受付のお姉さん――アカツキ アカネは、冒険者たちとともにトリグラーブを守るため奮闘を続けていた。
あるとき、みんなの調子が突然おかしくなった。魔法が突然制御できなくなり、動きを損ない、自滅したりナイトメアにやられる者が続出した。
なぜかアカネだけは何ともなかったので、彼女はお姉さんパワーをフル発揮して無双しつつ、場の混乱を速やかに収めて体勢を立て直した。
冒険者だけでなく、ナイトメアもまた弱っていた。そのおかげもあり、闇の大攻勢を辛うじて退けることに成功する。
ナイトメアの被害に遭い、ほぼ壊滅した都市群にあって、唯一トリグラーブだけは住民の大半が生き残った。奇跡的な健闘であった。以後、最も生存人口の多いトリグラーブが復興活動の中心となり、世界の中心となっていく。
それはさておき、被害が甚大であったため、アカネは救護活動や被害確認等に追われ、すぐにはクレコの救援に向かうことができなかった。特に一部のものが突然消え失せてしまったことが、現場の混乱に拍車をかけていた。これでもトリグラーブはマシな方で、ここに暮らす彼らは独立心が強かったため、【想像】に極力頼らない文化を形作っていたために、被害は比較的少なめで済んだのである。
急ぎ指示をまとめ、アイアックらに後を任せてアカネが一人旅立つまでには、日が暮れ、世界は雨に包まれていた。
「無事でいなさいよ。クレコ」
ラナさんやクレコに何かあったのではないか――。
トリグラーブで起きた異変から嫌な予感をひしひしと感じながら、アカネは急ぎクレコの元へ向かう。確か今日は、予定では聖地ラナ=スティリア(アカネはスティリアと発音する最近の人だった)にいるはずだ。あいつはそう言っていた。
《お姉さんジェット》
ワープクリスタルが使えないため、多くのフェバルがそうしているように、彼女は気合いの力業で空を飛んだ。今やろうと思ったら何となくできてしまったことなので、なぜできるのか本人にもわからない。だがこの際早く着けるのなら細かいことは気にしない。アカネはそういう人である。
許容性の下がった現実世界で、唯一超S級の実力を維持したままの彼女は速かった。濡れることも消耗も気にせず目いっぱい飛ばし、次の日の夜明け頃には、ほとんど世界を半周して目的地に辿り着いていた。
「なんてひどいあり様……」
さしものお姉さんも言葉を失うほど悲惨な光景だった。大勢無事に決したトリグラーブと異なり、聖地ラナ=スティリアは壊滅に等しい状態である。数々の【想像】物はあらかた消え失せ、現実の建物はほとんどが崩れ去り、数多くの人体は地に埋もれて、もはや何がどうなっているのかもわからない。
これでは、クレコとラナさんは……。
ラナさんの力で創られたものがなくなっている事実に気付いていたアカネには、どうしても最悪の想像が付いてしまう。
どこかに二人がいないかと必死に見回す。街跡からやや離れた位置に見知った姿が倒れているのに気が付き、彼女は飛ばした。
「クレコ!」
アカネが呼びかけ、抱き起こすと、クレコは力ない反応を示した。
抱き起こしたその手には、べっとりと血が張り付く。
とても助からない。日頃「手遅れな」冒険者の面倒も見てきた彼女にはわかってしまった。
実際、多勢を相手にクレコは立派に戦っていた――そのときまでは。
彼女もまた、急激な能力の低下から逃れることはできなかった。その隙をナイトメアに突かれ、背後から刺されてしまったのだ。
直ちに命を失うほどではなかったが、手当てしなければやがて死に至る傷だった。超S級の実力者のままであれば自分で治療できたのに、不幸にも魔法の使えなくなった彼女には治す手立てがなかった。当然、近くに治療者もいない。
執念で戦い続けたが、やがてすべてのナイトメアが消えた後、彼女はろくに動けぬまま大地に放り出されていた。さらに続く雨が、容赦なく彼女の体力を奪っていったのである。
「アカネ……アカネ、なんだよね?」
クレコはふらふらと手を彷徨わせる。既に目が見えなくなっていた。
アカネは彼女の手をしっかり掴んで「そうよ。アカネよ」と頷く。
「しっかりして。まだくたばるには早いわよ! 私のライバルなんでしょ!?」
クレコは申し訳なさそうに笑って、今にも消えそうな声で言った。
「ねえ、アカネ。私……ラナ様、守れたかな……?」
ああ。もう助からないと悟っているのだ。アカネは泣きたい気分だった。
今わの際でも、ラナさんのことを……。
アカネはまだラナさんを見つけられていなかった。そして状況から、頭では既に亡くなっている可能性が高いとも考えてしまっている。
けれどどうしてそんな残酷なことが言えるだろうか。だから彼女は優しい嘘を吐いた。
「ええ。あなたが立派に戦ってくれたおかげで、ラナさんもみんなも助かったわよ」
「ああ、よかった……」
これでよかったのだろうか。本当によかったのだろうか?
胸がひどく痛むのをこらえながら、アカネは固く手を握り直し、目に焼き付けるようにクレコの顔を見つめた。
「アカネ。預けたいものが、あるの……」
「いいわよ。何でも任せて」
クレコはおぼつかない手で懐を探る。だがあるはずのものが見つからない。
肌身離さず携帯していたはずなのに、なぜ。
わけもわからず、ただ悲しい表情を浮かべた。
「あれ。おかしいな。戦いで、落としちゃった……のかな。とっても大切なもの、なのに……」
クレコが託そうとしていたもの。それは一族代々受け継がれてきた聖書であった。
「アカネ……ごめんだけど、いっこ頼んでもいいかな……」
「何でもいいって言ってるのよ! だからそんな顔、しないでよ……!」
「聖書……見つけて、預かってて欲しいなって。でね、次の聖書記が、決まったら……」
「ええ! わかった。わかったわ! きっと見つけ出して、次の人が決まるまで預かっておくから! だから……っ!」
「ありがと。お願い……ね……」
アカネが握っていた手から、力が抜ける。
そして、クレコはもう動かなくなった。執念でアカネに願いを託し、満足して逝った彼女の顔は安らかだった。
けれど残された者は。
「バカ……死んじゃったらもう二度と勝負できないじゃないの……! あなたってやつは……っ! 最期の最期まで、人のことばかり……っ!」
降り止まない雨に、アカネの大粒の涙が溶けていく。
長い生涯でたった一度だけ。いつも笑顔でいようと、決して泣かないと信条に掲げていたお姉さんは、使命を守って死んだ友のために泣いた。
***
三日三晩続いた雨も、ようやく晴れようとしていた。
アカネはいつまでもくよくよするような性格ではない。
クレコを丁重に弔い、再び立ち上がったとき。
火のごとき赤髪にも、真っ赤な瞳にも負けないほど、強い決意が彼女の心の内で熱く燃え滾っていた。
それは亡き友の意志を継ぐこと。ラナさんの目指した理想を守る彼女の意志を受け継ぐこと。
……結局、ラナさんはどこにも見つからなかった。
彼女はもういないのかもしれない。頼りにはできそうもない。
だけど。ラナさんと同じようにはできないかもしれないけれど。
滅茶苦茶になってしまったこの世界を、もう一度楽しい場所に戻してみせる。
絶対にだ。
「やってやるわ。どんなに時間がかかっても。だって私は、私はっ! みんなの笑顔を守る! 受付のお姉さんだから!」
まずは聖書を見つけ出さなくては。クレコたっての頼みだもの。
――そう意気込む彼女の身を、突然の異変が襲った。
「え……? 今、何か変な感じが――いや、気のせいじゃない。おかしいわよ!」
その瞬間――一つだった世界が二重に「ずれていく」のを肌で感じられたのは、彼女だけだった。
理想を諦めたことのない彼女だけは――理想の姿と現実の自分とがぴたりと一致している彼女だけは、自分の心と身体が二つに裂けていく奇妙な感覚――何かが、とんでもない何かが起きていることを感じ取っていた。
「なによ!? 何が起きているのっ!?」
突然生じた「もう一つの世界」。そして生まれ出でるもう一人のアカネ。
「向こう側」に立つアカネの意識と、荒れ果てた現実世界に立つままの「こちらの」アカネは、その気になれば意識をリンクすることができるようだった。
もう一人の彼女は、目の当たりにしていた。
滅びたはずの世界。目前に広がる大都市。
たった三日前までの世界にそっくりな姿――幻影の中に浮かび上がる理想の姿を。
「はああ!? どうなっちゃってるのよ!? これはあああーーーーーーーー!?」
実況する相手もいないのに、彼女はそれっぽく叫んでいた。まったくわけがわからなかった。
恐る恐る、もう一人のアカネに調査させてみる。
聖地ラナ=スティリアによく似た街だった。人々はそこで何事もないように暮らしていた。
聞き込みをしてみる。神聖都市ラビ=スタという名前だそうだ。さっぱり聞いたことがない。
そこに生きている人々には、どうやら一切「こちら側」の記憶がないようだった。
アカネは頭がくらくらしてきた。気味が悪かった。
ナイトメアの襲撃など何もなかったように暮らす人々。彼らは一体何なのか。この不気味なほどに平和な世界は、一体……?
そして極めつけは。
「ラナさんが喋れない……完全な女神に……? それにピンピンしているですって!?」
いよいよおかしい。絶対にあり得ないことが起きている。
一からやり直すことはできても、失われたものが戻るはずはない。
死んだ者は生き返らない。
アカネは現実を受け入れていた。だからこそ、何もかも失われてしまった世界で立ち上がろうと心に決めていたのに。
なのに、これは何だ。
終わったはずのものが続いてしまっている。無理にでも続けようとする妄執なのか。
「きな臭い。どうも大変なことになってきたみたいね。こいつは」
アカネは思っていた以上に、クレコから引き継いだ仕事が困難であることを痛感する。
『事態』は終わってなどいない。まだ始まったばかりなのだと。