そうね……何も賭けない勝負っていうのも面白くないわね……」
「そっ……それじゃあ!」
悩む素振りのケイを見て、勢い良くアリサが声を上げる。
ギャラリーが静まり返り、全員が不遜な一年生に注目した。
促すようにケイが頷くと、アリサは決然と言い放つ。
「私が勝ったら、ナオミ……先輩の代わりに、一軍に入れてもらいます」
一瞬の沈黙の後、アリサの言ったことを理解したギャラリーがざわめきだした。
私の代わりに、一軍に入る? いくらなんでも、そこまで大胆不敵だとは思わなかった。
「ちょ、ちょっと待て、私はまだ――」
慌てる私をよそに、ケイがアリサに問う。
「つまりそれは、副キャプテンに抜擢されるってことだけど……それでもいいの?」
「……っ!」
さすがのアリサも、この条件にはたじろいだようだ。
いや、その前に私はまだ副キャプテンの話を受けるとは言っていないのだけど。
しかしアリサは踏みとどまり、ケイを目を見て答えた。
「……やり、ます。その時は……副キャプテンの任、お受けします」
周囲が再びざわめいた。賞賛半分、当惑や嘲笑が半分と言ったところだろうか。
正直、私もこれには舌を巻いた。大した肝っ玉だ。
……少なくとも、どうするか迷ってる今の私よりは。
「オーケー、それじゃあナオミは? 勝ったらアリサにしてほしい事とかないの?」
「えっ……?」
突然向けられた質問に、私は困惑した。して欲しいこと?
できればこの決闘じみた戦いをナシにして欲しいところだが、この空気ではそうもいかないだろう。
だからと言って、ほとんど知り合いでもない一年生にして欲しいことなどあるはずもない。
私はしばし考えてから、結局は首を横に振った。
「いや、特には……」
「ないの? ……あ!」
ケイは何かを思いついたらしく、ぽんと手を叩く。おそらくろくでもないことだろう、と私は予想した。
「じゃあ、キスでも賭けて見るっていうのはどう?」
「えっ」
「は?」
予想以上にろくでもなかった。私とアリサの反応はほとんど同時である。
しかし、ケイは意に介さずに続ける。
「ナオミは副キャプテンのポストを賭けているのに、アリサが何も賭けないんじゃフェアじゃないでしょ? だからキスくらいがちょうどいいんじゃないかって思ったんだけど……どう?」
私は再び絶句した。副キャプテンのポストはアリサのキス一回分の価値なのか……。
「え、ええと……わ、私は……」
「オゥ、ソーリー。アリサにはまだ早い提案だったかしら?」
わざと小馬鹿にするような言い方で、ケイは肩をすくめてみせる。
わかりやすい挑発だったが、アリサはまんまとそれに乗っかった。
「な……っ! そ、そんなことないです! キスだろうがなんだろうがいくらだってしてやりますよ! ……っていうか! 私が勝てばいいだけの話じゃないですか! そっ、そうよアリサ……勝てばいいのよ、勝てば!」
「グッド。じゃあ決まりね! ナオミは副キャプテンのポストを、アリサはキスを賭ける!」
ケイが高らかにそう宣言すると、ギャラリーはひときわ沸き立った。
本格的に、これはまずい状況だ。
何やら一人ぶつぶつ言っているアリサは放っておいて、私は車両を降りてケイの説得を試みた。
「なあ、ケイ。私の意見も――」
「あら。ナオミにキスできる権利、なんて喉から手が出るくらい欲しいって子たちもいるみたいだけど?」
ケイはいたずらっぽく笑いながら、ギャラリーの一部を指差した。
悔しがっている……のだろうか。地団駄を踏んだり、ハンカチを噛んでいる一年生の姿が見える。
二年生になってからあの手の――いわゆるファン、のような子たちをちらほら見るようになってきた。
だからなんだという話だが、悪い気はしないというのも確かだ。
――いや待て。そもそもこの戦い、勝っても負けても私に得はないのでは……?
しかしそれを問うより早く、ケイはまとめに入ってしまった。
「それじゃ二人とも、明日の放課後にクルーを連れてここまでくること。ギャラリーも大勢くるだろうから、すっぽかしたりはしないように!」
見ればすでに人だかりは予想以上の大きさである。明日のメインイベントが決まってしまったようだ。
こうなったからには、もう腹をくくるほかない。見世物にされるのは気分のいいものとは言えないが、心のどこかでこの状況を楽しんでいるのも確かだ。
そんな内心を見透かしてか、アリサは私をじっと見据えて、不敵に笑った。
「逃げんじゃないわよ、ナオミ“先輩”」
「もちろん……いや、そっちこそ」
相手の揶揄に対して、私も挑発するようにわざわざ言い直す。
――こんな生意気な後輩がいたなんて、面白いじゃないか。
戦いの予感に思わずこぼれた笑みは、きっと狩人のそれだっただろう。