[3月20日 19時32分 東京 星海家前]
「じゃあね。仲良くするのよ。またいつでも遊びにおいで」
クリアがユウを連れ添って降りたのを見届けて、アリサが車窓からそう言った。
「またね。アリサおねえさん!」
「ん。また」
去っていく車に手を振って見送り、クリアはしっかりと小さな手を握ってユウに呼びかける。
「帰ろか。お父さん待ってる」
「うん。やっとだね」
***
[3月20日 19時40分 東京 星海家]
「ただいまー!」
「おじゃま、する」
在宅ワークがすっかり板に付いたシュウは、インターホン越しの二人を見るなりすっ飛んできた。
「おお、おお……。よく無事で帰ってきてくれたね。お父さんな、ずっと心配してたんだぞ」
およそ3か月半ぶりの再会である。感激で目の端には涙が浮かんでいた。
世界中を飛び回る妻とはその程度会えないことを覚悟していたシュウであるが、まさか我が子とこれほど離れ離れになるとは思わず。
さすがに堪えたようだった。
一直線に父へしがみつくユウを、彼はしかと抱き留める。
「無事。守った」
その後ろで、キリッと敬礼ポーズを決めるクリア。
一見には不愛想で表情の変化がわかりにくいが、口元をよく見るとほんのり上がっているのがわかる。
同時に、小さな子の手前、多少遠慮しているようだ。
クリアをうちで保護した時期もあるシュウにとっても、彼女はもう一人の子供のようなものである。
彼もユナ同様、彼女の微妙なサインにはすぐに気付いた。
「クリアもおいで」
「ん」
安心して近付いたクリアも巻き込んで、二人を大仰に抱え込み、シュウは目一杯親愛を伝える。
「ありがとうなクリア。毎日よくお世話してくれたね」
「ユウ、いい子だから。全然」
「あのね。クリアおねえちゃんにね。いっぱいあそんでもらったの」
「そうか。よかったな」
「うん!」
ひとしきり再会を喜んだ後、ユウがお腹を押さえて微笑む。
「えへへ。ほっとしたらおなかすいちゃった」
「まだ夕飯食べてなかったんだね。実はお父さんもなんだ」
「わたし、作ろうか?」
恐るべき小悪魔の提案に、シュウもユウも滅茶苦茶焦った。
「い、いやいやいやいや! そういうのは大人がするもんさ! なあユウ!?」
「うん。うん。おとうさんにまかせておけばいいんだよ!」
彼の名誉のために言っておくが、シュウは決して家事サボりなどではない。
むしろユナがいないときは家事全般をしっかりとこなす。家庭的な方である。
ただなぜかやたらとユナがやる気を出して作りたがるので、本音では自分で作りたいのに、彼女がいるとやらせてもらえないのだ。
そして進んで家事をやらかす彼女を見て育ってきたクリアも、家事というものに対して妙にやる気だけはある。
これまたなぜか自信満々なユナに師事し、一通りの家事を「覚えた」。
もちろん習う相手がアレであるから、腕前はお察しの通りである。
メシマズの再生産を前にして、二人は母よろしく「どうしてもやる」と言い出すのではと戦々恐々していた。
しかし当のクリアは、「大人がするものだ」という響きにあっさり納得したようだ。
「そ。ならお言葉、甘える」
「気持ちだけありがとうね。ゆっくりくつろいでて」
「そうしよ? おれね、クリアおねえちゃんとまだまだあそびたいなー!」
「しょうがないな。ユウは」
ナイスフォローを決めた我が子に、シュウは内心ガッツポーズだった。
「そうだ。僕が作ってる間、お風呂でも入ってるといい」
「ん。そうする」
「わーい!」
ある意味最大の危機を乗り越え、ほっと一息吐いたシュウは、ユウと目くばせしていた。
***
[3月20日 19時48分 東京 星海家 お風呂]
「おいで」
ちょいちょいと手招きする意図を察したユウは、頬を膨らませて抗議する。
「もうふくくらいじぶんでぬげるから。だいじょうぶだよ」
そんな微笑ましい『弟』に、『姉』は「えらいね」と言うに留め、生暖かい目で彼の「ぬぎぬぎ」を見守ることにした。
ユウがちゃんとすっぽんぽんになったのを見届けてから、クリアも自らの服に手をかける。
齢14と、世間で言えば中学二年生に当たる彼女だが。
幼少期の悲惨な環境から来たと思われる発育不良が響いて、見た目はまだ小学校高学年のようである。
ようやく遅れた成長期が始まろうかという辺りで、胸の膨らみも薄く、産毛が生えたばかりというところだった。
ユウもクリアおねえちゃんが成長遅いのを気にしているのは知っているので、クソガキのようにからかったりはしない。
「まず身体、洗おう。ね」
「はーい」
二人はずっと一緒にお風呂に入ってきた仲であり、お互い裸も見慣れたものだった。
なのでそこに変な意識があるわけではない。
ただ卒園の節目もあり、小さな彼にも思うところはあるようだった。
「そうだ。おれさ、しょうがくせいになるんだよね」
「ん。また一歩、大きくなった」
「おれとおねえちゃん、いつまでいっしょにはいれるのかな」
「…………」
「えっと。クリアおねえちゃん?」
フリーズしてしまったクリアにきょとんとして、顔の前に手をかざしてみるユウ。
ろくに反応がない。
一方、クリアは稲妻に打たれていた。
この当たり前がいつか終わるということを、唐突に突き付けられてしまったのである。
目の前でおろおろし始めた可愛い『弟』をぼーっと見つめて、彼女は思い悩む。
この子が小1までは大丈夫だろうか? 大丈夫のはずだ。
確か……公衆浴場も7歳になるまではせーふだった、と思う。
しかもここはおうち。小2くらいまでは頑張りたい。
さすがにそれより上は、教育上良くないか……?
愛しさと切なさと、姉離れを意識し始めた我が弟の成長への歓び。そして教育的配慮が渦巻いて。
クリアはちょっぴり寂しさで泣きそうになっていた。
「……考えておく」
とりあえず結論を先延ばしにした彼女である。
というか。
そもそもこの発育不良の身体で、何かを心配する必要はあるのだろうか……。
ちんまりした自分を見下ろして、小さく溜息を吐くクリア。
あくまで「見守りたい」立場であるが。もしものときは「もらう」ことも選択肢として……なくはない。
この優しい子に限って、誰も魅力に気付かないなんて、そんなことはない。はずなので、ほとんど無用の心配だが。
ただ、一人の女の子として。
憧れの『母』のように豊かで魅力的でないというのは、やはり悔しい。
……何がとは言わないが。
妙に深刻な顔をしているので、ユウは心配だった。
「さっきからどうしたの? クリアおねえちゃん」
「ユウ。わたしのこと、どう思う?」
「んとね。いつもやさしくて、たよりになるすてきなおねえちゃんだよ!」
「……! そか」
まったく無邪気な答えに、下らないことを考えていた自分がアホらしくなり。
「わ、おねえちゃん!?」
素っ裸のまま、全力ハグとよしよしを始めてしまうクリアであった。
***
結局愛しさが勝る余り、「洗わせろ」と一点ばりモードになってしまったクリア。
してあげるのが嬉しいのかなと、小さなユウはそれとなく察してされるがままになっていた。
「目に泡、入るから。しっかり瞑る」
「はーい」
とまあこんな調子である。
その後、背中だけはお返しでユウが洗ってあげたいと言うので、クリアも喜んでそうしてもらい。
先に湯舟ではしゃぎ始めたのを見やりつつ、洗髪からのヘアケアを入念に行い。
青髪をしっかり留めた状態で、浴槽に「参戦」した。
お風呂遊びの時間である。
向かい合っての水鉄砲バトルが、近頃ユウのマイブームらしかった。
「おりゃ! そこだ!」
「甘い。秘技《インビジブルショット》」
【
ぶっちゃけ何の意味もないのだが、こうしてあげると喜ぶのだ。
「わ、みえない! すごい! ずるいよ!」
「くっく。我が不可視の魔弾、防ぎようなし」
「で、でも! はんげきだ!」
ユウが意気込み、しっちゃかめっちゃかに打ちまくる。子供特有のレバガチャ戦法である。
ぶっちゃけ狙いは下手くそなのであるが、クリアは黙って受けてあげるのが務めだった。
「わー。やられたー」
ごぼぼぼぼぼ、と彼女が顔を伏せ、お湯の中に沈んでいく。
「やった! かったーー!」
無邪気に満面の笑みを見せるも。
しかし中々彼女が浮かび上がってこない。
「あれ。どうしたのおねえちゃん」
心配になってきたユウが、潜って顔を覗き込もうとしたとき。
「わっ」
いきなり飛び出して驚かしたので、彼はお湯を飲みかけて絶叫してしまった。
「ごばばばばばわああああああ!」
「……ふふふ」
得意になって、からかい甲斐のある弟のビビりっぷりを愉しみまくる姉。
せっかく丁寧にケアした髪がまたずぶ濡れになってしまったことは、ご愛嬌である。
***
ちなみにお風呂から上がると、シュウが腕によりをかけて作った夕食は出来上がっていた。
なぜかシュウ自身とユウがいたく感激し、ほんのり涙さえ浮かべながら「普通に美味しい」料理を味わっている。
どうやら食卓を囲むと、かのトラウマが蘇ってしまうようである。
味音痴のクリアは、ユナが振舞ってくれるものとどう違うのか、いまいちピンと来ないまま「うまし」と舌鼓を打っていた。