奴が声をかけた方に目を向けると、そこには銀髪の男が立っていた。右の頬に大きな傷跡がある。
奴の意識は完全にその男の方へ向いていた。どうやら俺のことなど、眼中になくなってしまったらしい。ひとまず助かったようだ。
「てめえがここに来る道理はねえはずだ! そうだろう!?」
クラム・セレンバーグって言ってたな。名前だけなら聞いたことがある。確か剣士隊の英雄とかいう人じゃなかったかな。
クラムと呼ばれた男は、背中の剣をすらりと抜いて冷静に構えた。隙の感じられない構えから、彼が一流の剣士であることが窺える。
「貴様はやり過ぎた。貴様のような凶悪犯を、決して生かしてはおけん。この私、クラム・セレンバーグの手で引導を渡してやろう」
普通の口上のように思われたが、奴は突然、猛烈に悔しそうに顔を歪めた。予定外のことに狼狽えているようにも見えた。
「けっ。そういうつもりかよ……! ちくしょう! あのクソ女、最初からこうするつもりだったのかよっ!」
最初からこうするつもりだった? 何のことだろう。
奴は感情を高ぶらせて叫んだ。
「オレはまだ死なねえ! てめえの方がくたばりやがれ!」
奴は手を上げて構えた。
今は男だから魔力の高まりはわからないが、おそらく爆発魔法をやる気だろう。
危険だ。大丈夫かな。
俺は内心ハラハラしながら、クラムを見つめた。
ところが彼は平然としていて、まったく動こうとする素振りも見せない。
どうしてそんなに落ち着いている。なぜ何もしようとしないんだ。
彼は纏う気こそ力強いが、俺とそこまで気の強さが違うようにも思えなかった。一流であること以外は、何の変哲もないただの剣士でしかないはずだ。
なのに、魔法を使う様子もなければ、気で身体を強化しているわけでもない。
いくら何でも無為無策は無茶じゃないのか。
このままでは、確実に爆発の餌食になってしまう。それとも、何か手があるのだろ――
!?
「な……ん……」
――――――え!?
気付いたときには既に、クラムの剣が――
奴に、深々と突き刺さっていた。
心臓を一突き。一撃だった。
「ガフッ……!」
奴が吐血する。胸から鮮血が零れ出る。
あまりの出来事に、身が震えた。
なんだ……!? 一体彼は、何をやったんだ!?
俺はしっかりと二人のことを見ていた。見ていたんだ。
なのに、何も見えなかった。何も、わからなかった。
あり得ないってレベルじゃない。俺より数段速いイネア先生の動きだって、最近は目や気でだけなら追えるようになってきたんだ。先生だって、人間やめてるんじゃないかってくらいの化け物なんだぞ。
鍛えた俺の目と気の感知能力を持ってしても、彼の動きがまったくわからないなんて。そんな馬鹿なことがあるのか!?
もう一度目を凝らして彼を観察したが、彼の様子も気の強さも、何も変わってはいなかった。身体も一切強化された形跡はない。つまり、単純に超スピードで動いたという線は消えるはずだ。
ということは、可能性があるとすれば魔法ってことになるけど……。
だけど、そんな真似ができる魔法なんて。見たことも聞いたこともない。
クラムが剣を引き抜くと、先ほどまで威勢を張っていた男が――あれほど強かった男が――その場で崩れ落ちるように倒れた。
胸からは止めどなく血が流れ出し、地面に沁み込んでいく。
奴はもう、一切動くことはない。もう、何も喋ることはない。
死んだのだ。
俺を終始圧倒した男が、こんなにもあっけなく。
クラムは勢いよく剣を振って付いた血を飛ばすと、背中にかけた。それから、倒れている俺にゆっくりと近づいてきた。
「無事か。立てそうか」
「なんとか。でも立つのはちょっと、無理かもしれません」
それを聞いた彼は、安心したように溜め息を漏らし、後ろを向いて大きな声で言った。
「おい! 君の友人は無事だ! もう出てきてもいいぞ!」
すると、見慣れた人影が。
アリスが建物の蔭からひょこっと姿を現したのだった。
そうか。やっぱりアリスが、彼を応援として呼んできてくれたのか。
彼女は俺の姿を見つけると、目に涙を溜めて駆け寄って来る。
そして、何も言わずに抱きついてきた。
「お、おい……」
女としては何度も経験があっても、男の自分がそれをされたことはなかったので、思わず動揺してしまう。
「よかった……。遠くで何度も大きな爆発が起こるから、もしやられてたらどうしようって……。ほんとに、よかった……」
彼女はそれだけ言うと、俺の胸元に顔を埋めてわんわん泣き始めた。
俺は何も言わず、されるがままにすることにした。
今度は時間もある。彼女が落ち着くまで、ゆっくりと。
ようやく泣き止んだ彼女に、俺は心から謝った。
「ごめん、アリス。やっぱり無茶だったよ。あいつ、滅茶苦茶してさ」
「だから言ったでしょ。ユウは、ほんとバカなんだからっ!」
「うん。あのまま一人だったら、間違いなくやられてた。結局倒したのはクラムさんだし」
二人で彼の方を見やると、空気を読んで少し離れていてくれたらしい彼が、静かに頷いた。
アリスに向き直って、俺は続ける。
「俺は無力で、甘かった。ほとんど何もできやしなかった。でも――」
横目で、一人だけ逃げ遅れていた小さな男の子がまだ元気に泣いているのを確かめた。やっと一安心して、肩を落とす。
「ほんの少しだけど、守れたものもあったよ」